さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

デントコーン(飼料トウモロコシ)畑の茂る頃

2021-08-16 | 日記

その季節になると私はいつも昭和20年(1945)のいろんなことが思い浮かぶんです。

その年はあの狂気の太平洋戦争が敗戦で終わった最後の年なんです。
前年の昭和19年にはサイパン島の日本軍が全滅し、アメリカ軍はたちまちそこにB29の基地を作り日本全土がB29の爆撃圏内に入りました。またフィリピン沖海戦などで日本海軍は大敗北し日本海軍は壊滅して艦隊による戦いは出来なくなり、海の戦いはゼロ戦などの戦闘機に爆弾をつけて自爆攻撃する特攻攻撃戦で行われるようになりました。

その年の1月3日私は18歳になったのです。

その年の1月私たちは学業を休んで横浜の磯子区にある軍需工場で働くことになりました。工場の寮に入って明日から働く工場を見学すると広い工場内に旋盤やフライス盤などが整然と並び工員の方が真剣に作業をしていました。よし俺も頑張るぞと決意しました。

工場はゼロ戦に搭載する20mm機関砲を作っていたのです。秘やかに月産400挺とささやかれ裏山では毎日機関砲の試射の連続音が聞こえていました。

そして夜の食堂で出された食事はなんと赤飯でした。工場では私たち学徒を歓迎してくださっている。と感動して一口食べたとたんそれは大変な間違いだとわかりました。赤飯と思ったのは満州産のこうりゃん飯だったのです。これで私たちは前途の多難を思い知りました。

2月になると情況は変わってきました。工場内のストーブは炊かなくなりました。2月の厳しい寒さに耐えて作業しなければなりません。食事の量もぐんと少なくなりました。

風呂に入った記憶はありません。学徒の着替える下着など少ないんです。学徒全員がみなキヌシラミにたかられて苦しんでいました。

2月末になると秘やかに「満足な機関砲の完成」は月4挺と話されていました。原材料の不足と熟練の工員が多く軍にとられたことが原因だったんでしょうね。

3月になると工場内はは異常に厳しくなりました。作業に取りかかる前に整列して、軍から派遣されたひとから「若者は大君のため、国のために死を賭して戦う決意をもたなければならない」というような訓示をうけて「海ゆかば水く屍、山ゆかば草むす屍、大君の辺にこそしなめかえりみわせじ」と歌わされました。

歌いながら前の級友のエリを見るとキヌシラミが1匹2匹がエリを出入りしているんです。私は疲れ切っていました。でも「大君の辺にこそ死なめかえり見はせじ」と歌いながら死ぬのが怖いなんて少しも思いませんでした。死への感懐などまったくなかったのです。
無関心でした,

寮の部屋は学友が6人ほど一緒でした。あるとき4人ほどで車座で話し合っていた時のことです、誰かのポケットから炒り豆が1個みんなの前に転がり出たのです。空腹に耐えていた4人の目はその豆に集中して注がれ異常な雰囲気になりました。どこにでもしっかりしたリーダーはいるものです。その人の一声「ジャンケンだ」にことは解決しました。当時から76年も過ぎ94歳になった爺いの思い出のひとつです。

3月のある夜眠りについて間もなくサイレンがなって「待避」の声がありました。戸を開けて空を見ると追浜基地からの探照灯に照らされたB29の編隊が東に向かって飛んでいるのが見えました。そして基地高射砲の打ち上げて弾丸は爆発して出来た弾幕があらぬところに出来ていました。その爆発の破片が「パカッ」「パカッ」と厳しい音をたててあちこち落下していました。私は怖くなって全力で走って裏山に掘られた横穴の防空壕に逃げ込みました。朝になって分かったんですけどどこかの大学の学生が一人落下してきた高射砲弾の破片にあたって死亡したことが分かりました。

