前回の記事を書いて以来はや10ヶ月が過ぎてしまいました。
一部分とはいえ厚生年金をいただける年齢が見え始めてきている私には、
時の流れがとても速く感じられます。
三十数年前、「100回になったら止めよう」と“冗談9割本音1割”で言ってきた
吟醸会も5月21日で100回目を開催し終了を迎えてしまいました。
実際には、吟醸会の名前の由来になった4人のみでの吟醸酒を楽しんだ“集まり”を入れると、すでに100回を超えています。
私はアルコールにきわめて弱い男で酒はほとんど飲めないのに、何故か、
昭和五十年代前半から“日本酒の世界”にどっぷりと浸かってしまい
新潟淡麗辛口のトップレベルの蔵の“最先端の仕事”や、南部杜氏の長老の一人だった伊藤勝次杜氏の生酛(本醸造・純米・純米大吟醸)が造られるのをつぶさに見られる機会を与えられてきました。
そのおかげで当時は、ほとんどと言って良いほど市販されていなかった
鑑評会に出品レベルの大吟醸を飲む機会が少なくなかったのですが
私自身には「酒質を自分なりに判断する量」しか“需要”がなく、鑑評会出品酒そのものできわめて少ない数量のみの販売であった〆張鶴大吟醸や千代の光大吟醸、完全非売品の八海山や鶴の友の大吟醸を同時に楽しめる“状況”を独り占めするのはあまりにもったいないと---------鮨店の店主のテルさんとS高・O川の二人の研究員と私の四人で「大吟醸を楽しむ集い」を始めたのが“吟醸会のルーツ”だったのです。
その「大吟醸を楽しむ集い」を知った、高校生のころから“ちんとんしゃん系の遊び”に慣れ親しみ鍛えられてきた五来会長 の「面白そうで楽しそうなことは少人数でちまちまやるな、もっと大勢を巻き込んでやれ」の鶴の一声で「吟醸会」 は始まったのです。
私自身がつまらない人間のせいなのでしょうか、まるでそれを埋めあわせるかのようかのように、“ちんとんしゃん系の遊び”に慣れ親しみ鍛えられてきた魅力的な方々と私は縁を与えられてきました。
五来会長や早福岩男早福酒食品店会長、細井冷一國権酒造会長の過去のエピソードや失敗談は抱腹絶倒で本当に笑い転げるものだったのですが、一人になった帰り道に「面白いだけではなく何か大切なこと」を教え諭されたような気持になったのです。
二十歳代前半の私がこの方々とご縁を頂けたのは本当に幸運だったと、今更ながら痛感しています。
この方々も私も三十数年の歳月を重ね現在を迎えたのですが、吟醸会の終了は“自分達が遊びの主役の時代”が終わりを告げ、テルさんや私もS高・O川も
次の世代である自分達の子供の世代に「日本酒の面白さと楽しさ」を受け継いでもらい“裏方にまわる”時期にきている-------そう強く実感しているのです。
朝日酒造・平沢亨氏のこと
5月の中旬に朝日酒造の社長・会長を歴任された平沢亨氏(71歳)がお亡くなりになられたことを、先日鶴の友・樋木尚一郎社長から伺いました。
平沢亨氏の存在がなければ、久保田も現在の隆盛につながる“朝日酒造第二の創業”も在り得なかったと思われます。
私自身は久保田の発売の半年前から、久保田を取り扱う前提で朝日酒造の関わるようになったのですがその関わりのほとんどは県外の販売店の担当だった東京出張所のA所長と工場長として招聘された嶋悌司先生(元新潟県醸造試験場長)との接触でした。
平沢亨社長(当時)との直接の接触の機会はほとんどありませんでしたが、自分が蔵で直接目にしたことや耳にしたこと上記のお二人や早福岩男さんに伺ったお話で、平沢亨社長(当時)が「何をしようとして何をしたか」はおぼろげながらも私にも見えていたような気がしています。
昭和五十年代前半朝日酒造は、嶋悌司先生と早福岩男早福酒食品店社長(当時)を中心に集まった新潟五力(越乃寒梅、鶴の友、〆張鶴、八海山、千代の光の五つの新潟淡麗の蔵)の銘酒としての評価が高まれば高まるほど、“真綿で首を絞められる”ように、新潟県の販売量トップの酒蔵でありながら“その存在感と戦闘力”が少しずつ少しずつそぎ落とされる状況下にありました。
新潟淡麗辛口は、酒造好適米の五百万石、協会10号酵母、低温長期発酵(いわゆる吟醸造り)の組み合わせで「意図的に造り出された時代を先取りした日本酒」で、それまでの新潟清酒とはコンセプトも酒質もまるで違ったものだったのです。
