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のため文字数の制限でカットされる記事を分割して再掲します。
久保田の発売は、新潟淡麗辛口の”戦い”を全国に拡大する結果をもたらしました。
その台頭は海戦に例えると、関東という”海域”から日本全国という”大海域”で戦いが始まったことを意味しています。
私は、その大海戦の中心戦域から遠く離れた戦域の半径20~30kmの海域で、ただ一隻で対空・対艦・対潜戦を戦っていました。
このころの私は、最大限の拡大解釈をすると、フリゲートといったほうが正しい護衛用の小型駆逐艦程度の存在だったかも知れません。
小型駆逐艦の割にはシースパロー(短距離艦対空ミサイル)、ASROC(対潜ロケット魚雷)、ハプーンSSM(艦対艦ミサイル)の高性能兵器に例えられる、〆張鶴や八海山を”装備”していても小型駆逐艦のためかなり無理して積み込んでも、その”装備弾数”には悲しいほどの限界がありそのすべてを打ち尽くし、残るは艦載砲のゆえに搭載弾数が比較的多い対空・対艦両用のOTOメララ3インチ砲(久保田)のみ-------という状態で”苦戦”しながらも与えられた海域を守ろうと、ぎりぎりの”戦い”をしていたと思えるのです。
守りきれるか、守りきれないか先の見えない局面でも”何とか”戦い続けられたのには二つの理由がありました。
ひとつは、十年に近い「大小のスピンの連続」の経験のおかげで、「失敗に近い状態」でも私が驚かなくなっていたこと、ふたつめは小型駆逐艦には”分不相応な”リンク11・14というデータリンクの装置を持っていたため、新潟連合艦隊が各海域で各艦隊、各戦隊が勝利を収めつつある情報をリアルタイムで得ていたこと---------それが”戦い”を継続できた大きな理由だったのです。
今振り返るとこの時期の私は、あらゆる面で”苦戦状態”で小型駆逐艦である自分自身の限界を思い知らされていたのですが、それでもきわめて遅いスピードであっても少しずつ”成長”していたのかも知れません。
この時期私は久保田の展開に参加していたため、大変ありがたいことに、嶋悌司先生と直接個人的に接する機会が得れるようになっていました。
(以前にも書きましたが、私は、嶋悌司先生には個人的にも大変お世話になりました)
そのことも手伝い、私は早福さんに会うたびに、そのたびごとに早福さんの姿が”違って”見えました。
言い換えれば、ゴムボートの”積載量”の限度のぎりぎりまで見せてくれていた「早福さんの姿」を小型駆逐艦の”満載排水量”の限度一杯まで見せてくれるようになった---------この”経験”が以前に書いた、「早福さんは、早福さんを訪れる人にとって、自分自身が映る”鏡のような存在”だ」という言葉の私なりの”裏付”なのです。
私は、新潟淡麗辛口の”大攻勢の成功”のデータがリアルタイムで流れてくるリンク11・14以外の、データリンクも維持していました。
その中で最大で最重要なのは、鶴の友・樋木尚一郎社長とのリンクでした。
そのリンクは、新潟淡麗辛口の”成功の兆し”を送ってくるリンク11・14とは、ある意味で”別次元のはるか遠く”を見据えたものでした。新潟淡麗辛口の大攻勢が、成功の兆しが十分にあっても成功したとは言えない時期に、
そのリンクは「大攻勢が成功した後の状況」を的確に”予言”したものだったのです。
その”予言”は否定したいものだったのですが、残念ながら、私自身も否定しきれない”予言”だったのです。
現状でも小型駆逐艦の”能力不足”を痛感していた私は、もし”予言どうりの状況”になるとしたら、それでも今の海域で存在し続けるためには、できるかできないかは別にして私自身を小型駆逐艦から大幅にグレードアップする必要性を痛感したのです。
そのグレードアップとは、艦船に例えると、単独航海能力と戦闘能力を増強するため基準排水量5000トン以上の大きさを持ち、武器の搭載数を飛躍的に増やしながらリアクションタイムを向上させるために垂直発射ランチャー(VLS)を搭載し、その能力を活かすためFCS-3Bクラスのレーダー・射撃管制装置を持ち、SH-60Bクラスの哨戒ヘリコプターを2機搭載し今より広い海域で単独でも戦え、空母機動部隊の随伴護衛艦としても対応できる汎用大型駆逐艦レベルを目指すことでした。
そのグレードアップが以前から必要であることは私なりに分かってはいましたが、”対内的な摩擦”が激化することを恐れたため踏み切れなかったのです-----しかし、たとえ対立が決定的になったとしてもやるしかない状況になっていました。
そのグレードアップはある意味で成功し、別な意味では失敗したと言えました。
だんだん目標に近い線での戦いができるようになり、「やれるかも知れない」と思えるようになったのは成功と言えましたが、”対内的対立”が想像以上に決定的になり私が実家を出て”日本酒業界”を離れることになったのは失敗と言えました。
