tyakoの茶の湯往来

日常生活の中から茶道の事を中心に、花の事、旅の事、そして、本や写真の事など、気ままに書いて見ようと思ってます。

坂下宿から鈴鹿峠をへて土山宿まで歩く・・・

2021-04-04 16:46:24 | 東海道五十三次の旅

4月4日(日)

朝から曇り空ですが、穏やかで暖かな一日でしたが、午後からポツリポツリと降ってきました。

今日も、東海道五十三次散歩の2日目の備忘録です。

第二日目(3月27日)

昨日のゴール地点西の追分まで、バスで送って貰って気持ちも新たに出発です。

西の追分

ここで準備運動をして、鈴鹿峠へと歩き始めました。

転び石

何処にでもある民話的伝承の石ですが、江戸時代には「東海道名所絵会」にも登場するほどの石だったそうですが、どう見てもただの石にしか見えません。

山から転げ落ちて来た石が、夜になると「山に戻りたい」と唸り声をあげて、近隣の人達を恐れさせていたところに、弘法大師が通りかかり、石を供養したところ静かになったという逸話が残っているそうです。

一里塚

坂道を歩いていると、ポツンと一里塚の石碑が建っておりました。

「一ノ瀬の一里塚」と呼ばれ日本橋から107里目ですが、石碑がひとつ建っているだけでした。

以前、街道歩きの講師の先生が、「こうして街道を歩いていると、その地区の人達の街道への関心度がよくわかります」と言っていた事を思いだしました。

この一里塚の先の一里塚は、このあたりと云うだけで何も有りませんでした。

坂下宿

このあたりから坂下宿になろうかというところですが、緩やかな坂道にも歴史が感じられる道です。

この宿場は、鈴鹿峠の麓のあるので「坂下宿」と呼ばれ、本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠48軒、問屋場1軒があり、規模の小さな宿としては、鈴鹿峠を控え多くの旅人や大名が宿泊したので活気のある宿場であったと言われております。

明治23年に鉄道が開通し、宿場は急速に衰退して、今は往時の面影は全くなく、空き家や荒れ果てた茶畑ばかりが目に付くほどで、講師の先生は、「限界集落になりつつあります。」と言っておりましたが、すぐ下は、国道一号線が通り、車がビュンビュンと走っております。

松屋本陣跡

宿場には必ず本陣がありましたが、ここの本陣も時代の移り変わりの中で取り壊され空き地になっておりました。

江戸時代は、峠を控えた人、峠から下って来た人たちで賑わっていたと云われております。

法安寺

鈴鹿峠を控え、旅人はここで旅の安全を祈願していった事だと思います。

この寺の玄関は、松屋本陣の玄関を移築したものだそうです。

峠へ

ダラダラとした坂道が続いております。

いつ峠になるのだろう??こんな思いを抱きながら歩いております。

岩谷十一面観音

大きく立派な石碑が建っておりました。

瀧の地蔵

岩谷十一面観は、街道から川にでも下りて行くように入って行くと小さなお堂があり、ここに阿弥陀如来、十一面観音、延命地蔵の三体が祀られておりました。

左側に小さな滝がこぼれ落ちるようにあることから、「瀧の地蔵」とも呼ばれていたといいます。

こんな小さな変化にも、当時の旅人は心躍らせて見物していたのでしょう。

片山神社入口

ここから鈴鹿峠に入るという事で気持ちを引き締めて歩き始めました。

この手前に、江戸から107番目の一里塚があったといいますが、今はどこだかわからないという事でした。

参道

片山神社の入口から、急に山道になり、いよいよ峠か・・・

なだらかな坂道が続いております。

片山神社

古くは「鈴鹿明神」「鈴鹿権現」などとも呼ばれており、延喜式内社として古くから信仰を集めてりました。

緑濃い自然の中に建ち、訪れる人々に神聖な場所であることを感じさせてくれる所でもあり、東海道を旅する人々からは、特別な思いで敬われており、幾多の旅の記録に登場しております

ここは、鈴鹿流なぎなた術発祥地の碑が建っておりました。

現在は、本殿など焼け落ちてしまい跡形もない状態です。

どなたか再建してくれるお方は現れないでしょうか・・・

案内板

頼りないほどの案内板が建っておりました。

同行の皆さんは、舗装された反対方向へ行こうとしておりましたが、案内をして頂いた講師の先生に「こちらです」と言われて、振り向いた先は急こう配の山道でした。

ここ鈴鹿峠道が官道として整備されたのは、仁和2年だそうで、歩きながら「これが道か・・・」と思うほどでした。

芭蕉句碑

鈴鹿峠の「標高は、378mで8丁27曲がりにして、道狭く険し、清水所々に湧きて雨の日は越えがたかるべし」と云われる山道には、ところどころに石が敷かれ「東の箱根・西の鈴鹿」といわれた難所だったといわれておりました。

