死に方のコツ
著者 高柳 和江 日本医科大学教授
死ぬのが怖くなくなる101のはなし
☆死ぬときは痛くないようにできている
☆「ご臨終です」のウソ
☆死ぬまでにできること
☆「我慢しましょう」と言われたら
☆日本の医学教育は死を教えない
A.死の瞬間
1.死ぬときは痛くないようにできている
心臓が止まりかけるほどの状態では、血液が脳に十分行かず、酸素不足で頭はぼうっとしている。医師が心電図を見て、「これは危ない」と急いで蘇生の準備を始めるような場合、ご本人はもう、やすらぎの世界へ旅だったあとである。”断末魔の苦しみ”という表現がなくならないのは、死亡直前には外からみて苦しそうな息づかいが始まるためだろうが、ご本人はもう苦しくない。
2.「ご臨終です」と死を告げ、家族がワーッと泣きくずれる・・・。このイメージには重大な間違いがかくされている。
医学的な死の判定は、脈が止まり、息をしなくなり、瞳孔が開いた時点で行う。”死の三徴候”である。
もし、完全にその人の死を確認しようというなら、すべての細胞が死に、完全にその人の死を確認しようというなら、すべての細胞が死に、腐敗するまで待たなければならない。
”まだ途中だけれど、とりあえずここで死んだことにしましょう”現代医学における死の定義である。
3.自然な死に苦しみはない
自然な死、たとえば老衰で亡くなる人の死は本当に穏やかで、ちっとも怖くない。むしろ、祝福したい気持ちになるものである。身体が弱ってくると、生きるのに必要な栄養や水分がうまくとれなくなるため、脱水症状を起こし、意識がふわふわしてくる。
脱水症状は、軽い陶酔感を伴う。植物が自然に枯れていくように穏やかで、ゆっくりとした死、健康に生き、自然に帰られた方々へ贈られる最高のごほう美である。
4.耳は最後まで聞こえる
死ぬ直前は、意識が低下してしまう。でも最後まで耳は聞こえる。身体が弱っているために反応することができないだけだから、あなたが誰かを看取るときは、その手を握って、最後まで
耳元で話しかけてあげたいものだ。
あなたが死ぬときも、最後まであたたかな人の声に包まれて旅だっていけるとは、うれしい話である。
5.”眠り”と”死”の関係
(死)と(眠り)とは同じなんだ。睡眠には”浅い眠り”と”深い眠り”の2種類がある。浅い眠りのときには夢を見る。しかし深く眠ってしまうと脳が完全に休止状態となるから、物音にも反応しなくなり、ゆさぶってもなかなか起きない。
ぐっすり眠った翌朝は気分がいい。たんに疲れがとれたというだけでなく、眠っている間によほどいいことがあったに違いない。死ぬのは、その”よほどいいこと”がずっと続いている状態だと考えることができるのではないだろうか。
6.生まれるほうがずっと大変
出産が近づくと、子宮は規則正しく収縮して胎児を押し出そうとする。そのたびにものすごい力で胎児はしめつけられる。ビルの4階から地上にたたきつけられるのを想像してみてほしい。初産では10時間以上も続く。死はこれよりずっとゆっくり起こる。
死ぬまでの苦痛は、生まれるときよりずっと軽減されており、人によっては何も感じないほどである。
B.死にゆく人びと
☆「死んでゆく人は健康な人にはわからぬ慰めに満たされて、この世に別れを告げ新しい世界にはいっていくような気がします。この大切な瞬間にまわりの人は、自分の気持ちにふりまわされて、この世に引き戻そうとする過ちをおかしがちではないでしょうか」
1.死ぬまでにできること
「もう何もできない」という患者さんに、「いいえ、あなたにはできることがたくさんあります。絵を見ることができる。お芝居を観に行ったり、コーヒーを飲みに出かけることもできる。他の人を励ますこともできる。あなたが望みさえすれば、できることは山のようにあるのですよ」暗く沈んでいた患者さんの表情がはればれしてくるのは何度も経験している。
末期ガンなのに「だいじょうぶですよ」と言われつづけたとしたら、人生の計画が狂ってしまう。
2.動けなくなったときは
