小正月も過ぎ、各種の正月行事もほぼ終わりました。
鏡餅やしめ飾り、初詣など、何がしかの正月行事を行っている人は多いと思います。
日本人は無宗教とよく言われますが、正月やお盆は地方においては今でも大きな行事ですし、何もしない場合でも意識はすることでしょう。
オウム真理教の事件から特に、「宗教は怖い」と考えられるようになったと感じます。もちろん私もそんな感覚を持つようになりました。
わが家には仏壇も神棚もありませんし、節目の行事もささやかに行うだけで、無宗教と言えば言えるのですが、完全に全部を取りやめると決意できるほど無宗教を自覚的に志向しているわけではありません。
三頭木を調べていくにあたって、民間信仰に関する書籍を読む機会が増えました。
明治維新後に、国家神道を普及させるための民間宗教の整理・統合と禁止の際に、庚申塔や山の神、賽の神など、伝承がはっきりせずに村の神社にまとめられた石碑もたくさんあると知りました。
道端に建てられている石碑などは、教義や伝承などと関わりなく信仰されていた存在でした。
これらの民間信仰につきものだったのが「講」の存在です。
現在でも百万遍塔の前で念仏数珠をたぐる風習は残っている地方も多いのですが、講は地縁に限らず血縁であったり知人による集まりであったりと、人間関係を複数化する働きがあったと思われます。
この「講」は相互扶助的な側面があり、経済に限らず困ったときの相談相手の幅を広くしていたとも考えられます。
現代でも人間関係の複線化の重要性はよく言われていますが、人間関係の構築は何もない所から作り上げるのは難しいものです。
人づてに何かの信仰に関わり、定期的な集会に参加し帰属性を育てるのは、行政によるセーフティネットのない時代には不可欠のものだったのかもしれません。
「村八分」など閉鎖的な社会と思われている地方の実情は、民間信仰によって複雑な人間関係を作り上げていたのかもしれません。
人間関係の構築という点で、現代にも通じる知恵なのだと感じています。
一概に宗教は怖い物とも言えませんし、取捨選択する目を養いながら、宗教にコミットすることも必要なのかもと思うようになりました。
鏡餅やしめ飾り、初詣など、何がしかの正月行事を行っている人は多いと思います。
日本人は無宗教とよく言われますが、正月やお盆は地方においては今でも大きな行事ですし、何もしない場合でも意識はすることでしょう。
オウム真理教の事件から特に、「宗教は怖い」と考えられるようになったと感じます。もちろん私もそんな感覚を持つようになりました。
わが家には仏壇も神棚もありませんし、節目の行事もささやかに行うだけで、無宗教と言えば言えるのですが、完全に全部を取りやめると決意できるほど無宗教を自覚的に志向しているわけではありません。
三頭木を調べていくにあたって、民間信仰に関する書籍を読む機会が増えました。
明治維新後に、国家神道を普及させるための民間宗教の整理・統合と禁止の際に、庚申塔や山の神、賽の神など、伝承がはっきりせずに村の神社にまとめられた石碑もたくさんあると知りました。
道端に建てられている石碑などは、教義や伝承などと関わりなく信仰されていた存在でした。
これらの民間信仰につきものだったのが「講」の存在です。
現在でも百万遍塔の前で念仏数珠をたぐる風習は残っている地方も多いのですが、講は地縁に限らず血縁であったり知人による集まりであったりと、人間関係を複数化する働きがあったと思われます。
この「講」は相互扶助的な側面があり、経済に限らず困ったときの相談相手の幅を広くしていたとも考えられます。
現代でも人間関係の複線化の重要性はよく言われていますが、人間関係の構築は何もない所から作り上げるのは難しいものです。
人づてに何かの信仰に関わり、定期的な集会に参加し帰属性を育てるのは、行政によるセーフティネットのない時代には不可欠のものだったのかもしれません。
「村八分」など閉鎖的な社会と思われている地方の実情は、民間信仰によって複雑な人間関係を作り上げていたのかもしれません。
人間関係の構築という点で、現代にも通じる知恵なのだと感じています。
一概に宗教は怖い物とも言えませんし、取捨選択する目を養いながら、宗教にコミットすることも必要なのかもと思うようになりました。
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