13.復活
聖書に死んだ者の復活が予言されており、コーランにも神様と共にする祝福された未来の人生に対する約束がある。復活は、単純にこの世で死んだ者が死後の世界へ霊魂が自然に転換される問題ではない。それは、死から永遠の生の領域に霊魂を昇華する神様の救援行為である。復活を通して私達は、単純に新しい生の機会を得るのではなく、新しい生の質的変化を遂行するのである。
文鮮明先生は、復活を通して死の領域である地獄に捕らわれた存在から神様の懐の中の祝福された存在として霊的に引き上げられると教える。私達が神様の下さる新しい生、すなわち復活を主張するためには、自己の否定、確固たる信仰、さらには殉教などの条件が必要だ。これは私達が神様とより完全に関係を結ぶために、サタンとの関係を断ち切って自分を「葬り去ること」である。イエス様が自身の復活の前提条件として十字架で祭物となったように、私達もやはり試練に直面する。イエス様が外見上、ローマ人の手で犠牲となって敗北したように見えても勝利したのは、神様が敗北をひっくり返し、死までも勝利と生命に変えられることを見せてくれたのである。
聖書は、すべての正義の霊魂たちが天に引き上げられていく末世の復活に対して記録している。聖書は、14 万4000 の聖なる群れが「最初の復活」に参与すると語る。これは死後の世界でも、霊魂たちが未来の解放の日が来るときまで、暗闇の中で耐え、悪条件に抑圧されていることを意味する。救世主が出現してサタンを退け、地獄に閉じ込めるその日、天上と地上のすべての霊魂たちが復活の自由と新しい生を味わうようになるだろう。
しかし、文鮮明先生がはっきりと明らかにしたように、最初の復活は、ほかの人の努力の代価によって特定の信仰者に永遠に恩寵として付与されるものではなく、かえって最初の復活に参与する聖なる人たちは、パウロが「最後に退ける怨讐は死亡」と語ったように、一人の霊魂も死の領域にとどまらないよう、悪のすべての権勢を退ける闘争に同参しなければならない。
①死亡から生命に
―宗教経典―
召集者が近い所から呼ぶ日に(備えて)、耳をそばだてよ。その日、かれらは真実に一声を聞こう、それは出て来る日である。まことにわれは、生を授けまた死を賜う、われによろずのものの帰着所がある。その日、大地は、かれらの所から裂けて急いで出て行く。それは召集で、われにとっては容易なことである。
クルアーン50.41 ~ 44(イスラーム)
主の手が私の上に臨んだ。私は主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主は私に、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。
そのとき、主は私に言われた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができるか。」私は答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」そこで、主は私に言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、私はお前たちの中に霊を吹き込む。
すると、お前たちは生き返る。私は、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちは私が主であることを知るようになる。」私は命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。
見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。私が見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。主は私に言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」私は命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。私はお前たちの墓を開く。
わが民よ、私はお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。私が墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちは私が主であることを知るようになる。また、私がお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。私はお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主である私がこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。(注42)
エゼキエル書37.1 ~ 14(キリスト教)
かれらは、「何んと、わしらが朽ちはてた骨になってしまっても、ほんとうに、初めの状態に返るであろうとか」と、言おう。かれらは、「その場合失敗の帰還だ」と言う。それは、ただ一声の叫びで、見よ、かれらは目ざまされる。
クルアーン79.10 ~ 14(イスラーム)
アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
コリントの信徒への手紙一15.22 (キリスト教)
イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
ヨハネによる福音書11.25 ~ 26(キリスト教)
私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神を仰ぎ見るであろう。ヨブ記19.25~26(キリスト教)
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
ヨハネによる福音書記24 ~ 25(キリスト教)
かれのしるしの一つを、なんじは、荒れはてた大地に見る。われがその上に雨を降らせると、動きだし盛りあがる。まことにそれに生命を与えたもう方は、まさに死者をよみがえらせたもう方である。かれは、よろずのことに全能であられる。
クルアーン41.39(イスラーム)
