
2015年の1月に久しぶりに鶴の友の仕込みを見に行くつもりでしたが、諸般の事情により、残念ながら中止せざるを得ないことになりそうです。
過去に何回も書いていることですが、鶴の友・樋木酒造と〆張鶴・宮尾酒造の“対極と共通点”について述べたいと思います。
少し長いですが、以下の引用(國権について--NO4 2009年4月に書いた記事です)から書き始めます----------この引用を読んでもらえないと下の画像の下に書いた“私自身が感じてきた対極と共通点”を分かってもらえないのではないかと思えますので、申し訳ありませんが、読んで頂くようお願いいたします。
私個人は、地酒の蔵であり続けようとしている蔵は、”形のうえ”では鶴の友と〆張鶴の間にそのすべてが入っているような気がしています。
”企業”としての自然で当然の利益を毀損してまでも”地酒の蔵”であることを優先する鶴の友、”形のうえ”では酒蔵の中でも最も成功した”企業”のひとつでありながら状況が許す範囲で”拡大のスパイラル”に抵抗し、地酒の蔵であることの部分をできるだけ残そうとしている〆張鶴-------対極にあると思えるこの鶴の友と〆張鶴の間には、当然ながら”差異”もありますが似ていると言うか”共通”の部分もあるのです。
有名銘柄を含む新潟淡麗辛口は昭和五十年代前半と現在では、残念ながらその姿を変えています。蔵の大きさ、知名度だけではなくその酒質が昭和五十年代とまるで”別物”になってしまった蔵が少なくない中で、鶴の友と〆張鶴(千代の光もそうですが)はそのころの酒質を維持して30年以上に渡って変わらぬ酒質をエンドユーザーの消費者に提供し続けてくれています。
30年以上前の半分強にまで販売数量を落としながら、強い”信念”で地酒の蔵としてその酒質を守り続けた鶴の友は本当に稀有の蔵で、そのご苦労のごく一部しか知らない私ですら造り続けていだだいているのは、やや大袈裟に言うと”奇跡”だとしか思えないのです。
一方、30年前に比べ3倍前後の販売数量があり、”企業”としても成功を収めた〆張鶴が僅かに醸造石数の増大の影響を受けながらも、変わらぬ酒質を維持し提供し続けてくれていることも通常では”ありえない”ことだと私個人は感じてきました。
そしてそれが、他の超有名な新潟淡麗辛口の複数の銘醸蔵と〆張鶴との”違い”だとも感じてきたのです。
一万石級の製造石数とその抜群の知名度、ひとつの都道府県あたりの正規取扱店の数がきわめて少ないにせよほとんど全国をカバーしている販売網--------これらを知る業界関係者や日本酒のファンにとって、「〆張鶴は、村上市あるいは新潟県下越地方の地酒の蔵として存在している」と言われたら抵抗を感じたり異論を持つ方は少なくないと思われます。
しかし宮尾行男社長始め宮尾酒造の皆様の意識の中では、そのように感じておられるのではないかと私は長年に亘って想像してきました。
そう感じる私なりの理由は、
1.昭和五十年代前半より宮尾行男専務(現社長)、故宮尾隆吉社長の”考え方”を直接伺える機会に恵まれただけはなく、現在ほど有名ではなかった時期に正規取扱店の一人として、その”考え方”がどのように醸造の現場や販売方針に反映していたかを私自身の実体験の中で知る機会があったこと。
2.私が業界を離れた平成3年以降、〆張鶴も日本酒ブームの中で拡大し続けていきましたが、エンドユーザーの消費者の一人として現在まで(ありがたいことに)お付き合いさせていただいている私には、”企業”として自然で当然な成長を拒んではいないが同時に出来得る限り醸造方針も販売方針も変えないという”意志”も感じられたこと。
3.そして何より私の周囲にいる30年以上〆張鶴 純 を飲み続けている「吟醸会」の仲間達が、「〆張鶴は変わっていないし飲み飽きもしない」と言っていることです。
