さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

『桂園一枝講義』口訳 36~38

2017年02月19日 | 桂園一枝講義口訳
36~38

36 前のおほいまうち君東山の花御覧しける序我岡崎に立入らせたまひし又の日のつどひに「山家春」といふことをよめる

山里ははるそうれしきもゝしきの大みやびともおとづれにけり

八六 山ざとは春ぞうれしき百式の大宮人も音づれにけり 

◇前の大臣が東山の花を御覧になったついでに我が岡崎の家にお立ち入りになった又の日の集いに「山家春」ということを詠んだ(歌)

□徳大寺實祖(ルビ、さき)公なり。「東山の花御覧じ云々」用捨して書きたり。実は殊更に岡崎へ渡らせたまひしなり。又の日でなく直に其日ではいかゝ(ゞ)と筆者いへり。しかし又の日がよきなり。その日にすれば大宮人に御覧に入るゝ歌になるなり。それではあまり山家の人にしてはなめなめしき也。かへつて無礼になるなり。翌日いふ故にうれしく、ありがたく聞ゆるなり。
「我やどの桃の一木に山人の真袖ふれたるけふや何の日」などゝ其日歌よみて奉りし事もありし。其外いろいろありし也。
「百しき」大宮人の枕詞なり。「宮」の枕なり。百の石の敷きつみて立てたる宮也。こゝの百式の出づるは、うれしき百しきと云也。「もゝしぎ」と濁らぬこと知るべし。此歌きのふのなつかしき様子あるべし。

○徳大寺實祖公である。「東山の花を御覧じ云々」というのは手加減して書いたのである。実はわざわざ岡崎へご訪問なさったのである。又の日ではなく直ちにその日ではどうかと筆者が言った。しかし、又の日がいいのである。その日にすれば大宮人に御覧に入れる歌になるのだ。それではあまり山家の人にしては失礼で、かえって無礼になるのである。翌日に言うからうれしくありがたく聞こえるのである。
「我やどの桃の一木に山人の真袖ふれたるけふや何の日」などと其日に歌を詠んで差し上げた事もあった。そのほかにもいろいろあったことだ。
「百しき」は、大宮人の枕詞だ。宮の枕だ。百の石を敷き積んで立てた宮だ。ここのところで「百式」という語が出たのはうれしい百しきと言うのである。「もゝしぎ」と濁らないことを知っておくとよい。此の歌には、昨日のなつかしい様子あるだろう。

37 ことしもやまた中空にあくがれんさけりと見ゆる山ざくらかな

八七 ことしもやまた中空にあくがれむさけりとみゆる山桜かな 文政七年  

□「花始開」の題なりしなり。一番に目につくより出しかけたり。
清水の角の桜などなり。京都さきがけの花なり。
「又中空にあくがれん」、花に身をなぐる也。「あくがるゝ」は心こゝにあらざるの詞なり。「花よいかに春日うらゝに世はなけ〈「り」の誤植〉て霞の内に鳥のこゑこゑ」「風雅集」にあり。なぐり歌なれどもうらうらとしたる気色、今も此様子なり。

○「花始開」(花はじめて開く)という題であったのだ。一番に目につくことから(この題を)出して当座の題とした。
清水の角の桜などである。京都で最初に咲く花だ。
「又中空にあくかれん」というのは、花に身を投げるのである。「あくがるゝ」は心ここにあらざるという詞である。「花よいかに春日うらゝに世はなりて霞の内に鳥のこゑごゑ」という歌が、「風雅集」にある。(身を)投げた(つまり作者がわが身を放り出したような)歌であるけれども、うらうらとした気色は、今もこの歌と同じ様子である。

※「なぐり歌なれども」は、「投ぐ」の連体形「投ぐる」を「投ぐり」と言ったものか。

※中空は景樹の好きな言葉であったらしく、「中空日記」という刊本もあるぐらいであるが、そういう嗜好なり審美的な感覚というものは、「新古今」や「源氏」への親炙によって培われたものである。

※調べの整った佳吟。「風雅集」というのは景樹の思い違いで、『玉葉集』伏見院の歌(629)「花よいかに春ひうららに世はなりて山のかすみに鳥のこゑごゑ」である。景樹の歌の新味には、相当に「風雅」「玉葉」あたりから来た要素があっただろうということが、こういう言葉からも伺われる。このことは間接的にだが、川田順が戦時中の著書で指摘している。

38 大空のよそにおもひし白くもにこのごろまがふ山ざくらかな

八八 大空のよそに思ひししら雲にこのごろまがふ山ざくらかな 文化四年

□「大空」は「よそ」の詞、枕につかひ馴れたる也。「よそ」といふ詞、今も云詞に同じ物を、へだてたるあちらづらに当ること也。
よそ物をへだつる事、そは外の意なり。大空は遠方にあるもの故に丁度枕詞にする也。又「白雲のよそ」ともつかへり。よそに思うた白雲に、と也。此頃「花が似たり」といふなり。
さて桜は甚親しきものなり。春といへば花をまつ位のもの也。然るによそにおもひし白雲に此頃まがふとはうとうとしく思うた、雲に親き物がまがふといふは聞えぬやうなれども、是趣也。疎きにまがふ程のさくら故雲までが花ゆゑ親くなる意なり。

○「大空」は「よそ」の枕詞として使い馴れているものである。「よそ」という詞は、今も言う詞に、同じ物を隔てた「あちらづら」(向こう側)に当たることを指す。
よそ物を隔てるという事は、それは「外」の意味である。大空は遠方にあるものだから、丁度枕詞にするのだ。又「白雲のよそ」とも使っている。よそに思った白雲に、という意味である。近い時代になって来ると、「花が(雲に)似たり」と言うのだ。
さて桜はたいへん親しいものである。春と言えば花を待つぐらいのものである。それなのによそに思っていた白雲にこの頃まぎれて見えるとは、うっとうしく思った雲に親しく(感ずるもの)が、まぎらわしいと言うのは、腑に落ちないことのようだけれども、これは趣(おもむき、趣向)というものだ。疎く感ずるものにまごう程のさくらだから、雲までが花のおかげで親しくなるという意味である。

※これも類歌の洪水に埋もれてしまいそうな歌だが、講義を読むと妙に納得させられるところが、さすがである。地方の名望家などは、こういう歌や解説やらで十分満足できたのではないかと思う。

 



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