死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。
つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊
の体もあるわけです。「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。
コリントの信徒への手紙一15.42 ~ 45(キリスト教)
―み言選集―
我々はこれまで、人間の寿命が切れて、その肉身の土に帰ることが、堕落からきた死であるとばかり考えていた。したがって、このような死から再び生きることが、聖書の意味する復活であると解釈してきたので、既に他界した信徒たちの復活は、すなわち土に分解されてしまったその肉身が、再び原状どおりによみがえることによって成就されるものと信じていた。
しかし、創造原理によれば、このような死は、人間始祖の堕落によって招来されたものではなく、
本来、人間は老衰すれば、その肉身は自然に土に帰るように創造されているので、いったん土に分解されてしまった肉身が、再び原状どおり復活することは不可能であるばかりでなく、霊界に行って永遠に生きるようになった霊人体が、再び肉身をとる必要もないのである。
ゆえに、復活は人間が堕落によってもたらされた死、すなわちサタンの主管圏内に落ちた立場から、復帰摂理によって神の直接主管圏内に復帰されていく、その過程的な現象を意味するのである。したがって、罪を悔い改めて、昨日の自分より今日の自分が少しでも善に変わるとすれば、我々はそれだけ復活したことになる。
聖書で、復活に関する例を挙げてみれば、ヨハネ福音書5章24 節に「私の言葉を聞いて、私をつかわされた方を信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」と記録されている。これは、イエスを信じることによって、サタンの懐から離れ、神の愛の懐に移ることが、すなわち復活であるということを意味するみ言である。
また、コリントⅠ 15 章22 節には、「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、
キリストにあってすべての人が生かされるのである」と記録されているが、これは、アダムによってサタンの血統を受け継ぐようになったのが死亡であり、この死亡からキリストによって天の血統に移されることが、復活であるということを意味するみ言である。善悪の果を取って食べる日には、きっと死ぬであろう(創2・17)と言われた神のみ言どおりに、善悪の果を取って食べて堕落したアダムとエバが、死んだのは事実であった。
しかし、彼らには、外形的には何らの異変も起こらなかったのである。変わったことがあるとすれば、不安と恐怖によって、瞬間的に彼らの顔色が変わる程度であっただろう。ゆえに、堕落した人間が善悪の果を取って食べた以前の人間に復活するとしても、その外形上には何らの変化も起こらない。
聖霊により重生した人間は、重生する以前と比べて、確かに復活した人間には違いない。しかし今、彼と強盗とを比較すれば、一人は天の人間として、ある程度まで復活した立場におり、また一人は、地獄に行くべき人間として、死んだ立場にいるが、彼らの外形には何らの差異も認められないのであ
る。
既に例証したように、イエスのみ言に従って、神を信じる者は、死から命へと移されて、復活させられたのは事実である。しかし、彼がイエスを信じる前の死の状態にいるときも、イエスを信じて命に移されることによって復活したのちにも、彼の肉身上には、何らの変化も起こらないのである。
イエスは創造目的を完成した人間として来られたことは事実である(キリスト論参照)が、外形から見たイエスは堕落人間と比べて何の差異もなかった。もし、彼に変わったところがあるとすれば、当時の側近者たちが、彼を信じ従わないはずがなかったのである。
人間は復活により、サタンの主管圏から抜けだして、神と心情一体となれば、神性をもつようになる。このように、堕落人間が復活によって、神の主管を受けるようになれば、必然的に、その心霊に変化を起こすようになるのである。このような心霊の変化によって、人間の肉身もサタンの住まいから神の宮へと、事実上聖化されていくのである。このような意味において、肉身も復活されると見ることができる。これはちょうど悪いことをするために使用されてきた建物が、神の聖殿として使用されるようになれば、その建物の外形には何らの変化もないが、それは、既に聖なる建物に変化しているというのと同じ理論である。
原理講論、復活論1.3 ~ 4
人が死んだならどうなるのでしょうか。死ぬ直前までは私のものですが、死んだのちは神様のものになります。それは私達が堕落した血統を受けたからです。ですから死ぬまでは、私達の生命すべてはサタン側の因縁を抜けきれないのです。しかし、死んだのちは神様と因縁が結ばれるのです。死なずしては復活できません。一つの時代を過ごさずしては、次の時代を迎えることができないのです。
「生きんとする者は死に、死なんとするものは生きん」という聖書で言う「死」とは、何を意味するのでしょうか。神様が下さった永遠で真の生命を葬り去れということではありません。
サタン世界の堕落した血統を受け継いだ生命を葬りなさいということです。それで、み旨のために死のうとする人は生きるということです。この言葉は逆説のようですが、堕落と復帰の内容を中心として見るとき、そのようにしなければ、復帰ができないのです。これは復帰の正常な論法です。
(297-265、1998.12.19)
聖書は、結論として、生きんとする者は死に、死なんとする者は生きんと言いました。堕落した世界で、堕落圏を抜け出すためには、自分の生命を捨てなければなりません。堕落圏には生命がありません。ですから、これを否定すれば復活が起きます。イエス様も自分の生命を否定したので復活することができました。復活は、イエス様がしたのではありません。神様がしてくださったのです。
(307-167、1998.11.8)
②聖人の復活:最初の復活
―宗教経典―
すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、私達生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、私達はいつまでも主と共にいることになります。
テサロニケの信徒への手紙一4.16 ~ 17(キリスト教)
つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。
コリントの信徒への手紙一15.22 ~ 25(キリスト教)
また、私が見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。私は、大水のとどろぐような音、また激しい雷のような音が天から響くのを聞いた。私が聞いたその音は、琴を弾く者たちが竪琴を弾いているようであった。
彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌のたぐいをうたった。この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、覚えることができなかった。
彼らは、女に触れて身を汚したことのない者である。彼らは童貞だからである。この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く。この者たちは、神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちで、その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである。
ヨハネの黙示録14.1 ~ 5(キリスト教)
私はまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずで
ある。私はまた、多くの座を見た。
その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。私はまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。
その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。
ヨハネの黙示録20.1 ~ 6(キリスト教)
―み言選集―
もし神様が人間を見物するために造られたのなら、そのような神様は必要ありません。全神経を人間に注ぎ、6000 年の長い、長い試練の歳月を経てこられながら、人間に対して摂理してこられた目的は何でしょうか。直接的な天の家族、すなわち食口の因縁、父子の因縁を結ぶためです。
ですから、無数の苦労の峠を越えて、また越え、きょうもこの道を走っていることを、私達は知
らなければなりません。私達が願う家庭ではなく、神様が願う家庭の食口として登場し、その食口の威信と価値をお父様の前に表すその日が、キリスト教で言う復活の日であり、再臨の日なのです。
(7-265、1959.9.27)
「最初の復活」というのは、神の復帰摂理の歴史が始まって以来、再臨摂理によって、初めて人間が原罪を脱いで、創造本然の自我を復帰し、創造目的を完成させる復活をいうのである。
したがって、すべてのキリスト教信徒たちの唯一の望みは、最初の復活に参与することにある。では、どんな人たちがここに参与できるのだろうか。再臨主が降臨されたとき、最初に信じ侍って、復帰摂理路程の全体的な、また世界的な蕩減条件を立てる聖業に協助して、すべての人間に先立って原罪を脱ぎ、生霊体級の霊人体を完成し、創造目的を完成した人たちがここに参与できるようになるのである。
また、聖書に表示された14 万4000 人とは何を意味するのであろうか。その事実について調べてみることにしよう。イエスが再臨されて、復帰摂理を完遂なさるためには、復帰摂理路程において、天のみ旨を信奉してきながらも、自分の責任分担を果たせなかったために、サタンの侵入を受けたすべての聖賢たちの立場を蕩減復帰できる代理者たちを、再臨主がその一代において横的に探し立て、サタン世界に対する勝利の基台を立てなければならない。
このような目的で、再臨主が降臨されて立てられる信徒の全体数が、正に黙示録14 章1節から4節までと、黙示録7章4節に記録されている14 万4000 の群れなのである。
原理講論、復活論2.2.7
14.永生
多くの人々に宗教の目標は、不滅、あるいは永生だと周知されてきた。人間は、常に死の限界で葛藤してきたのであり、宗教では、人間存在の可能性を制約する死を超越しようとする手段を求めてきた。復活と共に永生は、単純に死から霊魂が生き返り、死後の世界を旅行することばかりを意味するのではない。
永生は、それ自体で永遠に存在するというのではなく、かえってその存在の質的変化を意味するのである。多くの宗教の諸経典は、「生」と「死」に二つの意味を付与している。この世俗的な存在のような肉体的生があり、生命が持続して死を超越する祝福状態である霊的な生がある。すべての人間の人生で、体が消滅する肉体的死があり、神様と離れた状態、そしてあの世で地獄に捕らわれた存在を意味する霊的死がある。
「永生」と「不滅」は、祝福された条件を描写したものである。この条件は、真理を実践し、神様の恩寵の中では人の現世的人生に既に現れ、死後にも消滅しないまま継続する。自分の所有と世俗的享楽にあらゆる希望をかける世の中の人たちには死が終わりかもしれないが、永生を得た人は、人生の目標を実現したため、死は既に恐怖の対象ではない。
しかし、仏教は生に対する欲望が一種の執着であり、解放の足かせと見るため、仏教の経典は、永生という祝福の状態に対し、一般的に言及しない。その代わり、仏教は涅槃を語る。
文鮮明先生は、永生とは人間に対する神様の愛と神様に対する人間の愛を土台として、私達人間が永遠であられる神様と一体の関係性をもつことを根拠としていると教える。先生は、「永遠性は真の愛を離れては存在できない」と語る。先生はこの概念を拡張し、永遠の愛を願う恋人たちの関係を例に説明する。人間が永生し、神様を永遠に愛し、神様の加護により愛する人たちと永遠の共同体を成して暮らすよう創造されたため、霊人たちも永遠の愛を願うのであると教える。
①神様の中で永生
―宗教経典―
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書3.16 (キリスト教)
イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
ヨハネによる福音書11.25 ~ 26(キリスト教)
だが信仰して善い行いにいそしむ者たち、これらの者は、衆生のうち最善の者である。かれらの報奨は、主のみもとの川が下を流れるエデンの園で、かれらはその中にとこしえに住むであろう。神はかれらを喜びたまい、かれらはかれに満悦し奉る。それは主を恐れる者への報奨である。
クルアーン98.7 ~ 8(イスラーム)
最高の存在は死ぬことがない。ゆえに私も死なないだろう。
アカン族の格言(アフリカ伝統宗教)
「道」に達すれば永久に続く。
道徳経16(道教)
自己以外の何物をも見ず、何物をも聞かず、何物をも識別せざる状態が即ち豊満である。そして、自己の外に他物を見、他物を聞き、他物を識別する状態は即ち貧欠である。豊満なるものは即ち不死(永生)である。従って貧欠なるものは即ち応死である。この事について次の如き頌がある。真の観照者は死を見ず、病を見ず、また苦を見ず、しかも一切を徹見し、一切処において一切を得る。
チャーンドーギヤ・ウパニシャッド7.24.1 および7.26.2(ヒンドゥー教)
欲望をいだかず、欲望なく、アートマンを欲望として、欲望が達成した人からは気息は出ていかない。〔それらは(気息は)〕その同じところに合一するのである。〔かれは〕ほかならぬブラフマンでありながら、ブラフマンと合一するのである。……
したがって、ここに〔つぎのような〕詩節がある。『かれの心臓に依存している欲望がすべて離脱すると、死すべきもの(人間)は不死となり、〔かれは〕この世でブラフマンに達する』
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド4.4.6 ~ 7(ヒンドゥー教)
罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私達の主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
ローマの信徒への手紙6.23(キリスト教)
無より有にわれを導きたまえ。闇より光にわれを導きたまえ。死より不死にわれを導きたまえ。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド1.3.28(ヒンドゥー教)
その上(かみ)に高大、至高なる梵ありて、しかも有情の身量に応じて、一切有情の衷に潜めり。万物の被覆者たるこの唯一の主神を知る時人は不死となる。我は知る、この偉大にして、日神の形色をなし、黒闇の彼方にある神我を認得す。この神我を認得する時、人は死を超ゆ。これより他に、至上界へ赴くための道はなし。
彼より高き何物もなく、また低き何物もなし。彼より小さき何物もなく、また大なる何物もなし。彼は唯一者として大樹の如く泰然として天界に立てり。かかる神我によりて万物は満たされたり。これ(宇宙)より遥かに高きものは即ち形色なく、病なし。この物を認得せる者は不死となる。され
ど、その他の輩は遂に苦患に堕す。
シヴェータシヴァタラ・ウパニシャッド3.7 ~ 10(ヒンドゥー教)
最高の我は、生老病死に引っかかることがなく、至高、清浄で八つの業に染まっていない。それは無限の知恵と洞察と至福と権能をもち、破壊されることがなく、また尽きることがない。それは人の感官が及ぶところではなく、一切のこだわりや長短点、または再生から自由であり、永遠不変であり、比べるもののない自存者である。(注43)
クンダクンダニヤマサラ176.77(ジャイナ教)191
「生きているものは、少なくとも知っている。自分はやがて死ぬ、ということを」(コヘレトの言葉9.5)。彼らは、死んでも生きている存在と呼ばれる、正に義人たちである。……「しかし、死者はもう何ひとつ知らない」(コヘレトの言葉9.5)。彼らは生きているが、死んだ者と同じだ。非難される者は悪なる者たちである。
タルムード、ムナホート18ab (ユダヤ教)
イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。(注44)」
ルカによる福音書9.60 (キリスト教)
―み言選集―
既に、肉身の寿命が切れた人間であっても、その霊人体が、霊界において、神の愛の主管圏内にいるならば、彼はあくまでも、生きている人である。イエスが、「私を信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネ11・25)と言われたのは、イエスを信じて、神の主管圏内で生きる者は、寿命が切れて、その肉身が土の中に葬られたとしても、その霊人体は依然として神の主管圏内にいるので、彼は生きている者であるという意味である。
イエスは、また続けて、「また、生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」と言われた。このみ言は、イエスを信じる者は、地上で永遠に死なずに生きるという意味ではなく、肉身のある間にイエスを信じる者は、現在生きているのはいうまでもなく、後日死んで肉身を脱ぎ地上を離れるとしても、彼の霊人体は、永遠に神の愛の懐で、依然として生きつづけるはずであるから、したがって、永遠に死なないという意味で言われたのである。
ゆえに、上記の聖句にあるイエスのみ言は、人間の肉身の寿命が切れることを意味する死は、我々の永遠なる命には何らの影響をも及ぼさない、という意味で言われたみ言である。
原理講論、復活論1.1
永遠の生涯は、生きている永遠の生、このような永生をどのように迎えますか。「私」という存在は、神様の愛の対象として造られました。絶対的神様の、主体的神様の対象の位置が正に私だというのです。神様の愛の相対です。神様が自分よりもっと貴く思うものが真の愛の概念です。神様は絶対的であり、永遠の生命の中心であり、神様の理想はより永遠なものであり、その理想の中心
が正に真の愛の理想です。その愛の相対が私です。