4.上記の3の事実は簡単のように思えて実はきわめて難しく稀なことであることを、私や「吟醸会」の仲間達は30年の時間の経過のおかげで実感しているからです。
かつて”業界”の人間だった私にとって、初めて出会った日本酒であり”本籍地”とも言える新潟淡麗辛口も30年もの時間が経過すると、その姿も認識も変わるほうが自然と言えます。
むしろ変わらないほうが”不自然”なのです。
変わらないためには”不自然さ”、言い換えれば”強い意志”が必要なのです。
3500石が一万石級に増えても僅かの変化はあるにしても”変わらない”ことは、鶴の友が”変わらない”ことと質や形は違うものの、実は稀で困難なことなのです。
〆張鶴の数量拡大は、4~5年ではなく、30年に亘って少しずつ慎重に計画され着実に実行されたものだ------私はそういう印象を持っています。
基本的に地元、県外を問わず〆張鶴の営業方針は「酒販小売店との直接取引」に限定されます。
新規取引には、私が取引をさせていただいた昭和五十年代前半からきわめて慎重で、
「取引する以上ただ扱っているということではなく、小売店にも蔵にもメリットのある数量でなければ取り扱いの意味がないのではないか」-------という”考え方”がその背景にあると私は感じてきました。
〆張鶴が”店の飾り”で良い場合以外は、酒販店側も、売れば売るほど数量の拡大が必要になってきます。
しかし急激な醸造数量の拡大は、酒質の向上とは”相性が悪い”ため、酒質の維持が可能な範囲での(設備の改善や設備の新規投入をして)数量拡大しかできず、その結果私が取引させていただいた最初の年から需要期(10月~3月)は割り当て、昭和五十年代後半には
「全体の醸造数量が昨年の110%になりますので、今年のNさんのお店の年間割り当て数量は同じく110%になります。月別に数を記入してありますが、月別の数量の変更はできるだけご要望にそえるようにします」-------という状況になっていました。
(事実、私の店の販売状況に合わせた頑なではない対応を、〆張鶴・宮尾酒造の皆様は可能な範囲でして下さいました)
しかし昭和六十年代に入ると、最初からこの状況を予測し「売る本数より投げる本数のほうが多くても実績を積み上げてきた」、エンドユーザーの消費者に”普通に販売していたため”店の規模の割にはかなり多いと言えた”実績”を持つ私の店でも、〆張鶴は”逼迫”するようになっていて、残念ながら新規のお客様に買っていただく1本を捻出するのに苦労する状態になっていました。
この時期私も他の酒販店の方々と同じように、〆張鶴や八海山の”需要と供給のギャップ”を埋めるため久保田の積極的販売に出ざるを得なかったのですが、この”状況”は私だけではなく、昭和五十年代初めから新潟淡麗辛口の販売を始めて先行していた酒販店のほとんどもこの”状況”に置かれていたことが、久保田の異例とも言える”大成功”の原因のひとつだと私は実感しています。
そしてこの久保田の”大成功”が、新潟淡麗辛口の先行した有名銘柄に大きな影響を与え大幅な数量拡大へと舵を切らせるのですが、〆張鶴・宮尾酒造はその方向には向かわず自分の”ペース”を守ったのです--------そしてそれが現在の新潟淡麗辛口の他の有名銘柄と、〆張鶴・宮尾酒造との「決定的な違い」となったのです。
毎年5%づつ製造する数量を増やすとすると、22年で約3倍の数量になります。
そう考えると、30年以上かかって3倍前後の石数になった〆張鶴・宮尾酒造は、拡大を自ら強い意欲を持って意図した”企業”とは、私自身は、とうてい思えません。
〆張鶴・宮尾酒造が”成功した企業”であり、地酒の蔵と言うには桁が違う販売数量を持っていることは私も十分に承知していますが、しかしその事実が必ずしも〆張鶴・宮尾酒造が「地酒であり続けることに強いこだわりを持つ蔵であること」を否定する証拠にはならない--------私はそう感じています。