新潟淡麗辛口の評価と需要が東京を中心に高まり関東に拡大しブーメランとして新潟県内に返ってくれば返ってくるほど、朝日酒造の酒質とコンセプトへの評価は低下し続けていた状況にあった---------そう感じていたのは私だけではなかったように思えます。
平沢亨社長(当時)が脅威に思うほどには状況が悪化していたとは私自身にも思えませんでしたが、10年後、20年後を考えたときかなりの危機感をお持ちだったことは私自身にも容易に想像できたことです。
その状況下で起きた“朝日酒造の戦術的危機”が、皮肉なことに、久保田の発売に収斂していく“朝日酒造の第二の創業”のきっかけとなったのです----------。
その“朝日酒造の戦術的危機” とは、常務取締役工場長で酒造りの要であったM 先生が亡くなられたことで早急にその後任の経験豊かな酒造技術者を探す必要に迫られたことです。
この局面で平沢亨社長(当時)は、“乾坤一擲の賭け”に出ます。
大きな賭けではあるがある意味では無謀ではない、勝てれば「一石三鳥が期待できる大勝負」に出たのです。
定年まで一年半以上を残していた新潟県醸造試験場長だった嶋悌司先生の招聘に、蔵の内外の反対を押し切って平沢亨社長(当時)は動いたのです。
嶋悌司先生を招聘することで期待できた一石三鳥とは
- 酒造技術面だけではなく、あらゆる意味で新潟淡麗辛口の中核だった嶋悌司先生の存在で、朝日酒造は新潟県のナショナルブランド的酒蔵→新潟淡麗辛口の銘醸蔵へ羽ばたく“羽”を手に入れた。
- 急速に変化していく市場環境への素早い対応は朝日酒造の内部だけでは限界があり、内部の人間だけでは難しい改革を実行可能な嶋悌司先生とそのお仲間という”羽”を手に入れた。
- 自分達の酒を脅かす新潟五力(越乃寒梅、鶴の友、〆張鶴、八海山、千代の光の五つの新潟淡麗の蔵)の中核の嶋悌司先生を引き抜くことで新潟五力の結束の陰りに強い影響を与え、新潟五力VS朝日酒造ではなく
新潟淡麗辛口の各蔵VS朝日酒造という有利な戦いに導く“羽”を手に入れた。
そしてその一石三鳥は、絶妙のタイミングと新潟五力の“弾不足”という強いフォローの風もあり、平沢亨社長(当時)が想定していた以上の大成功を、久保田の発売も“第二の創業”も納める結果となったのです。
久保田の発売の成功と“第二の創業”の成功は、新潟県の酒造業界の中の成功事例に留まらず、マーケティングの成功事例として経済マスコミや一般マスコミにも頻繁に取り上げられ、朝日酒造は強い光に包まれます--------しかし光は影と背中合わせの存在のように私自身には思われます。
私自身も久保田発売の半年以上前からその戦いの最前線にいましたしそれなりの実績も上げていました。
正直に言ってあらゆる面でA所長を介して得られるサポートで久保田の販売はやり易く、10年近くかけて積み上げた〆張鶴や八海山の販売量を、久保田は数年で超えてしまいました。
私は久保田の販売をスムーズに行うために、A所長を介して嶋悌司先生や朝日酒造の営業部にいろいろなお願いをしていたのですがそのほとんどを実現していただきました-------その会社のトップだった平沢亨社長(当時)には今でも感謝してますし蔵元としても魅力的な方だったと今でも思っていますが、久保田の尖兵として最前線に立ちながらも比較的早い時期から、「久保田と第二の創業の光が造り出す影の大きさ」をも知らざるを得ない“立場”に立ってしまっていたのです。
このブログの記事に何回も書いていますが、久保田の尖兵の一人として最前線で戦っていた時期は、取引が無いのに新潟市を訪れたとき必ず内野の鶴の友・樋木酒造に行き樋木尚一郎社長のお話を伺い始めた時期と重なります。
規模を拡大し新たに全国の需要を取りに出ようとする蔵と、頑なに地元の地酒としての生き方にこだわる、対照的なふたつの蔵を同時に見ることが出来るという当時の私にとっては“けっこう辛い立場”に立っていました。
私の住む北関東では「太陽は海から昇り、山に沈みます」が新潟市では「太陽は山から登り、海に沈みます」-------同じものを見ても見ている立場によって正反対に目に映ります。
