日本酒エリアN(庶民の酒飲みのブログ)gooブログ版  *生酛が生�瞼と表示されます

新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

長いブログのスタートです-- 2009アップデイト版分割再掲1

2014-10-22 16:16:10 | インポート

OCNブログ人終了(11月30日まで)のためGOOブログに移行する準備
のため文字数の制限でカットされる記事を分割して再掲します。






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この長いブログのスタートです--2009アップデイト版は、当初は日本酒雑感--NO10として書き始めたものでしたが、書いているうちにその長さも内容も私が一番最初に書いた「長いブログのスタートです」に近いものになってしまったため、記事の名前を途中で変更したものです。
そのためもともと長い記事が多い、私の書いたものの中でもきわめて長いものになってしまっています。
あえて読んでくださる少数の、私にとって大変ありがたい方々には、大変申し訳ないのですが、「とんでもなく長いこと」をご了承いただきたいとお願い申し上げます。

周囲の人間にも指摘され自分でもそう思うのですが、鶴の友についてシリーズ、日本酒雑感シリーズも一番最初に書いた「長いブログのスタートです(2005年8月)」の延長上にあり、その範囲から出ていないような気がします。
もちろん、「長いブログのスタートです」から4年弱が経っていますので、さらに詳しく書いたりアップデイトされた部分も少なくないのですが---------。

自分でも苦笑してしてしまうのですが、私自身の日本酒に対する”考え方、感じ方”は、30年前も現在もあまり変わっていないのかも知れません。
良くも悪くも私自身も”頑固”なのかも知れませんが、日本酒業界の人間としての”主観的見方”の前半と、エンドユーザーの消費者としての”客観的見方”の後半---------このふたつの立場を経験したための”後遺症”とも言えるのかも知れません。

日本酒業界の人間は(酒造も酒販も問わず)、日本酒を意識して客観的に見ようとしても、それには限界があります。
一方、エンドユーザーの消費者の立場でもやはり知れることには限界があり、日本酒(酒造・酒販)の”現場”を本当に知る機会はあまりないのです。

業界の人間としての私は、酒販の”現場”を十数年に亘って体験してきました。
まだ新潟淡麗辛口が知られていない、生酛にいたっては業界の人間にすら忘られかけていた昭和五十年代前半という”タイミング”と、〆張鶴、八海山、千代の光、國権、伊藤勝次杜氏の生酛という銘柄と、早福岩男早福酒食品店社長(現会長)、鶴の友・樋木尚一郎社長に代表される人によって”構成された環境”を与えられた私の”酒販の現場”は、今考えてみても、かなり恵まれたものでした。
しかし、かなり恵まれていたということは、”楽だった”ということを意味してはいません。
忙しく動き回ってうちに、ふと気がついたらジェットコースターに乗っていたようなもので、むしろ”楽ではなかった”と言ったほうが当たっているかも知れません。

偶然に次ぐ偶然が造り出した”流れの結果”、(特に最初のうちは)例えて言うと、運転免許取立ての若葉マークの私がいきなり鈴鹿サーキットを走ってみろと言われたようなもので、ストレートでもスピン、コーナーでもスピン、ブレーキを踏んでもスピン、シフトチェンジをしてもスピン------------今思い出すと自分でも冷や汗が出る、まったくとんでもないものだったのです。
「何でこんな破目になってしまったのか」と、おそまつで能天気だった私が後悔したのは一度や二度ではありませんでした。
しかしそれでも”逃げ出さなかった”のは、新潟淡麗辛口そのものの魅力とともに、新潟淡麗辛口に関わる人達の”人の魅力”に強く惹かれたからだと思うのです。
今振り返ると、私にとって本当に大きくありがたいことだったのですが当時の私は、不埒にも、
「何で自分がこんな目に遭うんだ」と不満たらたらの気持もかなりあったのです。

「他のことは当てにも頼りにもならないが、Nよ、お前は日本酒のことだけは首尾一貫してぶれなかったなぁ。 他のことでもそうだともう少しマシな男になれたんだがな-----」
褒められているのか、貶されているのか判断が”微妙な表現”で吟醸会のメンバーや友人に言われ、「日本酒のことの一割でも熱心にやってくれたら-----」と妻にも息子にも、私はよく言われています。