皆さん、愛の属性がどのようなものか分かりますか。それは主体と対象が一つになることです。それは国家を一つにします。ですから、どこの場所でも同参することができ、どこに行っても、ついていけます。全財産をすべて相続できます。神様の永生の位置、その心情までもすべて相続するのです。神様の愛の心、神様の被造万物と共にあるその心、神様がすべての人の心にとどまりたいと思う心まですべて相続するのです。ですから、どれほど貴いですか。私がその悲惨な過程を経て発見することによって、その基盤の上に立つようになります。どれほど喜ばしいことですか。何物とも取り替えることができない崇厳で高貴な位置です。神様と同じ位置に立つのです。永遠の真の愛の位置に同参するというのです。
(216-115、1991.3.9)
人間は真の愛から生まれ育ち、生きて、死んでいきます。しかし、なくなってしまうのではありません。主体であられる神様が永遠、不変、唯一であるので、その対象的な真の愛の立場に立つ時には、永生するのです。永生という理論が、ここから出発します。生命から始まるのではありません。
神様にとって、最も愛する大切なものがあるとしたら、それを1日、10 年、100年間用いたのちに、投げ捨てるようにと造ったのではありません。永遠に、共にあるように造られたのです。
人間も同様です。人間が生まれて死ねば、終わりではなく、永生します。なぜでしょうか。人間は、絶対者であられる神様が、真の愛を中心として喜ぶ対象であるからです。神様は、息子、娘が二人しかいません。ところが、追い出してしまったのです。どれほど悲しいでしょうか。
皆さんは、漠然とではありますが、永生を願っています。大切なものは避難する時、それをもっていきます。そして、それを誇りにします。それを1日、2日誇って、やめるのではありません。自分が死ねば、それを後代に永遠に残すことを願います。人間の欲望はそうです。
それは神様も同じです。神様が永生される絶対者であれば、その方が愛することのできる対象も永遠でなければなりません。ですから、人々は昔も今も永生を願います。それで、絶対者であられる神様は、永生する価値をもつ、真に愛する息子、娘を求めざるを得ないのです。
(290-143 ~ 144、1998.2.18)
永生というものは、本質的な愛の属性です。神様も宇宙を創造されるとき、自ら絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を立ててなされたのです。永遠無窮であるように、世の中は過ぎていったとしても、私の愛をもっと大きくなるようにと投入し得る心をもって生きていらっしゃる方が神様なので、神様の前に主管を受けたくないと思う存在や、相対的な理念をもった存在で神様を絶対、永遠、不変の主人として侍らずにいることのできる存在はない、ということを知らなければなりません。
(330-262、2000.8.18)
サタンが八方に逃げていかざるを得ない秘法は、ために生き、ために死に、ために愛することです。そうすればサタンは逃げていくのです。国境線を捨てて逃げていくのです。逃げていくとしても、そのまま行くことはできません。
国境線を崩してから行くようになっているのです。サタンが離れていくことによって、死亡の地獄に直行していた生命が天の国に上昇することができるという永生の道理が訪ねてくるというのです。そこにおいて初めて永生が展開するのです。神様を知り、天の国を知り、天の国の伝統的思想である「ために生きる」という思想を千年、万年続けたいと切に思う群れになることによって、そこにおいて主体であられる神様をお父様と呼ぶことができるのです。ですから、そこにおいて永遠の血筋を通して、血統を通して永生の論理と永生の伝統が私とともに決着するのです。
(330-262、2000.8.18)
②愛:永生の土台
―宗教経典―
私達は、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは、私達のために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私達は愛を知りました。だから、私達も兄弟のために命を捨てるべきです。
ヨハネの手紙一3.14 ~ 16(キリスト教)
―み言選集―
愛は永遠であることを願うでしょう? それは絶対的愛と一つにならなければなりません。その絶対的愛と一つになろうとすれば、神様と一つにならなければなりません。根本の神様の根から絶対的愛が始まるので、その絶対的な愛には永遠性があるのです。
神様が主体であり、人間が相対であれば、神様が永遠に生きるのですから、愛の相対、一体となった人間も永遠に生きなければならないというのは理論的であり、論理的な結論です。真の愛においてのみ、絶対的な愛においてのみ、永生が存続するということを否定できません。
(251-120、1993.10.17)
自分が愛する人と一つになっていれば、世の中が滅びようとどうなろうと心配しません。父母が刃物を持って一つになれないようにしようとしても、その刃物を恐れません。死んでもいくというこのような概念があるのです。現在の生涯を中心として、その生涯だけではありません。永生がそのようにすべてあるのです。それは自然に願うようになっています。現世の生活よりも永生を願うのです。
これが二重構造になっています。その本体が神様なので、神様が本体の基準を中心として、神様がプラスであれば、マイナスになるのです。マイナスの上にマイナスが来るのではなく、プラスがくっつかなければなりません。それで、大きな天とそこに相対的なものが一つになって回れば一つになります。ここでまたプラスばかりがくっつけば、ここによって大きくなるのです。子女が大き
く、すべて大きくなります。
それで、一つの人間生活の完成標準を中心として、それが一つの種のようになって循環運動をして、春夏秋冬の四季を通して実を結ぶのです。種が再び種に帰ります。水蒸気となって調和をなしますが、あとから水蒸気に戻り、淡水に戻るのと同じ道理です。それが回るためには二重的構造が必要なのです。(380-88 ~ 89、2002.6.5)
お父様は私達自身を立証することができ、私達自身は、お父様の息子であり、娘であるということを、如実に証すことのできる信念をもたなければなりません。
