団地夫婦の日々

常盤平団地夫婦の54年、団地内で気付いた事を時々に、妻の料理、私の買い物等

線路を歩く3

2014-06-20 16:58:55 | 日記
目白駅を過ぎて、もうすぐ高田馬場近く目の前に鉄橋が見えて来ました、ここまで一緒に歩いて来た大人たちも、暫らく立ち止まってます、不通ですから渡ってる最中に電車が来る心配は無いのですが、下を流れる神田川の流れは遥か下で、人が鉄橋を渡ることは普通では無い筈、(線路から下へ降りて落合方面から神田川の橋を渡ることは出来たかも知れませんが、大人達一行は高田馬場駅を目指したようです。その時、私が先頭に立って、鉄橋を渡り始めたのです。渡っている間、私は全く平常心で有ったようです。20m位有ったでしょうか、スイスイと軽やかに渡り切った私、着いて来た弟、父達は驚くやら、偉いもんだ!と感心てる様子、平気で渡り切った自分が満足でした。栄養失調で痩せて、沈んだ気持ちが、今もうすぐ自分の家へ帰れるのだと言う思いで、パッと心が明るく弾けた一瞬でした。目の前で父が笑ってました。草津温泉疎開中、宿のご主人が15人の男の子を連れて、草軽電鉄の一駅前のやっとこ町迄野菜の買い出し(草津温泉はお湯は良いが、米、野菜等は出来ない、精々近くの山で山菜が採れる程度で、蕨を採ったり、衛生状況を考えたのか、先生方は「けんのしょうこ」腹の薬?を皆で採集しに行った事もあったっけ)に行く途中草軽電鉄(電鉄の思い出話もいつかしたいと思います)の線路の鉄橋を皆で何回も渡った経験が役に立った。着いた高田馬場周辺は強制撤去で建物が壊されてその周りは皆焼けて、只バラック小屋が目につく元の町の感じ、1年余り前と、変わっては居なかったが、一時も早く遅れる父を振り切るように我が家へと急ぐ自分だった・・続く

線路を歩く2

2014-06-20 10:14:00 | 日記
赤羽から池袋、目白、高田馬場迄高い土手の上から見る東京は、右も左も全く同じ赤茶色の焼け野原が続いていた、只線路だけが正面に2本平行線はずっと先で一本になっていた。3人共殆んど何も喋らず、時々父が私に「大丈夫か?」と気遣う声を何度も掛けてくれたが、「ハイ、大丈夫です」と返事を繰り返していた(集団疎開で家族の会話を忘れてた私、親子の対話もどこか他人行儀で丁寧)小さな体はやせ細ってはいたが(疎開先ではレンガの塊を山奥まで何度も背負って、運んで足腰だけは丈夫になってたようだ)若い体は軽々と線路の枕木をヒョイヒョイと超えて確かな足取りだった。歩き始めて暫らくどの辺りか覚えてないが、線路の右手、土手の脇に、一人のおばさんが屈んで私達に呼び掛ける声「お水をどうぞ、お水です」・・父を見る私・・「秀夫、水貰おう」三人共おばさんに駆け寄り、柄杓の水で喉を潤す、どんな水か解らないがきっと美味かったんだと思うが、なんと親切な人も居たんだなぁ(今のペットボトルの美味しい水にもきっと負けない味だったろう。)池袋、目白、途中の駅も全く何時通り過ぎたか覚えてないが、なお夢中で歩き続けて、東京で見ず知らずの他人の親切に救われて、なおも線路を歩き続けた親子3人だった。続く・・