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新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

鶴の友について-6--NO1

2021-10-10 14:33:26 | 鶴の友について

 

 

思ったより長い時間が過ぎてしまいました。
コロナ渦で新潟の蔵に行けない間に、昭和五十年代から大変お世話になった方々の訃報が届いたのですが葬儀にも参列出来ず残念な思いが募っています。昨年秋には嶋悌司先生、今年は早福岩男会長の奥様が亡くなられていますし、体調不良あるいは入院手術されて方がいても聞こえていない状況が続いています。
今は少しずつ落ち着てきていますがまだ安心には遠く、ワクチン接種2回目を終えた私も来年春には3回目のブースター接種が必要になるかもしれない状況では、残念ながら新潟の蔵にお邪魔するのにはもう少し時間がかかりそうです。


さてこれまでに書いた記事(下書きで未公開)は3本ほどあるのですが、2~3か月かかっても完成しなかったので投稿していません。
この記事も完成まで待っていれば未投稿になるのが確実なので、一番最初の「長いブログのスタートです」と同じようにこの記事は書き終わった分をその時に投稿しそれを繰り返して完成までもって行こうと思っていますので、どのくらいの分量でいつ完成するか分かりませんがかつて新潟淡麗辛口が起こした『破壊と再生』とは規模の大きさもその影響を及ぼす範囲も比較にならない『コロナ渦が引き起こす破壊と再生』の中でどのような酒蔵・酒販店がその存在をエンドユーザーの消費者に認めてもらえる可能性があるのか一個人の考察に過ぎませんが、少しずつゆっくりでも書いていきますので気長に見ていただければ本当に助かります。
私自身は、自分自身のためにも長い時間を費やしても、この記事は完成させるつもりでいます。

 

 

昭和四十年代後半、新潟県は酒造量の多い県であっても銘醸蔵の多い県というイメージは全くと言っていいほど無い県でした。
その県が起こしてしまった、あるいは起こさざるを得なかった『破壊と再生』の原因は❝二つの恐怖❞にありました。
このブログ内でも何回も書いているので詳しくは触れませんが、「このままでは日本酒は若い世代には全く飲まれずに将来滅びてしまうのではないか」という恐怖と「県産酒は将来滅びる前に、月桂冠に代表されるナショナルブランドの県内でも淘汰されてしまうのではないか」という恐怖が、今の時点だから見えるのですが、最大の要因だったと思われます。

❝二つの恐怖❞は他の県も持っていたはずなのになぜ新潟県だけが『破壊と再生』が可能だったのでしょうか?
1 越乃寒梅 故石本省吾蔵元が存在したこと
2 この時点で新潟県の酒蔵が108蔵存在していたこと
3 県独自の醸造試験場を持ちかつ嶋悌司先生が在籍(のちに醸造試験場長になられます)していたこと
4 当時の常識では考えられなかった(今では当たり前の)考え方と方法論を持った酒販店店主の早福岩男さんが存在したこと

以上のこと以外にもその要因は存在していますが、新潟県の酒造業界が新潟淡麗辛口という❝ゲームチェンジャー❞を造り出し当事者たちの想定をはるかに上回る『破壊と再生』をもたらし、月桂冠に代表されるナショナルブランドをその時点で追い詰める結果となったのは1~4の存在が大きかったのですが、皮肉なことに当事者が意図したことではなくても平成十年代後半以降の新潟淡麗辛口の❝段階的な縮小再生産❞に繋がる要素が内在していたのです----------。

1の存在の最大の価値は、昭和四十年代前半に今までの新潟県産酒とはまるで違う異端とも言える淡麗辛口を強い意志で造り出し周囲の反対を押し切って      こだわり続け、色々な意味で良くも悪くも『その後の展開の軸』となったことです。

2は銘醸酒を造り出している県ではなくてもある程度のボリュームの日本酒を生産しており、その時点でも、蔵単体でも新潟県酒造組合としても関東などと比べるとまだ❝力と余裕❞が残っていて、一部の蔵であっても先行して『破壊と再生』を実行できる余地があったことを示しています。

