さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

大谷晃一『歌こそ わが墓標 昭和無名歌人伝』 短歌採集帖( 2 )

2016年05月15日 | 現代短歌 文学 文化
 大谷晃一の著書は数多い。本書のあとがきには、「どうやら、事実としての人の一生を書き継ぐことを、私は自分の仕事としているようである。このたびは、その折り節に短歌を詠むことによって生きて来た人たち二十一人の列伝を編むことになった。」とある。聞き書きを元にして、要所に語り手の言葉を織り込みながら簡潔に叙していく文章は、緩急自在で人を飽きさせない。実用の文章が、文芸の文章の気息を学びながら熟練し、熟成されたものである。だから、太谷晃一の文章は、日本語の散文のひとつの見本ともなるものだろう。
 本書では、昭和という戦争の時代を生きた人々の姿が、短歌をなかだちにして語られる。胸がいたむこと、いたいたしくてやるせないこと、そんなことばかりである。「阿修羅のマレー沖 岩崎嘉秋さん」の章から。岩崎さんの仕事は、パイロットである。引く。

「サイゴンに近い仏領印度支那のツドウモ基地に進駐した。いま、ベトナム。十六年十二月八日にシンガポールを、九日にマレーのクアンタンを爆撃した。十日、イギリス東洋艦隊に最初の攻撃をかけた。戦艦「レパルス」の後甲板に二百五十キロ弾を命中させた機を、岩崎さんは操縦していた。しかし、自らも被弾し、かろうじて基地にたどりついた途端、左のエンジンが停止、あやうく命びろいした。マレー沖海戦である。この歌も、のちに作った。

  飢に狂ふ鷲のごとくに艦襲ふ眼血走りて人を見ざりき
  わが魂のたふときものも落下せり爆弾を艦に放てる瞬間(とき)に

 (はじめて空を飛んだときの)あの空の美しさもロマンもそこにはなかった。火薬のにおい。閃光。高角砲の光の乱射。それこそ凄惨をきわめた。空というのは阿修羅のごときものか、と思った。その空と心中しなければならないのだ、といたたまれない心境である。
 太平洋の各地を転戦した。ラバウル爆撃へ行った二十七機のうち、帰れたのはたった三機だった。硫黄島への敵の空襲の瞬間、一式陸上攻撃機で最後に飛び立って内地へ帰った。木更津と豊橋の海軍航空隊で教官を務め、その間に郷里から嫁をもらった。(略)
 敗色が濃くなる。困難な、そして辛い任務が続いた。台湾から比島へ、要人を救出に行く。荒天の暗夜を選び、向こうの飛行場へ無灯火で強行着陸する。この繰り返しである。第一航空艦隊司令長官の大西滝治郎中将らを特攻基地に運ぶ任務もやった。諸君、私より一足先に死んでくれ、と訓示が終わると乗せて帰る。死んで行く若い隊員をとても見ていられなかった。一度は沖縄空襲で弾を受け、破片が岩崎さんのお尻にささる。生きていたのが不思議だった。
 終戦の日、台湾の高雄にいた。ああ、おれの人生は終わったんだ、おれの生命はもはや償却ずみだと思った。もう、爆音は聞きたくない。空も見たくない。……」                    

 このあと岩崎さんは慣れない地上での仕事に窮して、誘われて海上自衛隊に入り、のち民間会社の「朝日ヘリコプター」に移って、種々の活動にあたった。この章は次のようにしめくくられる。

「ヘリコプターのローターが回り、その影で下の雲に丸い虹ができている。蓮の花のような綿雲が浮かんでいる。雲がこのまま蓮台になってくれて、わが一生を終わることができたら、無上の幸せだな、と飛びながら思う。一首できた。

  蒼みたる秋空飛べば吾が下に蓮台に似る綿雲の浮く 」

 死地をかいくぐったからこそ、虹を見てこのように思うのである。まさに、その仕事をしている人でなければ詠めない歌にちがいない。


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