たとえば、いちばんおいしかった食べ物や食事の風景を思い浮かべる。詩を覚える。俳句をひねる。人生でいちばん楽しかった思い出を追想する。会いたい人のことを考える。思い切り空想にふける。目が見えなくなっても、耳は最後まで聞こえるから、ラジオを聞いたり、ゆっくりと音楽を楽しむこともできる。
社会とのつながりを保ち、人と人とのつながりの中で生きてこそ人間なのではないだろうか。お化粧をしたり、髪の手入れをしたり、身だしなみを整えるのも、社会的なコミュニケーションのひとつである。
最後の最後まで、可能なかぎりは”生きること”をあきらめずに精一杯やってほしいと思う。
C.病気
☆ストレス管理の上手な人は長く生きる
1.ストレスがかかると免疫機能が落ちて、カゼをひきやすくなるが、ガンにもかかりやすくなる。
ストレスをコントロールするのにいちばん役立つのは、人のやさしさであり、精神的なサポートである。落ち込んだときに黙って話を聞いてくれたり、そばにいるだけで気持ちが落ち着くとか、敏感にあなたの気持ちを察してくれる友人は、あなたの寿命を確実に延ばしてくれる。こういうのを精神的支援ネットワークという。
D.病院
☆日本の医者は病気を治すことにかけては一流だが、”患者さんをうまく死なせる法”については誰からも教わっていない。
1.アメリカの医学教育は、学生は病気よりも先にまず、生命のシステムはどんなふうに維持されているかを、細胞レベルからたたきこまれる。
肝臓学なら健康な肝臓は、病気になるとどう変化するのか、死ぬときはどうなるのか、とダイナミックに学んでいく。
ページを開くとまっさきに「死にゆく患者のための医療的ケア」という章から始まるのもある。
E.痛み
☆死ぬ前にやっておきたいことがたくさんある
1.もう時間がないのだから、とれる痛みはとって、やりたいことを全部やってから死にたいものだ。モルヒネという薬のすばらしいところは、有効期限がないことだ。普通は量を増やすと効きめより副作用のほうが強くなるが、モルヒネは安心していられ、”神様の薬”といわれる。
F.恐怖
☆「エイズになれば99パーセント死ぬ。しかし人は100パーセント死ぬのだと、そう考えたら怖くなくなった」
1.生きている人とは別れるのだが、今まで死んだ人と会えるかもしれないではないか。
死後の世界は誰も知らないのだから、そんなふうに心に思ってもいい。
★あとがきにもあるように、本当は誰もが普段から死のことを知りたいと思っているのでは・・・。自然の中で、人間の営みの一つとして死をとらえていれば、明るく死を語れることができるという。
「毎日、一生懸命生きなくちゃ」と思うひとりです。
著者 高柳 和江 日本医科大学教授
死ぬのが怖くなくなる101のはなし
☆死ぬときは痛くないようにできている
☆「ご臨終です」のウソ
☆死ぬまでにできること
☆「我慢しましょう」と言われたら
☆日本の医学教育は死を教えない
A.死の瞬間
1.死ぬときは痛くないようにできている
心臓が止まりかけるほどの状態では、血液が脳に十分行かず、酸素不足で頭はぼうっとしている。医師が心電図を見て、「これは危ない」と急いで蘇生の準備を始めるような場合、ご本人はもう、やすらぎの世界へ旅だったあとである。”断末魔の苦しみ”という表現がなくならないのは、死亡直前には外からみて苦しそうな息づかいが始まるためだろうが、ご本人はもう苦しくない。
2.「ご臨終です」と死を告げ、家族がワーッと泣きくずれる・・・。このイメージには重大な間違いがかくされている。
医学的な死の判定は、脈が止まり、息をしなくなり、瞳孔が開いた時点で行う。”死の三徴候”である。
もし、完全にその人の死を確認しようというなら、すべての細胞が死に、完全にその人の死を確認しようというなら、すべての細胞が死に、腐敗するまで待たなければならない。
”まだ途中だけれど、とりあえずここで死んだことにしましょう”現代医学における死の定義である。
3.自然な死に苦しみはない