新潟淡麗辛口に出会っての1~2年の間の私は、鈴鹿サーキットをどう走ってもスピンの連続で、その結果少々のスピンでは”驚かなくなった”若葉マークのドライバーのようなものでした。
スピンしても”命に別状が無かった”のは周囲のおかげですが、スピンし続けるのも”物心両面”で本人にとっても楽ではなかったのです。
いくらおそまつで能天気な私でも、できればスピンはしたくないので、スピンしないで走れる方法を諸先輩に聞きそれを実際に走って試し、それでもスピンしたらさらに聞きまた実際に走って試し、それを私は繰り返したのです--------そうしているうちにいつの間にかスピンする回数が少しずつ減ってきたように思えるのです。
聞く相手は、もちろん〆張鶴の宮尾行男専務(現社長)・宮尾隆吉社長(故人)、八海山の南雲浩さん(現六日町けやき苑店主)、千代の光の池田哲郎常務(現社長)が多かったのですが、中でも酒販店の大先輩である早福岩男早福酒食品店社長(現会長)は私にとってきわめて大きな存在でした。

早福岩男さんに私は、”幼稚園レベル”の初歩の初歩から「酒を売ることの意味」を教えていただきました。
早福さんに接したことのある人が等しく感じるように、早福さんはきわめて魅力のある優しく大きな、そしてとても気さくで面白い方です。
以前にも書いたとうり、私は〆張鶴・宮尾隆吉社長(故人)の紹介で早福さんを訪ねたのですが、その〆張鶴や取引を始めていた八海山のことさえ”ろくに知らない”私に、早福さんも”困惑”されたと思われます。
控え目に考えても当時の早福さんは、原子力空母のような大きさと存在感がありました。
それに比べ私は、最大限の拡大解釈をしても、せいぜい”ゴムボート”でした。

現在の私が思う早福さんの最大の”凄さ”は、ゴムボートを”萎縮”させないために、ご自分の原子力空母のような巨大な存在感を、FRPのボートのレベルまで”矮小化”し接してくれたことだと思うのです。
その結果、実際には桁が四つも五つも違う差があるにも関わらず、努力すればいつか私にも手が届きそうな”差”に思え、軽妙洒脱な早福さんの話を聞いているうちに”萎縮”するどころか元気と希望が”湧いてくる”のです。
その状況は物理的にも精神的にも”心地良い空間”で、離れがたいものがあります。
実際には”巨大な差”が存在しているにも関わらず、まるで早福さんのふところに抱かれているような”短刀の間合い”では、その”巨大な差”を意識することなく「親しみを覚える近い関係」と思えてしまうのです。
今の私には、それが早福さんのふつうでは有り得ない”凄いところ”であり、ふつうのレベルでは有り得ない”優しさ”だと感じられてならないのです。

早福さんとの間に存在した”短刀の間合い”は、酒について何も知らず何も分からない私にとって、本当にありがたい”心地良い”ものでしたが、幸か不幸か私はまるで違う”間合い”も同時に見ていたのです。
その”間合い”は、ある意味で”短刀の間合い”と対照的なものでした。

その”間合い”とは、

  1. 早福さんにお会いする前に、私は〆張鶴、八海山との取引を開始しており、蔵の視点で見た”新潟淡麗辛口像”を聞かせていただく機会があった。
  2. 早福さんにお会いした直後に、池袋甲州屋酒店・児玉光久さんにお会いし児玉さんがその中心にいた「M会」の酒販店の皆さんの、早福さんとはまったく違う”地酒の売り方”を見せてもらう機会があった。
  3. 新潟に行き始めた1~2年後に、私に限らないのでのですが”短刀の間合い”の心地良さの中で勘違いしがちな、「原子力空母と自分はそんなには大きな”差”がないのだから、そのうちヘリ空母くらいにはなれるか」--------私のおそまつで能天気な”思い上がり”を、好意的な思いやりの気持から容赦なく徹底的に叩き潰してくれた、鶴の友・樋木尚一郎社長との出会いがあった。

