団地夫婦の日々

常盤平団地夫婦の54年、団地内で気付いた事を時々に、妻の料理、私の買い物等

スーパーの鮎

2014-06-23 20:54:57 | 日記
昼間、南柏駅前のスーパーへ冷やかし(散歩がてら歩数稼ぎに中をうろつく私)に、鮮魚売り場で今日も生鮎(なまあゆ)が沢山並んでる、パックに入ってない、其の侭塩焼き用に丸々と太った鮎(勿論養殖)が、竹の串で波型に打ってあるので、如何にも美味しそう。一匹200円(税別)と手頃と思ったが、今日は小銭を持って無かったので(一匹なら買えたんだが216円、大きいと言っても5000円札だが)止めた。帰途車中で考えた私、丸々太ってどれも値段は200円(税別)鮎たちの中にはメスも入って居るんじゃないか?一瞬そう思ったんだから、食いしん坊は、嫌しん坊・・・家に帰ってネットで鮎の雄雌の見分け方を調べる、出てる出てる、成程尾鰭が鋭い三角の方がメスらしい、シメシメ、この時点では本人、心の中でニンマリ、今度買う時は、尾鰭に注目して選ぶべし、ネットを閉じて夕食終えて、ふと気が付く、???そんな筈無い!業者が出荷するとき、雄雌分けて雄だけを店頭に並ぶようにしてる、これ正解、ガッカリする私、でも良いか・・200円(税別)なら串打ちの姿の美しい雄鮎、明日は妻と一匹づつ鮎の塩焼きで乾杯!といきますか・・でも子持ち鮎は高いが旨いよな~・・

線路から我が家へ

2014-06-21 19:34:24 | 日記
焼け跡に父の建てたバラック住宅、私達3人を母が迎えてくれた。母の眼に一年余りの疎開で痩せ細った我が子の姿がを見て、無事帰って来た安堵の気持ちが交差したか、対面の母の顔は覚えてるが、その後、暫らくの様子には、今全く記憶に無い。只それから数週刊で終戦を迎え、焼け跡の銭湯の煙突の上空をグラマン機が飛来、機胴体から米兵が手を振っているのを見て、思わず手を振ってそれに応えてる自分を思い出した。周りに誰かが居たか不思議に覚えてない。爆音だけ、そして次々上空を通り過ぎて行くアメリカの飛行機を眺めてる自分がいた。屋根も壁も焼けトタンノのバラックに7人の家族の内の一人としての貧しかった、生きるための生活の始まりだった・・(いつか山手線線路で子供の頃の危険な遊びも、草軽電鉄の線路の楽しかった思い出もお話させて下さい)

線路を歩く3

2014-06-20 16:58:55 | 日記
目白駅を過ぎて、もうすぐ高田馬場近く目の前に鉄橋が見えて来ました、ここまで一緒に歩いて来た大人たちも、暫らく立ち止まってます、不通ですから渡ってる最中に電車が来る心配は無いのですが、下を流れる神田川の流れは遥か下で、人が鉄橋を渡ることは普通では無い筈、(線路から下へ降りて落合方面から神田川の橋を渡ることは出来たかも知れませんが、大人達一行は高田馬場駅を目指したようです。その時、私が先頭に立って、鉄橋を渡り始めたのです。渡っている間、私は全く平常心で有ったようです。20m位有ったでしょうか、スイスイと軽やかに渡り切った私、着いて来た弟、父達は驚くやら、偉いもんだ!と感心てる様子、平気で渡り切った自分が満足でした。栄養失調で痩せて、沈んだ気持ちが、今もうすぐ自分の家へ帰れるのだと言う思いで、パッと心が明るく弾けた一瞬でした。目の前で父が笑ってました。草津温泉疎開中、宿のご主人が15人の男の子を連れて、草軽電鉄の一駅前のやっとこ町迄野菜の買い出し(草津温泉はお湯は良いが、米、野菜等は出来ない、精々近くの山で山菜が採れる程度で、蕨を採ったり、衛生状況を考えたのか、先生方は「けんのしょうこ」腹の薬?を皆で採集しに行った事もあったっけ)に行く途中草軽電鉄(電鉄の思い出話もいつかしたいと思います)の線路の鉄橋を皆で何回も渡った経験が役に立った。着いた高田馬場周辺は強制撤去で建物が壊されてその周りは皆焼けて、只バラック小屋が目につく元の町の感じ、1年余り前と、変わっては居なかったが、一時も早く遅れる父を振り切るように我が家へと急ぐ自分だった・・続く

線路を歩く2

2014-06-20 10:14:00 | 日記
赤羽から池袋、目白、高田馬場迄高い土手の上から見る東京は、右も左も全く同じ赤茶色の焼け野原が続いていた、只線路だけが正面に2本平行線はずっと先で一本になっていた。3人共殆んど何も喋らず、時々父が私に「大丈夫か?」と気遣う声を何度も掛けてくれたが、「ハイ、大丈夫です」と返事を繰り返していた(集団疎開で家族の会話を忘れてた私、親子の対話もどこか他人行儀で丁寧)小さな体はやせ細ってはいたが(疎開先ではレンガの塊を山奥まで何度も背負って、運んで足腰だけは丈夫になってたようだ)若い体は軽々と線路の枕木をヒョイヒョイと超えて確かな足取りだった。歩き始めて暫らくどの辺りか覚えてないが、線路の右手、土手の脇に、一人のおばさんが屈んで私達に呼び掛ける声「お水をどうぞ、お水です」・・父を見る私・・「秀夫、水貰おう」三人共おばさんに駆け寄り、柄杓の水で喉を潤す、どんな水か解らないがきっと美味かったんだと思うが、なんと親切な人も居たんだなぁ(今のペットボトルの美味しい水にもきっと負けない味だったろう。)池袋、目白、途中の駅も全く何時通り過ぎたか覚えてないが、なお夢中で歩き続けて、東京で見ず知らずの他人の親切に救われて、なおも線路を歩き続けた親子3人だった。続く・・

線路を歩く

2014-06-19 21:02:14 | 日記
今夜、小田急線が事故で不通となりTVで電車から次々降りて線路の上を歩いて帰る乗客の姿を映してました。それで思い出した70数年前の事を・・・太平洋戦争終戦一か月前、父と私と弟の三人集団疎開先の草津から汽車で故郷高田馬場(当時は淀橋区戸塚3丁目)への帰途、赤羽駅で汽車がストップ、空襲で不通になったのです。私は疎開先草津の旅館で栄養失調と診断され、見かねた父が弟と一緒に私達を連れて帰る途中でした。赤羽駅で他の乗客達と共に線路に降りた私達は高田馬場目指して歩き始めました。未だ午後3時頃だったかと思います、歩き出して土手の上を走る線路の左右、先ず目についたのは、黒ずんで真っ赤な土色した一面の焼け野原、所々すり鉢状の直径5mいや10m位有ったでしょうか大きな穴、父に爆弾の跡だと聞かされましたがビックリしましたが、不思議に何の衝撃も受けた記憶は御座いません。疎開先で体力も気力も無くなって、考える力も無かったようです。又明日書きます。事故に会われたご乗客の皆さん夜道気お付けてお帰り下さい。今夜は此処まで・・