自然な死、たとえば老衰で亡くなる人の死は本当に穏やかで、ちっとも怖くない。むしろ、祝福したい気持ちになるものである。身体が弱ってくると、生きるのに必要な栄養や水分がうまくとれなくなるため、脱水症状を起こし、意識がふわふわしてくる。
脱水症状は、軽い陶酔感を伴う。植物が自然に枯れていくように穏やかで、ゆっくりとした死、健康に生き、自然に帰られた方々へ贈られる最高のごほう美である。
4.耳は最後まで聞こえる
死ぬ直前は、意識が低下してしまう。でも最後まで耳は聞こえる。身体が弱っているために反応することができないだけだから、あなたが誰かを看取るときは、その手を握って、最後まで
耳元で話しかけてあげたいものだ。
あなたが死ぬときも、最後まであたたかな人の声に包まれて旅だっていけるとは、うれしい話である。
5.”眠り”と”死”の関係
(死)と(眠り)とは同じなんだ。睡眠には”浅い眠り”と”深い眠り”の2種類がある。浅い眠りのときには夢を見る。しかし深く眠ってしまうと脳が完全に休止状態となるから、物音にも反応しなくなり、ゆさぶってもなかなか起きない。
ぐっすり眠った翌朝は気分がいい。たんに疲れがとれたというだけでなく、眠っている間によほどいいことがあったに違いない。死ぬのは、その”よほどいいこと”がずっと続いている状態だと考えることができるのではないだろうか。
6.生まれるほうがずっと大変
出産が近づくと、子宮は規則正しく収縮して胎児を押し出そうとする。そのたびにものすごい力で胎児はしめつけられる。ビルの4階から地上にたたきつけられるのを想像してみてほしい。初産では10時間以上も続く。死はこれよりずっとゆっくり起こる。
死ぬまでの苦痛は、生まれるときよりずっと軽減されており、人によっては何も感じないほどである。
B.死にゆく人びと
☆「死んでゆく人は健康な人にはわからぬ慰めに満たされて、この世に別れを告げ新しい世界にはいっていくような気がします。この大切な瞬間にまわりの人は、自分の気持ちにふりまわされて、この世に引き戻そうとする過ちをおかしがちではないでしょうか」
1.死ぬまでにできること
「もう何もできない」という患者さんに、「いいえ、あなたにはできることがたくさんあります。絵を見ることができる。お芝居を観に行ったり、コーヒーを飲みに出かけることもできる。他の人を励ますこともできる。あなたが望みさえすれば、できることは山のようにあるのですよ」暗く沈んでいた患者さんの表情がはればれしてくるのは何度も経験している。
末期ガンなのに「だいじょうぶですよ」と言われつづけたとしたら、人生の計画が狂ってしまう。
2.動けなくなったときは
たとえば、いちばんおいしかった食べ物や食事の風景を思い浮かべる。詩を覚える。俳句をひねる。人生でいちばん楽しかった思い出を追想する。会いたい人のことを考える。思い切り空想にふける。目が見えなくなっても、耳は最後まで聞こえるから、ラジオを聞いたり、ゆっくりと音楽を楽しむこともできる。
社会とのつながりを保ち、人と人とのつながりの中で生きてこそ人間なのではないだろうか。お化粧をしたり、髪の手入れをしたり、身だしなみを整えるのも、社会的なコミュニケーションのひとつである。
最後の最後まで、可能なかぎりは”生きること”をあきらめずに精一杯やってほしいと思う。
C.病気
☆ストレス管理の上手な人は長く生きる
1.ストレスがかかると免疫機能が落ちて、カゼをひきやすくなるが、ガンにもかかりやすくなる。
ストレスをコントロールするのにいちばん役立つのは、人のやさしさであり、精神的なサポートである。落ち込んだときに黙って話を聞いてくれたり、そばにいるだけで気持ちが落ち着くとか、敏感にあなたの気持ちを察してくれる友人は、あなたの寿命を確実に延ばしてくれる。こういうのを精神的支援ネットワークという。
D.病院
☆日本の医者は病気を治すことにかけては一流だが、”患者さんをうまく死なせる法”については誰からも教わっていない。
1.アメリカの医学教育は、学生は病気よりも先にまず、生命のシステムはどんなふうに維持されているかを、細胞レベルからたたきこまれる。
