樫の木の花にかまはぬ姿かな 芭蕉
句郎 「樫の木の花にかまはぬ姿かな」。『野ざらし紀行』に掲載されている。京にのぼりて三井秋風が鳴滝の山荘を訪ね、詠まれた句。貞享二年、芭蕉42歳。
華女 我が家の近所に公園があるのよ。その公園にソメイヨシノが四、五十本あるかな。その公園の入り口に大きな太い欅に囲まれた農家があるわ。桜の木より十メートルくらい高い所に若葉が風に揺れている姿を芭蕉のこの句を読んで思い出したわ。
句郎 樫の木は常緑広葉樹だが、欅ほどの大木になることは無いようだ。だが高い樫の木で囲まれた農家や寺院があるね。
華女 綺麗に刈り込まれた樫の木のくねは立派よね。
侘助 この句は立派な樫の木を詠んでいるんだよね。
華女 桜の花を詠んではいないのよね。
句郎 俳句とは、季語を詠ったものなんじゃないの。
華女 俳句とは、季語を詠むものだと教えられたような気がするわ。
句郎 そうだよね。確かに芭蕉は「花」を詠んでいないよね。
華女 でも季節感は表現されているように思うわ。
句郎 樫の木の若葉が見えるよね。
華女 比較の対象として桜を詠むという方法があるんだとは、思ったわね。
句郎 この句は立派なお屋敷を称えた句だと思うよ。
華女 この句は俳諧の発句だったのね。客人の芭蕉は主人の屋敷を称える挨拶をした句が「樫の木の花にかまはぬ姿かな」だったのね。
侘助 そうなんだ。俳句とは礼法を学ぶ遊びだったのかもしれないな。
華女 なるほどね。江戸時代の農民や町人たちに俳諧という遊びか普及した理由の一つが礼法を学ぶことができるということだったのかもしれないわよ。
句郎 礼法が社会を規律した社会にあっては、礼法を弁えているということが、人間の価値を高める役割をはたしたのかもしれないなぁー。
華女 きっとそうなのよ。上層農民や豪商の町人にとって礼法は仕事上大事なことだったじゃないの。
句郎 芭蕉は武家奉公人だったから武家の礼法を弁えていたんじゃないかな。
華女 武家の礼法を思わせるような挨拶吟の句が『野ざらし紀行』にはあるんでしょ。
句郎 そうだよね。「世に匂へ梅花一枝のみそさざい」も挨拶吟だった。「梅白し昨日ふや鶴を盗まれし」なんて句も三井秋風氏への挨拶吟だからね。
華女 「樫の木の花にかまはぬ姿かな」は挨拶吟として名句ね。「世に匂へ梅花一枝のみそさざい」の挨拶吟より遥かにいいと思うわ。
句郎 軽いということなのかな。
華女 そう軽さがいいのよ。重いものは良くないわ。
句郎 軽いからこそ、話が弾むということなのかな。
華女 そうだと思うわ。女同士の話って、軽くなければ、だめね。別れた後には何も残らないような話がいいのよ。
句郎 俳句の場合は、軽くても印象にのこるような句でなくちゃ、ダメだとは思うけれど。
華女 そりゃ、そうでしょ。何しろ俳句は文学の一端ではあるんでしょ。
句郎 そう、文学になっている句もあれば、文学からは遠く離れたくもあるとは思うけど。