大場久八は、韮山代官江川太郎左衛門の要請により、兄弟分である甲州豪商天野海蔵とともに、品川台場建設に協力した博徒として有名である。大場久八、天野海蔵、竹居安五郎(吃安)3名は昔より博徒兄弟分として付き合いがあった。大場久と天野海蔵は、嘉永6年(1853年)6月、新島を島抜けし、伊豆網代の海岸にたどり着いた安五郎を甲州まで逃亡させたと言われている。
(博徒名) 大場 久八 (本名) 森 久治郎
(生没年) 文化11年10月2日(1814年)~明治25年(1892年)12月3日 享年79歳
上州への旅の途中、現・都留市谷村において中風で死亡
大場久八は伊豆国田方郡函南村間宮の百姓栄助の長男として生まれた。28歳のとき野天博打で無宿となり、博奕常習の罪で韮山代官に捕縛され、中追放となる。中追放とは、伊豆はもとより東海道筋、駿河国、武蔵国への立ち入り禁止の処分である。その頃、甲州博徒武居吃安、甲州豪商天野海蔵と兄弟分になる。その後、伊豆に戻り、結婚するが、妻・志津の弟が、東海道随一の貸元と言われた丹波屋伝兵衛である。
35歳のとき、兄弟分の桐生半兵衛を殺害した田中村岩五郎・石原村幸次郎と遠江国岡田村(現・磐田市)で決闘し、両名に深手を負わせた。その頃、上州博徒大前田英五郎の暗殺を謀った御宿の惣蔵を殺害し、大前田英五郎と兄弟分となった。
当時の久八は抜身の長脇差、槍、鉄砲で武装した子分20人以上を引き連れた武闘派博徒の親分になっていた。この頃、出入り相手の博徒は次々と捕えられているが、久八はなぜか生きのび、伊豆で縄張りを張っていた。裏で韮山代官と繋がっていたとしか思われない。
大場久八の勢力圏は駿河、伊豆、甲州、武州、相州の5カ国に及び、子分3,000人以上、当時の三大博徒である、上州の大前田英五郎、伊勢の丹波屋伝兵衛と並ぶ博徒である。台場建設の貢献で、韮山代官江川から支配地の御用・二足草鞋の要請もあったが、「骨が舎利になっても二足の草鞋は履かない。常に人の下に立つ」の信念でこの申し出を拒絶している。
日常の食事・服装は質素を重んじ、食事は常に一食一菜、服は木綿着で生涯を通した。これを聞いた武州の博徒・小金井小次郎が村山織二反を送り届けたが、ありがたく受領しただけで一向に着ることはなかった。
慶応4年には武州・甲州の子分30人からなる「辰巳隊」を構成し、新撰組近藤勇が率いる甲陽鎮撫隊に加わったという。当初「辰巳隊」は食糧運搬任務の後方部隊だったが、本隊の相次ぐ脱走に伴って、戦闘にも参加することとなった。これは関係の深い韮山代官江川英龍の秘蔵子松岡磐吉との関係があったためと言われている。
甲陽鎮撫隊の大敗したのち明治以後、久八は跡目を三島の玉屋佐十郎に譲り、博徒の足を洗い、百姓として余生を暮らす。明治25年12月3日、上州への旅の途中、山梨県南都留郡谷村町の旅籠で中風で倒れ、死亡した。享年79歳だった。
久八は、次郎長より6歳年上で、次郎長が保下田久六を殺害した際には現・富士宮市に子分を集め、敵対した反次郎長派の博徒である。この時、次郎長は、大政と八五郎の二人だけを連れて、自ら久八に面談に行ったが拒絶され、大政一人が面談して久八を説得した。久八は、久六のアコギなやり方を聞いて、納得、水に流した。そして次郎長たちは、久八の世話で近くの旅籠に泊まった。
しかし次郎長たちは久八の襲撃を恐れ、別の部屋で寝たが、久八の襲撃は無かった。これを次郎長の用心深さと言う人もいる。次郎長と久八の貫禄の違いが本当だろう。遊侠としての久八は、当時の次郎長と比べると数枚上の貫禄だった。
久八は上州の大前田英五郎と兄弟分。明治7年2月26日、英五郎が82歳で死去したとき、久八は病み上がりの61歳だったが、駕籠に乗って上州に駆けつけた。英五郎のの葬式は、久八の到着を待って行われ、一番上座に久八の席が用意された。英五郎亡き後は、大前田一家の後見人をしたと言われる。
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新島を島抜けした博徒・竹居安五郎という人
写真は大場久八の墓。田方郡函南町間宮 広渡寺にある。この寺の前に自宅があった。二十何貫もある大男と言う。地元では「辰巳屋の久八」と呼ばれた。
墓の正面真ん中に法名「信禮院義誉智仁徳善居士」とある。左右に「孝道院操誉貞順念浄大姉」「至徳院善誉貞操孝順大姉」とある。向かって右側が、天保11年2月17日に死亡した先妻の「シズ」、左側が、大正2年10月3日に88歳で死亡した後妻の「モン」の法名である。久八の法名は、浄土宗鎮西派総本山である芝の増上寺から贈られたものと言われる。
(博徒名) 大場 久八 (本名) 森 久治郎
(生没年) 文化11年10月2日(1814年)~明治25年(1892年)12月3日 享年79歳
上州への旅の途中、現・都留市谷村において中風で死亡
大場久八は伊豆国田方郡函南村間宮の百姓栄助の長男として生まれた。28歳のとき野天博打で無宿となり、博奕常習の罪で韮山代官に捕縛され、中追放となる。中追放とは、伊豆はもとより東海道筋、駿河国、武蔵国への立ち入り禁止の処分である。その頃、甲州博徒武居吃安、甲州豪商天野海蔵と兄弟分になる。その後、伊豆に戻り、結婚するが、妻・志津の弟が、東海道随一の貸元と言われた丹波屋伝兵衛である。
35歳のとき、兄弟分の桐生半兵衛を殺害した田中村岩五郎・石原村幸次郎と遠江国岡田村(現・磐田市)で決闘し、両名に深手を負わせた。その頃、上州博徒大前田英五郎の暗殺を謀った御宿の惣蔵を殺害し、大前田英五郎と兄弟分となった。
当時の久八は抜身の長脇差、槍、鉄砲で武装した子分20人以上を引き連れた武闘派博徒の親分になっていた。この頃、出入り相手の博徒は次々と捕えられているが、久八はなぜか生きのび、伊豆で縄張りを張っていた。裏で韮山代官と繋がっていたとしか思われない。
大場久八の勢力圏は駿河、伊豆、甲州、武州、相州の5カ国に及び、子分3,000人以上、当時の三大博徒である、上州の大前田英五郎、伊勢の丹波屋伝兵衛と並ぶ博徒である。台場建設の貢献で、韮山代官江川から支配地の御用・二足草鞋の要請もあったが、「骨が舎利になっても二足の草鞋は履かない。常に人の下に立つ」の信念でこの申し出を拒絶している。
日常の食事・服装は質素を重んじ、食事は常に一食一菜、服は木綿着で生涯を通した。これを聞いた武州の博徒・小金井小次郎が村山織二反を送り届けたが、ありがたく受領しただけで一向に着ることはなかった。
慶応4年には武州・甲州の子分30人からなる「辰巳隊」を構成し、新撰組近藤勇が率いる甲陽鎮撫隊に加わったという。当初「辰巳隊」は食糧運搬任務の後方部隊だったが、本隊の相次ぐ脱走に伴って、戦闘にも参加することとなった。これは関係の深い韮山代官江川英龍の秘蔵子松岡磐吉との関係があったためと言われている。
甲陽鎮撫隊の大敗したのち明治以後、久八は跡目を三島の玉屋佐十郎に譲り、博徒の足を洗い、百姓として余生を暮らす。明治25年12月3日、上州への旅の途中、山梨県南都留郡谷村町の旅籠で中風で倒れ、死亡した。享年79歳だった。
久八は、次郎長より6歳年上で、次郎長が保下田久六を殺害した際には現・富士宮市に子分を集め、敵対した反次郎長派の博徒である。この時、次郎長は、大政と八五郎の二人だけを連れて、自ら久八に面談に行ったが拒絶され、大政一人が面談して久八を説得した。久八は、久六のアコギなやり方を聞いて、納得、水に流した。そして次郎長たちは、久八の世話で近くの旅籠に泊まった。
しかし次郎長たちは久八の襲撃を恐れ、別の部屋で寝たが、久八の襲撃は無かった。これを次郎長の用心深さと言う人もいる。次郎長と久八の貫禄の違いが本当だろう。遊侠としての久八は、当時の次郎長と比べると数枚上の貫禄だった。
久八は上州の大前田英五郎と兄弟分。明治7年2月26日、英五郎が82歳で死去したとき、久八は病み上がりの61歳だったが、駕籠に乗って上州に駆けつけた。英五郎のの葬式は、久八の到着を待って行われ、一番上座に久八の席が用意された。英五郎亡き後は、大前田一家の後見人をしたと言われる。
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新島を島抜けした博徒・竹居安五郎という人
写真は大場久八の墓。田方郡函南町間宮 広渡寺にある。この寺の前に自宅があった。二十何貫もある大男と言う。地元では「辰巳屋の久八」と呼ばれた。
墓の正面真ん中に法名「信禮院義誉智仁徳善居士」とある。左右に「孝道院操誉貞順念浄大姉」「至徳院善誉貞操孝順大姉」とある。向かって右側が、天保11年2月17日に死亡した先妻の「シズ」、左側が、大正2年10月3日に88歳で死亡した後妻の「モン」の法名である。久八の法名は、浄土宗鎮西派総本山である芝の増上寺から贈られたものと言われる。