この例えのように、久保田の発売と第二の創業への見方は、朝日酒造の皆様と
鶴の友・樋木尚一郎社長とは真逆のものでした。
私は久保田を最前線で全力で販売しながらも、鶴の友・樋木尚一郎社長の判断・予言を含んだお話を、どうしても無視することが出来なかったのです。
私は鶴の友・樋木尚一郎社長の影響を強く受けている人間だと自覚していますが、約三十年がたった今それを抜きにして客観的見ても、鶴の友・樋木尚一郎社長の判断と予言は当たっていたと思わざるを得ません。
久保田の発売が越乃寒梅や八海山の増産意欲に火を点け、現在その三銘柄はおのおのナショナルブランド(NB)である剣菱を上回る販売数量を持ち、三銘柄合計の販売金額は月桂冠に迫っていると思われます。
三銘柄の現在の販売数量は、地酒あるいは地方銘醸蔵の枠をはるかに超えていてむしろ中位のNBをも上回る規模です。
一方、新潟県の酒蔵の数は三十年前の三分の二以下になっており今後休廃業する蔵はさらに増えてゆくと思われます。
約三十年前、平沢亨社長(当時)が実現した「朝日酒造の第二の創業」は、長い間、平沢亨社長(当時)の造り上げた“見えない遺産”に包まれて順調に発展してきました。
十年ほど前ころからその“見えない遺産”が消え始め、むしろ“見えない負債”が目立ち始めたように私個人には思え始めました。
ここ数年は“見えない負債”に包まれているように私個人は感じてきました。
三十年前と違い、灘・伏見の大手NBは一定の品質の酒の量産性に優れているだけではなく酒質の向上にも努力を積み重ねてきておりかつての“清酒風アルコール飲料”とは別物になっており、純米や吟醸のみならず生酛純米や生酛吟醸まで造っているNBの酒質レベルは、地方銘醸蔵の平均的酒質レベルに引けをとらない水準にあると思われます。
酒質を向上させただけではなく元々全国を相手にした“販売戦争(量販を含む)”を得意としているNBと、販売量を争う“がっぷり四つに組んだ戦い”をすることは朝日酒造にとって単に不利なだけではなく「すべてを失いかねないアウェーの戦い」となってしまいますが-------このままでは蔵が望まなくてもそうなることが避けられないと私には思えてならないのです。
私の個人的見解に過ぎませんが、私は7~8年前から朝日酒造が今後30年も朝日酒造であるためには自分達の得意のフィールドでサポーターの応援を受けれるホームの戦いに“回帰”すべきだと感じてきました。
換言すれば次の三十年を見据えた「第三の創業」が必要になってきていると思えてならないのです。
「第三の創業」のキイワードは拡大でもなければ発展でもなく、“回帰と適正”にならざるを得ません。
(自分達のホーム-------それは新潟県という地方の地方銘醸蔵として“戦い方”です)
- 回帰→→新潟県という地方の地方銘醸蔵という原点への回帰
- 適正→→新潟県という地方の地方銘醸蔵としての“適正な規模”
上記の回帰と適正は私の個人的見解にすぎませんが、現状からの“規模の縮小”を含むため朝日酒造に限らず実行することがきわめて難しい方針です。
もしこの「第三の創業」を断行できる人がいるとしたら(「第二の創業」
を成功させた)平沢亨元社長しか在り得ない--------私はそう感じてきたのですが“回帰と適正”は、単なる私の“夢物語風”の個人的見解に終わりそうです。
長々と故平沢亨元社長 のことを書き続けてしまいましたが、吟醸会の100回目と同じように 「自分達が全力で走ってきた“時代”」にある種の深い感慨があるからかも知れません。
たぶん久保田の発売前後の状況を実際に体験された社員の方は朝日酒造内部であってもきわめて少なくなっているのでは-------そう感じられます。
超名門企業として人気があり就職するのが超難関のアサヒビールの社員の方で、取引先の問屋や酒販店で「“夕日ビール”と揶揄されたり、帰れと怒鳴られ塩を撒かれた」--------というような苦杯を味わう体験を実際に経験した社員がまったくと言っていいほど居なくなったアサヒビールにとって、スーパードライ発売以前の“苦難の時代”は実感の持ちにくい“歴史”になっているように私には感じられます。
