バーバの極楽トンボ

さー傘壽を超えた・・今からももうひと飛び

現実は小説より奇・・

2008-04-26 12:29:47 | 原爆孤老のつぶやき・・
先日のこと外出先から帰ってパソコンで遊んでいたら原爆のブログにゆきあたった。
長崎の被爆者もマッタク広島と区別無く同じ苦しみを背負っている。

私も63年前の記憶が蘇ってくる。

被爆後の2年間、九州の宮崎県と鹿児島県の県境の鄙びた五十市とゆう所にいた。

そこは戦中日本軍の航空基地あったとかで、終戦すぐ米軍が進駐してきていた。
その小さな町の女性達はアメリカ兵の姿が怖く、まだ平和な気分にはなれなかった。

そんなある日女学生だった私は「ここは危険だから・・」と女学校のある都城に部屋を借りて母と二人で住むことになった。
それでも女の子は素顔は駄目・・と外もあまり出れなかった。

そんな夏の日のある日、この町で唯一のメインストリートをうつむき加減で母に抱えられるようにして歩いていた。
人気のない通りで目ばっかりギョロギョロした大柄な男とヒョロヒョロのひ弱な少年が大きなずだ袋を背負って歩いてくる。   私は怖いもの見たさですれ違うとき、ソーと顔をあげてその二人を見た。  向こうも変な二人ずれをスーとみて、歩を止めることもなく行き過ぎた。

その時私は「あの人、神戸のおじちゃんとMぼんによう似てたね・・」と母に・・私たち二人は振り返ってみた。・・
そのガリガリの亡者みたいな二人も歩を止めて振り返った・・

その瞬間、一瞬の間をおいて、探り合う様な視線が流れ・・四人の叫声が上がった。
飛ぶような仕草で駆け寄った四人は驚きの声と涙で抱き合った。

両方からのわめき声をあげながらひとまず私たちの間借り部屋にかけこんだ、

それからの大人二人の話は本当に神様の仕業としか思えないものだった

叔父の話では、「神戸で戦火に遭い何とか家族全員で近くに建てた掘っ立て小屋で終戦を迎えた。 私たち一族は都会育ちで田舎を持たず、この食糧難では何とかしなければ・・・と偶然下車して歩いていた・・・」と。

お互いの消息は戦時中を境に不明のまま、この瞬間を迎えたのであった。

その時の私たちの喜びはただただ神様に感謝するのみであった。

私は自分が何度も死線を超えて生かされているとゆうことに、不思議な何かを感じた。
生きるべき時は生きるのだ・・・と。自分の運命なんて自分で決めることは出来ないのだと。 そう素直に信じることが出来た。

人はこの世ではすでに決められている道を素直に日々、感謝して生きていけばいい・・死を迎える日もすでに決まっているのだと・・  だから一日一日を大切に充実して過ごそうと・・  神様に感謝して・・・

  合掌