負けている人は、ヒカシューの「生きてこい沈黙」(2015年)でも聞いたらいいと思う。
聞いているうちに、元気になってくる。
私も負けずに、こんな歌をつくってみた。
トータスの首のごときものトースターより出でて燃えゆく 焦げよ焦げよ
さいかち真
「歌壇」10月号に瀬戸夏子の最新作とおぼしいものが載っている。うれしかった。
こんな感じ。
心情に近い仔猫を帰るときみぞれは彼の口内をみたす 瀬戸夏子
私の知人が詩集を出した。引いてみる。
ごめんなすって 永野佳奈子
「生まれてごめんなさい」
「生きていてごめんなさい」
まるでどこかの詩人のように
何度も何度も繰り返す娘に
ある日ひとつの提案をする
「ごめんなさい」は聞き飽きたから
今度は
「ごめんなすって」って言い換えてみたら?
『洗濯機でカナブンを洗ってしまった日』 待望社刊
この詩の「娘」というのは、普遍的な〈娘〉として読む。詩は、私小説ではないので。
このところの私のテーマは〈言い換え〉である。
人生は、実はひとつの言い換えで転換できるものなのかもしれない。「それにしても私の立ち直りは、〇〇(失念)のように、早かった」と書いた宇野千代さんのように。
ヒカシューの歌だと、「あおぞらみえた」とか「てんぐりがえる」とか、再生の瞬間がある筈なので、言い換えによって、音楽的な転移によって、人生を変えるマジックを手に入れることは、きっとできる、はずなのだ。
だから、前衛的芸術表現は、人を活性化するものなのだ。
聞いているうちに、元気になってくる。
私も負けずに、こんな歌をつくってみた。
トータスの首のごときものトースターより出でて燃えゆく 焦げよ焦げよ
さいかち真
「歌壇」10月号に瀬戸夏子の最新作とおぼしいものが載っている。うれしかった。
こんな感じ。
心情に近い仔猫を帰るときみぞれは彼の口内をみたす 瀬戸夏子
私の知人が詩集を出した。引いてみる。
ごめんなすって 永野佳奈子
「生まれてごめんなさい」
「生きていてごめんなさい」
まるでどこかの詩人のように
何度も何度も繰り返す娘に
ある日ひとつの提案をする
「ごめんなさい」は聞き飽きたから
今度は
「ごめんなすって」って言い換えてみたら?
『洗濯機でカナブンを洗ってしまった日』 待望社刊
この詩の「娘」というのは、普遍的な〈娘〉として読む。詩は、私小説ではないので。
このところの私のテーマは〈言い換え〉である。
人生は、実はひとつの言い換えで転換できるものなのかもしれない。「それにしても私の立ち直りは、〇〇(失念)のように、早かった」と書いた宇野千代さんのように。
ヒカシューの歌だと、「あおぞらみえた」とか「てんぐりがえる」とか、再生の瞬間がある筈なので、言い換えによって、音楽的な転移によって、人生を変えるマジックを手に入れることは、きっとできる、はずなのだ。
だから、前衛的芸術表現は、人を活性化するものなのだ。
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