さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

『桂園一枝講義』口訳 108-117

2017年04月17日 | 桂園一枝講義口訳
108 関子規
せき守のうちぬるひまにかよふらんしのび音になく時鳥かな
一五八 関守の打(うち)ぬるひまにかよふらんしのび音(ね)に鳴(なく)ほとゝぎすかな 文政八年

□「人知れぬわが通路の関守はよひよひごとにうちもねなゝん」とあり。「ひと目の関」、「波の関」、目がありて通さぬ波のせきは、波がうちて通さぬなり。

○「人知れぬわか通路の関守はよひよひことにうちもねなゝん」と(業平の歌に)ある。「ひと目の関」は「波の関」で、人目があって通さない波の関は、波が打って通さないのである。

109 社頭郭公
あし曳の山田の原のほととぎすまづはつこゑに神ぞきくらん
一五九)あし引の山田の原のほととぎすまづはつこゑは神ぞ聞(きく)らむ 享和二年

□伊勢の山田の原。「こゝをせにせんほととぎす」とあり。見れば郭公のなくべき所なり。音羽山か、いかにも子規のなくべき所なり。「こゝをせにせん」と思ふなり。「初声」、はつものは、まづ神に供へるよりしての思付なり。

○伊勢の山田の原である。(西行の歌に)「こゝをせにせんほととぎす」とある。見るといかにも郭公の鳴くような所である。音羽山が、いかにも子規のなくべき所だ。「こゝをせにせん」と思うのである。「初声」は、初物はまず神に供えるというところからの思い付きである。

※「きかずともこゝをせにせん郭公山田のはらの杉の村立」「新古今」巻第三夏歌 題しらず。

110 郭公稀
初こゑを一こゑなきていにしより山ほととぎすことづてもせぬ
一六〇 初声を一声啼(なき)ていにしより山ほとゝぎすことづてもせぬ

□「山」の字、やくにたつなり。此の題の意は、盛になきたるが、ふとやみて聞かぬ、或は六月ちかくなりたるな、と也。

○「山」の字が、役に立つのである。この題の本意は、(ほととぎすが)盛んに鳴いていたのが、不意に止んで聞こえない、或いは六月近くなったな、というのである。

111 杜鵑帰山
ほととぎすかへる山にはこゑもなし世にふるほどやなきわたりけん

一六一 時鳥かへる山には聲もなし世にふるほどや鳴(なき)わたりけむ 文政六年 四句目 世にスム 

□六月下旬の歌なり。帰りし山には、といふことなり。郭公山にかへりてからは、頓と鳴かぬなり。帰りたらば山に鳴くかといへば、帰るころは、最早山でもなかぬなり。世にへてありしほどに、鳴きわたりたりとみえるなり。

○六月下旬の歌だ。帰った山には、ということである。ほととぎすが山に帰ってからは、とんと鳴かないのである。帰ったら山で鳴くかというと、帰るころは、もはや山でも鳴かないのである。(それが、このうつつの)世に過ごしている間に(だけ)鳴いて飛びすぎて行ったようにみえるのである。

※言い古された素材だが、景樹のこの歌には一種の愛唱性がある。


112 菖蒲
あやめぐさかりにのみくる人なれば池の心やあさしとおもはん
一六二 あやめ草かりにのみくる人なれば池の心や淺しとおもはむ

□恋のこころなり。かりにくる、かりそめに真実なしに来るなり。池の心や、心にやの意。池が浅い人ぢや、と思うであらうとなり。心は底なり。ただなかなり。物の真中、ただなか、どんぞこ、みな物の上へうつし仕ふなり。

○恋のこころである。「かりにくる」は、かりそめに真実(の心)なしで来るのである。「池の心や」は、心であろうかの意。池が浅い(誠意が薄い)人じゃ、と思うであろうというのである。「心」は、底のことである。ただなかである。物の真中、ただなか、どんぞこ、みな物の上へうつして使うのである。