3の醸造試験場は47都道府県の中で唯一現在も残っているのは新潟県のみという事実が、過去に果たした役割の大きさを指し示しています。
県職員の枠を大きくはみだした嶋悌司先生の存在が無ければ新潟淡麗辛口の栄光も存在しなかったはずです。
昨年亡くなられたとき親しくさせていただいてる蔵から連絡を頂いて知っていましたが、まさかにYAHOOニュースが嶋悌司先生の訃報を報じるとは思いもよりませんでした。
日本酒業界、特に地酒(地方銘酒)業界では『酒の神様』として有名でしたが、YAHOOニュースが主な功績として取り上げていたのは朝日酒造の久保田の成功の立役者としての部分でしたが(もちろん素晴らしい仕事だと私も思っています)、私個人は『久保田以前の仕事』がエンドユーザーの消費者に大きな貢献をした嶋悌司先生の最大の功績だと思えてなりません。

残念ながら、越乃寒梅・故石本省吾蔵元に私はお会いしたことはありませんが、嶋悌司先生には久保田の発売半年前に初めてお会いし、その後私が平成三年に酒販店を離れるまで大変お世話になりました。
嶋悌司先生のことは何度もこのブログで書いていますのでここでは簡単にしか触れませんが、かなり怖い先生でしたが怒られることが分かっていても思わず寄って行ってしまう魅力のある面白い先生でしたが、今振り返ると、たとえお粗末だろうが能天気だろうが一生懸命酒に取り組もうとしている人間には本当に優しい方だった----------私個人にはそう思えてなりません。

新潟淡麗辛口の栄光は嶋悌司先生と共にありましたが、新潟淡麗辛口が創り出した栄光の光が強ければ強いほど創り出したた影も、残念ながら、小さなものではなかったのです。



4 早福岩男早福酒食品店社長(現会長)の存在は、『破壊』の面でも注目すべき部分も多々ありましたが、私自身は『再生』の局面のほうでの存在感が極めて大きかったと痛感していますし、「コロナ渦」というゲームチェンジャーがもたらす大変化の先であっても活躍出来る可能性まで未来の酒販店の店主に指し示しているとも感じてます。
むしろ早福さんは、『再生』をしようとしたために業界の常識の少なくない部分を結果として『破壊』せざるを得なかった---------そう言った方が実態に即した❝表現❞なのかもしれません。
その早福さんの❝考え方❞と嶋先生の❝問題解決の意識❞が出会うことによって、ご本人達も想像出来なかった規模と大きな影響力を持つゲームチェンジャーに新潟淡麗辛口は育ってしまったのです。

早福さんは当時108あった酒蔵の全てを訪ね、知らない知識を得るために醸造試験場に通いそこで嶋悌司先生と知り合ったことはよく知られています。
その辺のことを早福さんに尋ねると「俺は酒のことはよくわからん。俺が分かるのはこれだけだ」と小指を立てるのが常でした。
そのあたりの❝諧謔❞は若くお粗末で能天気な昭和五十年代初めの私には到底理解出来ないものでしたが、年を重ね当時の早福さんの年齢を越えた今の私には何んとなく理解出来る部分もあります。

今よりまだのんびりしていた時代だとしても、新潟県のすべての酒蔵を訪ね勉強に醸造試験場に通うなどの努力を支えた情熱は『仕事だとの意識』だけなら存在することはありえません。
ではその『情熱』を支えたのは何なのか、何がそれを可能にしたのか---------自分個人の『想像と意見』にしか過ぎませんが以下に書いていきます。


 

早福岩男早福酒食品店社長(現会長)は、❝商売の家の出❞であっても酒販店が家業ではなく一度❝跡継ぎの立場❞を嫌って若いころ❝家出❞をもされたこともある方が、なぜここまで『日本酒の世界にのめり込んだ』はある種の解き切れない謎として、今も私の中に存在しています。
『短期間の家出』として頻繁に新潟の蔵を訪ね、酒販店の三代目としてやる気もやりがいも全く持てなかった二十歳代前半の体験がある私には何となく分かる部分もあるのですが、それでも大部分は謎として残っています。

