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新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

鶴の友について-5--NO3

2018-09-28 09:26:39 | 鶴の友について
 
 


思ったより書く期間が延びてしまい反省をしております。
記事を短く(私の基準ではですが)本数を多くと考えていたのですが“成功”はしていないようです。
出来るだけ本数を多く書いていくよう努めたいと思っています。

3月8~9日に新潟に行ってきました。
今回の同行者は鮨店・東屋の跡継ぎの光ちゃんとお馴染みのS高元研究員です。
1泊2日の予定なので8日の朝に出発し午前中に鶴の友・樋木酒造にお邪魔し、夕方瀬波温泉に移動し翌日朝から〆張鶴・宮尾酒造を見学させていただき午後に早福酒食品店・早福岩男会長のお話を伺った後に帰着-------というスケジュールでした。


 

午前中に蔵に到着した私達は、今回も、樋木尚一郎社長に蔵の中をご案内いただきました。
製造量の少ない鶴の友・樋木酒造は、温度が高かったため造りの入りを数週間遅らせた今シーズン(平成29BY)であってもこの時期には造りの終盤を迎えています。
杜氏歴16年樋口宗由杜氏(46歳)をトップに据えた鶴の友の酒造りチームには平成生まれのメンバーも存在し、文化庁の有形文化財に指定されている“歴史を積み重ねた重み”を感じる蔵の中で、“若々しく風通しの良さ”を感じされる“光景”を造り出しています。

 

 

有形文化財の蔵といえども私が最初に訪れた昭和五十年代から冷蔵設備は充実していました、なぜなら当時の吟醸酒のレベルを市販酒の本醸造で出来る限界まで実現させようというのが“新潟淡麗辛口のポリシー”だったからです。
最新鋭の冷蔵設備と比べると“古さ”は感じさせますが“蔵の外観”ほど古くはなく、鶴の友の酒質のレベルの高さが証明しているとうりの十分な能力を現在も発揮し続けています。
醸造量の差や蔵の規模の差による違いはありますが鶴の友や〆張鶴、千代の光のような“前進し続ける新潟淡麗辛口の蔵”にとって冷蔵設備は昭和五十年代初めから“必須”なのです。
今回も、少しでしたが、樋口杜氏にも“今シーズンの鶴の友”について伺うことが出来ました。
その後、樋木尚一郎社長の高校時代の同級生(某重工業OB)が定年後新潟に戻って開かれたお店で昼食をご馳走になり、ご近所の“名所”をご案内いただいた後の午後4時前に鶴の友・樋木酒造を後にし宿泊予定の瀬並温泉へ移動しました。

この樋木社長の同級生の方は“和服”を粋に着こなす茶人でもあり大変興味深い方でした。
現役時代は発電設備に使う大規模ボイラーなど取り扱う部署が長かったそうで、S高元研究員のかつての仕事と“かぶる部分”があり私にとっても慣れ親しんだ地元の大企業に関わる話だったので、時間を忘れるほど話が弾みました。
私の知る限りでも樋木尚一郎社長のお知り合いは魅力的な方が多いように思われますが、それも樋木尚一郎社長という存在ゆえなのかも知れません。
30数年前まるで“業界の未来が見える”ような“予言的な発言”を樋木尚一郎社長はされていますが、残念ながら、そのほとんどは現実になっています。
業界の多くの人がは否定し、私自身も否定したかったが否定できなかった業界自らにその原因がある“日本酒業界の危機”が、残念ながら間違いなく現実になっているのです-----------。

 

翌日宿泊した宿を8時過ぎに出発し8時20分ごろに〆張鶴・宮尾酒造に到着しました。
〆張鶴・宮尾酒造は、何回も書いているように、原則として関係者以外は見学は不可ですし関係者であっても蔵の内部は撮影禁止です。
上記の写真は、事務室と(醸造をするスペースという意味での)蔵の入り口の間にあった酒林ですが、宮尾行男会長の許可をいただき撮影しました。
この酒林を造るためには軽トラック1台分の材料(杉)が必要だったそうです。
2年ぶりの訪問ですが、いつもそう感じるのですが、宮尾行男会長の印象はあまり変わりませんが〆張鶴・宮尾酒造という蔵は常に変化しています。
今回も“川向う”の瓶詰め施設があるスペースに大型貯蔵用冷蔵倉庫が追加新設されていました。

