“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

憲法96条/統治者には拘束が必要だ

2013年02月25日 15時00分00秒 | 臼蔵の呟き
憲法は、時に政権によって都合よく、たびたび書き換えるような正確の基本法ではありません。日本社会の基本構造を律する根幹の法律です。この社説で言うように、昨年12月の衆議院選挙で3分の2を確保し、今年の参議院選挙で政権与党が3分の2を占め、改憲手続きに入りたい。これが自民党、安倍内閣の戦略です。

日本が中国・アジア侵略戦争後、曲がりなりにも発展でき、他国を侵略し、日本の軍隊組織である自衛隊が海外展開せず、他国の人民を殺害することが無かったその原動力は現行憲法があったからです。

中国、インドが世界人口三分の一を占めるアジアにおいて、日本が政治的、経済的に生きてゆこうとする限り、中国、韓国、インドネシア、インドなどと戦争せず、内政不干渉、平和的な関係を築くことが不可欠です。その根拠となる憲法を改訂して、日本がアジアにおいて軍事国家として台頭し、嫌われることに意味があるかどうかを考えたら分かりそうなものです。時代が進み、明治、大正、昭和の前期のような軍事力で他国を威圧し、海外進出するなどが世界的に通用するはずがありません。自民党、安倍氏の時代錯誤にはただただ驚くばかりです。

<憲法96条/統治者には拘束が必要だ>河北社説

 スポーツで、試合のルールを自分に有利なように変更することは許されない。
 例えば野球で、貧打に悩むチームが「三振」を「四振」に変えてくれと相手チームに持ち掛けても、通るはずがなかろう。
 憲法改正手続きをめぐって、安倍晋三首相がルール変更の必要性を繰り返し主張している。理由は「ハードルが高すぎる」。
 最高権力者が簡単に緩和を口にするようでは、専横とのそしりは免れない。何より、立憲主義に対する理解不足を疑われても仕方がない。
 首相が改憲を志向することの是非は、あえて問わない。だが、衆院選大勝の余勢を駆ってルール変更に動くことは無謀であり、国民的理解も得られない。
 議論になっているのは、憲法改正手続きについて規定している96条。改憲には衆参両院とも総員の3分の2以上の賛成で国会が発議し、承認には「国民投票で過半数の賛成が必要」としている。
 首相はかねて96条を問題視してきた。衆院選前には「たった3分の1を超える国会議員の反対で、発議できないのはおかしい。そういう(改憲に消極的な)横柄な議員には退場してもらう選挙を行うべきだ」と述べた。
 発議に「3分の2以上」という特別多数を求めている点で、日本国憲法は「硬性憲法」といわれる。自民党など改憲肯定派は、これを過半数という単純多数に引き下げることで、改憲に向けた環境整備を図ろうとしている。「軟性憲法」化だ。
 仙台市出身の憲法学者、樋口陽一東大名誉教授は「憲法は権力を持っている人たちを縛り、持たない人の自由を確保するのが主眼」と述べている。
 統治者を拘束する国の最高法規であるからこそ、発議要件は厳格に。これが「硬性」に込められたメッセージだろう。
 発議要件を過半数とした場合、確かに発議は容易になる。だが、今度は政権交代があるたびに与党の意向でいとも簡単に改廃できるようになる。
 「不磨」と同様、「朝令暮改」も憲法を害する行為であることを指摘しておきたい。
 首相にとってのジレンマは96条を変えるにしても、差し当たりは現行の規定に沿って事を進めなければならないことだ。つまり、衆参で3分の2以上の改憲勢力を確保する必要がある。
 自民、公明両党は衆院で325議席を獲得。数字上は可能だが、公明党は発議要件の緩和に慎重だ。このため、改憲に前向きな日本維新の会などとの連携を視野に入れる。
 焦点は参院だ。自民党はことし夏の参院選で「ねじれ状態」の解消はもちろんのこと、民主党内にも一定数いる憲法改正派を糾合して、改憲を政治日程に載せる戦略を描いている。
 であるなら、参院選を「憲法とは何か」という根底的な問いをめぐる国民的議論の場としなければならない。
 「横柄な議員」とは誰のことを言うのか、見極めるのは私たち国民である。
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日銀人事