〆張鶴・宮尾酒造に、批判的な見解を持つ人達の批評のすべてが間違っているとは私も思っていませんが、口の悪い人達に”新潟ナショナルブランド”と言われる他の新潟淡麗辛口の有名銘柄に対するのと”同じ観点での批評”は少し的外れのような気が私はしています。
社員の生活に責任を持つ”企業”である以上は、数量拡大による利益の拡大の追求は自然なことです-------しかしそれを最優先したとするなら、不可思議と言うか整合性に欠けると言うかそれとも矛盾とでも言うべき”非合理性、非効率”が〆張鶴・宮尾酒造に存在していると私は感じているからです。
その”非合理性、非効率”は〆張鶴の数量が増えれば増えるほど、まるでバランスを取るかのように印象が強くなってきたように思うのです。
言い換えれば”非合理性、非効率”は、宮尾行男社長始め宮尾酒造の方々が「〆張鶴がそれを失ったら自分達の〆張鶴ではなくなる」と思われている部分--------〆張鶴はファクトリーではなく”酒蔵である”ことへの強いこだわりだと私は思うのです。
〆張鶴・宮尾酒造はこの30年、その酒質の特徴と同じように、”企業”としての成功と酒蔵であり続けることのバランスを取ることに”苦心”し続けてきたように私には感じられます。
その”バランスを取ること”を支えた方法は特に珍しいものでも目新しいものではありませんでした。
1.〆張鶴の酒質向上、酒質維持を最優先する。
2.そのためには酒質を毀損しない範囲での慎重で計画的な増石しかできない。
3.そうすると必然的に販売も計画的販売方針を採らざるを得なくなる。
4.計画的販売方針を採るためには、〆張鶴の”考え方”を理解してくれる酒販店(小売店)との直接取引が必須になる。
5.具体的には、村上市を中心にした地元の従来の需要を大事にしながらも、昭和五十年代前半にすでに〆張鶴の”代名詞”になっていた〆張鶴 純 や特定名称酒を増石の中心にして、その時点でも〆張鶴 純 や特定名称酒に強い需要のあった関東を軸にした新潟県外の酒販店(100%直接取引で増石の範囲内で対応できる限られた軒数ですが)販売していくが、増石そのものに限界があるため「年間割り当て」にならざるを得なかった。
〆張鶴・宮尾酒造の採った方法は、上記のように、他の新潟淡麗辛口の有名銘柄とさして変わったものではありませんでした。
しかし〆張鶴・宮尾酒造はどんな局面でもこの”方法”から逸脱することなく、きわめて強い増産圧力にさらされた時期も守り続けてきたのです。
鶴の友・樋木酒造の”頑固さ”とは質的にもタイプ的にもその”違い”は大きいのですが、
〆張鶴の梃子でも動かない”頑固さ”も私は感じ続けてきたのです。
鶴の友らしさを守るため30年前の約半分強まで醸造石数を減らした、鶴の友・樋木酒造は「有り得ない”企業”」ですが、〆張鶴・宮尾酒造も酒造業界の中では「きわめて稀な”企業”」だと私個人は痛感しているのです。
そして日本酒業界にとって、ある意味で必然的と思える危機の中で「地酒らしい地酒」として生き残っていく酒蔵は、対極にあるように見えるが共通の部分をも持つ鶴の友・樋木酒造的な部分か、〆張鶴・宮尾酒造的部分を持つ必要がある--------鶴の友と〆張鶴の”考え方”の間に”考え方のベース”を置かないと生き残れないのではないか、と私個人には思われてならないのです。


1000石以下の多くの蔵では蔵の社長や専務が杜氏を兼ねているケースが目立つようになっています。
500石以下の蔵ではある意味自然な流れなのかも知れません。
その背景には現役の杜氏の高齢化、後継者不足、酒蔵の置かれている現実等の問題がありますので必ずしも悪いことではないと思われるのですが
“狭い世界”に日本酒を閉じ込めその発展を阻害しかねない面もあるのではないかと個人的には思われます。
個人的には、酒蔵の置かれている物心両面での厳しい現実も承知しているつもりですが、経営と造りに関わる人間が別であるのが好ましいのではないかとも感じています。