信念だけでなく、体恤的な立場でお父様と「私」は前後関係、左右関係にあることを立証し、そのような立場で永遠に共にあり、永遠に共に生きており、永遠に共に生きるだろうという、変わりなくそうだと言うことのできる論証の起源を、自ら立て得る自分を発見できるように許諾してください。
(40-350、1971.2.11)
15.宇宙的救援
神様の愛と恩寵は限界がない。天の父の心情は、彼の子女をすべて救援することを願うだけである。このような経典の章句は、神様の救援役事の広大さを称賛し、結局、すべての人間を抱きかかえると予言する。仏教で絶対真理の根本目的は、すべての感覚的存在を解放させるのであり、特に大乗仏教の経典は、すべての存在を救援するための阿弥陀仏の菩薩の誓願で慈悲の普遍性に言及している。
一つの中心点を通して全人類の救援が実現されるかもしれない。それで、アブラハムは、「地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(創世記12・3)と言った。ただ一つの道として、一つの宗教を信じる人はすべての人間を救援しなさいという神様の命令が、宣教活動を強力に促す。
反面、神様はすべての国に大勢の預言者と聖賢を送り、その地域文化に適合した方法を通して人間が神様に帰るよう促しながら、神様の救援の意志を現実化する。
救援が世俗的な人生と関係なくすべての人に開かれたものであれば、地獄や末世の審判を信じる人たちには不公正なものと映るかもしれない。神様が本質的に正義であれば、どうして邪悪な者が救援を受けることができるのか。反対に神様が本質的に恩恵深く、慈悲深いのであれば、どうして神様が被造物を永遠の地獄で苦痛を受けるようにできるのか。
天の父であられる神様の心情を理解する文鮮明先生は、子女の中の一人が有罪宣告を受けた犯罪人であれば、私達がそれをどのように感じるか想像してみなさいと言う。私達は、子女の代わりに私達自身が絞首台に上がるとしても子女を救おうとするだろう。文鮮明先生は、神様は私達人間が最上の自由を享受するようにし、私達の人生もそこに相応するように創造したので、私達が神様の救援方法に適応できなければ、救援の道が困難になる点を教える。それでも、究極的に神様の創造目的は具現され、ついにすべての人間は救援され、地獄も空になるだろう。
―宗教経典―
仏の法は、つねに同一の味をもって、多くの世界のものたちは、だんだんと修行して、みな道の果を得るのである。
法華経5(仏教)
にち/\にをやのしやんとゆうものわたすけるもよふばかりをもてる
おふでさき14.35 (天理教)
主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
ペテロの手紙二3.9 (キリスト教)
神は世のすべての国々が悔い改めることを見守っていらっしゃる。ゆえに、あらゆる民を御自身の懐に抱こうと導かれる。
民数記ラッバー10.1 (ユダヤ教)
私は、あなたがあらゆる被造物の主であられ、見えるもの、見えないもの、すべての存在の教育者であることを証言します。私は、あなたの能力が全宇宙を取り囲んでいること、そして地の群れが決してあなたを失望させることはできず、万民と国の主権が、あなたがあなたの目的を達成することを制止できないことを立証します。私は、あなたが全世界の刷新と全世界の民の一致、そしてそこで暮らすすべての人の救い以外に他の欲望をもっていないことを認めます。
バハオラ落穂集115(バハイ教)
そこで、御身に、アフラよ、そして天則に、ミヤズダをわれらは、うやうやしくささげましょう。すべての庶類がウォフ・マナフを通して王国において成熟するために。ただし、正見の人には、マズダーよ、御身たちのあいだで、すべての方がたによって、恩賚が保証されているからです。(注45)
アヴェスター・ヤスナ34.3(ゾロアスター教)
彼らに言いなさい。私は生きている、と主なる神は言われる。私は悪人が死ぬのを喜ばない。
エゼキエル書33.11 (キリスト教)
地の果てのすべての人々よ。私を仰いで、救いを得よ。私は神、ほかにはいない。私は自分にかけて誓う。私の口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない。私の前に、すべての膝はかがみ、すべ
ての舌は誓いを立て
イザヤ書45.22 ~ 23(キリスト教)
かれこそは、導きと真理の教えをもってみ使いをつかわしたまい、たとえ多神教徒たちが忌みきらうとも、よろずの宗教の上にそれを現したもう方であられる。
クルアーン9.33 (イスラーム)
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷の父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」
創世記2 ~ 3(キリスト教)
まことにわれは、吉報の伝承者として、また警告者として、真理をもってなんじをつかわした。どの民もかれらの間に、一警告書が行かなかったものはない。
クルアーン35.24 (イスラーム)
イスラエルの人々よ。私にとってお前たちは、クシュの人々と変わりがないではないかと主は言われる。私はイスラエルをエジプトの地から、
ペリシテ人をカフトルから、アラム人をキルから、導き上ったではないか。(注46)
アモス書9.7(キリスト教)
一切衆生がすべて涅槃に入るまで、如来は自ら滅度に入ることはない。
維摩経4(仏教)
見よ、私の僕、私が支える者を。私が選び、喜び迎える者を。彼の上に私の霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない。この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。(注47)
イザヤ書42.1 ~ 4(キリスト教)
わたくしが覚りを得た後に、もしもこのようにすぐれたこの最上の誓願が(願ったとおりにかなえられ)ないならば、人々の王(=仏)よ、わたくしは、十力を持ち、比べるものなく、供養さるべき者なる生ける者の精粋(=仏)とはなりませんように。
もしもわたくしの国土がそのようでないならば、多くの貧しい者に、多くの尊い麗しきもの(=財)が存在しないならば、苦しみに陥った人を幸せになし得ないならば、わたくしは、人々の中の宝のごとき王とはならないでしょう。もしもわたくしが覚りの境地におもむいた後に、わたくしの名がすみやかに十方の、多くの無限の諸仏国土にひろく達しないならば、わたくしは、〔十〕力ある世の主(仏)とはならないでしょう。
