名久井直子の装丁が素敵な本だ。間にはさまれた栞にある著者の説明によれば、表紙の絵の組み合わせは9パターンあるそうだ。ケースから取り出した本を並べて額縁のケースに入れたら、ちょっとしたインテリアになるかもしれない。十七年ぶりの新歌集だというけれども、これまでに出した歌集がどれもいまだに経年劣化していないのだから、三冊目から四冊めまでの間の年数を言うことにさしたる意味はないだろう。
穂村弘の文体は、歳をとりにくい文体なのだ。けれども、歌集には老いた両親のことをうたった作品が収録されている。生身の作者は、確実に人生の時間を深めているのだが、それを語る歌の語り口が、年齢の濁りを感じさせない。澄んでいるのである。そのことに、今回あらためて感動させられた。
歌集の表紙には、青色と金色があるけれど、私が今回感じた調子(トーン)は、特に後半は、乳色と白銀色の入り混じった光を投げかける月明かりのような色だ。それは哀しみを詩的に昇華させようとする作者の意志がもたらしたものだと思う。過剰に機知的であるような言葉の動き方を、あえて平淡なところに抑え込んだり、あるいは逆に凡庸な文体に近づけたところで一瞬の差異化を目立たないように生み出すように気を配ったり、自在な夢の中の立ち泳ぎをやってみせる作者の安定した技量にほれぼれとしながら、ページをめくることができた。
今日からは上げっぱなしでかまわない便座が降りている夜のなか
髪の毛をととのえながら歩きだす朱肉のような地面の上を
これは母の葬儀に関連した一連のなかから引いた。作者は、ごく一般的な短歌の作り方の土俵に降りてきたところで、実に鋭敏にその瞬間を永遠化している。
金魚鉢の金魚横から斜めから上からぐわんとゆがんでる冬
あ、一瞬、誰かわかりませんでした 天国で髪型を変えたのか
冷えピタを近づけてゆく寝息から考えられるおでこの位置に
いろいろなところに亀が詰まっているような感じの冬の夜なり
表面的な驚異を追求する歌は真似できる。でも、ぜったいにこの作者以外にはできない角度で対象に迫っている(「現前」に打ち当たっている)「金魚鉢の金魚」みたいな歌が、この歌集にはいくつもある。
なにひとつ変わっていない別世界 あなたにもチェルシーあげたい
あいしあうゆめをみました 水中でリボンのようなウミヘビに遇う
階段を滑り堕ちつつ砕けゆくマネキンよ僕と泳ぎにゆこう
スカートをまくって波のなかに立ち「ふるいことばでいえばたましい」
「あなたにもチェルシーあげたい」というのは、コマーシャルのコピーの引用だけれども、ここにあるのはアメリカのポップアートの言語版と言っていいような鋭くて高度な表現意識である。
これらの作品に見て取れるものは、現在の界面をまるごと反転させ、独自の言語イメージの世界に移動するイマジネーションの力である。
そうしてここにあるのは、天上からこぼれて来る理念の光を障子紙越しに透かし見るようにみて来た理想家が、少しだけ諦念に侵食されはじめている光景である。
だから、これは単なる意匠と着想で成ったものではない。若いひとたちは魅了されるのはかまわないが、真似をしようなんて思ってはいけない。一度冷凍されてから生まれ変わったような内的経験(実体験ではない)を経ないとこういう歌はできないのだと私は思う。
穂村弘の文体は、歳をとりにくい文体なのだ。けれども、歌集には老いた両親のことをうたった作品が収録されている。生身の作者は、確実に人生の時間を深めているのだが、それを語る歌の語り口が、年齢の濁りを感じさせない。澄んでいるのである。そのことに、今回あらためて感動させられた。
歌集の表紙には、青色と金色があるけれど、私が今回感じた調子(トーン)は、特に後半は、乳色と白銀色の入り混じった光を投げかける月明かりのような色だ。それは哀しみを詩的に昇華させようとする作者の意志がもたらしたものだと思う。過剰に機知的であるような言葉の動き方を、あえて平淡なところに抑え込んだり、あるいは逆に凡庸な文体に近づけたところで一瞬の差異化を目立たないように生み出すように気を配ったり、自在な夢の中の立ち泳ぎをやってみせる作者の安定した技量にほれぼれとしながら、ページをめくることができた。
今日からは上げっぱなしでかまわない便座が降りている夜のなか
髪の毛をととのえながら歩きだす朱肉のような地面の上を
これは母の葬儀に関連した一連のなかから引いた。作者は、ごく一般的な短歌の作り方の土俵に降りてきたところで、実に鋭敏にその瞬間を永遠化している。
金魚鉢の金魚横から斜めから上からぐわんとゆがんでる冬
あ、一瞬、誰かわかりませんでした 天国で髪型を変えたのか
冷えピタを近づけてゆく寝息から考えられるおでこの位置に
いろいろなところに亀が詰まっているような感じの冬の夜なり
表面的な驚異を追求する歌は真似できる。でも、ぜったいにこの作者以外にはできない角度で対象に迫っている(「現前」に打ち当たっている)「金魚鉢の金魚」みたいな歌が、この歌集にはいくつもある。
なにひとつ変わっていない別世界 あなたにもチェルシーあげたい
あいしあうゆめをみました 水中でリボンのようなウミヘビに遇う
階段を滑り堕ちつつ砕けゆくマネキンよ僕と泳ぎにゆこう
スカートをまくって波のなかに立ち「ふるいことばでいえばたましい」
「あなたにもチェルシーあげたい」というのは、コマーシャルのコピーの引用だけれども、ここにあるのはアメリカのポップアートの言語版と言っていいような鋭くて高度な表現意識である。
これらの作品に見て取れるものは、現在の界面をまるごと反転させ、独自の言語イメージの世界に移動するイマジネーションの力である。
そうしてここにあるのは、天上からこぼれて来る理念の光を障子紙越しに透かし見るようにみて来た理想家が、少しだけ諦念に侵食されはじめている光景である。
だから、これは単なる意匠と着想で成ったものではない。若いひとたちは魅了されるのはかまわないが、真似をしようなんて思ってはいけない。一度冷凍されてから生まれ変わったような内的経験(実体験ではない)を経ないとこういう歌はできないのだと私は思う。
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