僧朝顔幾死(そうあさがおいくし)にかへる法(のり)の松 芭蕉
侘輔 「僧朝顔幾死(そうあさがおいくし)にかへる法(のり)の松」。『野ざらし紀行』に「二上山當麻寺(たいまでら)に詣でゝ、庭上の松をみるに、凡千とせもへたるならむ。大イサ牛をかくす共云べけむ。かれ非常といへども、仏縁にひかれて、斧斤の罪をまぬがれたるぞ幸にしてたつとし」と書きてこの句を載せている。貞享元年、芭蕉41歳の時の句だ。
呑助 「大イサ牛をかくす共」というのは、何ですか。
侘助 當麻寺の庭にある松は千年松だと言われているから、その松の大きさは牛を隠すともと言われている。このような意味じゃないかな。
呑助 「斧斤の罪」とは、どういうことなんでしょうね。
侘助 當麻寺の庭に生えている松なので仏縁があったので切られずに済んだと言うことだと思うよ。
呑助 「僧朝顔」とは何ですか。僧侶の一生は朝顔みたいなものだということを芭蕉は言いたかったんじゃないの。
侘助 人間の一生は朝咲いて夕べには萎む朝顔みたいなものだということだと思う。
呑助 確かに年取ってくるとそのような感じがしますね。
侘助 そうでしよ。私なんかもそんな感じがいますね。私の一生なんて二、三日前に生まれたような気がしますよ。七十になってみると七十年なんてあっという間だったという印象ですよ。
呑助 千年杉を見ると悠久な時間を感じますね。大木を見て悠久な時間を感じるようになったのは最近のことですね。
侘助 芭蕉は四十一ぐらいで大木を見て、悠久な時間の感慨を持ったんだね。
呑助 昔の人は老いるのが速かったですかね。
侘助 確かにそういう面もあったろうと思う。けれど、「法の松」とは仏縁を得た松という意味でしょ。仏法というもの、仏さまの教えは永遠なものだということを詠んでいるのかもしれないよ。
呑助 芭蕉さんが考えていた仏法とは、どんなものだったんでしようかね。
侘助 すべての人の心には仏さまがあるという教えじゃないかと考えているんだけど。
呑助 芭蕉は禅宗の教えを学んだようなんだ。その禅の教えとは、どんなものなんですか。
侘助 どのような人であっても、例えば犯罪を犯した人であってもすべての人の心には仏さまがあるから皆悉く仏になるという教えだと思う。
呑助 『歎異抄』にある「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と同じような考えですか。
侘助 『鹿島詣』に「賎(しず)の子やいねすりかけて月をみる」という句がある。「賎(しず)の子」とは、被差別民の子という意味ではないかと思う。この子に対する芭蕉の視線は優しい。だから親鸞の悪人正機説の考えが芭蕉にはあったのではと考えているんだ。
呑助 親鸞の教えを説いたものが『歎異抄』ですよね。ここで言われている「悪人」とは、当時の庶民というか、農民や町人のことだったんですか。
侘助 勿論そうだと思う。江戸時代に生きた農民や町人にとっては厳しい社会だったからね。そういう下層社会に生きる人こそ、極楽に往生できると説いたのが親鸞だから。