『東京藝大物語』茂木健一郎 を読む。
東京藝大の話かぁ…
と思った時に、頭に浮かんだのは、音楽のことで
「茂木さん、音楽の学生相手に講義したのかなぁ」
なんて…
違った。
藝大でも、美術のほうだった…
「どっちだろう?」と思いもしなかった自分の意識の欠落さ加減にどんよりする。
「上野動物園にハシビロコウを観に行こう!」とか
「上野の美術館に●●を観に行こう!」
そんなふうに訪れている場所の近辺に、この大学の学生さんたちがいるんだよね。
帯のテンサイかヘンタイか?という文字
まさに「ヘンタイだ…」と思える、
「…汚い…(それを持って近寄るんじゃない)」と言いたくなるようなエピソードとかもある。
だけれども、
アートには、木もれ陽のあたる場所がある。
そこには、たとえまばらでも、人々の賞賛という太陽が差し込んでいる。
ピーカンの晴天であるとは限らない。
賛否両論、うっそうと茂った木々の間から、
ほんの少しの光のまなざしが入り込んでくるだけでも、
作家にとっては十分なのである。
という記述に、そうかもしれないなぁ…と思う。
自分の信じる道を、一人で進むのも、辛い日もあるものね。
美術に詳しい友人から聞いた、福武さんの直島の話。
それも出てくる。
誰だって、「何ものか」になりたいのだ。
美術史に名を刻むような作家になりたいのだ。
しかし、その希望の実現は、福武さんのような、
自分たちの芸術の本質を理解し、世界のステージへと
「引き上げて」くれる「誰か」の存在にかかっている。
アーティストは、嗚呼、悲しいことに、靴紐を自ら持ち上げて
空中浮遊することなどできないのだ。
う~ん。深いね。
もちろん、才能も必要だけれども、後押ししてくれる、支えてくれる「誰か」の存在は
あるとないとでは大違い、だろうなぁ。
そしてそして。
前出の彼女が大好きだ、と言っていた松井冬子さん。
その、卒業制作の「世界中の子と友達になれる」。
松井さんの絵は、なんだかすさまじいし、一度見たら忘れられない強烈な個性とインパクトと、
好き嫌いに関係なく、圧倒される何かを持っているように思う。
松井さんの絵は学生時代から、そういうふうだったんだね。
その輝く才能と、
彼女と同時に在学していた人たちの、なんていうか、「やられた」感。
ある意味、容易に想像がついてしまったりもする。
美術の世界限定の話ではなく、
音楽の世界でも同様のことはあるだろうし、
自分の才能で生きていくことを選んだ人の過酷さは
企業人のそれとはまた違った過酷さだと思う。
みんな、それぞれに、あがいて、努力して、挫折して、
それでもやっぱり、一瞬の陽だまりや、木もれ陽や、
内から出る輝きを求めて、信じて歩いているんだろうなぁ。
今度、なにか「いいなぁ!」と思うものに出会ったら
その気持ちを素直に、作家さんに、アーティストに、
伝えてみようかなあと思う。
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