白げしにはねもぐ蝶の形見哉 芭蕉
句郎 「白げしにはねもぐ蝶の形見哉」。「杜国におくる」と前書きて、『野ざらし紀行』にある句。貞享二年、芭蕉42歳。
華女 杜国は美青年だったというじゃない。
句郎 芭蕉と杜国とは男色関係があったんじゃないかという話を聞くことあるね。
華女 そんな話を聞くと芭蕉のイメージに傷が付くわ。芭蕉には孤高の俳人というイメージがあるわ。そのイメージを壊さないでほしいわ。
句郎 そうかな。芭蕉にもごく平凡な男としての生理があったんじゃないのかな。
華女 男色がごく平凡な男の生理なの?
句郎 江戸時代に生きた男にとって男色はごく平凡な男の生理だったみたいだよ。
華女 どうしてそんなことが言えるの。
句郎 江戸時代は身分制社会だったからね。当然男女差別が正当なものとして認められていた社会だった。男の世界にも差別が社会の秩序として認められていた。身分の低い男は身分の高い男に憧れるということが当然なこととしてあったんじゃないかな。
華女 そういう精神的なものがあったであろうとは思うわ。でも男色関係というものは、そのような精神的なものとはちょっと違うんじゃないの。
句郎 江戸時代の男色とは、基本的に精神的なものであったのじゃないかと思うけど。
華女 「白げしにはねもぐ蝶の形見哉」。この句が芭蕉の杜国への愛とか、恋というものを表現している言えるのかしら。
句郎 白い芥子の花、なんとなく弱々しく美貌の女性というイメージがあるじゃない。四面楚歌の故事にある美人「虞(ぐ)」とは、芥子の花のような美女だよ。白い芥子の花とは、杜国のことを意味しているんだ。杜国と今別れると言うことは体半分をもぎ取られるような苦しみだ。蝶々が羽をもぎ取り形見として置いていったんだと芭蕉は感じた。その蝶々の思いは芭蕉の杜国への思いでもあった。こんな女への思いのような句を詠むなんて芭蕉の杜国への思いは男色以外の何物でもないのじゃないかと理解する人がいるみたいなんだ。
華女 句郎君の話を聞くと女の人の男の人への思いのようにも感じるわ。
句郎 芭蕉には女性的な感性があったのかな。
華女 私は男とか、女といって区別する物の味方や感じ方をするのを嫌っているけれど、ちょっと女性的かなと感じたわ。
句郎 芭蕉は晩年『嵯峨日記』に「夢に杜国が事をいひ出して、涕泣して覚ム」と書いている。芭蕉は杜国を深く愛していたのは間違いなかったんじゃないかな。
華女 芭蕉は女性を愛したように年下の男を愛したということは分かったわ。
句郎 最近分かってきた性同一性障害というものと男色とか、レスビアンというものと芭蕉と杜国との関係は少し違っているとも思うんだ。
華女 芭蕉が若かった頃には寿貞という芭蕉の身の回りの世話をしてくれたのではないかといわれている女性がいたんでしょ。
句郎 そのようだ。だから根っからの男色家ではなかった。だから杜国への思いは、普通の弟子以上の思いがあったということなんじゃないのかな。