幕末の博徒・下田大岩(別名・赤鬼金平)は伊豆国賀茂郡下田の生まれという。生年は文政3年(1820年)といわれ、伊豆国下田本郷村の百姓藤右衛門の次男として生まれた。
若い頃、菩提寺である海善寺住職との地縁によって、当寺で修行も行い、一時は僧籍を名乗ったりしたこともあったという。しかし生来の元気さは押さえられることもなく、大場久八に見込まれて、ついには地元では有数の遊侠の徒となった。
一時、髪結い業など正業も営んだが、その後に無宿渡世へ入り、大場久八の盃を貰って子分となり、大場久八の一の子分と言われる博徒になった。、徐々に地元下田から縄張りを拡大して、伊豆方面では久八を凌ぐ武闘派博徒に成長した。
縄張りである下田には、嘉永7年(1854年)ペリーが来航して、日米和親条約が締結された。その結果、下田は開港して、ここに領事館が設置された。金平が34歳のときである。
それから6年後、森石松を殺したことで清水次郎長に追われていた都田吉兵衛に応援を頼まれ味方して、万延元年(1860年)9月19日夜、金平・吉兵衛連合で、沼津から船で駿河湾を渡り、清水次郎長の本拠地を襲った。
襲撃当日は、次郎長は癪の病のため、実家に戻って療養中、自宅はもぬけのカラだった。襲撃部隊は、これを清水一家のワナと勘違いして、襲撃を中止して沼津に引き揚げた。
赤鬼金平の兄弟分に長楽寺清兵衛がいる。清兵衛は金平より7歳年下である。清兵衛は武闘派の金平とは異なり、争いごとが嫌いで、極めておとなしく、評判の良い博徒であった。
博徒名 下田大岩または赤鬼金平と呼ばれた
本 名 村島金平
生没年 文政3年(1820年)~明治2年(1869年)
下田で死去。行年49歳
下田大岩は明治2年(1869年)5月25日に没する。死因は不明、行年49歳である。墓は静岡県下田市の浄土宗海善寺にある。
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墓側面には孤屋清與信士とあり、明治2年5月25日、村島金平と刻んである。

墓の左側面には明治元年6月28日の建とある。写真は側面である。

写真は下田大岩(赤鬼金平)の墓である。