昭和7年(1932)5歳になった私は親しんでいた隣の幼な友だちの女の子とも別れて父の勤務先の伊北村只見(いほうむらただみ)に移り住みました。住居は新築したばかりの空き屋を借りていました。庭には屋根のついた井戸がありました。初めて見る井戸です。麻縄につけられた桶のつるべを滑車で曳いて井戸の水を汲み上げていたのです。深い井戸の底を見ると水面がかすかに光って見えてなぜか神秘的でした。幼い私はいつも井戸の底を見るのが好きでした。
お隣の家は鍛冶屋さんでした、ふいごで炎を上げる炭火で真っ赤に焼いた鉄を叩いて鉈や鎌などの刃物や鍬などを作ったり修理したりしていました。初めて見る鍛冶の仕事です。珍しくて興味しんしん暇ががあればいつも眺めていました。
娘さんが3人ほどいたんですけどちよっと清潔感に欠けて見え性格も少し粗々しくて友達にはなれませんでした。その代わり「てつお」という同い歳の男の友達が出来ました。彼は5月生まれ私は翌年の1月生まれ、幼い5歳の頃は同い歳といっても生まれ月が8ヶ月も違うと熟年成長の差は大きいんです。当然リーダーは「てつお」でした。
サワガニのことや、山の美味しいアケビや野葡萄のことなどみな「てつお」が教えてくれました。
こんなことがありました。私の家の裏の森の道を行くと滔々と流れる只見川がありました。そして川の向こうは豊かな林の茂る山地でした。村の人達は川のこちら側と向こうの山地側には鉄索(てっさく)というものを作ってそれを利用して人々は川向かいの山地と往来していました。
鉄索というのは川のこちら側と向こうの山地側に櫓(やぐら)を組みそこに鉄のワイヤーを取り付けて、ワイヤーに滑車をつけた大きな籠(かご)状のものを取り付けワイヤーをたぐって人や荷物を載せた籠を移動させて川を越えて移動していたのです。移動に使うロープもついていたと思います。でも危険ですので子供は触れないことが不文律になっていました。
あるとき「てつお」は私を連れて二人でこちら側の櫓につながれていた大きな籠(かご)に乗って遊んでいました。すると籠の止めがはづれたんでしょうね二人をのせた籠がするすると向こう岸に向かって移動し鉄索のちょうど真ん中へんで止まってしまったのです。
真下は激しく流れる只見川の流れです怖いですい。私は怖くて激しく泣きました。しかし(てつお)は泣きません。すっくと立ち上がってロープを引いて籠を移動させようとするのです。でも5歳の子供です、ロープにうまく手がとどかないのです。でも(てつお)は雄々しく揺れる籠の上に立ってロープをつかもうと努力するのです。その姿に感動して私も泣くのを止めました。
しばらくすると大人の声で「動くな座っていろ」と怒鳴る声が聞こえてきました。なんと(てつお)の父親の声でした。そしてロープをたぐって籠を櫓に引き寄せてくれました。つくと同時に(てつお)は激しく父に頭を打たれました。でも(てつお)は涙もみせず声も上げませんでした。父親は私にむかって優しく「ごめんな、無事でよっかたね」と言いました。私は雄々しい(てつお君)に感動してしまいました。
やがって50歳近くになって古里只見をおとづれて(てつお君)にあいました。(てつお君)は村の将来を託される有志の村会議員になっていました。
「栴檀は双葉より芳しい」といいますよね。
大器はやっぱり幼いころから立派なんですよね!、私は今でも(てつおさん)への深い尊敬の念を持ち続けているんですよ。
伊北村只見の懐かしい思い出がもうひとつあるんです。それは明日書くことに致します。
引き返そうとしたけどロープに手が届かなかった。スリリングなシーンが目に浮かぶようです。彼の父さんも肝を冷やされたことでしょう。
定年後旅行した奈良県十津川の吊り橋を思い出します。
ひ弱な私など何処へ行ってもいつでもリードして守ってくれる友が居ました。伊北村只見から大川村小立岩に移住しても「トクオ君」という友がいて私を守りリードしてくれました。懐かしいです。」
そのおかげで、辛抱強さがついたと思います。(笑)
三太郎さん周囲の自然豊かな環境が素晴らしいですね。