朝日酒造の“第二の創業”を体現している久保田の発売の時代は、その発売に至る経緯を含めてアサヒビール同様に、内部の人にとっても実感の持ちにくい“歴史”になりつつある---------平沢亨元社長が亡くなられたことがさらにそれを加速させると私には思えてならないのです。
二十歳代前半という若い時期に新潟淡麗辛口がメインの“日本酒の世界”に入ったときから「対極にあるものを同時に見れる」という“運”に私は恵まれてきました。
「〆張鶴と八海山」、「新潟淡麗辛口と生酛」、「早福酒食品店・早福岩男さんと甲州屋酒店・児玉光久さん」、「鶴の友・樋木酒造と久保田(朝日山)・朝日酒造」-----------立場や考え方の違う人や“現場”を同時に知ることで私は早い時期から
「たとえおそまつで能天気であっても、自分自身の感じ方を自分の言葉で素直に話す訓練」をさせていただけたと感謝しています。
このブログの中のすべての記事に書いたことも、自分が体験したことや直接知りえたことがほとんどですが、“行間を読んでもらう”書き方しかできなかった部分も含め私なりに正直に素直に書いてきたつもりです--------そしてその原動力はある種の“違和感”です。
新潟淡麗辛口を批判するにせよ持ち上げるにせよはたして全体を見渡した偏りの無い視点でそう主張されているのか、新潟淡麗辛口の全盛期に消えかけていた生酛を昭和五十年代半ばから生酛本醸造・純米、生酛大吟醸を次々に世に送り出し生酛造りを甦らせた故伊藤勝次杜氏の“仕事”を知ったうえで“現在の生酛”は語られているのか、山廃と速醸はどちらも生酛の“簡易型であり改良型”でその登場時期(明治時代)が一年しか違わないことを理解されて山廃を語られているのか、“囲い込みと仕掛け”で自分達の日本酒のみを良しとする一部の蔵や一部の酒販店はごくふつうの庶民の酒飲み(大多数を占めるエンドユーザーの消費者)を幸せにしているのか、日本酒全体に良い影響をもたらしているのか---------私はこのような“違和感”を十数年感じてきたのです。
昭和五十年代~昭和の終わりにかけて酒蔵と酒販店そしてエンドユーザーの消費者の“距離”は、現在と比べると、きわめて近かったような気がします。
日本酒を売ろうとする酒販店は、その売る酒を造ってくれる酒蔵とその酒を買ってくれるエンドユーザーの消費者が存在しなければ成立しない業態-------その単純な事実への“認識”が現在の酒販店には薄れているのではないかという危惧が私自身には強く存在しています。
「日本酒を売ろうとする酒販店は、酒蔵とエンドユーザーの消費者の間をつなぐインターフェイスのような存在」--------私は比較的早い時期からそう感じざるを得ない体験をしてきました。
「エンドユーザーの消費者の要望を酒蔵の方が“分かる言葉に翻訳”して伝え、酒蔵のやってきたこと・やろうとしていることをエンドユーザーの消費者が“分かる言葉に翻訳”して伝える------それが酒販店の役割だと私は感じてきたのです。
そしてその役割を果たすためには「日本酒の造り(酒販店の立場で必要な範囲での)勉強とエンドユーザーの消費者の視点を忘れない“環境”」が必要不可欠だったのです。
私は運が良く、上記の二つの不可欠な要素を早い時期から与えられてきました。
私は新潟の酒蔵の人が大好きで、酒を造る現場を見るのも話を伺うのも大好きで足しげく蔵を訪れて自分の分からないことを素直に聞ける状況にありましたし、地元ではある意味でボロクソと言えるほど辛らつで率直な評価を私に対してぶつけてくる“吟醸会の仲間”がいたからです。
そしてその二つの不可欠な要素が一番うまく機能したのが、伊藤勝次杜氏の生酛本醸造・純米の発売のときだったように思えます。
伊藤勝次杜氏のいた蔵とは私の実家(酒販店)は取引がありましたが、新潟淡麗辛口 に出会うまでは、生酛一筋の伊藤勝次杜氏の凄さに私はまったく気づいてはいませんでした。
かなりの量の生酛を造りながら生酛単体の発売が無かったため数年に亘って蔵と「単体で出すべき」との激しい交渉の結果、ようやく発売する方向になったのですが私は“ある種の責任”を背負うことになったのです。
(このあたりの詳しい経緯は日本酒雑感シリーズの記事の中に書いてあります)