それは〆張鶴、鶴の友という大きさが違っても経営と造りが違う人間によって担われている酒蔵を三十数年以上見させていただいてきたからかも知れません------。
〆張鶴は昭和五十年代前半から藤井正継杜氏を擁し現在に至るまで「〆張鶴は飲み飽きすることが無いし変わらない」とエンドユーザーの消費者と言われる
〆張鶴の根幹の酒質を守り抜いています。
宮尾行男会長そして故宮尾隆吉元社長と一緒に“〆張鶴を造ってきた”藤井正継杜氏は、実は数年前に引退をされ宮尾酒造を離れているのですが、その“不在”を現在の〆張鶴の酒質から感じることはないのです。
なぜなら十数年前から新潟清酒学校に通いながら冬に藤井杜氏と一緒に〆張鶴を造った1級、2級の酒造技能士の正社員が宮尾酒造には数多く在籍し受け継いだ〆張鶴の酒質の前進を目指して今も造り続けているし、先輩社員が後輩社員を指導していく体制が整っているからです。
「30年後も〆張鶴は〆張鶴であり続ける」-------このように思うのは私だけではないと思われますが、宮尾行男会長から宮尾佳明社長へ藤井正継杜氏から宮尾酒造の造りの担当社員へと〆張鶴の伝統と本質を受け継ぎながらも“次世代への権限委譲”が一番進捗し現実化しているのが〆張鶴・宮尾酒造だからです。
昭和五十年代前半から〆張鶴・宮尾酒造は訪れるたびに蔵の中が少しずつであっても必ずと言っていいほど新しい設備が導入されたり更新されていました。
今もそれは変わっておらず、2013年の夏に久しぶりに訪れたときも蔵の中は「きわめて当たり前のように“変わって”」いました。
またこのときに、ありがたいことに、瓶詰めラインの隣に造られたきわめて広く高さもある“冷蔵倉庫”を宮尾行男会長のご案内で見学させていただいたのですが、中は温度で二つに区切られていて奥のより低温のスペースには、レッテルの貼られていない酒が眠りについていました-------発売が予定されている酒だけではなく、長年試験的に造られていても発売されることが無い酒も一緒に静かな眠りについているのに感慨を覚えたのですが、零度を下回るマイナスの温度の中ではそう長くいることは出来ませんでした。
上の左側の画像の〆張鶴・宮尾酒造の正面入口の画像は、四十年近く前私が初めて訪れたときの印象と同じ“景色”です。
入口から中に入った右側の事務室も左側の応接室もまったくと言っていいほど“変わって”いないのです。
しかし蔵の内部へと進むと、初めて来させていただいたときとは“別な蔵か”と思うほど大きく変化、あるいは進化しています-------しかし私自身には違和感はまったく無かったのです、“景色”は変わっていたとしても私自身が“〆張鶴そのもの”だと肌の感覚で感じていたものが変わってはいなかったからです。
何回も書いていますが、〆張鶴・宮尾酒造は京風の町屋の少なくない村上にあるため、間口は狭いが奥行きがきわめて深くそのすぐ脇を三面川の支流の門前川が流れているという立地に存在しています。
昭和五十年代前半に初めて訪れたときは、深い奥行きの中間に中庭があり故宮尾隆吉元社長が趣味の絵を書くアトリエとして使われていた小さなプレハブも建っていて、現在より余裕のある配置になっていたような記憶が私自身には残っています。
仕込みの時期の〆張鶴・宮尾酒造には、ある種の“張り詰めたような緊張感”が存在しているのですが、それは訪れた私のような部外者を“排除するような緊張感”ではなく私自身にも“心地良く感じられる緊張感”だったのです。
当時の私は『日本酒の“にの字”も酒蔵の“さの字”も分からない』自分でも呆れるほど能天気でお粗末だったのですが、日本酒の世界に強く惹きつけられていた気持ちだけで走っていたのです。
当時初めて行った酒蔵である八海山・八海醸造におられた南雲浩さん(現六日町けやき苑店主)に強く勧められて紹介もして頂き〆張鶴・宮尾酒造と出会ったことは、きわめて大きな幸運だったと今でも感謝しています。