芭蕉句碑には、「ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山」と刻まれております。

水飲み鉢

馬の水飲み場ですが、復元された物だそうです。

よく見たら、コンクリート製でした。

峠の頂上

大汗をかき、息も絶え絶えといった風に歩いていると、「ハィ!頂上です」という先生の声で我に返ったようで、「え!!」ホッとする気持ちと「何だ!大したことないじゃない」という気持ちが交錯しておりました。

何といっても箱根を歩いているので・・・

ここに田村神社や茶屋が6件ほどあったそうですが、今は何もありません。

後続の人達を待って再び歩き始めました。

県境

三重県と滋賀県の県境の碑がたっておりました。

滋賀県に入りました。

標識

東海道らしい標識が建っておりました。

鈴鹿峠も下り坂になり、足取りも軽く土山宿を目指します。

万人講常夜燈

鈴鹿峠を越えた所に自然石を積んだ大きな常夜燈がありました。

現代のものかと思ったら、江戸時代に金毘羅詣での講中が道中の安全を祈願して建立したそうです。

重さ38トン、高さ5.44mありますが、江戸時代どんな風に運んで積み上げたのでしょう。

鈴鹿トンネルの工事のために今のところに移されたそうです。

道路標識

峠を下りきると、こうした道路標識が見に入ります。

少し前まで、木々に囲まれた難儀な山道を歩いていたのが嘘のようです。

マンホール

土山町のマンホールです。

雉と椿がデザインされております。

一里塚

中山の一里塚と呼ばれ、日本橋から109里目の一里塚です。

今は公園になっておりました。

鈴鹿馬子唄

鈴鹿馬子唄はあまりにも有名で、全国大会が開催されるほどになっております。

鈴鹿峠を行き来する馬子の仕事唄で、江戸の初期から唄われており、江戸中期には、歌舞伎や人形浄瑠璃などに取り入れられて広く知れ渡ったと云われております。

「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る・・・」と唄われていた土山宿ももうすぐです。

猪鼻村立場

この辺りは、猪鼻村立場といったところで、村の中を東海道が610mに渡って通り、50件ほどの家が並んでいたそうです。

浄福寺

とりわけ有名ではありませんが、境内に赤穂浪士の大高源吾が江戸に向かう折に詠んだという句碑が建てられております。

いの花や 早稲のもまるる 山おろし   子葉(俳号)

大高源吾と云えば、やはり、俳句の師匠でもある其角と両国橋の上でばったりと会い、其角が「年の瀬や 水の流れと人の身は」と発すると、その呼びかけに源吾が答える「あしたまたるる その宝船」と詠みかえしたという話が有名です。

見事本懐を遂げる源吾、句の謎が解けた其角・・・面白いですね。

蟹坂古戦場

天文11年に、伊勢の北畠氏が甲賀に進出しようと企て攻め込んだところ、中山城主の中山氏に阻まれて、一進一退を繰り返して、中山氏が勝利を収めて、北畠氏の甲賀進出を阻んだという古戦場です。

田村川橋(現・街道橋)

田村川に架かる今の街道橋は、江戸時代は田村川橋と呼んでいたそうですが、この橋ができるまでは、下流600mほどの所を徒渡ししており、増水の度に事故も多かったと伝えられております。

土山宿の人々は、架橋することを幕府に願い出て許可が出ると、資金を集めて橋を架け、橋には番所を設けて渡る人から料金を徴収して、修理や架け替えの費用にしたそうです

旅人は、この橋を渡り、田村神社の参道を通って土山宿に入って行った。

東海道

橋を渡ると旅人は、左に曲がり土山宿へと入って行きますが、旅の人達は、これだけの神社の前を素通りする人は、まず、いないと思いますので、神社にお参りを済ませて参道をお借りして通って行ったと思います。

田村神社

嵯峨天皇の勅願で創設されたと伝えられている神社です。

鈴鹿峠の山賊退治で有名な坂上田村麻呂や嵯峨天皇を祀る由緒ある神社で、鈴鹿峠山頂に鎮座しておりましたが、後年この地に移築されたと伝えられております。

二の鳥居

私達は東海道を歩いて神社にお参りしましたから、二の鳥居から参道を入って行きました。

正面に見えるのが本殿です。

お参りを済ませて、参道を歩いて正面の大鳥居から出て、本日の街道歩きは終わりました。

ここからバスに乗って、ホテルに入ります。

歩いた距離は、15.7k

歩いた歩数は、23.980歩でした。

コメント (4)
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