単純に言ってしまうと、「渋る蔵を説得して発売に漕ぎ着けた以上、出した生酛がエンドユーザーの消費者に評価してもらえるものにする」------------という“責任”だったのです。
私は当然ながら伊藤勝次杜氏の生酛の凄さを十分理解していましたが
飲んで貰えないことにはその凄さを理解して貰えないことも痛感していました。
新潟淡麗辛口全盛の昭和五十年代半ばにおいては、たとえ生酛だったとして
も「冷で飲んだとき淡麗辛口に近い“切れ”」が必須であることを、自分と同世代のエンドユーザーの消費者との“日常的な接触”の中で私は肌の感覚で感じていました。
おそまつで能天気で未熟な若造の私なりに「伊藤勝次杜氏に分かる言葉に
翻訳して」そのことを伝えることが必要になったのです。
伊藤勝次杜氏が「翻訳して伝えた内容」を実現した生酛を造れることに私は何の疑問も持っていなかったのですが、能天気で未熟な若造の“提案”を生酛一筋の南部杜氏の長老が受け入れてくれるかどうかが大きな心配だったの
ですが驚くべきことに伊藤勝次杜氏は、「伊藤勝次杜氏に分かる言葉に翻訳
した要望」のすべてを受け入れてくれたのです。
このときの伊藤勝次杜氏の様子を私は今でもよく覚えていますし感謝の気持ちも忘れられないでいるのです。
「重くてごつくて冷で飲むには厳しく、燗をしてようやく飲みやすくなる生酛」ではなく、「冷で飲んでも(新潟淡麗よりふくらみとまるみがあったとしても)くどさを感じない“切れ”があり、熱燗になっても生酛本来の“強さ”がふくらみとまるみを支える“分厚い基礎”となり本来の味が絶対に崩れない生酛」-----------それが平成8酒造年度(伊藤勝次杜氏が亡くなる)まで造り続けられた「伊藤勝次杜氏の生酛」なのです。
生酛で造られたという“頭で酒を飲む”人達も満足させながら、新潟淡麗辛口を飲んでる人達にも飲んで貰える“切れ”を持つ--------重さやくどさを嫌う若い人達にも飲んでもらえるように意図的に造り出された酒質--------それが伊藤勝次杜氏の生酛だったのです。
最初の伊藤勝次杜氏の生酛は1500本の本醸造でした
伊藤勝次杜氏の“仕事への正当な評価”をしてもらうためには、福島県外に割り当てられた本数をどう使うべきか---------私はきわめて単純に考えていました、
伊藤勝次杜氏の生酛の“凄さが分かる人”に売ってもらえばいいと。
東京池袋の甲州屋酒店店主児玉光久さんは、私が八海山の南雲浩さんに紹介され店にお邪魔したときから“地酒屋”として有名な存在でしたが、後輩には優しく親切な方でした。
その児玉さんに一度だけ“手助け”をお願いをしたのが伊藤勝次杜氏の生酛の発売のときだったのです。
児玉さんのような酒に詳しい人ほど、生酛らしさを内在させながらも淡麗辛口や吟醸系の日本酒を飲んでいる人にも飲んで貰える(従来の生酛では考えられない)高い酒質と価格の安さ---------コストパフォーマンスの高さをすぐに理解して評価してもらえたからです。
1500本の生酛本醸造は(児玉さんの応援の効果もあり)想定していた以上の評価と反響を生み、本醸造の本数の拡大、純米、大吟醸の発売へと突き進むことになり、1500本を発売するまでの“数年間の激しい交渉”はいったい何だったのだろうと苦笑する結果となったのです--------------。
平成8年の晩秋にお亡くなりになるまで伊藤勝次杜氏(その以前に製造部長専任になり長年コンビを組んでいた金田一政吉氏が杜氏として後を就いていましたが平成9年に後を追うようにお亡くなりになりました)は、量を拡大させながらも生酛の酒質を前進させ続けていました。
現在伊藤勝次杜氏の生酛は、残念ながら、飲んだ人の記憶の中にしか存在しない“幻の酒”になっています----------生酛一筋に生きた“職人の年季の入った技”が造り上げた“芸術品のような生酛”は、本当に残念なことなのですが伊藤勝次杜氏以外には造れないのかも知れません。
伊藤勝次杜氏が“芸術品”と言えるほどにその酒質を高めた、伊藤勝次杜氏の生酛はもっともっと評価されてしかるべき---------と私は長年に亘って感じ続けています。
