さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

宇野千代『残っている話』

2017年02月09日 | 
一太郎ファイルの復刻。2012年5月の文章である。どこに出したかは忘れた。「読書散策」という題である。

 気散じに読む本をさがすのに苦労はいらない。誰でもそうだと思うが、手にとってめくってみて、いい感じだったら何となく最後まで読んでしまうものだ。先日は宇野千代さんの『残っている話』という自伝的な小説の文庫本を、朝晩の通勤の車内で読んだ。表紙が花色の着物の柄で、それを見るのが目に楽しかった。千代さんは、小説だけでなく着物を扱って生計の足しにしたそうである。

 『残っている話』を見ると、千代さんは、骨董の収集で有名な青山二郎の知人であったようだ。私は青山のへんな癖のある文章が嫌いだ。千代さんのような天然ののびやかさが、まるでない。でも、筑摩文庫の『青山二郎文集』には、中原中也についてのおもしろい回想文が入っている。

 青山の顔写真を見ると、一種の勘気が顔に走っている。それとは反対に、彼が集めた陶器の写真は、どれも可愛げがあるように見えるのだから、人間の本質は見かけではわからないということなのだろうが、さて、その青山でさえ、心底辟易して付き合いきれなかったというのだから、詩人の中原中也の酒席での絡み方は、相当なものであったようだ。中原がねばっていたために、酒場が数軒つぶれたということである。現実の詩人は、たぶん虫酸の走るような嫌なやつだったに違いない。しかし、書かれた作品と本人とは、ちがうのである。

 中原中也の思い出を書いたものとしては、小林秀雄のものが有名で、私も高校の時に読んで以来、その強い印象は変わらない。しかし、中原伝説の打ち割ったところを書いた証言として、右の青山の文章は、相当いいもののように思う。ああいうきかん坊のような顔をした人でなければ、なかなかあそこまでは書けなかったのではないか。金田一京助は、後年自分が書いた石川啄木についての文章を、いろいろな事実を隠して良く書き過ぎた、しかし、もう自分にはどうにもならないと言っていたということである。ローマ字日記などをひらき見れば、さもありなんと思われる。親友が親友について書くということは、なかなかむずかしいことのようである。

 宇野千代さんの本に話を戻すと、千代さんが尾崎士郎と田舎に住んだ時のこと、二人して山の中の窪地で焚き火をしたら、あっという間に燃え広がって火事になってしまったことがあった。その時の尾崎は、火を消すでもなく、助けを呼ぶでもなく、落ち着いてただ何にもしなかったということだ。結局村の人が飛んできて火を消してくれたということだが、東郷青児にしろ、尾崎にしろ、千代さんの周りには度外れの人物が大勢いて、そこのところを一種の好奇心と情熱で突っ切ってきた千代さんの生き方というのも、並外れたものである。結核で血を吐いている東郷のような男と血だらけの布団に平気で同衾する千代さんの神経もたいしたものだと思うが、何か痛々しいような必死な印象がある。

 私は尾崎士郎の相撲についての文章を忘れがたいものとして記憶しているが、それは相撲取りが気合を入れてだんだん対抗心と取り組み相手への敵愾心を高まらせて行くまでの緊張に満ちた時間を見事に描き出したものだった。あれはとにかく名文だと思うが、根底に必死な生の有り様を全面的に肯定し、共感する態度のようなものがあって、それはどこかで尾崎という男の魅力となっていたのではないかと思う。ところが、その人物が、現実的にはまったく無能で、自分で起こした火事ひとつ満足に消すこともできないというところが、本当にばかばかしくておもしろい。


新垣秀雄歌集『残生』 と 、久津晃の歌  「未来」の短歌採集帖(6)

2017年02月05日 | 現代短歌
一太郎ファイルの復刻。同人誌の「砦」に「東林興会抄・四」と題して書いたもの。二十年以上前の文章だが、書いてある中身は古びているという気がしない。

 徐京植が近年の著書『プリモ・レーヴィへの旅』(みすず書房刊)の中で語っているように、この二十世紀という「暴力の世紀の生き証人たちは全世界で次々に死につつある。」しかし、短歌の世界では、まだ多くの証言者たちが健在であり、われわれは二十一世紀に入っても、いましばらくの間は、いくつかの戦慄的な経験について、その直接の証言を聞く機会を得ることができるかもしれない。

