さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

金川宏『揺れる水のカノン』

2018年04月26日 | 現代詩 短歌
 以前編集してあった原稿を二十数年ぶりに取り出して見ているうちに、短歌をふたたびつくり始めたという作者の第三歌集。第二歌集が1988年刊。そうすると、たしかに三十年の間があくわけだが、この数十年というのは、長いようで案外短かったりするものだ。私と作者とでは六歳ほど年がちがうが、日々生活の雑事に追われていればあっという間、という感じもよくわかる。三十年を経て取り出してみたら少しも古びていないように感じられた原稿というのは、きっと作者を励ますものだったろう。

「あとがき」を見ると、それを今回ある程度はそのままで出版したのか、新たに編集し直して、さらにいろいろ書き加えたのかがよく分からないのだが、作者の言葉の使い方が、時事的な要素を排除するものであるために、新旧を見分けがたい。全体は、歌一首に一篇の詩(ソネット形式のもの)が付けられて構成されている。

「夢見る部屋」。

惑星のほろびしのちも幾千の蛇口より夜の沙零れつぐ  

ぴかぴかと光りながら
転生する合金の犬
降り敷いた枯葉が立ち上がって
銀色の階段を降りてくる

貝殻と藻をまとう鍵盤
羽化するマトリョーシカ
本棚に並ぶ黄金色の背文字
めくれあがる曲馬団のポスター

床下から芽吹きはじめる樹樹
青い菊を活けた甕から
泥のような水が溢れ出す

みたこともない廊下だ
雨が 降りしぶき
夏草が 鏡に溺れている
 
※「沙」に「すな」と振り仮名。

 詩行のイメージは、ひとつひとつ鮮明で、その展開してゆくところに曖昧なものはない。こういう技術的に完璧な詩を読むことは実に心安らかで楽しい経験である。それに比べて短歌はひとつのイメージの方向しか示せないものだ。むしろ調べに託すほかない曖昧な部分にこそ、短歌が短歌である理由がある。短歌は(作者の短歌が、という意味ではない。短歌一般が、という意味)調べの腰が重いし、詩のように敏捷ではない。分析してみる。

惑星の ほろびしのちも 
幾千の 蛇口より夜の 沙零れつぐ 

 読んで行くと「幾千の」で一度音が揺れる。そのあと、「蛇口より/夜の」の句割れと、「夜の /沙零れつぐ」という四句目と五句目の間にある句跨りとが、四句目で早口な感じを呼び起こす。これが映像としてのイメージの静かさと若干背馳している。また、現代詩ではまったく問題にならないが、短歌では「惑星の ほろびしのちも」の「も」に歴史性や激しい現在への批評性が不足しているように見えてしまうのである。「惑星のほろび」が安易にロマンチックに感じられるのである。その程度には、短歌は現在の時間を鋭く参照する宿命を背負った文芸である。ほめるつもりが何だかきびしいことを書きはじめてしまった。もうひとつ引いてみよう。

「蝸牛の休符」。

あしたより蝸牛のごと事務執りて消なば消ぬべしひと日の果ては

とおく灯る日日は バス停留所
ワイシャツの群れが空を流れる
わたしが追い越してゆくと
あとから後からビルが倒壊してゆく

黄泉の雲が流れる
デスクトップの草原
開かれる窓、窓、まどの緑閃光
飛びたとうとする始祖鳥

廃棄された計算ソフトの
暗い箱の中で つぎつぎと
昇天してゆく おまえたち

電話の網を逃れて憩う昼休みの
地下茶房 らんちゅうがびろびろと
時を食みながら こちらを見る

 こちらは、短歌の方は、職業生活に取材した実感のあるものとして読めるし、説得力があると感ずる。詩の方は、一つ目に引いた詩とちがって、逆に「つくりもの」の感じがしてしまう。よく知っている詩のことばの材料を巧みに構成して作り上げた「擬詩」のような感じがしてしまうのである。これは私の読書経験と好みの反映された判断だから、なぜそうは思うかは説明しづらい。要するにうますぎるのである。であるがゆえに、短歌は信用できそうだが、詩の方は信用ならないという気がする。現代詩は、どこかが内破していないと、つまり不完全でないとかえって疑わしいものになるのである。緑閃光という語は、平出隆の詩を思い出させた。あとは昭和時代の近代詩の言葉の使い方も少し入っているか。ほめるつもりで書いているのに、これも文句をつけているのかな。そういうことではないのだが、読者の方が意図をくみ取ってもらえたらありがたい。もうひとつ面白そうな一連を引く。

「十月の角砂糖」。

ぼろぼろと木の葉こぼしてジャケットの内ポケットで弦が震へる

十月の朝のオフィスに
ひそむもの
すっぱい乳房
柘榴の裂け目

複写機の光源から
太古の風が吹き通る
このわななきは
誰にも渡したくない

空にも窓にも拒絶された椅子
業務日誌に立つ水煙
網状に広がる回線

角砂糖がほろり 指先から
暗黒に身を投げ
渦状に泡をふいている

 これは短歌と詩のバランスがいい。短歌は、下句のシュールレアリズム的な語の斡旋も素晴らしいうえに、先に引いたものと同じく、職業生活に取材したものとして読める。詩は、中井久夫が訳したギリシア詩のような感じがして、楽しい。それは全体に好ましい。両方を実作するというのは、なかなかむずかしいものである。私はこれを一冊にしてみせた作者の勇気に拍手を送りたい。こういう本をジェラシーから評価しようとしないというのは、よくないことだ。それとも、「わからない」とでもいうのだろうか。少なくとも「わからない」ような明晰さを欠いた言葉をこの作者は書いていない。二つ目の詩のところで「擬詩」だとかなんだとか私はへんなことを書いてしまったが、誤解のないように書いておくと、言葉のひとつひとつの意味とイメージの明晰な提示のしかたというところでは、この作者は信用できる。これを「歌集」扱いしないという取り扱い方があるが、私はそれにはまったく反対である。さらに私がこういう文章を書いているのは、歌壇ジャーナリズムのいわゆる「書評」の枠から外れる可能性があると思うから、書いているのである。

 ※30日の朝に起きだして拙文に手を入れた。5月4日に二度目の手を入れた。


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