名古屋控訴院管内における「賭博に関する調査」によると、
「平井一家は、吉良一家とともに三河では古い一家である。幕末頃、小中山(現・愛知県田原市小中山町)の七五三蔵なる者が博徒の親分となって、威勢をふるった。その子分に、雲風こと平井亀吉なる者があった。大胆で、よく衆を率いて勢力があり、配下も多かった。
文久から慶応の頃、七五三蔵の跡目を継ぎ、二代目の親分になり、平井一家と称した。亀吉の跡は、実弟の原田常吉が継ぎ、その跡を常吉の実弟・原田善六の実子・清水善吉が継いだ。善吉の跡は、高安伊作が傍系から入って継ぎ、その跡を七五三蔵の実子・小川浅蔵が継いでいる」と記載されている。
黒駒勝蔵とその子分は、信州で悪事を働き、文久2年冬、信州の岡田滝蔵という捕り方に追われて、遠州へ逃げ込んだ。追いかけて来た滝蔵は、中泉代官所に応援を頼んだ。代官所は、見附宿の顔役博徒・大和田友蔵に、勝蔵捕縛を命じた。友蔵は、温厚な博徒で、已む得ず引き受けたが、積極的な行動には出なかった。代官所は、再び友蔵を呼び出し、「必ず、勝蔵を捕らえよ」と厳命した。
それを知った勝蔵は「大和田一家を皆殺しにしてやる」と100名近い仲間を集め、天竜川の西岸に集結した。友蔵も対抗上、清水次郎長に応援を頼んだ。次郎長が身内を連れて、友蔵の応援に駆け付けると、勝蔵はとたんに姿をくらました。勝蔵は、兄弟分の三州平井の雲風の亀吉のところに潜んでいた。
次郎長は、代官所の命による勝蔵逮捕を買って出る。清水から連れて来た身内24人を連れて、平井に押し掛けた。この時、次郎長は、雲風の亀吉の親分である小中山七五三蔵のところへ行き、仁義をきった。「雲風の亀吉が、兇状持ちの黒駒勝蔵を匿っている。わしらは中泉代官所の命令で、勝蔵を召捕るのだが、亀吉の出方によっては、一戦交えるかもしれないから・・」と念を押して、寺津の間之助のところへ行った。
小中山の七五三蔵は、清水一家とイザコザを起こしたくなかったので、御油の玉一に、次郎長と亀吉との和解仲立ちを依頼した。玉一は寺津へ駆けつけ、和解の取り持ちをしようとした。しかし玉一の口利き程度で収まる紛争ではなかった。
文久3年6月5日、次郎長一家は、吉良の仁吉、形原の斧八ら10名が加わり35名余りで、雲風の亀吉、黒駒勝蔵らのいる家に斬り込んだ。これが世に言う「平井一家襲撃事件」である。亀吉・勝蔵側は5人が即死した。斬り合いの間に、亀吉は、勝蔵は裏から逃がした。このとき、亀吉は、近所の農家に行き、蓑傘をつけた泥だらけの百姓姿に変装して、近所の百姓連中に交じって、悠々と斬り合いを眺めていたと言う。大した度胸の男である。
その後、次郎長と亀吉は長く仲たがいをしていたが、明治6年、山岡鉄舟の肝いりで、浜松の茶屋旅館「花屋」で仲直りしたと伝わっている。亀吉は次郎長と同じ年の明治26年3月24日に死去した。次郎長より九つ年下、行年65歳だった。
昭和12年頃、関東国粋会副幹事長・生井一家の鈴木栄太郎の話が伝わっている。鈴木栄太郎が17歳で、岡田政という親分のところに居たとき、三河から来た旅人から聞いた話。清水の次郎長は大した名前だが、それより雲風の亀吉の方が貫禄があった。手打ち式のとき、雲風は床柱を背に座り、そこへ、次郎長が三つ指をつき、「お久しうござんした」と挨拶をしたと言う。
当時、次郎長の評判は大したもので、これを聞いた新聞社の連中が、雲風の所へ行って、次郎長のことを聞いたりした。そこで貫禄の違いを持ち出すと、雲風は「せっかくの次郎長を台無しにするから、そんな話は黙っていろ」と言った。だが次郎長より九つ年下の雲風に、そんな貫禄の違いがあったとは思われない。三河人のお国自慢から作り出された話ではないだろうか?