宮尾隆吉社長(当時)も宮尾行男専務(当時)もたぶん苦笑はされていたと思うのですが、能天気でお粗末であっても日本酒に対する気持ちに免じてくだったのか、いつもありがたい対応をしていただきました。
新潟の酒蔵に行き始めて最初の5~6年ぐらいは、多い年で5~6回少ない年でも3~4回は〆張鶴・宮尾酒造を訪ねていました。
行く度に宮尾社長、専務のお話を伺い、毎回少しずつ“前進という変化”をしている蔵を見せて貰ううちに私は『〆張鶴・宮尾酒造の“当たり前”は他のほとんどの酒蔵にとっては“当たり前ではない”』という“単純な事実”にようやく気がつき始めたのです。
「蔵の内部を空調しているのは灘・伏見の大手の蔵のように“四季醸造”のためではなく、冷却ジャケット式タンクや冷却ジャケットをタンクに巻いて醪の温度を0.5度単位で管理したとしても蔵の内部の温度が5度も6度も動いたら正確を期せないので、蔵の内部に一定で仕込みに最適と思われる温度環境を造り出すための空調設備なのです」
「私達が酒を造っていると言うよりも、私自身は、“酒自身が酒になるための手伝いを私達はしている”と言った方がより正確なような気がする。 特に吟醸酒は酒自身にとっても厳しい環境で造られるため『明日をも知れない重病人を私達が必死になって看病する』ようなもので、そんな気持ちが強ければ強いほど酒自身が応えてくれると感じてきたのです」
上の会話は、なぜ関東より温度が低いと思われる村上でしかも冬場の仕込みの時期に蔵の内部を空調をするのかという能天気でお粗末な私が発した質問への宮尾行男専務(当時)のお答えで、下の会話は、酒を造るとはどうゆうことなんでしょうか特に吟醸酒は、と大学の理学部の数学科の教授に算数の質問をしたような能天気でお粗末な私の質問への宮尾隆吉社長(当時)のお答えでした。
当時の私が、このような宮尾専務や宮尾社長の丁寧で真摯な説明をどこまで本当に理解出来ていたかには疑問の余地がありますが、能天気でお粗末な自分自身を“自覚せざるを得なかった私”にとってプレッシャーを感じることなく初歩の初歩から“知らないことを聞けた”〆張鶴・宮尾酒造はほんとうにありがたい蔵だったのです。
毎回お邪魔するごとにその時点で一番分からないことを質問し蔵の中を見せて頂くことを繰り返すうちに、少しずつですが“見えてくるもの”が増えてき始めたように記憶しています。
新潟に行き始めて数年、一番行った蔵は〆張鶴・宮尾酒造ですがもちろんその他の蔵にも足を運んでいますが、ある時期から酒蔵を見学させて頂くときに(無意識のうちに)〆張鶴・宮尾酒造と比べている自分に気がつきました。
その時点で〆張鶴・宮尾酒造と目の前の蔵を正確に比べることが出来るだけの“知識と能力”が私自身にあるはずもありません-------いつも見てきた〆張鶴・宮尾酒造の“当たり前”とその蔵の“当たり前”を比べているに過ぎなかったのですが、それは私にとって分水嶺になったのかも知れません。
新潟淡麗辛口は、協会10号酵母、新潟県産五百万石、鑑評会出品用の吟醸酒造りの手法を市販酒に応用した低温発酵を駆使して意図的に造りだされたもので、〆張鶴・宮尾酒造はその酒質を真面目に着実に毎年向上させ他の蔵より前を走る新潟淡麗辛口のトップランナーだったのです-----------そしてその事実を完全には理解できなくても“肌の感覚で感じてきた”〆張鶴・宮尾酒造を酒や酒蔵を私なりに判断する“基準”とするようにいつの間にかなっていったのですが、その“基準”が酒販店としての私の生き方を決定づけることになったのです。
このまま書き続けるとどこまで長くなるのかが私自身にも予想できず、いつ書き終わるかも分からないため、ここまでを鶴の友について-4--NO4-1として公開しこの続きは後日鶴の友について-4--NO4-2として書くことにします--------。