碪(きぬた)打て我にきかせよや坊が妻 芭蕉
侘輔 「碪(きぬた)打て我にきかせよや坊が妻」。『野ざらし紀行』に「独(ひとり)よし野ゝおくにたどりけるに、まことに山ふかく、白雲峯に重り、烟雨谷を埋ンで、山賎(やまがつ)の家處々にちいさく、西に木を伐音(きるおと)東にひヾき、院々の鐘の聲は心の底にこたふ。むかしよりこの山に入て世を忘たる人の、おほくは詩にのがれ、歌にかくる。いでや唐土(もろこし)の廬山(ろざん)といはむもまたむべならずや。」と書き、更に「ある坊に一夜を借りて」と書きてこの句を載せている。貞享元年、芭蕉41歳の時の句だ。
呑助 「山賎(やまがつ)」というのは、樵(きこり)のことですかね。「唐土(もろこし)の廬山(ろざん)」とは、何ですか。
侘助 中国江西省の廬山は文人墨客の隠棲の場所として古来有名な所らしいよ。
呑助 芭蕉さんは漢詩の教養があったんですね。
侘助 芭蕉も元禄時代の文人の一人だったんじゃないのかな。
呑助 芭蕉さんはどのようにしてそのような教養を身に付けたんでしようね。
侘助 芭蕉は18、9歳のころから伊賀上野の藤堂藩伊賀付侍大将藤堂新七郎良精(よしきよ)の嫡子良忠に仕えた。良忠は俳諧を好み、京都に住む俳人北村季吟に師事していた。芭蕉は良忠の使いとして季吟亭に俳諧の発句を持参した。また季吟からの指導を良忠に伝えた。このような使いを通して芭蕉は歌学の教養を身につけて行ったんじゃないのかな。
呑助 北村季吟とは、どのような人だったんですか。
侘助 当時最高の歌学の教養を持っていた人のようだ。、『土佐日記抄』、『伊勢物語拾穂抄』、『源氏物語湖月抄』などの注釈書を著している。また歌学方として500石にて子息湖春と共に幕府に仕えた。以後、北村家が幕府歌学方を世襲しているからね。
呑助 当時一流の歌学者から芭蕉は和歌や歌学を教えてもらっていたんですか。
侘助 「碪(きぬた)打て我にきかせよや坊が妻」。この句は「み吉野の山の秋風小夜ふけて古里寒く衣打つなり」という。『新古今和歌集』にある藤原雅経の歌を下敷きにしているのではという注釈があるくらいだから。
呑助 でも私はちょっと新古今の歌が詠んでいる世界と芭蕉の句の世界は大きく違っているように思いますがね。
侘助 そうだよね。李恢成に『砧を打つ女』という小説がある。秋の夜、夫や子供の強張った布地をコツコツと木づちで布を打つ母親を李恢成は表現した。芭蕉のこの句は李恢成の小説を彷彿とさせている。そのように私は感じているんだ。塔頭の寺に生きる僧侶の妻は召使のような存在だったに違いない。貧しい下積みの僧侶の妻が布地をコツコツと秋の夜長を打っている。木づちの音に寂しさが籠っている。在日朝鮮人の家に育った李恢成は秋の夜長、砧を打つ母の姿を見て育った。どんなに貧しくとも子供たちが着ていく服が強張ったままではと、砧を打って、着心地の良い服に仕上げた。ここに子を思う母の気持ちを成人した李恢成は表現した。芭蕉もまた貧しい寺に生きる妻の気持ちを表現したのが芭蕉のこの句なんじゃないのかな。