清水一家28人衆の一人、法印大五郎は甲州出身である。大五郎は天保11年(1840年)1月3日、二宮村(現・笛吹市御坂町)角田久作の次男として生まれた。大五郎は、子供の時から人並み外れて、大きな体で、草相撲の横綱クラスだった。寺子屋で、読み書き、そろばんを一通り習い覚えると、15歳で、甲府八日町の魚市場の「担ぎ人足」になった。
(博徒名) 法印大五郎 (本名)角田大五郎
(生没年) 天保11年(1840年)1月3日~大正8年(1919年)1月16日 享年79歳
現在の笛吹市八代町で中風による老衰死
当時、甲府の塩乾魚は新潟から入り、鮮魚は沼津から運んだ。馬を連ね、沼津から甲府を結ぶ往還道を運んだ。途中険しい山坂を夜通しで運び、夜の明けぬうちに朝の市場に間に合わせる。普通の体ではとても続けられない。夜に松明をかかげて、山道を下ってくる火の連なりが、甲府から眺められ、待ち構える仲買人も殺気立ったという。
大五郎は、19歳で担ぎ人足を辞め、百姓になったが、そのうち吃安の子分となる。大五郎は女クセがあまり良くなかった。そのため吃安に坊主にされ、甲州を放逐された。止む得ず、山伏に身を変え、沼津あたりを放浪し、清水次郎長の子分となった。次郎長に山伏姿から法印大五郎の異名を貰った。次郎長の甲州出身の子分には大五郎だけでなく、大常、小常などもいた。
「東海遊侠伝」では、荒神山の喧嘩で戦死者二人、大五郎、幸太郎と言われ、大五郎の名を挙げている。東海遊侠伝は荒神山騒動から20年近く経過後、次郎長から聞き出した話をもとに天田五郎がまとめたもの。全て正確とも言えず、間違いも多い。「大五郎は荒神山で殺されていない。故郷甲州に戻り、博徒の足を洗い、角田甚左衛門と名を改めた」と今川徳三氏は主張する。
明治2年(1869年)1月、30歳で八代村(現・笛吹市八代町)百姓・伊藤只兵衛の養女「やい」と結婚、婿入りして、「伊藤甚左衛門」と名乗った。百姓仕事は妻にまかせ、自分は絹糸繭の仲買人となった。生一本な正直な性格で取引先の信頼は高かったようだ。明治9年、長男・慶作が生まれ、続いて二人の娘も生まれた。長男の慶作氏が若くて死亡した。そのため八代町助役を務めた孫の泰助氏は祖父・大五郎に育てられた。
大五郎は、博徒時代の話は一切残していない。しかし次郎長の子分は甲州に多いので、大五郎の前身は隠しようもなく、地元の人は「大さん、大さん」と呼んでいたという。大五郎は近くに住む若い後家さんに口説かれて、惚れられ、後家さんの面倒をみた。一時、後家さんを連れて、旅に出て、菓子などを売って歩いた。後家さんとの関係は長く続いたようだ。
大正になってから中風で倒れ、半身が利かなくなった。それでも足を引きずりながら村中を歩き回る姿を多くの人が記憶している。村の人はさすが若い頃から博徒で鍛えた体は丈夫だと語り草だった。大正8年1月16日に死亡、79歳。墓は西光寺の伊藤家の墓地にあった。戒名は「甚誉称念居士」西光寺は戦後農地改革で、寺院経営の困窮が続き、その後、寺院は破産した。破産後、墓地も放置され、そのうちに伊藤家の墓も取り壊しされた。そのため現在はなにも残っていない。
ブログ内に下記関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
荒神山の決闘目撃証人・おだいさん
義理と人情に生きた博徒・吉良仁吉
写真は西光寺(笛吹市八代町北)墓地の伊藤家の墓があった跡地。今は小さな墓石が残っているだけである。墓を管理されている方に教えていただいた。
(博徒名) 法印大五郎 (本名)角田大五郎
(生没年) 天保11年(1840年)1月3日~大正8年(1919年)1月16日 享年79歳
現在の笛吹市八代町で中風による老衰死
当時、甲府の塩乾魚は新潟から入り、鮮魚は沼津から運んだ。馬を連ね、沼津から甲府を結ぶ往還道を運んだ。途中険しい山坂を夜通しで運び、夜の明けぬうちに朝の市場に間に合わせる。普通の体ではとても続けられない。夜に松明をかかげて、山道を下ってくる火の連なりが、甲府から眺められ、待ち構える仲買人も殺気立ったという。
大五郎は、19歳で担ぎ人足を辞め、百姓になったが、そのうち吃安の子分となる。大五郎は女クセがあまり良くなかった。そのため吃安に坊主にされ、甲州を放逐された。止む得ず、山伏に身を変え、沼津あたりを放浪し、清水次郎長の子分となった。次郎長に山伏姿から法印大五郎の異名を貰った。次郎長の甲州出身の子分には大五郎だけでなく、大常、小常などもいた。
「東海遊侠伝」では、荒神山の喧嘩で戦死者二人、大五郎、幸太郎と言われ、大五郎の名を挙げている。東海遊侠伝は荒神山騒動から20年近く経過後、次郎長から聞き出した話をもとに天田五郎がまとめたもの。全て正確とも言えず、間違いも多い。「大五郎は荒神山で殺されていない。故郷甲州に戻り、博徒の足を洗い、角田甚左衛門と名を改めた」と今川徳三氏は主張する。
明治2年(1869年)1月、30歳で八代村(現・笛吹市八代町)百姓・伊藤只兵衛の養女「やい」と結婚、婿入りして、「伊藤甚左衛門」と名乗った。百姓仕事は妻にまかせ、自分は絹糸繭の仲買人となった。生一本な正直な性格で取引先の信頼は高かったようだ。明治9年、長男・慶作が生まれ、続いて二人の娘も生まれた。長男の慶作氏が若くて死亡した。そのため八代町助役を務めた孫の泰助氏は祖父・大五郎に育てられた。
大五郎は、博徒時代の話は一切残していない。しかし次郎長の子分は甲州に多いので、大五郎の前身は隠しようもなく、地元の人は「大さん、大さん」と呼んでいたという。大五郎は近くに住む若い後家さんに口説かれて、惚れられ、後家さんの面倒をみた。一時、後家さんを連れて、旅に出て、菓子などを売って歩いた。後家さんとの関係は長く続いたようだ。
大正になってから中風で倒れ、半身が利かなくなった。それでも足を引きずりながら村中を歩き回る姿を多くの人が記憶している。村の人はさすが若い頃から博徒で鍛えた体は丈夫だと語り草だった。大正8年1月16日に死亡、79歳。墓は西光寺の伊藤家の墓地にあった。戒名は「甚誉称念居士」西光寺は戦後農地改革で、寺院経営の困窮が続き、その後、寺院は破産した。破産後、墓地も放置され、そのうちに伊藤家の墓も取り壊しされた。そのため現在はなにも残っていない。
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写真は西光寺(笛吹市八代町北)墓地の伊藤家の墓があった跡地。今は小さな墓石が残っているだけである。墓を管理されている方に教えていただいた。