防空壕の入り口で東の空を見ていると空が夕焼けのように真っ赤になりました。横浜か東京かのどこかの街が空襲の火災で燃え上がっているんですね。でも疲れ切って人の心を失ってしまった私はただぼんやりと夕焼けみたいと見ていました。燃え上がる街の猛火中で何万人もの人が焼け死んでいることなどに思いが至らないんですよ。恐ろしいことです。

3月末になるとついに私たち学徒は兵器工場を去って北海道十勝の農家に宿泊して援農作業をすることになりました。それで1週間ほどの帰省することを許されました。途中の列車から見た横浜から東京は見渡す限り爆撃による廃墟になっていました。

家に帰ると母は私の下着を全部脱がせて盥に入れて熱湯をかけました、母は悲鳴をあげました。赤くなって死んだシラミが何匹も見え、縫い目にはキラキラとうみつけられたシラミの卵が光って見えたのです。

焦土となった横浜東京の情況を知った父は誰もいないところで「さんたろうこの戦争は必ず負ける。でも決して死ぬなよ」と言いました。そんなこと人に知れたら密告され特高警察か憲兵につかまり非国民(反日分子)として激しい拷問を受けるのが当時の日本でした。

昭和20年四月半ばの頃の夜、私たち学徒は援農作業をする北海道十勝の大樹村(現町)につきました。そしてそれぞれ宿泊援農する家に案内されました。

私の配当された家は村からちょっと離れた場所の一軒屋で30歳代のご夫婦に小学校1年と3歳の女の子、それに馬2頭、乳牛2頭のお宅でした。決して裕福ではありませんけど。心温かなご家族でした。ご主人ご夫婦は私を本当の家族同様に扱ってくださったし、二 頭たての馬にプラオ(鋤)を曳かせ広い畑地の耕耘のしかたや除草の仕方、搾乳の仕方などをを優しく丁寧におそえてくださいました。また女の子はまるで私を兄のように慕ってくれました。食事はといえば白米こそありませんけど黄色いキビのご飯を腹いっぱい食べることが出来たし、絞りたての牛乳もたくさん飲んでいました、。ご主人と一緒にするしごとは楽しいものでした。私はすぐに二頭立ての馬にプラオを曳かせての耕耘の仕事を一人前にできるょうにないました。休日には女の子と原野に遊んでスズランの花を愉しみ行者ニンニクを摘んだりして愉しみました。

豊かな十勝の自然と温かいご家族にかこまれて生活しているうちに横浜時代の狂気の心は癒やされてだんだんと優しい人の心が蘇ってきました。横浜時代死ぬなって少しも怖くなかったのに死ぬのが怖くなってきたのです。数年後に死がくるであろう日本の現状はかわってません。」死ぬってどんなことなんだろう」「死んだらどうなるんだろう」「なぜ大君のために死ななければならないんだろう」など夜になるお真剣に考えるようになったのです。夜眠る前そんなこを考えて悩み苦しむようになったのです。ほんとうにほんとうに死ぬのが怖くなったのです。

そして昭和20年8月15日です。重大な玉音放送があるので学徒は村の集会所に集まれということで級友たちと一緒に玉音放送を聞きました。放送の質が悪くすべてを明瞭に聞きとれたわけではありませんけど、戦争が負けて終わったことだけはしっかりと聞き取れました。

ショックでした。級友たちの様子はふたつに割れました。知力体力にすぐれ愛国心いっぱいの友は卒業したら陸軍なら予備士官学校、海軍なら予備学生に進み士官になって国のために尽くそうと思っていました。そういう友は敗戦の情況を悲憤慷慨していました。またわりと温和な性格の友はこれからどうなるんだろう、これからどうすればいいんだろうと静かに思い悩んでいるようでした。共通していることはこれからどうなるんだろうかということです。友人達は真剣に話しあっていました、わたしはそのはなしの中には入らずだまって聞いていました。

帰り道広々と広がるデントコーン畑で誰もいないことを確かめて「おれは死ななくてもよくなったんだー 」と大声で叫びました。喜びがからだいっぱいに満ち満ちました。嬉しかったんですよ。世界が明るくなったんですよ。

75年前18歳だった私の思い出です。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