113
刈りふけば軒端にあまるあやめぐさ根のみながしと思ひけるかな
一六三 刈ふけば軒ばにあまるあやめ草根のみ長しと思ひける哉

□菖蒲は葉の長きものなり。根を長きとは昔よりいふなり。葉も長きぞよとなり。

○菖蒲は葉の長いものだ。その根が長いというのは、昔から言っていることだ。(それだけでなく)葉も長いことだよ、というのである。


114 澤菖蒲
住の江のあさざはぬまのあやめぐさ松とかはせる根ざしなるらむ
一六四 住の江の淺ざはぬまのあやめ草松とかはせるねざし成(なる)らむ 文政十三年

□いままのあたり行きて見れば、いよいよわかるなり。

〇今、目の当たり行ってみれば、ますますわかるのだ。

※戦前の写真などあればここに挿入したいところ。

115 櫨橘薫袖
たちばなのなつかしき香ににほふ夜はわがそでならぬ心ちこそすれ
一六五 たちばなのなつかしき香に匂ふ夜はわが袖ならぬここちこそすれ

□移り香の多い袖は、なつかしき人の香のやうな、となり。

○移り香の多い袖は、(「古今」集の歌にある、昔の)なつかしい人の香のような(気がするものだ)というのである。

116 
にほひをばいかにせよとか立花のはなちる袖にかぜのふくらん
一六四 匂ひをばいかにせよとか橘のはなちる袖に風の吹(ふく)らむ 文政十二年

□立花の香、蓮の類とは違ふなり。「古今」に詳に解く。
梅のちるは、花が軽き故わきにゆくなり。橘は重き故にそこにたまるなり。「たちばなの花ちる里も」と「万葉」にあり。里の中の庭也。花散る庭といふ事を、里といふことはりをすてて、調べをいたわるなり。古人のまはりどほいやうなるののあるのは、調をいふ也。「万葉」は最も詞を大事にせり。「万葉」はあらく、言葉をざつと仕(使)ふと思ふは、ひがごとなり。されば梅散る里といひても、とんとおもしろからぬなり。橘故妙があるなり。「いかにせよとか」、つよくつかふなり。あかざるものの重りて、おもしろくなつかしき気色をいふなり。

○立花の香は、蓮の類とは違うのである。「古今(和歌集正義)」に詳しく解いてある。
梅が散るのは、花が軽いので脇に行く。橘は重いのでそこにたまるのだ。「たちばなの花ちる里も(ママ)」と「万葉集」にある。里の中の庭だ。花散る庭という事を、里という理を捨てて、調べをいたわるのである。古人の歌に回りくどいような表現をしたものがあるのは、調を言っているのである。「万葉」は最も詞を大事にする。「万葉」は荒く、言葉をおおざっぱに使うと思うのは、間違いである。それだから「梅散る里」と言っても、とんとおもしろくないのである。橘だから妙味があるのである。「いかにせよとか」(の句は、言葉を)強く使うのである。嘆賞する思いが(ますます)深くなって、おもしろくなつかしい様子をいうのである。

※「橘の花散る里のほととぎす片恋しつつ鳴く日しぞ多き」「万葉集」一四七七、大伴旅人。

117 五月雨
ふりそむる今日だに人のとひこなん久しかるべきさみだれの雨
一六七 ふりそむるけふだに人のとひ来なむ久しかるべきさみだれの雨 文政十年

□初さみだれの歌なり。今日なりとも人のくればよいがとなり。「(古今和歌)六帖」に「春雨のこころは君を知りつらん七日しふらば七日こじとや」。春雨の長いことは知りてあらうのに、春雨のふるを言だてにして、こじといふは、七日もふらば七日も来ぬつもりか、となり。今はこれとはちがへども、およそ此のやうすにて、ふりそめたら長いことはし(知)れてあるとなり。「五月雨」とばかりも雨なり。「さみだれの雨」といふても同じ。さ、あめだれ。さばへ、さなへ、さつき、五月のことには、多く「さ」といふことがつくなり。何を「さ」といふか知れねども、何分五月のものを「さ」といふ也。「日本紀」に五月蠅をさばへとあれば、五月を「さ」といふなり。「たれ」は、天より落つることをいふ也。「あられ」は「あれたれ」、「しぐれ」は「しぐたれ」也。「みぞれ」は「水たれ」なり。さて、今「たれ」などいふことは、今いへば語勢がのろりとなれども、昔はきびしく聞こえたりと見ゆ。今も「たれ」に「なだれ」といへば、つよくなるなり。昔は「たるみ」といへば「瀧」のことなり。今「たれる」といへば、ぬるいやうなり。時代のちがひなり。

○初さみだれの歌である。今日なりとも人が来ればよいのだが、というのである。「(古今和歌)六帖」に、「春雨のこころは君を知りつらん七日しふらば七日こじとや」。春雨が長く降ることは知っているだろうに、春雨が降るのをはっきりとした言い訳にして、来ない(つもりだとか)と言うのは、七日も降ったら七日も来ぬつもりか、というのである。今はこれとはちがうけれども、およそこの様子で、降り始めたら長くなる(長く来ない)ことは知れていますよ、というのである。「五月雨」とだけ言うのも雨だ。「さみだれの雨」と言っても同じだ。「さ、あめだれ」だ。さばへ、さなへ、さつき、五月のことには、多く「さ」ということがつく。何を「さ」というかはわからないが、何分五月のものを「さ」というのである。「日本紀」に「五月蠅」を「さばへ」とあるので、「五月」を「さ」というのである。「たれ」は、天より落つることをいう。「あられ」は「あれたれ」、「しぐれ」は「しぐたれ」だ。「みぞれ」は「水たれ」だ。さて、今「たれ」などという言葉は、今言うと語勢がのろい感じになるけれども、昔はきびしく聞こえたものとみえる。今も「たれ」に「なだれ」と言えば、強く聞こえるのである。昔は「たるみ」というと「瀧」のことだった。今「たれる」というと、ぬるいように聞こえる。時代のちがいだ。


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