今年は短い間隔で記事をアップすることと記事そのものを“出来るだけ短く”することを目標にして書いていきたいと思ってきたのですが、この記事が今年最初という体たらくで、自分のことながら、きわめて残念な状況にあります。
遅まきながらですが今年の“方針”を少しでも実現出来るようにしたいと思っております。
昨年秋に吟醸会・五来稔光会長がお亡くなりになりました。
私は新潟の酒関係の方々に大変良くしていただき、その“後姿”を直接見させていただくという本当にありがたい“環境”で学ばせていただきました。
地元においては五来稔光会長が同様な“貴重な存在”で多くの方々に慕われていただけに本当に“残念な思い”を抱える人が少なくありませんでした。
それゆえ(吟醸会は数年前に100回で終了していたのですが)101回目の特別な吟醸会をとの声が高まり、2月13日に開催されることが決定したのです。
私やテルさんを含む吟醸会の古手のメンバー+五来稔光会長が他の場所で開かれ参加していた“○○吟醸会”のメンバーで故五来稔光会長を追悼する趣旨で開催されることになったのですが、そうであれば今回一番相応しい酒は〆張鶴・純の一斗樽であろうということで、久しぶりに〆張鶴・宮尾酒造宮尾行男会長に送っていただくようにお願い申し上げました。
(ちなみにこもはゴミになるだけとの思いから意図的に省いてもらいました)
五来稔光会長と〆張鶴・純の一斗樽との“縁”は昭和五十年代後半まで戻ります。
吟醸会もすでに立ち上がり順調に回を重ねていた時期なのですが、突然、「Nよ、次の吟醸会では〆張鶴・純の樽酒が飲みたい」------五来稔光会長の強い要望と言えば聞こえが良いが、実質的には“拒否出来ない命令”であり私は途方に暮れました。
なぜなら、樽に飲み口を付け『とくとくとく』という気持ち良い音とともに酒を取り出す“樽の文化”が酒販店や料飲店からかなり以前に姿を消し、この時期には酒樽は“鏡割りで飲む選挙の風物詩”と言ったほうが適切な存在になっており、全体として強い逼迫状況にあった〆張鶴・宮尾酒造は特に逼迫感の強かった純の樽詰めには極めて消極的だったからです。
それと同時に宮尾酒造サイドには更に大きな懸念がありました。
“樽の文化”が身近なものでなくなったため“樽の常識”を知る人がきわめて少なくなり、2週間以上もそのまま樽の中に酒が“放置され”木の香りしかしない酒になってしまい、値段が高い割りに(樽の代金が加わるためかなり割高になります)あまり美味くない--------樽酒に対してそんなネガティブな評価が”主流”だったからです。
宮尾行男専務(当時)のご懸念は私自身も十分理解出来ましたが、高校生のころから夜の巷に出没し樽の飲み口から取り酌む酒をその音とともに楽しんでいたであろう五来稔光会長がその雰囲気を若い連中に味わせてやろうとの気持ちも私は理解出来たのです。
幼いころのことでしたので、微かですが、私自身も実家の酒販店に樽が並び飲み口や飲み口取り付ける穴を開けるための三つ目の錐が置いてあった“風景”と飲み口から酒が出るときの“魅力的な音”を覚えておりどこか懐かしい思いもあったため、簡単では無いと感じつつも宮尾行男専務(当時)に率直にお願いし蔵サイドの“懸念”をひとつひとつ潰して〆張鶴・純の一斗樽を送って頂いたことが、昭和の頃から平成の現在まで酒は〆張鶴・純の樽酒のみの吟醸会を折に触れて開催してきた“始まり”になったのです。
おそらく五来稔光会長の“鶴の一声”がなかったら、北関東の住民の私達が〆張鶴・純の樽酒に親しみ“樽の文化”の楽しさ、面白さを実感させて頂くことは無かったと思われます。
35年以上途絶えずに20~30名が参加し続けた“酒の会”は、考えてみれば、かなり珍しく貴重な存在だったかも知れません。
一番あんこうが揚がる常磐沖の“あんこう鍋の本場”にいながら、昔の網にかかってしまった“余計な魚”から“高級魚”になってしまい捕った人の屋号のタグを付けられその90%以上が築地に送られてしまうあんこうは、残念ながら地元の人間も味わう機会は少ないと言わざるを得ません。