やや大袈裟に言うと 、昭和五十年代半ばに伊藤勝次杜氏の生酛が登場していなければ生酛の技術は“博物館”に入ってしまい 現在に引き継がれていなかった可能性が大きかったと思えるのです--------少なくてもNBの松竹梅が生酛を造り販売する状況にはならなかったと思えるのです。
長々と伊藤勝次杜氏の生酛の話を書いてきたのは、自分の功を誇るためでも伊藤勝次杜氏がいた酒蔵の現在を批判するためでもありません。
昭和五十年代~昭和の終わりにかけて酒蔵と酒販店そしてエンドユーザーの消費者の“距離”は、現在と比べると、きわめて近かったということを言いたいがためです。
おそまつで能天気な未熟な若造の、自分が長年心血を注いできた”仕事”を否定されたと受け取られかねない“提案”を真剣に受け止めてくれたところに、実は伊藤勝次杜氏の“本当の凄さ”があると今でも私は痛感していますが、当時は蔵や杜氏に(その酒や蔵に愛情があるのが前提でしたが)自由な意見をぶつけられる雰囲気がありました。
もちろん意見をぶつける側も“それなりの実際の酒の勉強”と意見の“客観的な裏づけ”が必須でしたが、酒蔵の側も酒販店からの視点でエンドユーザーの消費者の要望を汲み取っていこうという意識があったと思われるのです--------そしてそれを可能にした“人間関係”が当時は存在していたのですが、残念ながら現在はそんな関係は薄れているようです。
酒蔵や酒販店が“自分達の立場”をバラバラに整合性などまるで無い主張をお互いにぶつけ合っていて、プロダクトアウトのみの発想や“囲い込みや仕掛け”を背負った(大多数のエンドユーザーの消費者の存在を気にもしない)日本酒業界が、昭和五十年代~平成の初めに比べ大きく支持を減らしているのは当然過ぎるほど当然の結果だと私個人には思われてならないのです。
私自身の個人的見解に過ぎませんが、現在の日本酒を中心に売ろうとしている酒販店は昭和五十年代~昭和の終わりの時代の酒販店に比べ、日本酒に対する“愛情”が少ないように思えます--------自分達が売る酒を造ってくれる酒蔵に対する強い愛情があるとは思えないし、小遣いをやりくりして1本、2本と買ってくれるエンドユーザーの消費者(ごくふつうの酒飲み)を大切にしているとは思えないのです。
新潟淡麗辛口を中心とした地方銘酒の復権と拡大を支えてきたのは、私の年齢±5歳の世代だと思われます。
この世代は、たぶん、酒の飲み方・楽しみ方を兄貴分や叔父貴にあたる世代に直接教えてもらうことができた“最後の世代”です。
日本酒にとって“最大の分厚いサポーター”のこの世代も+5歳の方は完全に現役を離れているし、-5歳の方も定年が近づいているし健康診断で二次検診を言い渡されることが多くなる -----------少しずつ少しずつ日本酒を飲む機会と量が減ってきているのです。
減ったといってもこの世代の層が分厚いため“極端な数字の低下”にはつながっていないのですが、残念ながらこのままで推移すると7~8年後この世代の需要は極端に低下するだろと思われます--------そしてこの時期が日本酒にとって「博物館に入る方向へ向うかどうかの分水嶺」になるだろうとも思われるのです。
私の息子は幼児のころから盆暮れに届く100本前後の日本酒と冬に届く大量の酒粕に慣れ親しんでおり、小学3年のとき鶴の友に一緒に行き鶴の友・樋木尚一郎社長に蔵の隅々まできちんと案内して頂いた貴重な経験もあるため、日本酒がある生活が自然であり「いろいろ飲んでもやはり日本酒が一番美味い」と言っていますが---------飲む機会の多い大学のサークルの仲間の中でも日本酒支持派は少数のようです。
日本酒の面白さや楽しさを知るためにはそれを知りごく自然に体験出来る“機会”が必要なのですが、学生はおろか20~30歳代の人達にも(残念ながら現在では)そんな機会はほとんどないのです。
日本酒の本当の面白さと楽しさは、生酛や速醸のような酛の違いや純米や大吟醸のような造られ方の違いのような“頭で飲むための知識の中”にはあまり無いと私個人は感じてきました。
日本酒の本当の魅力は和食とともにあるときに発揮されます-------日本酒の間口の広さと奥行きの深さは食べ物と一緒のときに実感されるのです。
日本酒の面白さと楽しさは、知識や能書きではなく、自分の実体験を自分の言葉で話すこと以外には他の人には伝わりません。