 あの酸鼻をきわめた沖縄戦において、当時中学生だった新垣秀雄さんは、鉄血勤皇隊として従軍し、かろうじて生き残った。その経験を新垣さんは短歌のかたちにして後世に残そうとしている。新刊の第二歌集『残生』において、摩文仁の丘は次のように歌われる。

   消ゆるなき死臭は甦り摩文仁野に戦慄やまず肉震いせり  ※「肉」に「しし」と振り仮名

 戦場の記憶というものは、つまるところこういう「死臭」のようなものに帰結するのではないかと思う。どんなに本を読んだり、映像を見たり、人の話を聞いたりして追体験しようとしても絶対に近寄れない固有の記憶、それは読者の理解を越えた身体的な記憶として示されているのである。

 作品集の終章に置かれた連作「アダンの目」は、皇軍の銃口を背中に意識しながら米軍に投降した沖縄の人々の、切迫した恐怖と不安と迷いとを表現している。以下に一連十四首をそっくり引いてみる。なお、一首めの傍注として、「アダン=海岸線の防風林、防潮林の植物」とある。

  アダンの目は何見しならん喜屋武岬、ギーザバンタに五十年前
  アダンの目は葉陰にありて焼かれたる林とともに永久に消えたり
 アダンの目は投降可不可に迷いたり前後に火を吐く銃口ありて
  アダンの目は背なに火を吐く銃をとる憎しみの目もありて動けず
 アダンの目は幾十幾百瞬かず明日も今も見えざる目にて
  アダンの目は縋る目刺す目恐れる目さまざまなりき喜屋武の岬に
 アダンの目はつめたく怖くかなしかり放心したる祈りの目なりき
  アダンの目は切羽つまりし水際に救いをみたり仇せぬ敵に
  生も死も見えずうつろに戸惑いてさ迷いたりしアダンの目なりき
  きわまりてさゆらぎもなく動かざる見開かれたるアダンの目の中
 降るなら撃つぞと兵は敗軍の責め負う憎悪をアダンの目にこむ
 「デテコーイ」投降勧告つづく中未だに惑いのアダンの目なりき
 とどまるもゆくも死地なれ決め難きアダン林の中の目の色
  渚にて救われたるを安堵にて見つむるアダンの目はゆらぎたり

 さまざまな意識を鏡のように映し出す「アダンの目」。ここでは、アダンの木は神であり、運命であり、宙づりにされた投降企図者の意識であり、生きたいと願いつつ逝った島の人々の思いである。この一連は、作者の実体験に根差しつつ、そこで共時的な体験をした多くの人々の気持を表現しようとするものである。

 続けてもう一冊戦中世代の歌集をとりあげたい。

 戦争末期に満州に渡って戦後の混乱に巻き込まれ、幾度も死線をくぐったという久津晃さん(歌誌「飈」発行人)の新刊歌集『孔雀都市』には、「敗戦残夢録」という一連がある。私は以前、短歌研究誌「美志」(九号・九六年)に、久津さんからうかがったことをインタヴュー記事として掲載したことがある。問題の一連十四首を、これもそっくり引いてみようと思う。

  銃殺を待つ間坐れる股間より尿はたるる凍土の上  ※「尿」に「ゆまり」と振り仮名
  わが眼より眼鏡の飛びてその後は知らず知らざる四五分の闇
 捕えられ殴られ視界朦朧と仰ぐ中庭の昼の寒月   ※「中庭」に「パティオ」と振り仮名。
  殺しとはかくのごときか薪割りをもて薪を割るごとくたやすく
迂回して逃げゆく村の闇のなか不意に鶏の鳴けば駈けゆく   ※「鶏」に「かけろ」と仮名。
  逃げこみしペチカの中は凍りいてああとめどなくわが歯鳴るなり
  土足にて入り来し強盗五十人なかの一人がわが頭撫ず  ※「あたま」に「こうべ」と振り仮名。
  路地の口雪の反射の鋭くて銃口われに向けられていつ
  屋台引き売れざる酒を売り歩く昨日も今日もただに疲れて
  雪の上に落涙して去りゆきし男を恋うるわれの男が
  血にまみれ泥にまみれし友の首抱きあげんとわれはよろめく
  われを呼ぶたしかにわれを呼ぶ声の風か魑魅か定かならねど  ※「魑魅」に「すだま」と仮名。
帰らばや焦土の空の落日を見に還らばや遥けき祖国
  八路軍と呼べば光の湧くごとく大地を駈けてゆきし兵らよ  ※゜八路軍」に「パーロー」と仮名。

