躑躅(つつじ)生けてその陰に干鱈(ひだら)割く女 芭蕉
句郎 「躑躅(つつじ)生けてその陰に干鱈(ひだら)割く女」。「晝の休らひとて旅店に腰をかけて」と書き詠んでいる。貞享二年、芭蕉42歳。
華女 この句、季重なりね。
句郎 「躑躅(つつじ)」と「干鱈(ひだら)」だよね。
華女 この句は、つつじを詠んでいるの、それとも干鱈を詠んでいるのかしら。どっちだと思う?
句郎 躑躅も干鱈も春の季語だよね。「躑躅(つつじ)生けて」と上五が六音になっているからね。ここにこの句の味わいがあるんじゃないのかな。だから季語は躑躅だよ。干鱈を割く召使の女を店の主は躑躅で隠そうとしているんだよ。でもスケスケに見えてしまっている。ここにこの旅店のうらぶれた姿が表現されている。そんな店先の躑躅を詠んでいるんだと思う。
華女 躑躅は『古今集』の時代から詠まれ続けて花なんでしよう。
句郎 そのようだ。「竜田川いはねのつつじ影みえてなほ水くくる春のくれなゐ」と藤原定家は詠んでいるようだ。
華女 『新続古今集』にある句ね。
句郎 「思ひ出づるときはの山の岩つつじ言はねばこそあれ恋しきものを」と、よみ人しらずの歌が『古今集』にある。
華女 岩躑躅と恋、和歌の世界ね。
句郎 沢を流れる川岸に咲く躑躅には恋の思いが籠っているのかもしれない。
華女 打ち明けられない苦しみ、それは女の苦しみよ。押さえつけられた女の痛みなのよ。
句郎 躑躅の陰に募る思いを詠んだのではなく、干鱈を割く召使の女の働く姿を芭蕉は詠んだ。
華女 そこに俳諧があるということなのね。
句郎 「春雨の柳は全体連歌也。田にし取烏は全く俳諧也」と芭蕉から教えられたと弟子の土芳は『三冊子』の中で述べている。
華女 干鱈は当時、農民や町人の食べ物だったの。
侘助 干鱈は公家や武士の食べ物ではなく、田螺と同様農民や町人が主に食べた安い干物だったようだ。
華女 木賃宿のような所で働く召使の女を詠んだところに芭蕉の手柄があるのね。
句郎 ほつれた髪の毛、日に焼けた顔、荒れ果てた手の中に生きる女の美しさを芭蕉は発見したんじゃないのかな。
華女 お化粧した白い顔、しっとりとした白い手や指。梳いた髪の毛。こうした女の美しさではなく、忙しく働く女の姿に美を見出したのね。
句郎 ここに芭蕉の近代性があるのかもしれないな。
華女 農民や町人が働く姿の美しさが近代的ということなの。
句郎 そうなんじゃないのかな。ロートレックがムーラン・ルージュのポスターにスカートをまくり上げた女を描いた。このリアリズムに近代性があるのと同じように思うんだけど。
華女 ちょっと下品なものに美しさを見るのが近代的だということなの。私は上品なものの方がいいなぁーと思っているのよ。
句郎 もちろん、下品なものは下品なものなんだ。しかし、一見下品なものだと思われているものであってもそこに真面目に生きている人間の姿があったとき、美しいと感じることがあったんじゃないのかな。