そして自分自身が面白い、楽しいと思ってなければ伝わらないのです。
そして現在は昭和五十年代~昭和の終わりの時代に比べ、日本酒はエンドユーザーの消費者にとって「分かりにくく親しみにくい存在」になりつつあり、“焼酎の敵失”に助けられてやや数字が上がったとしても、けして“長期低落傾向”が止まった訳ではないのです。
それゆえ酒蔵や酒販店が日本酒の面白さや楽しさを「地道にコツコツとしぶとく」エンドユーザーの消費者に伝えていく"作業”が絶対的に必要なのですが、蔵も酒販店も向いている方向も距離も、エンドユーザーの消費者から遠ざかっているとしか私には思えないのです。
吟醸会が三十数年続き100回目をを迎えられたのは、単純に「面白くて楽しい」かったからです。
美味い料理を美味い日本酒で楽しむ-------目的はそれだけだったのですが、
より面白くより楽しくしようという"遊びに対する情熱”がここまで続いた理由なのかも知れません。
吟醸会が始まった頃(昭和五十年代半ば)は、新潟淡麗辛口を始め地方銘酒はエンドユーザーの消費者にとって、きわめて分かりやすく明快な存在でした。
大手NBの酒→→大量生産、低品質、清酒風アルコール飲料
地方銘酒→→手造り少量生産、高品質、伝統を受け継ぐ本来の日本酒
(多少乱暴なくくりですが、そんな感じに受け止められていました)
しかし現在は、当然ながら上記のような状況にはありません。
私の年齢±5歳の世代が酒飲みとしての現役を去る7~8年後までに、酒蔵も酒販店も「ご自分の年齢±5歳の世代」に何らかの方法・手段で「日本酒は面白くて楽しいもの」ということを伝えていかない限り、「博物館入りに一歩近づいてしまう」と私個人は危惧せざるを得ないのです。
「遊びは”無駄の塊”だ。だから”遊び”に効率や利害や損得は存在しない。でも、仕事や私生活では残念ながら皆んな利害や損得、効率に追われてまくっている。だから日常の中にほんの一部でいいから”無駄の塊”の遊びが欲しいと思っているんだ。ほんのひととき”無駄の塊”の遊びに熱中してほっとしたいんだ。Nよ、酒は庶民の楽しみの”遊び”のひとつだろう。お前の言うとうり、新潟淡麗辛口は本当に凄いものだとしてもお前の”つまらない講義”を聞いて飲みたいとは俺は思わない。今まで俺が飲んできた酒より新潟の酒が面白くて楽しいというなら、それを皆んなに見える形で見せてみろ。Nよ、お前がそれをやると言うなら俺もテルも手助けはするよ」------G来会長にこう言われた私は、どうしたら楽しいと思ってもらえるか、どうやったらより面白いかを考えながら「吟醸会」に参加していたのですが、いつの間にか、酒のことを”自分の言葉”で話すのが、酒の周囲(料理や器など)のことも”自分の好み”を話すのが、大好きになっている自分自身に気がついたのです。 そして専門用語をほとんど使わない私のほうが、専門用語の”羅列”しか語れなかった以前の私よりも、酒の面白さと楽しさを分かってもらえている事にも気がついたのです。
(http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20080224 )
上記は、鶴の友について-2--番外編(吟醸会)からの引用で、私が二十歳代後半に、吟醸会・五来稔光会長に言われた言葉です。
「五来稔光会長流の“遊び”」が、私は現在でもエンドユーザーの消費者にとって
「日本酒の面白さと楽しさ」に親しんでファンになってもらえる“一番の近道”
だと思っているのですが、長い付き合いがある後輩の酒販店にさえなかなか
理解してもらえません。
きわめてうろんで即効性のない効率の悪い、酒販店の実情に合わない方法だと思われているのでしょうが、遠回りに見えても一番の近道だと私自身は確信しています。
面白くて楽しいのが“遊びの本質”であるなら、日本酒単体だけではなく和食や器
そして日本酒が受け継がれてきた歴史をも入れ込んだ“遊び”のほうが、より面白くより楽しいはずです。
国公立の美術館や博物館に展示されているものだけが、私達が受け継いできた“文化”ではありません。
目立たないしささやかかも知れませんが、身近なところに受け継いだ“文化”は存在しています。