私はここに歌われている何首かの歌については、一首の背景にある具体的な事実を伺ったことがある。けれども、背景がわからない歌も何首かある。むろん、それはそれでかまわないのである。どんな痛切な経験も、物語りを伴わないと伝わらない部分がある。また、固有の経験には、どのような物語りをもってしても伝え得ない性質がある。この文章の冒頭にあげた徐京植の書は、そういう固有の経験の不可侵の部分について考察している。経験は、すぐれた語り手と、すぐれた記録者と、すぐれた仲介者の手によってはじめて伝えられるものとなる。歌人はそれをたった一人で成就しようとするのである。


桂園一枝講義口訳 33-35

2017年02月04日 | 桂園一枝講義口訳
33-35

33 すゞな咲きたる野に畑打さして上る雲雀を仰きみたる所のかた
おもしろくさへづる春の夕ひばり身をばこゝろにまかせはてつつ

八三 すゞな咲たる野に、畑打つ賤の、うちさして、あがる雲雀をあふぎ見たる所のかた

おもしろくさへづる春の夕雲雀身をば心にまかせはてつつ 享和二年

□五十年前半切の画、密画で東洋の画かと覚えたり。二人計鋤鍬を下に置きて上を見たる画也。書く所なくて細く真画程に書きたりし事ありし。
百姓になりてよむなり。
雲雀はおもしろく身を心に任せて居る。此方どもは身を心には任せぬなり。農事のひまなき事をいふなり。「中空日記」に小山がこれをとりてよみたり。

○五十年前(に見た)半切の画(の)密画で、東洋の画だったかと覚えている。二人ばかり鋤と鍬を下に置いて上を見ている画である。(その画賛を求められて)書く所がなくて細く「真画」(※「ましかく」と読むか)ほどに書いたことがあった。
百姓(の気持)になってよむのである。
雲雀はおもしろく身を心に任せて居る(が、)こちらの方は(好きなように)身を心に任せては居られないのである。農事が忙しい事を言うのだ。「中空日記」に小山がこの歌(の言葉)を取って詠んだ。

※これも自然に気持が流露している歌だ。二句めの四・三調のあと、下句が「身をば/こゝろに」「まかせ/はてつつ」と三・四、三・四調の繰り返しで揺さぶるような調べを持つ。

※「中空日記」の小山というのは、児山紀成のこと。「こたびの旅にもともなうべきを、おのれかへりくるまでのかはりにとて、残しおきけるなり、さればみなかくことさらに思ふ也けり、のりしげ(歌)
 大森の浦にあそべる鴨すらもおもふ心に身をばまかせつ 
此まゝにしたがひ侍らば、などかこつめり」とある。

34 題知らず

ひばり上る野辺に雉子もこゑたてつ子ゆゑになかぬものなかりけり

八四 ひばりあがる野辺にきゞすも声たてつ子ゆゑになかぬ物なかり鳧 文化十四年

□「述懐」「懐旧」の上でもよし。どうなりとも見るべきうたなり。
「雲雀あがる」、「万葉」にある詞なり。
のどかなる雲雀、雉子なれどもいづれも子をおもふなり。
麦生に子を生みおきて天にあがりて見て居ると見ゆるなり。人が行けばおりて来るなり。

○述懐でも懐旧の上でもよい。どのようにでも見るべき歌だ。
「雲雀あがる」は「万葉」にある詞だ。
のどかな雲雀や雉子であるけれども、どちらも子を思うのである。
麦が生えているところに子を生んでおいて天に上がって見て居るように見えるのである。人が行けば降りて来るのだ。

※子を思う親の情というのは、日本の古典文学の永遠のテーマと言うべきもので、これは茂吉が「景樹は義太夫のさわりのようだ」と言ってきらったところだと思うが、私はそんなに気にならない。十分に純朴な歌だと思う。また、景樹が熟読した「源氏」や、その引歌にもこれにまつわるものは多々ある。

35 
世中へよふ人おほしよふことりなくなる山はのとけきものを

八五 世中へ呼ぶ人おほし呼子鳥なくなる山はのどけきものを 文化十二年

□朝山出雲守常清によみてやりたり。今は狂気して引籠れり。可惜。六十四番の一番に出たる人なり。此人御殿につとめる時分に出處の事につきていひつかはしたる歌なり。出るまじき時に出る心持になりたる故に、その時諫めてとゝ(ゞ)めし事なり。三年立ちて又出る時そとふみをやりたり。
此世中の歌と一緒に、「巻向の檜原のともずりに胸を燃やすであらう」とよみたる歌もありしなり。