しかしそれも、私にとっては”必要な失敗”だったのかも知れません------今の私にはそう思えています。
対内的摩擦やしがらみも無く、対外的にも日本酒業界の一員としての”政治的立場”も必要無く、自分の店を守るための”配慮”も必要なく、(あくまで個人の意見にしか過ぎませんが)自分自身の日本酒に対する”本音”を自由に話せるようになるためには、この失敗は私にとって”絶対に必要な失敗”だった--------ほろ苦く思う部分もあるのですが、私はそう感じてきたのです。
もちろん現在の私にも”摩擦やしがらみ”、”配慮や我慢”も当然ながら十分に存在しています。
平成三年以降日本酒についてだけはそれがあまりなくなった------ということだけに過ぎないのですが、当初の1~2年は弱くはない”寂しさ”と同時にある種の”開放感”も感じていたのは事実でした。
「たぶんもう日本酒とは関わりを持たない人生になるだろう-----」と、かなり本気の”悲壮な覚悟”をしていたはずの私が、現在の”位置”まで入り込んでしまったのにはふたつの理由があったのです。(これも以前に書いたことですが-------)
- ひとつめは、〆張鶴の宮尾隆吉前社長の訃報をお聞きし、遅ればせながら新潟に三年ぶりに行き新潟の皆様の変わらぬ暖かいお気持に接しさせていただき、「自分がそれを失ったら自分ではなくなる」と思っていることの多くが”日本酒の世界”によって造られていたことを、改めて実感したこと。
- 現役の酒販店のときより”距離”が縮小して、直接お会いする機会も電話でお話する機会もはるかに多くなった鶴の友・樋木尚一郎社長の、”予言”そのものと”その予言がでてくる源泉”をより深く知りたくなったこと。
- ふたつめは、エンドユーザーの消費者としての私が、日本酒については、きわめて例外的で非常に恵まれていることを、残念ながら改めて強く実感したこと。
ふたつめはある意味で強い衝撃を私に感じさせたのです。
自分が十数年かけて、周囲に薄くはないと思える「日本酒の面白さと楽しさ」を理解してくれている層をある程度は造れた-------そう私は思い込んでいたのですが、エンドユーザーの消費者の”庶民の酒飲み”全体から考えると、その層は紙一枚のような薄さしかなかったのです。
私や私の周囲にいた人達にとって当たり前のことが当たり前ではなく、当然知っていたり実際に体験できていることを、知る機会や体験できる機会がない人達のほうがエンドユーザーの消費者の圧倒的なほどの大多数を占めている-------日本酒業界にいたときには目に入っていなかった”当然の事実”を改めて痛感させられたからです。
しかし同時に、その大多数の中に知る機会や体験する機会さえあれば、”無関心や否定的見解”から180度変って「日本酒のファン」になってくれる人達が存在していろことも知ることになるのです。
「日本酒ですか? あのツーンとくる熱燗の匂いがどうも苦手で-------」
私にとっては、”根本的誤解”としか思えないことが”大多数の常識”だったのですが、
「本来の酒の香りはとても良いもので、皆さんが思われているのとはまったく違うものです」と、私がいくら”力説”しても、言葉の力だけの”説得力”には限界がありました。
そこで、会社員となってからも冬のシーズンには周囲の人に”配って”いた、当初は〆張鶴、後には鶴の友と千代の光の”酒粕”の数量を増やして送っていただき、”誤解している”人達にも”配る”ことにしたのです。
”誤解”を解いてもらうために、〆張鶴や鶴の友そのものを”配る”ことは”貧乏な私”には無理でしたが、〆張鶴や鶴の友、千代の光の香りが強く残っている”酒粕”を50~60kg余計に”配る”くらいは出来る--------と考え始めたことでしたが私自身が”困惑”するほど好評で、
毎年その数量が増えていき現在は300kgを超えるまでになっています。
もちろん”酒粕”によって、「酒の香りの良さ」を分かってもらう当初の目的は十分以上に達成されたのですが、それだけではなくきちんと造られた日本酒を造り出す蔵の”酒粕自体”がエンドユーザーの消費者をこれほど”喜ばせる”ものであることを、私は改めて思い知らされたのです。
そして”誤解”を解いてもらうために”酒粕”を配り始めた私は、皮肉なことに、”酒粕”に対する私自身の”誤解”を、その”酒粕を配る”ことによって”正される”ことになるのです。
私には子供のころから可愛がってくれた母方の叔父夫婦がいます。
酒を飲まない人なので”酒粕”は必要無いと思い、30年前から配っていたのに持っていくことはなかったのですが、10年ほど前にあることから叔父も叔母も三人の従妹も実は”酒粕”から造る甘酒が大好物であることを知り、自分の迂闊さに恥じ入ったことがありました。
