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つぼのいしぶみ

2010-03-17 | 名所 旧跡
青森県の七戸から野辺地にかけては県内有数の豪雪地帯です。
「一山越えると春の田起こしが一週間違う」
「車で10分走ると天気が違う」
そんな表現が納得できるほど、3月の中旬になっても雪の多く残る東北町に「日本中央」と刻まれた石碑があります。
真贋論争は未だに決着が付かず棚上げ状態のままですが、歴史のロマンに満ちたこの石碑はネットでも数多く取り上げられています。



1876年(明治9年)に東北を巡幸していた明治天皇はここで、千曳神社の敷地の発掘と周囲の探索を近在の住民に命じています。
西行法師、和泉式部など多くの歌人が和歌に詠った「つぼのいしぶみ」は、坂上田村麻呂が征夷のため東北へ来た際に、「つぼ」という場所で石に文を刻んだと12世紀末の文書に書き記されています。
千曳神社には、昔この地方に北に住む鬼を防ぐための石碑があり、鬼を追い払った後その石碑を千人の人が千曳神社まで引いて運んだという謂れがあり、隣接して「坪」「石文」の地名地があります。
東北本線の上野・熊谷間の開通は1883年、青森までの全線開通は1891年で、この時まだ列車は通っていません。それでも時代が大きく変わって間もなくここを訪れたのは、歌の文化を大切にしていた皇室が、それだけこの碑の伝承に強く関心を持っていたからでしょうか。

同じ青森県内でも東日流外三郡誌は偽書として確定しましたが、埋もれている筈の地方の独自の歴史に対して抱く興味は歴史好きにはとても強くあり、専門家ですら信じさせてしまうほどの強烈な輝きを放っています。
「日本中央」の碑は昭和24年に、近くに住む人によって石文集落近くで発見されています。
千曳神社の謂れと「坪」という地名、発見場所の「石文」。
歴史ファンでなくても想像の世界に引き込まれそうな歴史ミステリーです。

ちなみに千曳神社のすぐ裏手を流れている小川は、石碑発見場所の横を流れている小川と、発見場所のすぐ近くで合流しています。
江戸時代に社が取り払われていた時期もあり、この頃に大きな洪水があったとしたら。
いえいえ、想像の話ですが。

春の千曳神社は、まだ深い雪に閉ざされていました。
明治天皇が掘り返させたという社殿の見学は、雪が消えてからになりそうです。



つぼのいしぶみ Wikipedia
日本中央の碑 下北見聞録
「壺の碑」に新説?「日本中央の碑」は明治9年に発見 JANJAN
東日流外三郡誌 Wikipedia