昨日の続きになりますが、人は物事を判断するときカテゴリに当てはめながら考えます。
カテゴリもなるべく単純な物の方が整理しやすくなるようです。
人の評価の際にももちろん使われます。
古くはヒポクラテス(B.C.468~377)が考案した四大体液説(血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁)があり、現在は血液型別性格判断が流行っています。
血液型別性格判断のカテゴリ分けで陥る罠は、「逆もまた真なり」ではない事です。
たとえば、
「犬は哺乳類である=哺乳類は授乳をする恒温動物である」
ここまでは成り立つのですが、
「=授乳をする恒温動物は犬である」
これは成り立ちませんね。
血液型性格判断の場合は、
「私はA型である=A型は几帳面な性格である」
この時点ですでに成り立たないのですが、なぜかとても支持されています。さらに、
「几帳面な性格はA型である」
成り立たないと思うのですが、これも一般的になぜか支持されています。
会話のタネにはなるのですが、信じ込んでしまうのはどうでしょう。
人はそれぞれ個性があり全く同じ人などいないはずなのですが、どうしても人を理解する時にはカテゴリに当てはめてしまいがちです。
カテゴリ分けがしっかりし過ぎていればステレオタイプな物の見方に陥ります。
世の中の全ての事象はもっと面白いものだと思うのですが。
カテゴリもなるべく単純な物の方が整理しやすくなるようです。
人の評価の際にももちろん使われます。
古くはヒポクラテス(B.C.468~377)が考案した四大体液説(血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁)があり、現在は血液型別性格判断が流行っています。
血液型別性格判断のカテゴリ分けで陥る罠は、「逆もまた真なり」ではない事です。
たとえば、
「犬は哺乳類である=哺乳類は授乳をする恒温動物である」
ここまでは成り立つのですが、
「=授乳をする恒温動物は犬である」
これは成り立ちませんね。
血液型性格判断の場合は、
「私はA型である=A型は几帳面な性格である」
この時点ですでに成り立たないのですが、なぜかとても支持されています。さらに、
「几帳面な性格はA型である」
成り立たないと思うのですが、これも一般的になぜか支持されています。
会話のタネにはなるのですが、信じ込んでしまうのはどうでしょう。
人はそれぞれ個性があり全く同じ人などいないはずなのですが、どうしても人を理解する時にはカテゴリに当てはめてしまいがちです。
カテゴリ分けがしっかりし過ぎていればステレオタイプな物の見方に陥ります。
世の中の全ての事象はもっと面白いものだと思うのですが。