現役の酒販店時代の私の店に来店される人のはとんどは、当然ながら”酒飲み”でした。
したがって”酒粕”を配って喜ばれるのも、ほとんどが”酒飲み”で、「アルコールに弱いため酒は飲まないが、”酒粕”は大好きだ」と言う、薄くはないエンドユーザーの消費者の層が存在していることが”目に入って”なかったのです。
つまり私は、日本酒には「日本酒そのもののファン」と同時に「日本酒の酒粕のファン」が存在していることを、まったく分かっていなかったのです。
現役の酒販店時代の私は、「日本酒について自分はある程度は分かっている」と”誤解”していました。
もちろん少しは知っていたのですが、その「知っていた事」が限られた狭い範囲に限定されていたという”事実”を知らなかったのです。
言い換えれば、私が知っていると思っていた日本酒は、「その日本酒を売って飯を食う立場の酒販店の視点」から見た視野に限られたものだということが、まるで分かってなかったのです----------たぶんおそまつで能天気な私は、業界を離れることがなければ、今もその”事実”にまったく気付いていなっただろうと痛感しているのです。
エンドユーザーの消費者として”新米”の私は、”酒粕に対する誤解”のように教えられ分からされる点が多かったのですが、私自身の「日本酒に対する知識とキャリア」が周囲の人達の”役に立つ”ことも同時に感じていました。
「〆張鶴や鶴の友、千代の光の、欲しいだけの本数を私の県の酒販店で買い求めるのは事実上不可能のため、蔵元や早福さんにお願いして送ってもらっている」--------自分で思ってもこれは”嫌味”なくらい恵まれていたことでしたが、新潟の標準小売価格に運賃が加えられた価格であっても、私の県の酒のディスカウント店やスーパーで”プレミアムがついた価格”で求める場合よりかなり下回る”ふつうの価格”で、しかも”品質の保全”にまったく問題のない酒を実際に飲める”状況”は私の周囲では歓迎されていました。
上記のような”酒のボランティア”は、「盆、暮れの年間二回に限られて」いましたが、要望があれば國権について--NO3に書いたように”ミニ試飲会”をやることもありました。
そんな状態が十年ほど続いたとき、また私の周囲には薄からぬ「日本酒のファン」の層が存在していたのです。
私はそんな十年を過ごしながらも、ある時点から、”自分のボランティア活動”の限界を感じ始めていました。
「たぶんエンドユーザーの消費者の中にさらに多くの”潜在的日本酒のファン”が存在しているが、休日利用の自分の活動には物理的限界があるし、〆張鶴や鶴の友を飲んでもらえる本数にも限界があり、自分だけではこれ以上は拡大するのは難しい--------」
と、思い始めていましたが同時にこの十年の”経験”で、
「もしこんな日本酒や蔵が地元に存在し、その酒をふつうに晩酌で飲めたらエンドユーザーの消費者の大多数を占める”庶民の酒飲み”に喜ばれ強く支持されるのでは------」というイメージも具体的に脳裏に浮かび始めていたのです。
その時期の日本酒業界は、平成の初めのころの”逆行”が結果として現われ、焼酎の急上昇とは対照的なはっきりとした”低落傾向”にあり、エンドユーザーの消費者の支持を受けているとは言えない状況にある--------と、私個人は感じていました。
「エンドユーザーの消費者の視点から見てどうあるべきを考えないと、先は大変なことになるかも知れない」--------業界を離れても付き合いのあった酒販店の後輩達に、私の”強い懸念”を伝えても積極的な否定はなかったものの、現状ではそれは無理で先の課題だという”返答”が返ってくるだけでしたが、それは昭和五十年代前半の鶴の友・樋木尚一郎社長のご好意での厳しい指摘に対する私自身の”返答”によく似たものでした。
現在もそうですが、特に業界を離れてのこの十年は、鶴の友・樋木尚一郎社長の「樋木ゼミの出来の悪い学生」として私は過ごしてきたような気がしています。
いくらおそまつで能天気な私でも、長い時間をかけた”質疑応答”のおかげで(エンドユーザーの消費者の視点から見れるようになったことも手伝い)、樋木社長の”予言”の源泉である「酒は面白くて楽しいもの」、そして「酒は庶民の楽しみ」の言葉の意味を少しは理解できるようになっていました。
その「樋木ゼミ」の中で、自分の小さい”許容量”の限度一杯に取り込んだ”考え方”から生じる、「危機感とそれに対する対策」を後輩の酒販店に伝えたかったのですが、残念ながら”切迫した感覚”としては伝わらなかったようです。
私は、その”危機感”に対して自分が何もできない立場であることを”残念に思う気持”が時間が経てば経つほど大きくなり、ついに「チャンスが来たら、自分の立場の限界ぎりぎりまで自分のやれることをやろう」という気持になっていったのです。