私の中には昔から、私を苦しめるもうひとりの私がいる。
こう書くと、サイコなホラーみたいな感じだけど、
もしかしたらそれに近いのかもしれないけれど😅
でもちょっと違う。
存在に気付いたのは、以前子供たちが不登校になったとき。
楽になりたくて、色々自分を深掘していたら出てきた。
なぜだかとにかく私を苦しめたいみたいだった。
悪魔のような姿をした恐ろしい奴で、話し合ってみたけど駄目だった。
私はその存在に蓋をした。
その後も何度か出会ったけど、その存在の態度は変えられなかった。
でも、何ヶ月か前にまた向き合うことになり、話し合ってみた。
悪魔みたいな姿のソレは、普通の人の姿(大人でも子供でもない男の子っぽい姿)に変化した。
苦しめたいわけじゃない。と言う。
でも、苦しんでこそよりよい人生が送れるのではないのか、とも言った。
衝撃的だった。
それって、私の深層心理の言葉って言うことだから。
私は、心の奥深くで、
「苦しんでこそ!」って思ってるってことだ。
そりゃあ、人生ラクにならないはずだわよ🤣
確かに、親も祖父母もそういう信条の人だった。
人一倍苦労した人が、優しく強い人になれる。
だから、一生懸命説得した。
苦労は買ってでもしろというけれど、そんなのは親や学校の刷り込みだから、やめていいんだよ。
それに、必ずしも、苦労したからって立派な人になるわけじゃない。
最新の研究では、自分を大切にできる人がより良い人生をつかんでいる。
でも、その存在も困っているようだった。
座り込んで海を眺めてぼんやりと、「そんなつもりではなかったのだけど」という。
そっと寄り添って、一緒に生きていくしかないか…と思った。
そもそもそれも私自身なのだから。
それから数ヶ月、
色々あって気が付いた。
私は人生において、成長とか達成感を重視するタイプ。
親には苦労は買ってでもしろと言われて育った。
苦労して成長して達成感を得ることを重要視しているというか、快感に思ってる私がいた。
そりゃあ、苦労することをやめられないよね。
そして、私は、成長や達成することの高揚感みたいなのが欲しいだけで、
成長した自分自身や達成した自分自身には1mmも興味がないことに気が付いた。
自分自身に興味がないって、致命的だと思う。
植物に例えるなら、葉っぱや花には関心が向くけど、根っこのことは完全無視、っていう感じだと思う。
強い葉っぱや美しい花は、根が健康に生育してこそなんだから…。
私はカレに言った
達成感とか成長した実感とか、そういうのは、強い刺激物みたいなもので、もう、そういうのを欲しがる生き方はやめていこうよ。
もっと、足元を大事にしていくほうが重要だから。
それに、より良く生きるために苦労してきたのなら、ここからはそろそろ、実際に良く生きる方にシフトしていけばいいんじゃないかな。
もう、無理して苦労しなくてもいいんだよ。
そう言うと、カレは泣いた。
その日の晩御飯は、ゆっくり味わって食べた。
こういう風に生きたかったとカレは言った。
こういう風に生きていこうねと私は答えた。