なんだか訳のわからないタイトルです。
私も、まだ十分に咀嚼していませんので、ご批判があればお寄せください、と冒頭から・・・
聖徳太子とは、あの「十七条憲法」を制定されたとされている方だ。全部は覚えていないと思うが「和を以って尊しとする」程度のことは覚えておられるだろう。約1500年ほど前のことだ。日本のことを「和の国」「大和」といい、日本食のことを「和食」という。
議会でも時々起りうることだが、「私はそういう意味で発言したのではない」「本当は反対だったけど」という本音が聞こえてくる。議会だけでなく世間一般のことでもある。
仮に10人で決めることがあるとしよう。いろんな意見が出て、最初は収拾がつかないことがある。このような場合、「そこそこのところで妥協し折り合う」方法と「それぞれの意見の根拠を出し合い、それを1つ1つ検証し、理詰めで結論を出す」方法とがある。学校でも会社でも、自分の意見を言い合えるところは、恐らく後者の方法でものごとが決まっていくだろう。だが、日本ではまだまだ「まれな存在」だ。多くは、前者でものごとが決まっていくところが多い。
そこで、「本当は・・・だったけど」ということが起こり得るのだ。場合によっては、10人の中に一切なかった内容で結論が導き出される場合もある。話し合いの中で「ここらで折り合おう」という雰囲気がかもし出され、個々の思考が横に追いやられ、「集団的思考」が前面に出てくるのだ。
この集団的思考は、日本の歴史の中で、多くを積み重ねてきたのではないかと思う。なんとなく上手く進んできたことも多いだろう。しかし、その逆もあったという。
太平洋戦争の「戦争責任」を問う「東京裁判」というものがあった。そこで、当時の政治指導者の中には「私は反対だったが・・・」とか「みんながそんな雰囲気だった」というような発言をしていることが記録に残っている。「誰かの強い意思ではなく、会議の中の雰囲気」で「開戦(戦争)」につながったというのである。責任回避も甚だしいと思うが、「そのような側面もあったのかも・・」と、日常のものごとの決まり方をみていると感じることもある。
これまでの自公政治も同じようなことが多い。税金の無駄遣いが発覚しても、誰一人責任をとらない。「みんなでなんとなく決めたのだから」「誰か1人の責任ではなく、みんなの責任」という調子だ。中央官僚の場合は、最たるものではないか。
政治家くらいは、責任をあいまいにすべきでないと思うが・・
これだけ不況が続くと「和を以って尊し・・」なんて言っていられない、「責任者出てこい」というふうに、最近の日本人は変化しているのか?
私も、まだ十分に咀嚼していませんので、ご批判があればお寄せください、と冒頭から・・・
聖徳太子とは、あの「十七条憲法」を制定されたとされている方だ。全部は覚えていないと思うが「和を以って尊しとする」程度のことは覚えておられるだろう。約1500年ほど前のことだ。日本のことを「和の国」「大和」といい、日本食のことを「和食」という。
議会でも時々起りうることだが、「私はそういう意味で発言したのではない」「本当は反対だったけど」という本音が聞こえてくる。議会だけでなく世間一般のことでもある。
仮に10人で決めることがあるとしよう。いろんな意見が出て、最初は収拾がつかないことがある。このような場合、「そこそこのところで妥協し折り合う」方法と「それぞれの意見の根拠を出し合い、それを1つ1つ検証し、理詰めで結論を出す」方法とがある。学校でも会社でも、自分の意見を言い合えるところは、恐らく後者の方法でものごとが決まっていくだろう。だが、日本ではまだまだ「まれな存在」だ。多くは、前者でものごとが決まっていくところが多い。
そこで、「本当は・・・だったけど」ということが起こり得るのだ。場合によっては、10人の中に一切なかった内容で結論が導き出される場合もある。話し合いの中で「ここらで折り合おう」という雰囲気がかもし出され、個々の思考が横に追いやられ、「集団的思考」が前面に出てくるのだ。
この集団的思考は、日本の歴史の中で、多くを積み重ねてきたのではないかと思う。なんとなく上手く進んできたことも多いだろう。しかし、その逆もあったという。
太平洋戦争の「戦争責任」を問う「東京裁判」というものがあった。そこで、当時の政治指導者の中には「私は反対だったが・・・」とか「みんながそんな雰囲気だった」というような発言をしていることが記録に残っている。「誰かの強い意思ではなく、会議の中の雰囲気」で「開戦(戦争)」につながったというのである。責任回避も甚だしいと思うが、「そのような側面もあったのかも・・」と、日常のものごとの決まり方をみていると感じることもある。
これまでの自公政治も同じようなことが多い。税金の無駄遣いが発覚しても、誰一人責任をとらない。「みんなでなんとなく決めたのだから」「誰か1人の責任ではなく、みんなの責任」という調子だ。中央官僚の場合は、最たるものではないか。
政治家くらいは、責任をあいまいにすべきでないと思うが・・
これだけ不況が続くと「和を以って尊し・・」なんて言っていられない、「責任者出てこい」というふうに、最近の日本人は変化しているのか?