昭和五十年代初め新潟の酒蔵を訪ねる酒販店の中で私は、異例と言って良いほどの最若手でした------------なぜならこの時期に酒蔵で出会った酒販店の店主は一番若い人でも❝ひと回り以上の年上❞で、二十歳代前半は私しかいなかったからです。
この時期の月桂冠に代表されるナショナルブランド(以下NBと略)はイメージも実態も若い需要層にはまったく魅力的ではなく、その酒質も『清酒風アルコール飲料』と評されても仕方がないもので、さらに残念なことに大部分の地方酒(以下地酒と略)サイドはそのNBと比べてもイメージも実態も平均的な酒質のレベルもさらに下回っていたのです。
事実、二十歳でまだ学生だった頃の私は酒販店の跡継ぎの立場にも関わらず「日本酒は年齢の高い人専用の酒で、日本酒なんてものは二十一世紀は無くなっている」と本気で公言してくらいだったのです。
その私が業界を離れてまでなぜここまで❝日本酒の世界❞から離れらないのかを考えると、早福岩男早福酒食品店社長(現会長)がなぜここまで『日本酒の世界にのめり込んだ』かという謎の一端が見え始めてくるのです。

間違いなく早福岩男早福酒食品店社長(現会長)も商売の家の跡継ぎという立場とそれに付随している親が商売上培ってきた❝押し付けられた常識❞には反発していたはずです。
❝押し付けられた立場と常識❞が受け継ぐ人間にとって、楽しくも無く面白くもなく❝やる気の起きない仕事❞であることは自分の体験でも痛感していたことです。
どのようなことで新潟淡麗辛口と早福さんが出会ったかはは分かりませんが、押し付けられた立場と仕事には無い『面白さと楽しさ』に強く引き付けられたと想像できます。
早福さんが当時108あった酒蔵の全てを訪ねた動機には『酒蔵を訪ねることが楽しくて面白かった』----------商売上の差別化という面も多少はあったとしてもこの感情がほとんどを占めていたのではないかと思われるのです。

昭和四十年代後半当時、他の業界に比べ酒造・酒販業界(特に地方は)古く遅れていると言われも仕方がない状況にありましたが、同時に他の業界が失っていた古くから続く古き良き伝統も色濃く残っていましたがそれもいつまで残っていられるのか見通しがつかない状況だったのです。
色々な状況が絡み合って新潟淡麗辛口が誕生したのですが、商売の家育ちであっても酒蔵育ちでも酒販店育ちでもない、客観的に冷静に現実を見れる眼を持ちながらも古き良き伝統と文化を受け継いできた酒蔵が大好きで、全部は無理でも出来るだけ酒蔵に残って欲しいとの熱い気持ちを持っていた早福さんが存在していたことは、新潟淡麗辛口にとって❝大きな幸運❞であったことは誰かが否定しようとしても否定出来ない❝歴史的事実❞だと私は感じています。




早福さんは日本酒の伝統だけではなく受け継いできた❝遊び心の塊である文化❞を守り育てることにも熱心でした。
新潟市の古町に今もきちんと存在している花柳界のために出来る範囲での貢献を現在も続けておられます---------花柳界の踊りを撮影したDVDや写真集を私も何回か頂いています。
早福さんは守り育てることに熱心だったのは日本酒の伝統だけではなかったのです。

早福さんが行った❝再生❞は今の酒造業界も酒販業界も引き継いでいますが、残念ながら特に製販の地酒業界では、デットコピーを重ね続けてきた現在はかろうじて❝その形式❞のみが残っているだけで「なぜそうしたのかという❝動機と精神❞」の部分がまったく残っておらず、コロナ渦の中でエンドユーザーの消費者によって淘汰されかねない危機的状況にあると私個人には思われてならないのです。

まさに昭和四十年代後半の新潟清酒は、このまま何も手を打てなければ主な需要層である年配者が病気やお亡くなりにつれ❝縮小再生産❞という負のスパイラルに陥る未来しか見えない状況でしたが、ある種の奇跡とも言うべき「新潟淡麗辛口を実現させ成功させる要素」が、苦境の中でも揃いつつあったのです---------今にして思うとこのある種の奇跡も、時代によってもたらされ❝半歩先が見えていた方々❞に担われて実現したもので、残念ながらけして❝永続するもの❞ではなかったのです---------------。