○朝山出雲守常清に詠んで送ってやった(歌)。(この人は)今は狂気となって引き籠っているが、惜しむべきことだ。六十四番(門人たちの歌合わせに景樹が判をしたもの)の一番に出た人である。この人が御殿に勤めていた時に進退にかかわる話があった時に言ってやった歌だ。出なくていい時に出る心持になっていたので、その時に諫めてそれをとどめた事であった。三年たって又出る時にそっと手紙をやった。この「世中」の歌と一緒に「巻向の檜原のともずりに胸を燃やすであろう」と詠んだ歌もあったのだ。

□「呼子鳥」三鳥の一なり(このあと小字で「いなおほせとりもゝちどり」と注記あり)。近世の事なり。今知れぬなり。目の先にあるべし。名がかはりたりとみゆる也。雀や烏ではあるまいけれども、何分名がかはりたるなるべし。色々にして見ても合はぬゆゑに伝授にしてしまひたるなり。何分「呼子鳥」といふからは呼ぶやうに聞こゆるなるべし。喚子鳥(ルビ、よぶこどり)、くわんこどり、かつほうほうと鳴子鳩てあらうかと云へども、「八重山をおきてとふなる呼子鳥」とあれば鳩ではあるまじ。又「桜によぶこ鳥の来て鳴きければ」とあり。

○呼子鳥は、(古今伝授の)三鳥の一つである。(このあと小字で「いなおほせどり、ももちどり」と注記あり。)(三鳥の一つになった事自体が)近世の事である。今は(どの鳥か)わからないのである。(たぶん)目の前にいる鳥(のどれか)なのだろう。名が、関わっていると見えるのだ。雀や烏ではあるまいけれども、とにかく呼び名が替わったということなのであろう。色々の(鳥の名前)にしてみても合わないものだから、伝授にしてしまったのである。とにかく呼子鳥と言うからには、(鳴き声が)呼ぶように聞こえるのであろう。喚子鳥(よぶこどり)は、くわんこどり(郭公のこと)、また「ほうほう」と鳴く子鳩(のこと)であろうかと言うけれども、「八重山をおきてとふなる呼子鳥」と(古歌に)あるので、鳩ではあるまい。また「桜によぶこ鳥が来て鳴いたので」ともある。

※ 『赤人集』に「あしひきの-やへやまこえて-よぶこどり-なくやながくる-やどならなくに」がある。

※『後撰集』列樹に、「わかやどの花にななきそ喚子鳥よぶかひ有りて君もこなくに」とある。 
▲訂正 これは以前「古今集」と誤記。

□又三月になれば別段におもしろくなると見ゆるなり。「萬葉」に「声なつかしき時にはなりぬ」とあり。「猿にしておけ、呼子鳥猿ぢや」など云ふやうなめつそうな事を云出せり。近比「古今明解」に梟といへり。いよいよめつそうなり。

○また三月になると、とりわけ(声が)おもしろくなると見えるのである。『萬葉』に「声なつかしき時にはなりぬ」とある。(ほかに)「猿にしておけ、呼子鳥は猿じゃ」などというようなとんでもない事を言い出している(者がある)。近頃『古今和歌集朗解』(宮下正岑、文政七年刊)に梟だと言った。いよいよとんでもない。

※『万葉集』一四五一、大伴坂上郎女「よのつねに-きくは(けば)くるしき-よぶこどり-こゑなつかしき-ときにはなりぬ」。括弧内は今の「国歌大観」の訓。

※世中と山とを対比させて、世中へ「呼ぶ」、つまり求婚する(ように何かをもとめる)人をなぐさめた歌。そんなにむきになって世間の認知をもとめるものではないよ、というようなところか。一緒にやった歌というのは、「世の中はあなしの檜原友ずりにもゆるおもひのいつか絶ゆべき」と、「人の行みちは八ちまたふみかへて山へと入らん時は此時」の二首。ともに文化十二年二月。「ともずり」は、「頼政集」に「おく山の杉のともずる我なれや我が恋ゆゑに身をこがすなり」とあるように、木や竹が互いに擦れ合うさまを言い表したもので相聞的なニュアンスを持つ。「友ずり」は宛字。この年景樹四十八歳。人の軽挙をいさめたりなぐさめたりするのが適任の齢だ。