肝臓学なら健康な肝臓は、病気になるとどう変化するのか、死ぬときはどうなるのか、とダイナミックに学んでいく。
ページを開くとまっさきに「死にゆく患者のための医療的ケア」という章から始まるのもある。
E.痛み
☆死ぬ前にやっておきたいことがたくさんある
1.もう時間がないのだから、とれる痛みはとって、やりたいことを全部やってから死にたいものだ。モルヒネという薬のすばらしいところは、有効期限がないことだ。普通は量を増やすと効きめより副作用のほうが強くなるが、モルヒネは安心していられ、”神様の薬”といわれる。
F.恐怖
☆「エイズになれば99パーセント死ぬ。しかし人は100パーセント死ぬのだと、そう考えたら怖くなくなった」
1.生きている人とは別れるのだが、今まで死んだ人と会えるかもしれないではないか。
死後の世界は誰も知らないのだから、そんなふうに心に思ってもいい。
★あとがきにもあるように、本当は誰もが普段から死のことを知りたいと思っているのでは・・・。自然の中で、人間の営みの一つとして死をとらえていれば、明るく死を語れることができるという。
「毎日、一生懸命生きなくちゃ」と思うひとりです。
美味しいお寿司を頂き、笑いと共に楽しく話をさせて貰える場所にまた行きたいと思います。
「今日が良ければ明日も良し」同感です。
いつもコメント有難うございます。
なくてわ!何時死がおと連れる日までストレスをためずに生きていこうと思う。今日が良ければ明日も良し!ママさんたちのおかげで生きる喜びを感じています。ありがとう!感謝感謝!畠田
この世での生き方、まだ志半ば、もう少し後で答えられると思います。自分の器に合った生き方を
だれもが直面する課題ではあるのに、現代人は死を直視していないように思います。
現代、科学の時代は、物理的に証明できないことや頭で理解しがたいことを嫌い思考を止める傾向にあります。
そして死を「人の終わり」として解釈し「死んだら終わり」と言う人が多いです。
痛さを感じる以外は、人の死と機械やロボットの機能停止と同様に考えているようです。
人と機械との違いは、考えることができ、自分が自分の主人になったり、召使になったりできることだと思います。
疑問は、「考える自分」が死と同時になくなるか?
そうは思えません。
母が突然の我が子の死にあった時、「どこかで生きている」と言い切る言葉は、母の単なる願いにすぎないのでしょうか。
そうは思いません。その言葉の中に真実があるのでは?
「考える自分」「どこかで生きている」それを仮に魂というなら「魂はどこかで生きている」
母は身ごもって、誕生までに魂を呼び寄せ、月が満ちて人の誕生となります。
融通無碍で自由闊達な魂が、敢えて四苦八苦の生を選んで肉体に宿る意味は何でしょうか?
それは、別に不思議なことでも何でもなく、人が自分自身を見つめ自分を活かすために敢えて覚悟し苦難の道を選択することに似ています。
まさに人の誕生とは、勝手に親が生んだなんてものではありません。
魂が自己実現のために四苦八苦を背負って生きることの誓いであり、決意であると言えのではないでしょうか。
とは言え、誓いや決意も月が満ちる間に、不安と孤独の中でその選択に後悔の気持ちも持つでしょう。
赤ちゃんが産湯の中で泣き止まないのは、誓いと決意の裏返しで先行きの不安と後悔の気持ちの表れです。
気高い生前の誓いと決意に反して、人生の中で物への執着、出世欲、名誉欲、酒欲、色欲、賭博欲、ありとあらゆるこの世の環境「欲」に肉体を持つ身は翻弄され続けます。
そして肉体の終末を迎えたとき、魂は来たところに戻っていきます。
この世での生き方を後悔しますか?
自分を褒めますか?
「死」とは、肉体の終わりではありますが、魂の卒業式でもあります。
肉体が終わること自体は怖くはないですが、「この世にいる間に自分の魂を成長させることができたか」
それを問われることのほうがはるかに怖いことです。
「毎日一生懸命生きなくちゃ」の本当の意味だと思います。
その恐怖を思うと、肉体の死への恐れなど吹き飛んでしまう気がします。