もしもわたくしが比べるものなき幸せな覚りを体得しようとしていながらも、記憶し思慮し理解することを捨ててしまって、愛欲の快楽を喜ぶようであったら、わたくしは、〔十〕力ある、世間の師とはなりますまい。主よ、広大にして無比・無限なる光明は、四方八方のあらゆる仏国土を満たし、貪欲を静め、あらゆる憎悪と迷いとを静めて、地獄界の火を消した。(注48)
無量寿経9.1 ~ 5(仏教)
―み言選集―
この罪悪の世界が、人間の悲しむ世界であることはいうまでもないが、神もまた悲しんでおられる世界であるということを、我々は知らなければならない(創6・6)。では、神はこの悲しみの世界をそのまま放任なさるのであろうか。
喜びを得るために創造なさった善の世界が、人間の堕落によって、悲しみに満ちた罪悪世界となり、これが永続するほかはないというのであれば、神は、創造に失敗した無能な神となってしまうのである。それゆえに、神は必ずこの罪悪の世界を、救わなければならないのである。……
堕落は、もちろん人間自身の過ちによってもたらされた結果である。しかし、どこまでも神が人間を創造されたのであり、それによって、人間の堕落という結果も起こり得たのであるから、神はこの結果に対して、創造主としての責任を負わなければならない。したがって、神はこの誤った結果を、創造本然のものへと復帰するように摂理なさらなければならないのである。
原理講論、人類歴史の終末論2.1
私達は、ここで宗教のみ旨、救援摂理のみ旨が何かを知ることができます。救援摂理のみ旨は、全世界を救うことです。神様が人を愛する息子として造ったので、神様がたたき潰してしまうことはできず、地獄に送ることはできないことを知らなければなりません。ですから、救援摂理はサタン世界内に一人も残さずに完全に救い、サタンを追放して……。サタン世界内にサタンだけが残るようにして、人という人はすべて神様が連れていこうというのです。
(80-283 ~ 284、1975.11.2)
神様があの御座にいらっしゃるとすれば、地獄に行って苦しみながら、「私を助けてください!」と言う霊人たちを見るとき、神様が、「おい! お前はそれでも良いほうだ」と思われるでしょうか、「彼らはかわいそうだ」と思われるでしょうか。地獄を解放しなければなりません。
(98-116、1978.5.7)
自分の子女の中で、殺人強盗か国家的な犯罪で死刑を受ける息子がいるとしましょう。息子が死ぬ場に行くとき、その父母がついていって、「お前は死ぬ所に行ったのだから、いさぎよく死になさい」と言う父母がいますか。その息子をつかんで、その死ぬ所に一緒に同参しようとするのが父母ではないかというのです。
それが永遠に継続するとすれば、父母がそれを見てじっとしているでしょうか。永遠に抜け出させてあげようと身もだえするでしょう。愛する父母であるほど、永遠に死ぬとすれば、永遠に抜け出させてあげようとするのです。永遠に死んでいくとすれば、永遠に生かしてあげようと思う心をもつのであり、自分から苦労していくのではないですか。
このように考えるとき、神様はかわいそうな方です。地獄の門を閉めて、永遠に死んでいくのを見るとき、神様が「ああ、よい」と言うのではなく、永遠に抜け出させてあげたいとやきもきするというのです。そうであってこそ、天の父母の立場で責任を果たせるのです。ですから、地獄まで解放しなければならないという論理が成立します。
(62-51、1972.9.10)
キリスト教徒の14 万4000 の群れだけが天国に上がっていき、残りの人類を審判するというのは独断主義です。
(245-97、1993.2.28)
統一教会の救援観というのは、夫が天国に行って夫人は地獄に送ろうというものではありません。二人とも天国に行こうというものです。父母を地獄に送るのではなく、父母に侍って、息子、娘も連れて天国に行こうというのです。
(34-359、1970.9.20)
神様の救援摂理は、自然屈服させていくのです。思いどおりにできるのであれば、強制屈服させてできるのであれば、数千年になりますか。数週間でもできます。呆然とすることを知らなければなりません。
(394-16、2002.10.6)
堕落人間においても、その一人の子女でも不幸になれば、決して幸福になることができないのが、父母の心情である。まして、天の父母なる神が幸福になり給うことができようか。ペテロⅡ3章9節を見れば、「ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」と記録されている。
したがって、神の願うみ旨のとおり、成就されるべき理想世界に、地獄が永遠なるものとして残ることはできない。そしてマタイ福音書8章29 節を見れば、イエスの当時、直接サタンがイエスを神の子であると証したように、終末の日においても、ときが至れば、悪霊人たちまでも、各々同級の地上の悪人たちに再臨して、彼らがみ旨のためになるように協助することによって、結局、悠久なる時間を経過しながら、次第に創造目的を完成する方向へ統一されていくのである。
原理講論、復活論3.3.3
第8章宗教
1.宗教の目的
すべての宗教には、強調する部分にそれぞれ多少の違いはあるが、ある共通目的がある。西洋の宗教で、万宗教の主な目的は救援にある。「religion (宗教)」の語源は、神様と「再び結ぶ」という意味のラテン語に由来する。
人間は堕落によって故障したため、神様が故障した所を修理し、根本的な善に復帰させ、神様と再び関係を結ぶようにするための方便として宗教を立てた。これとは対照的に、東洋で宗教の意味は、漢字に表れた意味のように、「根本的教え」と
理解される。これは、宗教が善の品性と徳性を育てる究極的教えであることを意味する。
文鮮明先生は、宗教の二つの意味、すなわち堕落した人間は、罪の問題を解決しなければ、究極的に徳性を育てられず、神様に再び結ばれない点を認める。
先生は、宗教の妥当性の側面から二種類の宗教に区別する。第一に、原罪を清算し、神様と完全な関係を回復させてくれるメシヤを迎えることを目的とする摂理的な宗教(ユダヤ教、キリスト教)と、第二に、徳行の修練を主要目的とする一般的宗教がそれである。神様の国は、このような二種類の宗教の土台の上に定着することができるだろう。