私自身は酒蔵、特に鶴の友・樋木酒造の中でごく普通の庶民によって受け継がれてきた「遊び心の塊りという意味での“文化”」の一端に触れさせていただきました。
その“文化”はけして堅苦しいものでも難解でもなく高踏的でもなくスノッブでもなく権威を誇るものでもなく、日本酒も器も和食もひとつになった“面白くて楽しい”飽きることのない興味深いものだったのです。
残念なことなのですが、この世界的にも稀なこの“文化”の魅力と貴重さを日本人より外国の人(たとえ一部の人であっても)のほうが高く評価しているという皮肉な現実があります。
日本酒を売っていこうとする酒販店にとって上記の“文化”は、他のアルコール飲料に対しての絶対的アドバンテージなのですが、日本酒にとっては幹や根に当たる“大切な文化”でなく枝葉のような部分に戦力を投入している--------私個人にはそう思えてならないのです。
その日本酒が美味いか不味いか、良いか良くないかを決めるのは最終的にお金を出して買うエンドユーザーの消費者だと、私自身は昭和五十年代前半からそう強く感じてきましたが、その“考え方”は自分達の造る酒をエンドユーザーの消費者に押し付けてきたNBに地方銘酒側が突きつけた“アンチテーゼ”だったのですが、三十数年を経った今ブーメランのようにエンドユーザーの消費者から地方銘酒側に突きつけられていると私個人は強い危惧を感じているのです。
むしろ三十数年前の“手痛い失敗”から学んだNBのほうが、まだしもふつうの庶民の酒飲みである(サイレントマジョリティの)エンドユーザーの消費者に顔を向けている思わざるを得ないのです-------------。
もっと短く時間も掛けずに書こうと思って5月に書き始めたのですが、7月下旬になっても書き終わらない“長い記事”になってしまいました。
今回は吟醸会が100回目を迎えたことのみを書いて終わる予定だったのですが、平沢亨元朝日酒造社長の訃報を知り私なりの印象も書いてから記事をアップすることに予定を変更しました。
すると次から次に昭和五十年代前半~昭和の終わりの時期の出来事が甦りこの“長い記事”を書くことになってしまったのです。
過去の記事にも書いた内容がほとんどですが、区切りを迎えたためもあり以前の記事よりほんの少しですが“踏み込んだ内容”になっているかも知れません。
この記事で書いている私の“違和感”は、新潟淡麗辛口や地方銘酒にとって
黄金の日々(昭和五十年代前半~平成の初め)を実際に体験した感覚で平成十年代~現在の酒造・酒販の日本酒業界を見ているからかも知れません。
現在の日本酒業界の方から見ると私の感覚のほうが“異常”なのかも知れませんが、現在の酒造・酒販の日本酒業界が力を傾けている方向には「面白くて楽しいという日本酒本来の魅力」が乏しいように私自身には思えてならないのです。
周囲の人間からも言われるのですが、思い上がりかも知れませんが、私自身ももし現在の私が酒販店の店主に復帰したら以前の私より、比較にならないほどエンドユーザーの消費者にお役に立ち喜んでもらえる酒販店の店主になれるような気がしています。
現在の“会社員の趣味”の範囲であっても、「日本酒は面白くて楽しい」と思ってもらえる“薄からぬ層”の日本酒のファンが私の周囲には存在していますが、私自身の“時間の制約”もあり直接対応できるのは数十人が限界なのです。
しかしもし酒販店の店主に復帰した場合は、「日本酒は面白くて楽しい」と思ってもらえる日本酒のファンを数百人規模までは拡大できるのではないか--------そのような思いも私の中ではゼロではないのです。
たぶん業界に復帰したいという気持は私の中に常にあったと思われるのですが、妻と子供という家族のことを考えると現実的には難しいという判断も常にあったように思われます。
現在大学四年の息子は、来年の四月には新社会人として巣立ちます。
良い父親であったかどうかには自信はまるで持てませんが、父親としての最低限の責任は果たせたとその時に思えるような気がします。
そしてその時以後は、現実的に難しいとして“却下”せざるを得なかった方向の実現に向けての第一歩を私は踏み出すべきなのか----------そのような思いに揺れる今日この頃なのです----------------。