1~3が造ってくれた、”短刀の間合い”より少し後ろに下がったためその背景も含めてやや全体が見やすい、”槍の間合い”と言うべきものだったのかも知れません。
この”槍の間合い”は、原子力空母がゴムボートに近いところまで”矮小化”してくれるなど考えられない、ゴムボートはゴムボート以外の何者でもないことを思い知らされる”間合い”だったのです。

同時に存在した”短刀の間合い”、”槍の間合い”の間で、混乱しながらも「日本酒の”にの字”も知らなかった」私はせめて”にの字”くらいは分かりたいと走り回ったのですが、それはさらなる”混乱と忙しさ”を造り出したのです。

その間の数年は、〆張鶴や八海山、千代の光そして早福さんへは年間4~5回は行き、鶴の友・樋木尚一郎社長のお話も伺い、その他にも「M会」関係の集まりに参加したり甲州屋酒店・児玉光久店主に会いに行ったり、取引をしていない蔵を訪ねたりと忙しい日々を送ったのですが、動けば動くほどその”混乱”は増し、その一方自分の店では「売る本数より投げる本数のほうが多い」状態が続き、動けば動くほど単に忙しいだけではなく”スピン”の回数が増える--------という状況になっていました。

この”混乱”の数年はの経験は、どうやら私にとって「絶対必要な体験」だったようです。
大スピンを繰り返しながら、ラリーに例えてみると、ターマック(舗装路)だけではなくグラベル(未舗装路)でもコーナーを派手な四輪ドリフトで大きくスライドしながら走っていく運転は、能力も無く感性にも恵まれていない私には向いておらず、基本で原則でもあるスローイン・ファーストアウト、アウト・イン・アウトを守り、極力スライドをしない走りのほうがどうやら私には向いていることを、”その数年”で感じるようになったからです。

言い換えればその数年は、”槍の間合い”から早福さんのとられた”売り方”を眺める作業のために「絶対に必要な体験」だったとも思われるのです---------なぜなら、早福さんだけではないいろいろな人の、「こうしたほうが良い」というご好意でアドバイスしてもらったことを素直にやってみる中で、早福さんの”売り方”が自分にとっても「原則を守った自然なもの」であるように感じるようになっていったからです。
しかし、「原則を守った自然な考え方」だと分かることと、それを実行することの間にはきわめて”遠い距離”があり、それが自分にとって自然なものになるにはさらに”もっと遠い距離”があることを、残念ながらこの時期の私は、あまり分かってはいなかったのです。

それでもこの数年で私は早福さんの”売り方”が、その根幹にある考え方をほんの僅かしか理解できなかったにせよ、”方法論”として自分にとっても合ったものだと実感し”迷い”が少なくなっていったのです。

「絶対に必要な体験」の数年を過ごした後は、混乱も収まりつつあったことが店の”営業”にも好影響を与え始めていました。
時間の経過が味方になったこともあり、〆張鶴や八海山は”投げる本数”がほとんどなくなり新潟淡麗辛口の存在は私の店にとって、残念ながら、店を支えるほど大きくはありませんでしたが、”特徴”として周囲のエンドユーザーの消費者に知られ始めていました。
しかし”特徴”はそれ以上でもそれ以下でもなく、直接の売上や利益にはあまり貢献していなかったのですが、たとえ少数のエンドユーザーの消費者であっても”認知”され始めていたいたという事実は、今振り返ると大きなものだったかも知れません。
私自身の”実感”では、最初の1~2年同様”苦戦”し続けているのには変わりはなく、売れる本数の数字の桁がひとつ増え”道楽の範疇”を超えてしまったため、”苦戦の度合い”が拡大していると感じていたのです。
しかしおそまつで能天気な私もほんの少しは”成長”していたのか、このころ早福岩男さんの姿が最初のころとは”違って”見えるようになり始めていたのです。

最初のFRPのボートから、モーターボート、そしてそれがクルーザーになり駆逐艦の大きさに見え次には巡洋艦にと、時間が経てば経つほど自分との大きさの”違い”が見えてきました。
ある意味で大スピンの中でも一番目立つ大スピンと言えた、伊藤勝次杜氏の生酛に関しての”自分の仕事”を終え、嶋悌司先生の”最後の仕事”の久保田に参加していくころには、はっきりと原子力空母の”船体の大きさと舷側の高さだけ”は実感していたと思われます。


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