宗教は、共同体を育てる社会的目的ももつ。宗教は、人々が平和と調和の中で生きることができるよう、愛の方法と和解に関して教える。これを拡大すれば、宗教の究極的目的は、平和世界を具現することである。神様は創造主としてすべての人類の父母であるため、宗教は私達を神様に導き、父母の愛を中心とする普遍的兄弟愛と姉妹愛を感じられるようにする。
①救援の道を提示する宗教
―宗教経典―
「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
使徒言行録16.30 ~ 31(キリスト教)
全身全霊で彼にのみ庇護を求めよ。アルジュナよ。彼の恩寵により、あなたは最高の寂静、永遠の境地に達するであろう。
バガヴァッド・ギーター18.62 (ヒンドゥー教)
まことに神のみもとの教えは、イスラームである。経典を授けられた人びとが……それゆえもしかれらが、なんじと論争するならば言え、「私も私に従う者も、真心こめて神に服従帰依し奉る」。また経典を授っている人びとならびに無知の者たちに、「あなたがたも帰依するか」と言え。もしかれらが帰依すれば、たしかに導かれる者である。クルアーン3.19 ~ 20(イスラーム)
人々は恐怖にかられて、山々、林、園、樹木、霊樹など多くのものにたよろうとする。しかしこれは安らかなよりどころではない。これは最上のよりどころではない。それらのよりどころによってはあらゆる苦悩から免れることはできない。さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい智慧をもって、四つの尊い真理を見る。――すなわち①苦しみと、②苦しみの成り立ちと、③苦しみの超克と、④苦しみの終滅におもむく八つの尊い道(八聖道)とを(見る)――これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよってあらゆる苦悩から免れる。
法句経188 ~ 192 (仏教)
一つは利得に達する道であり、他の一つは安らぎにいたる道である。ブッダの弟子である修行僧はこのことわりを知って、栄誉を喜ぶな。孤独の境地にはげめ。
法句経75(仏教)
―み言選集―
私達の社会に道徳観念や宗教生活、道義的な観念というものがなぜなければならず、なぜそのような道を行かなければならないのかというと、私達が過ったために、それを再び本然に合わせるためです。
(205-8、1990.7.15)
人間の本心がいかに善を指向して努力するとしても、既に悪主権の上におかれているこの世界においては、その善の実相を見ることができなくなってしまっているので、人間は時空を超越した世界に、その善の主体を探し求めなければならなくなった。このような必然的な要求によって誕生したのが、すなわち宗教なのである。
このように、堕落によって神様を失ってしまった人間は、宗教をつくり、絶えず善を探し求めて、神に近づこうとしてきたので、たとえ宗教を奉じてきた個人、民族、あるいは国家は滅亡したとしても、宗教それ自体は今日に至るまで、絶えることなく継続してそのまま残ってきたのである。
原理講論、人類歴史の終末論2.3
結局は、人間が堕落したためにこのようになったことを知らなければなりません。しかし、堕落した息子、娘を見て、父母であられる神様はただじっとしていることはできないのです。人間が故障したラジオのようになったので、これを再び直すためには、修理工場を造らなければなりません。
人類歴史の過程において、人間を救うための修理工場を造られた痕跡があれば、神様はいないとは言えないのです。その修理工場とは何かというと、宗教です。宗教は、文化と歴史的背景が異なり、氏族と氏族関係によって異なるものを全世界的に糾合し、目をつくり、鼻をつくり、手をつくり、足をつくる工場をだんだんと広げていき、神様がいらっしゃる所に追い立ててこなければなりません。
(54-102、1972.3.20)
神様が力をもってするのならば、何の問題もなく、すぐに全人類を救えます。神様にはいかなる宗教も必要ありません。ところが、なぜ神様に宗教が必要なのですか。神様が自然屈服させようとするそこに、自然と頭を下げるのです。そのようになれば、神様がセンターになり、すべてのものを治めるようになります。それが神様の作戦です。
(207-21、1990.10.21)
宗教を信じるのは、本来のお父様と本然の国を再び復帰するためです。宗教という言葉は、人間だけを中心とした言葉ではありません。神様、すなわち神様を母体とした最高の教えが宗教です。神様と関係を結び、神意に従って生きる方式を身につける過程があるのです。
したがって、聖人は、天意に従わなければならず、天情を紹介しなければなりません。真の宗教は、神様に対して教えてあげなければなりません。真の宗教は、漠然とした神様を紹介するのではなく、神様に対する認識をはっきりと強固に植えつけてあげられなければなりません。
世の中と妥協する宗教は、高次的な宗教だと言うことはできません。そのような宗教は、結局は衰退してしまうようになります。真の宗教は、人が神様を正しく求め、神人が一体を成す本然の世界に帰っていくことを教えなければなりません。宗教を信じるのは、罪のない世界、神様と本然の関係を結んだ理想世界を求めていくためです。
神様が求めていらっしゃるのは、宗教界ではなく理想世界です。理想のない宗教界は滅びます。宗教の目的は、宗教自体の教理を通した世界ではなく、神様の理想を通した世界です。ここにおいて問題となるのが創造理想です。神様が創造なさったので、創造理想を糾明するのはとても重要なことです。
(404-299 ~ 300、2003.2.6)
ここではどのような教団も、どのような集団も、どのような教派も問題ではないことを知っていますので、
お父様が認めることのできる(私達の)内的な心情、お父様のお心を体得することのできる切実な心情をもっていくことが真理の要点であり、真理のすべてであるということを私達が分かるよう許諾してくださいますことを、お父様、切にお願い申し上げます。
(4-236、1958.5.18)