1時間以上宮尾行男会長自ら蔵の中をご案内いただき懇切丁寧な説明もしていただきました。
その後事務室の反対側にある座敷で純のしぼりたて生原酒や宮尾行男会長が研究用に貯蔵しておられた“貴重な〆張鶴”を数種類試飲させていただきました。
数日前に栓を開けたという平成13BYの大吟醸も出していただいたのですが、私は本来の意味での“試飲”をしたのですが同行の二人は“試飲の解釈”が私とは大幅に違うようで、貴重な13BYの大吟醸がほとんど空になってしまいました。
4~5年前に平成元年BYの〆張鶴大吟醸を吟醸会で飲む機会があったのですが、残念ながら参加者が多かったため本当に試飲の量しか渡らなかったことがあるのですが、そのときの“敵を取とる”かのような勢いで飲み続ける二人の気持ちは分らなくはないのですが-------------。

〆張鶴の酒質は、誤解を恐れずに言うと、私は宮尾行男会長そのものだと思っています。
昭和五十年代初めから宮尾行男会長(当時は専務)の“根底”は少しも揺らいでおらず“印象”もまったく変わってはいません。
太平洋戦争時に国の政策で酒蔵が合併させられたのですが、戦後いち早く〆張鶴・宮尾酒造を分離独立させ独自の酒造りの環境を整えたのは故宮尾隆吉前会長ですが、その“土俵”で高い酒質を誇る〆張鶴の美味さを造り上げてきたのは宮尾行男会長だとしか私には思えません。
ありがたいことに私は約40年〆張鶴・宮尾酒造と宮尾行男会長に接する機会を与えられてきました。
“帰納法的”にあるいは“肌の感覚”でその年月の長さが、いくらお粗末で能天気な私であっても、理解させられざるを得ないことがあります。
宮尾行男会長は「穏やかで温厚な真面目な方」であることは日本酒業界に精通している方々にはよく知られた“事実”です。
“事実”ですが、鶴の友・樋木尚一郎社長とは形も質も違いますが、〆張鶴・宮尾行男会長の根底にも“頑固さ”が存在しています。
このブログの中でも何回も書いていますが、この“頑固さ”を見逃すと〆張鶴という蔵や酒を“本当に知る”ことが出来ない----------私の思い上がりの生意気な“感想”なのかも知れませんが、昭和五十年代初めから現在まで、そう感じてきました。
本醸造や純米の「どこも出ていないどこも引っ込んでいない、食べ物の邪魔をしないバランスの取れた美味さ」は酒の根底にある“芯の強さ”が支えているからこそ可能になるのです----------そして昭和五十年代より飲み続けているエンドユーザーの消費者に「〆張鶴・純か変わらないし飲みあきもしない」と言わせるのも“この頑固さ”があってのことなのです。

 

上記の写真は酒林のすぐ下に置いてあったもので、少し見にくいかも知れませんが向かって左から山田錦、五百万石、越淡麗が並んでいます。
各酒造好適米の特徴が分る貴重な“展示”だと思い、宮尾行男会長にお願いし撮影させていただいたものです。


数年前就職1年目の息子と一緒に〆張鶴・宮尾酒造にお邪魔したことがあります。
このときも宮尾行男会長は懇切丁寧に大改装が終わったばかりの蔵の中を案内していただき、その後座敷で貴重なお話を伺いました。
「純米酒を造るのは難しい。もっと美味くならないか、もっと良くできないかといろいろ“試験的な純米大吟醸”を造り続けてきてもこれで良いという酒にはなかなか出会えない」------------昭和五十年代初めから純米3悪(重い、くどい、しつこい)を“打破”し続けてきた〆張鶴・純を造り続けてきた宮尾行男会長の“言葉”は息子には強く深い“印象”を与えてくれたようです。

