写真は福山黙童の墓 豊川市御津町西方 東光寺内にある。
参考記事・左をクリック。東三河を歩こう
愛知県の豊川稲荷は京都の伏見稲荷と並んで有名なお稲荷さんである。しかし豊川稲荷は神社でなく、永平寺を総本山とする曹洞宗の寺院である。正式名を「円福山豊川閣妙厳寺」という。
この妙厳寺の中興の祖と言われる有名な和尚で「黙童禅師」という僧侶がいた。黙童禅師は、最終的には永平寺の貫主に就任し、福山黙童と名乗った人である。黙童は天保12年(1841年)5月11日三河国宝飯郡西方村の庄屋である父・小林伝六郎と母・すみの四男として出生した。母親のすみは、若い頃から信仰心の強い女性で、実家のある三谷(現・蒲郡市三谷町)近くの丹野御堂山の観音堂参りを欠かさず、堂近くにある菩提樹の実で数珠を作り、嫁入りのとき持参したという。
(本名) 小林 仲吉郎
(僧名) 福山 黙童
(生没年)天保12年(1841年)~大正5年(1916年)
九州長崎天草の金鶏寺で病死 享年76歳
弘化3年(1846年)、庄屋である父・伝六郎は、度重なる凶作で年貢が払えず、土地、田畑を売却するも、年貢不足に充当できず、代官より水牢の罰を受けた。牢内で体力が衰弱し、一時帰宅を許されたが、その年11月12日死亡した。伝六郎は42歳であった。残された母・すみは、5人の子供ともに窮乏生活を余儀なくされ、已む得ず、母・すみは5人の子供全員を豊川稲荷妙厳寺に出家させた。
長男・仲蔵(22歳)、次男・伝八郎(21歳)、三男・仲三郎(17歳)、四男・仲吉郎(黙童14歳)、五男・不詳の5人である。その後、長男・仲蔵は、神戸の般若寺の覚厳和尚に師事し、道海和尚と名乗り、詩文、書家の大家となっている。四男・仲吉郎(黙童)を除く子供3人は僧侶を辞め、環俗して、実家に帰宅した。次男・伝八郎の子孫は現在も豊川市御津町西方に居住している。
豊川妙厳寺において14歳で出家得度した黙童禅師は、3年後、16歳で上州前橋の龍海院の奕堂一門に入門した。その後、奕堂一門が加賀の天徳院に移転したため、黙童禅師も一門とともに加賀に移動した。この時、生涯の修行仲間となり、兄弟子にもあたる森田悟由禅師と知り合った。
黙童禅師はこの頃の修行で「凡そ事を為すに、先ずれば即ち人を制し、後るれば即ち人に制される。道心ある者はすべからく精進努力して、他に先んじ他を制するの気概なるべし」との奕堂一門師匠の教えを受けて、名前を「黙翁」から「黙童」に変えた。今だ修行中の身であると自らを戒める意味である。当時、森田悟由禅師は「大もそ」(大愚鈍の意味)、黙童禅師は「小もそ」(小愚鈍の意味)と呼ばれていた。
天徳院で修行を重ねるも、3年後、黙童禅師は病気となり、妙厳寺に戻った。元治元年(1864年)黙童禅師は24歳で、豊川真光寺の住職となった。その後、明治維新となり、新政府による廃仏運動が始まり、豊川閣妙厳寺にも神仏分離令による分離命令の波が押し寄せた。
黙童禅師は必死になって、分離反対活動を行い、何とか分離阻止に成功した。近くに西大平藩があり、大岡稲荷で有名な藩主・大岡家の影響、協力もあったと思われる。明治8年(1875年)黙童禅師は34歳で妙厳寺29世住職となった。住職になって10年、明治17年には、雨漏りの多い妙厳寺総門の大改修を実施した。
明治24年(1891年)尊敬する兄弟子森田悟由禅師が選挙で、永平寺64世貫主に選ばれた。しかし森田悟由禅師は貫主就任を固辞したため、黙童禅師は自ら永平寺入りをして、森田悟由禅師を補佐する約束で、永平寺西堂に就任した。その後は24年にわたり永平寺の僧侶として、悟由禅師永平寺貫主の下で補佐の役目を果たすこととなった。この間、黙童禅師が努力した曹洞宗永平寺派、総持寺派の和解解決の功で、妙厳寺は永平寺門首の地位を得た。
大正4年(1916年)兄弟子であり、永平寺貫主の森田悟由禅師の死亡に伴い、黙童禅師は75歳で永平寺65世貫主に選ばれた。翌年、黙童禅師は九州天草金鶏寺に貫主活動による訪問中、大正5年3月30日同寺で急病で死亡した。4月4日九州で荼毘に附せられ、永平寺本山に送られた。享年76歳。
黙童禅師は永平寺入りしてからも、豊川閣妙厳寺に戻るとき、永平寺に行くとき、必ず妙厳寺山門から豊川駅まで徒歩で歩き、門前の人々に一人一人丁寧に挨拶、会釈をして歩いた。そのたびに門前では、多くの人々が生き仏様を迎えるように集まったと言われている。
ブログ内に下記記事もあります。よろしければ閲覧ください。
中居屋重兵衛という人
参考記事・左をクリック。東三河を歩こう