嶋悌司先生を中心とした製造サイドと早福岩男早福酒食品店社長(現会長)の販売サイドも新潟淡麗辛口の開発には『逆転の発想』で臨んでいました。
何故なら『従来の発想や常識、秩序の順守』ではNBにも勝てず、エンドユーザーの若い消費者に相手にされないことを痛感していたからです。
「都会の若い人たちに飲んでもらえる日本酒とはどの様なものなのか」---------酒蔵や酒販店の都合とかをゼロクリアして従来の日本酒に否定的な消費者に納得し評価されるにはどう変えるべきか、酒造・酒販の❝半歩先が見えていた方々❞懸命に考え行動して初めて新潟淡麗辛口は誕生したのです。

『LIGHT&DRY』----------嶋悌司先生や早福岩男さんを始めとする方々の進むべき方向は決まっていました。
食生活が洋風化し重さやくどさを避ける方向が多数を占めていた若い世代に飲んでもらうそれしかありませんでしたが、その酒質はそれまでの新潟清酒とはまったく違うものでしたが、嶋悌司先生や早福岩男さん達には確信があったはずです。
その確信を支えた理由は、異端との批評・批判を受けながらもそれに屈せず造り続けた越乃寒梅・故石本省吾蔵元の淡麗辛口が都会の若い層の好評価を受けていたことと、一部の蔵元と嶋悌司先生を中心にした新潟県醸造試験場の努力により(今から見ると時代による幸運に揃えてもらった)協会10号酵母、新潟県開発による酒造好適米の五百万石によって可能になった低温発酵により造り出した市販本醸造酒が当時の吟醸酒なみの高いレベルの酒質を実現していたからです。

従来の新潟清酒と一線を画した淡麗辛口の販売の仕方についても既存の常識的売り方を破壊する必要がありました。
その中心にいたのは嶋悌司とも親しく当時の新潟の蔵をすべて訪れていて、酒販店としては一番❝酒蔵の内外❞を知っていた早福岩男・早福酒食品店社長(現会長)だと私自身は確信しています。
蔵元の立場に立てば新潟淡麗辛口への挑戦は、自身の酒蔵の現状を打破する魅力的な提案でしたがよりいっそうの技術的レベルの高さが必要なため原料、設備面でのコスト増が避けられず難しい面が多々ありました。
私個人の経験でも、良いものを造り出したいという意識は酒蔵には存在しており赤字スレスレでも造るという意欲も潜在的には存在していました。
しかし酒蔵側には「赤字スレスレで良いものを造ったとしても酒販店はそれを全量売ってくれるのか?売れなかった本数は返品するというような話なら絶対に乗れない」という酒販店側へ不信感も強く存在していたのです。
その不信感を払拭し酒蔵に動いてもらうためには、従来の常識を破壊した新たな売り方が必要でしたがそれが出来るのは酒販業界の❝常識の外側❞にいてなお且つ❝酒蔵の長所と欠点❞も理解しながらも、日本酒と日本酒を造る人達に深い愛情を持つ酒販店が存在することが絶対に必要だったのです。
そしてそのあり得ない酒販店の店主が早福岩男・早福酒食品店社長(現会長)だったことは、新潟淡麗辛口にも新潟の酒蔵にとっても幸運だったのです。

では早福岩男・早福酒食品店社長(現会長)が取った販売方法はどの様なものだったのでしょうか--------それは❝発想の逆転❞だったのです。

結論的に言うと、「酒蔵が全力(コスト、技術力の飛躍的増大も含む)で造った酒をすべて引き受けて売るにはどの様な仕組みが必要か」----------その視点から販売の仕方を❝組み立て❞た結果として、不本意な面や苦渋の決断があったと思われますが、従来の慣習や販売の常識を❝破壊❞し四十年以上たった今もなおその残滓が残る新たな販売方法を造り出し❝再生❞を図らざるを得なかったのです。


いろいろ忙しかったり春特有の体調のやや悪化も手伝い記事を書くのが遅れに遅れてしまいました。
この後新潟淡麗辛口が日本酒の❝再生❞を目指して実行した❝具体的手法❞を書いていく予定だったのですが、後輩などの❝身内❞から「更新が遅すぎる。いつ更新したか分からない」などクレームが多かったのでこの続きは、鶴の友について-6--NO2として早めにアップした上で同じように「長いブログのスタートです方式」ですべて書き終わらなくても書いた分だけ投稿していきますので、よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

                             

 

 

 

 

 

 



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