2013年02月25日 11時00分00秒 | 臼蔵の呟き
中央銀行総裁を党利党略に使うなといいたいですね。自民党の政策に沿った人物を押していることは既定方針です。中央銀行とは何かが追われることにもなると思います。小泉、竹中路線が、日本社会の構造を大きく変え、中間層の没落、弱肉強食・企業淘汰をもたらし、長期にわたるデフレ現象をもたらしました。また、金融機関の不良債権処理においては大手金融機関経営者を免罪し、その責任追及をあいまいにした結果、金融緩和を長期にわたり続けても、自己資本比率維持との関係で企業への貸し出しは増えませんでした。

どの候補者も金融緩和論者、規制緩和、新自由主義者に類する点では共通していることと思います。日本経済、社会の持つ矛盾を分析し、10、20年、50年単位で先を見ながら、構造を改善する金融政策は自民党、新自由主義者には望むべくもありません。もっと、まともで優秀な経済学者、金融の専門家がいるのにです。

<日銀人事>

政府は24日、3月19日に退任する日銀の白川方明総裁の後任にアジア開発銀行(ADB)の黒田東彦総裁(68)を起用する人事案を固めた。安倍晋三首相が掲げる「大胆な金融緩和」を支持しており、国際金融界とも太いパイプを持つため適任と判断した。副総裁には学習院大学の岩田規久男教授(70)を充てる。もう1人の副総裁には日銀から中曽宏理事(59)を昇格させる案を軸に検討。週内に衆参両院に提示する。
 
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科学者の良心と歴史的な役割

2013年02月25日 06時00分00秒 | 臼蔵の呟き
民主党野田政権が「決められない政治」からの脱却と称して、消費税率引き上げ法案の強行成立、TPP交渉参加への地ならし、自公との談合政治、八ツ場ダム工事の再開など自民党野田派に成り下がりました。その結果、国民からの強い批判にさらされ、歴史的な大敗、解党の危機に見舞われています。もともと、多くに議員が自民党、旧民社党議員である民主党議員にしてみれば、古巣である自民党型政治主義者であり、政治的な主張では何の違和感もないのかもしれません。
昨年12月の選挙結果を受けて、自公政権が衆議院絶対過半数を維持している現状では、自民党による数の横暴をとめる力、「決めさせない政治」行動は非常に重要な意味を持っています。この抵抗する勢力、政治行動が日本の歴史、アジアの歴史にとっても重要な意義を持つものとなります。安倍内閣、自民党が最大の政治課題としている「現行憲法改悪」への地ならしを許すかどうかが問われているからです。

御用学者(竹中平蔵、原子力研究における東京大学などなど、多くの最高裁判事)はこの間、自民党型政治、政策の似非正当性を与える役割を果たしてきました。御用学者、マスコミ、自民党政治家(傍系政治家)が集団となり日本社会の世論形成、誘導を行っているのが現状です。その根拠、正当性を与えるときに利用しているのが御用学者です。その御用学者は政権からのえさ=役職、社会的地位、研究費、収入などで手なずけられてきました。

戦争などが起きるたびに戦争に使えわれる技術開発として核兵器、軍事技術としての戦闘機、ロケット、通信技術などが急速に発達してきました。その技術開発に科学者が関り、国家、軍隊に利用(どの国も税金がその資金となっています)されてきました。

全ての科学者の良心、自らの科学技術開発の目的、信念、哲学が問われているのではないかと思います。優れた科学者の多くが、晩年、平和運動、戦争反対の声明、行動をとっていることにも現れています。科学者が、戦争推進勢力に取り込まれないことが重要です。その科学者の存在、主張が自民党型横暴政治を批判し、「決めさせない」政治に正当性、理論的な根拠を与えることは歴史的な価値、重要性があります。マスコミが権力者に取り込まれている社会状況でもあり、あらゆる分野、機会に科学者が多くの国民の権利擁護、生活レベル向上、平和希求に結びつく研究の視点から主張、行動することに歴史価値が生まれています。