地元ではメジャーなあんこうの食べ方である“とも酢”やあんこう鍋、まぐろや白身魚やイカの刺し身、その他の料理がふんだんに並び酒は〆張鶴・純の樽酒--------誰が考えても、東屋のテルさんが定休日の1日を割いて吟醸会を開いても、5000円の会費でコストが合う訳がありませんしテルさんも儲けなどはなから考えていません。
難しい“能書きや講釈”も無く、来る者拒まず去るもの追わず、美味い料理と美味い酒をただ楽しむ、参加する人の年齢も職業もバラエティに富んでいて交わされる会話が笑い転げるほど面白い---------参加する側には“きわめてお得な酒の会”だったから続いたのかも知れませんが、それも五来稔光会長と義弟であるテルさんの存在なくしては吟醸会など成立しなかったのです。
以前に何回も書いたとうり吟醸会のメンバーのほとんどは“酒の能書きや講釈”には興味がありませんが、酒の面白さと楽しさはよく分かりそれを楽しむことが出来る人達です。
吟醸会がなければ、30年近く毎年のように南会津の蔵に仕込みを見るために通ったり、何十年も一緒に飲み歩いた仲間と(実は)日本酒の好みが正反対であったことに気が付きお互いにお互いを“貶し合って”楽しんだり、酒を酒単体で見るだけでなく“料理を邪魔するか引き立てるか”を自然に基準の一つになり、自分の好みのタイプの酒を理解した上で日本酒の酒質の幅の広さと奥行きの深さを楽しむ---------“酒のマニアや酒の通”ではない酒と料理を自然に楽しむ人達は存在しなかったかも知れません。
私の親しい後輩の酒販店は、まるで相談し合ったかのように、私の酒についての話は「“比喩”がうまくて説明が分かり易い」と言っているようです。
「その“比喩と説明”をそのまま頂いて使わせてもらっています」-------面と向って私自身に言い私を苦笑させる後輩も少なくありません。
確かに現在でも酒について話をしたとき“分かり易いし面白い”と感想を述べてくれる人が多数を占めます。
特に吟醸会以外の方々から(年齢はバラバラですが)その様な感想を頂いています------日本酒に関心や興味が無かった人ほど「酒ってこんなにも面白くて楽しいものだとは思ってもみませんでした」と言ってくれる方が多いように感じています。
このブログの記事で何回も書いていますが、酒蔵が何を考え何をしようとしているかを消費者の分かる言葉に“翻訳”して伝え、消費者の要望や素直な感想を酒蔵の分かる言葉に“翻訳”して伝える-------酒販店は酒蔵と消費者を繋ぐインターフェイスのような存在で、酒を造る酒蔵とその酒を最終的に買ってくれるエンドユーザーが存在しなければ酒販店という業態は“成立”しないのです。
思い上がりかもしれませんが、酒蔵とエンドユーザーの消費者を繋ぐ役割を担う立場なのに「酒蔵の考えや立場、消費者サイドの視点への配慮が少し足りない」酒販店が地方名酒(地酒)を“看板にする酒販店”ほど目立つように私には思えてなりません。
一方酒蔵サイド、特に吟醸や純米吟醸・大吟醸の販売に“傾斜”している酒蔵もエンドユーザーの消費者を見ている“視野が少し狭くなっている”ように私には感じられます。
全国新酒鑑評会の金賞や雑誌などの主催で行われる日本酒コンテストの上位入賞酒を追いかける“マニア・酒の通とい言われる消費者の層”は、日本酒の需要層全体に比べると、極めて“薄い需要層でしかない”と私にはそう思えてなりません。
鶴の友・樋木酒造は、全国新酒鑑評会の金賞や越後流酒造技術選手権で1位(25BY)、関東信越国税局鑑評会最優秀賞(28BY)--------数々の“大吟醸の成績”で地元の新潟市の酒飲みに愛され評価されている訳ではありません。
もちろん市販されている上々の諸白(大吟醸ですがレッテルには大吟醸とは“書いてありません”)は720ml瓶しかありませんし、数量が極めて少ないのですが本当に美味い評価の高い大吟醸です------しかし地元新潟市の庶民の酒飲みを“幸せ”にしているのは鶴の友で一番安く2000円以下で買える上白1.8l(レッテルに本醸造とは書いてありませんが本醸造です)のレベルの高さなのです。
残念ながら、昭和の終わりごろ比べ日本酒のシェアは低下しています。