七五三蔵は、本名は「小川松三郎」、戸籍簿に本籍地「愛知県渥美郡福江町大字畠字原ノ嶋20番地」、明治32年(1899年)10月3日死去した。法名「法光院鉄肝明光居士」行年81歳。次郎長より一つ年上である。墓は豊橋市龍粘寺にあると言われる。しかし墓を探したが、見つからなかった。
七五三蔵の妻は「ハマ」といい、明治34年6月28日死去した。法名「柳因玉翠信女」、行年は不明である。七五三蔵の実子・小川浅蔵は、昭和23年1月27日に死去、岡崎市丸山町の長徳寺に墓がある。法名「妙光院鉄心日朝居士」である。
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三河博徒・雲風の亀吉
清水一家の平井亀吉・黒駒勝蔵襲撃事件
次郎長と連携した遠州博徒・大和田の友蔵
写真は小中山の七五三蔵の子分で、二代目平井一家の雲風の亀吉こと平井亀吉の墓。明治26年(1893年)3月24日歿、行年65歳、法名「要義院大乗法雲居士」豊川市御津町の共同墓地にある。側面に「士族・平井亀吉」と刻まれている。博徒から武士になった誇りだろう。
写真は平井亀吉の妻の墓。亀吉の墓に並んで建っている。
「平井一家は、吉良一家とともに三河では古い一家である。幕末頃、小中山(現・愛知県田原市小中山町)の七五三蔵なる者が博徒の親分となって、威勢をふるった。その子分に、雲風こと平井亀吉なる者があった。大胆で、よく衆を率いて勢力があり、配下も多かった。
文久から慶応の頃、七五三蔵の跡目を継ぎ、二代目の親分になり、平井一家と称した。亀吉の跡は、実弟の原田常吉が継ぎ、その跡を常吉の実弟・原田善六の実子・清水善吉が継いだ。善吉の跡は、高安伊作が傍系から入って継ぎ、その跡を七五三蔵の実子・小川浅蔵が継いでいる」と記載されている。
黒駒勝蔵とその子分は、信州で悪事を働き、文久2年冬、信州の岡田滝蔵という捕り方に追われて、遠州へ逃げ込んだ。追いかけて来た滝蔵は、中泉代官所に応援を頼んだ。代官所は、見附宿の顔役博徒・大和田友蔵に、勝蔵捕縛を命じた。友蔵は、温厚な博徒で、已む得ず引き受けたが、積極的な行動には出なかった。代官所は、再び友蔵を呼び出し、「必ず、勝蔵を捕らえよ」と厳命した。
それを知った勝蔵は「大和田一家を皆殺しにしてやる」と100名近い仲間を集め、天竜川の西岸に集結した。友蔵も対抗上、清水次郎長に応援を頼んだ。次郎長が身内を連れて、友蔵の応援に駆け付けると、勝蔵はとたんに姿をくらました。勝蔵は、兄弟分の三州平井の雲風の亀吉のところに潜んでいた。
次郎長は、代官所の命による勝蔵逮捕を買って出る。清水から連れて来た身内24人を連れて、平井に押し掛けた。この時、次郎長は、雲風の亀吉の親分である小中山七五三蔵のところへ行き、仁義をきった。「雲風の亀吉が、兇状持ちの黒駒勝蔵を匿っている。わしらは中泉代官所の命令で、勝蔵を召捕るのだが、亀吉の出方によっては、一戦交えるかもしれないから・・」と念を押して、寺津の間之助のところへ行った。
小中山の七五三蔵は、清水一家とイザコザを起こしたくなかったので、御油の玉一に、次郎長と亀吉との和解仲立ちを依頼した。玉一は寺津へ駆けつけ、和解の取り持ちをしようとした。しかし玉一の口利き程度で収まる紛争ではなかった。
文久3年6月5日、次郎長一家は、吉良の仁吉、形原の斧八ら10名が加わり35名余りで、雲風の亀吉、黒駒勝蔵らのいる家に斬り込んだ。これが世に言う「平井一家襲撃事件」である。亀吉・勝蔵側は5人が即死した。斬り合いの間に、亀吉は、勝蔵は裏から逃がした。このとき、亀吉は、近所の農家に行き、蓑傘をつけた泥だらけの百姓姿に変装して、近所の百姓連中に交じって、悠々と斬り合いを眺めていたと言う。大した度胸の男である。
その後、次郎長と亀吉は長く仲たがいをしていたが、明治6年、山岡鉄舟の肝いりで、浜松の茶屋旅館「花屋」で仲直りしたと伝わっている。亀吉は次郎長と同じ年の明治26年3月24日に死去した。次郎長より九つ年下、行年65歳だった。
昭和12年頃、関東国粋会副幹事長・生井一家の鈴木栄太郎の話が伝わっている。鈴木栄太郎が17歳で、岡田政という親分のところに居たとき、三河から来た旅人から聞いた話。清水の次郎長は大した名前だが、それより雲風の亀吉の方が貫禄があった。手打ち式のとき、雲風は床柱を背に座り、そこへ、次郎長が三つ指をつき、「お久しうござんした」と挨拶をしたと言う。
当時、次郎長の評判は大したもので、これを聞いた新聞社の連中が、雲風の所へ行って、次郎長のことを聞いたりした。そこで貫禄の違いを持ち出すと、雲風は「せっかくの次郎長を台無しにするから、そんな話は黙っていろ」と言った。だが次郎長より九つ年下の雲風に、そんな貫禄の違いがあったとは思われない。三河人のお国自慢から作り出された話ではないだろうか?
七五三蔵は、本名は「小川松三郎」、戸籍簿に本籍地「愛知県渥美郡福江町大字畠字原ノ嶋20番地」、明治32年(1899年)10月3日死去した。法名「法光院鉄肝明光居士」行年81歳。次郎長より一つ年上である。墓は豊橋市龍粘寺にあると言われる。しかし墓を探したが、見つからなかった。
七五三蔵の妻は「ハマ」といい、明治34年6月28日死去した。法名「柳因玉翠信女」、行年は不明である。七五三蔵の実子・小川浅蔵は、昭和23年1月27日に死去、岡崎市丸山町の長徳寺に墓がある。法名「妙光院鉄心日朝居士」である。
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三河博徒・雲風の亀吉
清水一家の平井亀吉・黒駒勝蔵襲撃事件
次郎長と連携した遠州博徒・大和田の友蔵
写真は小中山の七五三蔵の子分で、二代目平井一家の雲風の亀吉こと平井亀吉の墓。明治26年(1893年)3月24日歿、行年65歳、法名「要義院大乗法雲居士」豊川市御津町の共同墓地にある。側面に「士族・平井亀吉」と刻まれている。博徒から武士になった誇りだろう。
写真は平井亀吉の妻の墓。亀吉の墓に並んで建っている。