〆張鶴を代表する銘柄は昭和五十年代初めより〆張鶴・純でした。
その時代には純米3悪を打破した一線級の純米酒があまりにも少ないため、かなり早い時期より〆張鶴・純には“増産の要望”があり私も1本でも多くの割り当て増を切望した大勢の中の一人です。
この時代の吟醸酒のレベルを市販の本醸造で実現しようとしたのが新潟淡麗辛口のポリシーだったのですが、それを純米酒で実現させるのはさらに大きな困難が生じてきます。
本醸造の少量のアルコール添加はきちんと造られた淡麗辛口に“切れの良さと保管面の強さ”を与えてくれますが、アルコール添加の無い純米酒はすべての面でハードルが高くならざるを得ないのです---------もちろん「純米で造ることが主目的で美味さや飲みやすさが二の次三の次の純米酒」はそれなりにありましたが、「食べ物の味を邪魔しない切れを持つ飲みあきしない純米酒」は砂漠の中でダイヤモンドを探すような“希少な存在”だったのです。

いかに五百万石、協会10号酵母を使用しても淡麗タイプのきれいで切れの良い純米酒を造るのには困難があります。
そして純米酒には瓶詰め後の品質保持・保管の難しさもあり、“美味い純米酒”がエンドユーザーの消費者に届くのは“例外的な幸運”だったのです。
ではなぜ〆張鶴・宮尾酒造は〆張鶴・純を造りその酒質を維持し続ける(しかも少しずつであっても量を増やしながら)ことができたのでしょうか?
それはハード・ソフト両面で“造る環境”を出来るだけ向上させ続けてきたからです。
昭和五十年代初めから〆張鶴・宮尾酒造は蔵を訪れるたびに“蔵の何か”がいつも変わっていました。
宮尾酒造の道に面した入り口は今も昭和五十年代初めとその印象はほとんど変わってはいませんが、蔵の中は“別の蔵”と思うほど大きく変化しています。
私が最初行ったときと比べれば今は約3倍前後の醸造量になっていますが、平成に入って大増産をしてきた越の寒梅、八海山。久保田(朝日山も含む)と比較すると三分の一前後の数字でしかありませんが、一方で〆張鶴・純は精米歩合一つとっても60%から現在は50%に向上しています。
ふつう杜氏が引退して造りの体勢が変わった場合“何らかの影響”が酒質に現れるのですが、10年以上前の藤井正継杜氏の引退をそのときの〆張鶴・純からはまったく感じませんでした。
なぜなら昭和五十年代終わりより常に新潟清酒学校に社員を派遣し、1級、2級の酒造技能士の社員が長年藤井正継前杜氏と一緒に酒を造ってきたため前杜氏の引退の影響をあまり受けなかったからです。

鶴の友・樋木尚一郎社長は昭和五十年代前半に“現在の日本酒が置かれた状況”が見えていましたが(私自身がその当時伺ったとうりの状況になっています)、〆張鶴・宮尾行男会長も“違う角度の現在の日本酒が置かれて状況”が見えていました。
農閑期の農家の“出稼ぎ”に支えられた徒弟制度的な従来の越後杜氏が30~40年後に存在していてくれるのか----------それが社員杜氏・社員蔵人による酒造りという〆張鶴・宮尾酒造の“現在の体制”に繋がっているのです。
酒質を向上させ続けながら無理がない程度の増産----------それを可能にするために常に可能な限り“設備を新規投入・更新”をし酒造りの環境を向上させ社員杜氏・社員蔵人の能力と技術を向上し続けられる”仕組み”が絶対に必要になるのです。
以前に宮尾行男会長からこんなことを伺いました。
「蔵の中で使うバルブやポンプは普通の鉄のもの比較的安いのですが、錆びないようにとステンレスのものをオーダーすると10倍くらいの価格になってしまうので困るんですけどね---------」-----------私はその言葉が“象徴するもの”が〆張鶴・宮尾酒造の“凄さを感じさせる頑固さ”だと感じているのです。


 


〆張鶴・宮尾酒造のある村上市を昼前に出発し13時半に新潟市にある早福酒食品店に到着しました。
このブログを読んでくれて人には改めて説明する必要は無いと思われますが早福岩男会長の“本拠地”です。
私個人は昭和五十年代初めから何十回も訪れていますが、同行者と一緒に行くのは今回が初めてです。
早福岩男以前・以後---------という括りで語られるべき“酒販店の歴史のある部分”を変えた大きな存在だと私は思っています。
八十歳代半ばを迎えてもお元気な早福会長ですが“その成し遂げた仕事の凄さ”を正当には“評価”されていない-------私にはそう思えてならないのです。
そして早福会長の仕事の“成功”はよく知られていても、その“成功”のために払った“苦労と犠牲”はあまり知られてません。
私を含む早福会長に気にかけてもらった人間は、特に現役の酒販店関係者は、早福会長が何のためにあれほどの苦労をし犠牲を払って何を貫こうとしたかを“原点”に返ってもう一度真剣に考えることが、あるべき“将来の酒販店への姿”への遠回りのように見えても一番の近道だと私には思えるのです--------。