昭和四十年代後半に日本酒全体が、「大事な需要層であるエンドユーザーの消費者の方に顔を向けず、時代の流れの変化も知ろうともせず、従来どうりの手法やコストや生産性など自らの要因を優先したため博物館入りの危機」に陥り、生き残りを賭けて「エンドユーザーの消費者、特に若い層に飲んでもらえるために製販の常識を破壊して生まれた“新潟淡麗辛口の存在”」が無ければ現在の日本酒はもっとシェアが低くもっと存在感が小さいものになっていた-------私個人にはそう思われてなりません。
昭和五十年代初め、私は意図せぬ偶然の連続で“日本酒ルネサンス”とも言われる新潟淡麗辛口の展開に参加することになり、当初、〆張鶴、八海山、千代の光を取り扱いさせて頂き(後に久保田も)、取引は無いものの鶴の友・樋木尚一郎社長にもお話を伺い、悪戦苦闘しながらも同世代の消費者に日本酒の魅力を分かってもらうための戦いを継続し続けていたのです。
“酒のさの字も能書ののの字”も知る時間も無く、結果として新潟淡麗辛口の“最前線の蔵”に飛び込んでしまった私は、比較的ですが、元々“専門用語”を多用する酒の説明はしていません--------特に最初のころは試飲を中心にすえNBと新潟淡麗辛口との“違い”を分かってもらうことに力を入れていたからです。
しかしその私でも、「精米歩合、粕歩合、酒造好適米、協会酵母などの“専門用語”」を自らは意識することなく使っていることを、五来稔光会長始め“庶民の遊びの達人”に指摘され手も足も出ずに“撃沈”されるのみだったのです。
この先輩方は“庶民の酒飲み”としては年季の入った人ばかりで、生半可では新潟淡麗辛口の“魅力と価値、面白さと楽しさ”を認めてはもらえません。
どうしたらこの方々に分かってもらえるのか、認めてもらえるのか“吟醸会という舞台”での試行錯誤が始まったのです。
何回も記事に書いていますが、今振り返ると、新潟淡麗辛口との出会いと同様に東屋のテルさんや五来稔光会長始め吟醸会の出会いは私にとって“偶然の姿をまとった幸運”と改めて痛感しています。
その後私は酒蔵に行ったときに酒販店としての視点だけではなく「自分がエンドユーザーの消費者ならどう思うか?」という視点も持つようになったように思えます。
「酒販店の自分がエンドユーザーの消費者の自分にどの様に説明すれば納得してくれるか」----------それを常に頭に入れながら酒蔵や蔵元や杜氏に接し、自分の店に来てくれるエンドユーザーの消費者や吟醸会の方々と話すことが当たり前になっていったのです。
エンドユーザーの消費者や吟醸会の皆さんに納得してもらえる“説明”が出来るためには、自分なりに納得し理解していることが必要になります。
私は出来る限り酒蔵に足を運び「見て分からないことは蔵元や杜氏に質問する」ことを続けました--------自分自身が“肌の感覚で理解”出来なければエンドユーザーの消費者に伝え納得してもらえることなど出来ないと思ったからです。
〆張鶴の故宮尾隆吉前会長、宮尾行男会長、千代の光・池田哲郎社長、鶴の友・樋木尚一郎社長、そして早福酒食品店・早福岩男会長に“レベルが低いが素直な私の質問”を受け止め続けていただき、後に久保田発売前に嶋悌司先生に「ビビリながらも疑問をぶつけるという“暴挙”」に繋がっていくのです。
徐々に私は“自分の言葉”で酒や酒蔵を話すようになっていき、専門用語のかわりに“比喩と例え”を多用した普通の言葉で話すのが“自然”になりました。
すると不思議なことにいつの間にか私の周囲には“酒のファン”が増え、吟醸会の方々も「ぜひ酒蔵に行ってみたい」との要望が強くなり最近まで毎年のように南会津の国権に造りの見学に行くのが恒例行事になり、「こうしたらもっと面白いのではないか、楽しいのではないか」--------段々やることがエスカレートし、結果としてやっていることのレベルも向上してしまったのです。
〆張鶴・純の樽酒もそのひとつですし、昨年お亡くなりになった国権の細井冷一会長に吟醸会に来ていただいたり、久保田発売後に地元のホテルで開催した酒の会に講師として嶋悌司先生に来ていただいたり--------いま振り返っても面白く楽しい思い出にあふれているのです。