<科学者よ、屈するな>

 科学は進歩をもたらすが、時に害悪ももたらします。公害や原発事故などです。それらを避けるには、科学者たちの屈しない姿勢がまず欠かせません。原発については目下、活断層の評価などで、原子力規制委員会と電力会社との間で意見が分かれたりしています。日本は地震国なのだから、国民の納得のゆく結論がぜひほしいところです。
 国策でもあった原子力をめぐっては、当初から学者たちの激しい議論が起きていました。
◆湯川、坂田の委員辞任
 日本初のノーベル賞受賞者湯川秀樹は、請われて就任した原子力委員会の委員(非常勤)を短期で辞任し、やはり物理学者の坂田昌一が原子力委員会の専門部会委員を中途で辞めています。
 湯川の場合、病気静養を理由とし、また引き受けても一年程度という約束もしていたのですが、早期の原子炉導入にはもともと慎重な立場でした。
 坂田の場合、辞任の理由は明白でした。
 自ら委員を務める、原子炉導入を審議する委員会にあてて手紙を出していた。英国コールダーホール型原子炉の東海村導入をめぐり近隣住民の退避を決める際の放射線量の明示と、それをどういうふうに決めたかの審議の内容が公開されないままでは国民に責任がもてない、という内容でした。
 学者として、安全を保証できない、というのです。
 当時科学者らに原子力発電への反対は見られなかったのですが、世界に遅れまいとする積極派と、それよりも安全を重視する慎重派とがありました。積極派は原発推進の政治に同調的でした。
 慎重派は坂田らに代表される動きですが、原子炉ならその設計から材料、万一の放射能漏れへの対処まで自分たちでしっかりとつくるべきだという立場です。
◆政治に負かされたよう
 しかし残念ながら、湯川も坂田も辞めるという行動でしか抗議の意思を表明できなかった。その後を見れば、まるで政治に打ち負かされたようにも思われます。
 いくつもの公害の中でも熊本・水俣病はひどいものでした。
 住民に、メチル水銀の被害が現れ、一九五六年に熊本大医学部は原因としてチッソの工場排水に着目した。その三年後、厚生省(当時)の部会が原因は有機水銀化合物との答申を出す。ところが毒の廃水は海に流され続け、政府の公害認定はさらに九年後でした。
 一体、医師は、科学者は何をしていたのか。科学は人の苦しむのを見て見ぬふりをしていたのか。
 一体、政治、行政、またメディアは何をしていたのか。科学者の責任だけにしておいたのか。
 化学肥料を量産するチッソ水俣工場とは、食料増産を支える国策に違いなかった。しかし、それは苦しむ人々を放置したことにおいて、技術の進歩でも国家の発展でもなかったといえるでしょう。
 原子力は、より大きな国家的目的を与えられてきました。草創期は被爆国ゆえの核の平和利用、オイルショック後には石油の代替、最近の温暖化対策ではクリーンエネルギーであるというように。
 夢のような言葉によって危険は覆い隠されてきたのです。
 原子力規制委は、原発の新基準をつくりつつあります。
 冷ややかに見るのなら、欧州などの国際基準並みにするということなのですが、基準が厳しいほどその達成には当然ながら多額の費用と時間を要します。過去の“欠陥”を直さねばならないのです。
 田中俊一委員長は、「コストがいくらかかるかについて私は全く頭にない」と会見で言い切った。脳裏には科学者の責任があるでしょう。
 思い出されるのは、昨年の米国原子力規制委、ヤツコ委員長の辞任です。福島の事故の後、原発の電源喪失対策を厳しく求め、米国の原子力業界と対立していました。規制委の中で孤立していたともいわれます。
 彼自身に業界や政治を説き伏せるだけの力量がなかったのかもしれません。それは、あまりにも巨大な敵でもありました。
◆科学技術は人のため
 しかし、どうでしょう。
 もし、科学者が日和見になったり、骨抜きにされたら、科学は害悪をもたらすのではないか。それこそが公害の歴史でした。見るべきものを見逃し、唱えるべきことに沈黙してきたのです。
 現代科学の巨大化複雑化は、もはや科学自身が解決できないことすら生んでいるのではないか。そんな議論も聞きます。中でも核エネルギーとは恐るべき破壊力と消えない毒性をもたらすのです。
 科学技術とは、人のためにあるべきものです。だから今度こそ科学者が屈することなどあってはならないと強く思うのです。
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