新潟淡麗辛口は昭和四十年代後半に『博物館に入りかけていた日本酒』を、昭和五十年代初めに当時の若い世代にとって身近な魅力あるに換えました。
現在の日本酒は現在の20~30歳代の若い層にはたして“身近で魅力的な存在”と思ってもらえているのでしょうか?
もし思ってもらえていないならば、私の世代前後のような昭和五十年代に日本酒のファンになった現在でも分厚い層が消える10~20年後に『博物館入りの危機』を再び迎えざるを得ないと思われます。
小手先の芸ではなく“真摯に若い層”に向き合わなければ製販の日本酒業界の将来は、きわめて個人的には残念なのですが、必ずしも明るいとは言えないのでは--------そう私には思われます。
鶴の友や〆張鶴、千代の光ののような小手先の芸ではなく“酒の本質”で勝負する酒蔵が一つでも多く増えて欲しい--------そう痛切に思う今日この頃なのです----------。
なぜならこのままでは甲東会に代表されるNBが、かつての新潟淡麗辛口のように、10~20年後『日本酒の博物館入りを防ぐ存在』になってしまうという“笑えない事態”が起きてしまう可能性があるからです------------。
昭和五十年代の地酒(地方銘酒)はNBのアンチテーゼであることがエンドユーザーの消費者に“価値”として評価され支持されました。
近い将来、エンドユーザーの消費者に身近でなく“自ら遠ざかる存在の地酒(地方銘酒)”のアンチテーゼとしてNBが“評価され支持される日”が訪れてしまうのではないかと危惧しているのですが、残念ながら、それは私一人の“杞憂”だとは思えないのです------------。




この記事も、いつものことながら、書き始めてかなり月日が経過しています。
その間に今回は予想もしなかったことが起きてしまい、なかなか記事に集中できませんでした(単に怠けていたとも言えますが)----------。
鶴の友の樋口宗由杜氏が違う蔵に移籍したり、自分の息子が入院したり、自分自身が体調を崩したりで思うようにいきませんでした----------。
そんな生活の中で先日郡山のH酒店H店主より残念な知らせが届きました-------尼崎の山本酒店・山本正和店主が亡くなられたとの知らせです。

私は山本さんとはH酒店H店主を通して知り合いました。
あることからよく電話させていただくようになりました、そして山本さんを通して大黒正宗という酒を知ることになったのです。
大黒正宗について--NO1という記事を書けたのも電話を通して山本さんに教えて頂いたことがいっぱい有ったからです。
あるいはかなりご迷惑だったのかもと今頃反省しているのですが、電話で長い時間いろいろなことを話し合いました。
早福会長も含め共通の知り合いのことや、山本さんが興味があっても直接知ることのなかった鶴の友や〆張鶴や千代の光、嶋悌司先生のことを中心にした久保田のことを私が話し、山本さんには大黒正宗や米百俵や関西の酒蔵や酒販店のことを主に伺いました。

北関東の田舎にいると、新潟に行くことと比べ、日程的にも費用的にも関西に行くのは負担が大きいため退職してからゆっくり行こうと思い山本さんとは一度もお会いすることが出来なかったのですが、今は“その判断”を後悔しています。
5年前に一度だけ山本さんと新潟ですれ違いました。
早福さんから山本さんが来ると伺い“時間が余っていた”私はお会いしたいと希望したのですが、早福さんが「山本は忙しいらしくおれの所にも着くのは夜になるらしい」と言われ断念したのですが(なぜさほどに忙しかったかは後日判明したのですが)残念なことでした。

早福さんの“哲学と実像”を良く知り、早福さんと同様に地元の酒蔵を大事に守りエンドユーザーの消費者に丁寧かつ親切にお酒の説明をし、豊富な体験がベースにあるワインの知識を駆使して消費者のお役に立っていた山本さんのような酒販店の店主はきわめて希少で一番求められていた存在だったので本当に残念です。
山本さん本当にありがとうございました、心よりご冥福をお祈り申し上げます。



















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