私は平成3年に業界を離れ会社員になったのですが、ありがたいことに、新潟淡麗辛口の蔵との人間関係は今も続いています。
そして現在も私の周囲には“薄からぬ酒のファンの層”が存在しています。
しかし日本酒の世界を俯瞰で見たとき、全体としてもですが特に地方銘酒(地酒)の蔵に、私個人は強い危機感を感じざるを得ないのです。
そして日本酒、特に地方の酒蔵が現在置かれている状況は昭和四十年代後半より厳しいだけではなく、新潟淡麗辛口のように“日本酒を再浮上”させる存在が見当たらない----------恐ろしいほどごくふつうの若い需要層に日本酒の足場がほとんど無い危機的状況だと私には思われてならないのです。
昭和四十年代後半とは違い現在の月桂冠に代表されるの大手メーカー(NB)は酒質も向上させ、安いパック酒もあれば本醸造もあれば純米もあるし吟醸や純米吟醸もあり、山廃酛、生酛まで存在します。
多少“ピント外れのような商品開発”もたまに目にしますが、あらゆる世代のエンドユーザーの消費者(言い換えれば庶民の酒飲み)の嗜好にあった商品を開発し送り出そうという“意思”がNBに強く存在していることは誰もが感じられると思われます。
一方、地方の酒蔵(地酒)サイドはどうでしょうか?
全国新酒鑑評会の金賞や雑誌などの主催で行われる日本酒コンテストの上位入賞を糧に吟醸や純米吟醸・大吟醸の販売に“傾斜し、注力し”、一番大事なエンドユーザーの消費者(言い換えれば庶民の酒飲み)への対応が後手に回る酒蔵が、コンテストの常連や雑誌などで有名な酒蔵に多いように私個人には感じられます。
私は昔から酒蔵を見るときは、必ず、その蔵の一番価格が安い酒と吟醸または大吟醸の両方を見るようにしていました。
一番安い酒はその蔵の“下限のレベル”が計れ吟醸・大吟醸は“トップエンドの酒質”が計れるからです。
鶴の友で一番安い上白のレベルは極めて高く、2000円以下はもちろんのこと2000円台でも上白のレベルを上回る酒を探すのは簡単なことではありません---------この上白の美味さとレベルの高さが上白以上の価格の鶴の友(上々の諸白も含む)の美味さとレベルの高さを“担保”しています。
しかし大吟醸が全国鑑評会で金賞を受賞しようがコンテストでトップであろうが、必ずしもその酒蔵の一番価格の安い市販酒の美味さは“担保”されている訳ではありません。
もし市販酒が月桂冠に代表されるNBの方が美味いとエンドユーザーの消費者に思われる状況になったとしたら、いくら吟醸・大吟醸で評価される蔵であっても市販酒が美味いと評価されなければ地方の蔵(地酒)の未来は明るくない--------なぜなら吟醸・大吟醸より市販酒を飲んでいる消費者の人数のほうが圧倒的に多いからです。
そしてかつて『日本酒の博物館入り』を防いだ新潟淡麗辛口が、吟醸・大吟醸もその一翼を担っていたが、NBを寄せ付けない高い酒質とリーズナブルな価格の本醸造や純米が日本酒のファンになってもらえる“最大の武器”になったことを自分自身が体験しているからです----------。
今日本酒を支える一番分厚い層は、昭和五十年代初めから長い年月を掛け少しづつ増えてきた、現在65歳プラスマイナス5歳の層です。
しかしこの年齢層の人達はあと5~10年で“酒を楽しむ層”からの引退は避けられません。
私の周囲でも自他ともに認める“日本酒好き”が大病を患ったため飲めなくなった例が少なくないのです。
まだこの層が存在しているうちに日本酒業界全体、特に地方の蔵(地酒)が『第二の日本酒ルネサンス』を興さなければ日本酒のシェアがさらに低下し地方の蔵が大打撃を受けるのではないかという強い危機感を『日本酒ルネサンス』を実際に体験してきた私は持たざるを得ないのです-------------。
そしてその危機感が、最後のご奉公として(思い上がりかも知れませんが)『何らかの形で業界に復帰』するべきなのだろうか---------という気持ちをも少し造り出しているのです---------------------。