愛知県の豊川稲荷は京都の伏見稲荷と並んで有名なお稲荷さんである。しかし豊川稲荷は神社でなく、永平寺を総本山とする曹洞宗の寺院である。正式名を「円福山豊川閣妙厳寺」という。
この妙厳寺の中興の祖と言われる有名な和尚で「黙童禅師」という僧侶がいた。黙童禅師は、最終的には永平寺の貫主に就任し、福山黙童と名乗った人である。黙童は天保12年(1841年)5月11日三河国宝飯郡西方村の庄屋である父・小林伝六郎と母・すみの四男として出生した。母親のすみは、若い頃から信仰心の強い女性で、実家のある三谷(現・蒲郡市三谷町)近くの丹野御堂山の観音堂参りを欠かさず、堂近くにある菩提樹の実で数珠を作り、嫁入りのとき持参したという。
(本名) 小林 仲吉郎
(僧名) 福山 黙童
(生没年)天保12年(1841年)~大正5年(1916年)
九州長崎天草の金鶏寺で病死 享年76歳
弘化3年(1846年)、庄屋である父・伝六郎は、度重なる凶作で年貢が払えず、土地、田畑を売却するも、年貢不足に充当できず、代官より水牢の罰を受けた。牢内で体力が衰弱し、一時帰宅を許されたが、その年11月12日死亡した。伝六郎は42歳であった。残された母・すみは、5人の子供ともに窮乏生活を余儀なくされ、已む得ず、母・すみは5人の子供全員を豊川稲荷妙厳寺に出家させた。
長男・仲蔵(22歳)、次男・伝八郎(21歳)、三男・仲三郎(17歳)、四男・仲吉郎(黙童14歳)、五男・不詳の5人である。その後、長男・仲蔵は、神戸の般若寺の覚厳和尚に師事し、道海和尚と名乗り、詩文、書家の大家となっている。四男・仲吉郎(黙童)を除く子供3人は僧侶を辞め、環俗して、実家に帰宅した。次男・伝八郎の子孫は現在も豊川市御津町西方に居住している。
豊川妙厳寺において14歳で出家得度した黙童禅師は、3年後、16歳で上州前橋の龍海院の奕堂一門に入門した。その後、奕堂一門が加賀の天徳院に移転したため、黙童禅師も一門とともに加賀に移動した。この時、生涯の修行仲間となり、兄弟子にもあたる森田悟由禅師と知り合った。
黙童禅師はこの頃の修行で「凡そ事を為すに、先ずれば即ち人を制し、後るれば即ち人に制される。道心ある者はすべからく精進努力して、他に先んじ他を制するの気概なるべし」との奕堂一門師匠の教えを受けて、名前を「黙翁」から「黙童」に変えた。今だ修行中の身であると自らを戒める意味である。当時、森田悟由禅師は「大もそ」(大愚鈍の意味)、黙童禅師は「小もそ」(小愚鈍の意味)と呼ばれていた。
天徳院で修行を重ねるも、3年後、黙童禅師は病気となり、妙厳寺に戻った。元治元年(1864年)黙童禅師は24歳で、豊川真光寺の住職となった。その後、明治維新となり、新政府による廃仏運動が始まり、豊川閣妙厳寺にも神仏分離令による分離命令の波が押し寄せた。
黙童禅師は必死になって、分離反対活動を行い、何とか分離阻止に成功した。近くに西大平藩があり、大岡稲荷で有名な藩主・大岡家の影響、協力もあったと思われる。明治8年(1875年)黙童禅師は34歳で妙厳寺29世住職となった。住職になって10年、明治17年には、雨漏りの多い妙厳寺総門の大改修を実施した。
明治24年(1891年)尊敬する兄弟子森田悟由禅師が選挙で、永平寺64世貫主に選ばれた。しかし森田悟由禅師は貫主就任を固辞したため、黙童禅師は自ら永平寺入りをして、森田悟由禅師を補佐する約束で、永平寺西堂に就任した。その後は24年にわたり永平寺の僧侶として、悟由禅師永平寺貫主の下で補佐の役目を果たすこととなった。この間、黙童禅師が努力した曹洞宗永平寺派、総持寺派の和解解決の功で、妙厳寺は永平寺門首の地位を得た。
大正4年(1916年)兄弟子であり、永平寺貫主の森田悟由禅師の死亡に伴い、黙童禅師は75歳で永平寺65世貫主に選ばれた。翌年、黙童禅師は九州天草金鶏寺に貫主活動による訪問中、大正5年3月30日同寺で急病で死亡した。4月4日九州で荼毘に附せられ、永平寺本山に送られた。享年76歳。
黙童禅師は永平寺入りしてからも、豊川閣妙厳寺に戻るとき、永平寺に行くとき、必ず妙厳寺山門から豊川駅まで徒歩で歩き、門前の人々に一人一人丁寧に挨拶、会釈をして歩いた。そのたびに門前では、多くの人々が生き仏様を迎えるように集まったと言われている。
ブログ内に下記記事もあります。よろしければ閲覧ください。
中居屋重兵衛という人
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます