兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

海賊房次郎と破戒僧・大須賀権四郎

2018年07月16日 | 歴史
北海道樺戸郡月形町に旧樺戸集治監がある。ここに明治の終り、対照的な二人の囚人がいた。一人は「海賊房次郎」と呼ばれ、もう一人は「破戒僧・大須賀権四郎」である。

明治43年、15年の刑期の強盗犯・大沢房次郎が入所した。房次郎は「海賊房次郎」の異名があるほど水中での潜りの名人であった。

当時、樺戸監獄は石狩川の流れを利用して、上流の札比内分監から樺戸監獄波止場の水揚げ場まで、囚人たちによる木材切り出しが盛んに行われた。この危険な水揚げ作業の頭として囚人を仕切ったのが海賊房次郎である。

入獄当時は看守に反抗した時期もあった。しかし囚人、看守の信頼を受けるようになると模範囚となった。大正8年樺戸監獄が廃監となると、房次郎は網走監獄に移り、無事に刑期を満了した。

もう一人は僧侶の「大須賀権四郎」である。権四郎は僧籍ながら酒と女にふけり、そのため寺を追われた破戒僧である。喧嘩で人を殺し、15年の刑を受け樺戸に来た。

監獄でも作業の隙をみて脱獄を図り失敗、再び樺戸に戻されている。しかし権四郎は学問があり、法律知識も豊富のため、看守たちに反抗的態度を取り、看守たちから嫌われていた。

大正2年春、作業の無い日曜日、獄内で囚徒が僧侶から教誨を受ける集会が行われた。権四郎だけは屁理屈をこねて、監房から出房を拒んだ。苛立った里見監房主査は、木刀で権四郎を一撃した。

この一撃が致命傷となり、権四郎は死亡してしまった。その時、僅か30歳、篠津の囚人墓地に眠ることとなった。人の生死は人生の分かれ道をどう進んだか?ほんのわずかな違い。


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北海道最果ての監獄「樺戸監獄」

脱獄囚・五寸釘寅吉という人


写真は樺戸監獄近くにある篠津の囚人墓地。

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