有形実体世界と無形実体世界
第一節 人生路程についての祈祷文
愛する天のお父様!
天が辱めを受けるような恥をかかれるのではないかと恐れ、幼い時から今まで闘い抜いてきた私を守ってくださった、天のお父様の恩賜に感謝申し上げます。
この地において、何が良いといっても、天のお父様が運行される本然の心情につながる事以上に貴い基準がないと云う事を存じております。
私たちは、その立場を限りなく慕わなければなりません。
天のお父様の真の愛に触れた人は、この世の万事を捨て去っても未練がない立場にあると云う事を、私たちは知らなければなりません。
「第三の生」と云う自由な権限をもった解放児として出生できるその日を、今日この地上世界において準備しなければなりません。
愛する天のお父様!
私たちが新しい春を迎える為には、私の生命が同化できるような因縁を備え、そこに完全に吸収されなければならないと云う事を知っております。
そうしてこそ初めて、春を迎え、花を咲かせる事ができると云う事実を知らなければなりません。
「一生において、あるひととき春を迎えた事があるか」と聞かれ、迎えた事があると答えられない、哀れな霊になってはいけません。
愛する天のお父様!
天のお父様を奉り、つつましく礼を捧げたい思いのない人は、永遠なる天の国で天のお父様と絆を結べないと云う事を分からせてください。
今、私たちが心の門を開いて、天のお父様の心情を感じ取れるようにしてくださり、今日私たちの心からあふれ出るあなたのみ声を聞き、失った自らを取り戻させてください。
天のお父様が私一人を取り戻さんが為に、私の背後で様々な艱難と苦労の歴史過程を経てこられた事を実感し、自ら頭を垂れる私とならしめてください。
第二節 死に対する理解
この地上には父母がいて、師がいて、親戚がいます。この地には、そのような因縁を結んでいく事ができる道がありますが、霊界にはそのようなものがありません。霊界では、すべて神様を中心として全体の為に生きるのです。位置がすべて区別されています。それゆえ、上にいる人が下に来る事もできず、下にいる人が上に行く事も難しいのです。本来は、地上で完成してこそ霊界に行く事ができるようになっています。一度あの世に入れば終わりです。どのみち人間は死ぬのです。
生涯の路程は、あまりにも短いのです。一生はあまりにも短いのです。人の寿命が八十年だとすると、あまりにも短いのです。霊界の時間では八時間にもならない時間です。すなわち永遠の世界の時間で考えれば、八時間にもならないのです。ですから、真の愛の力は偉大なのです。真の愛は、時間と空間を超越し、我々が認識できないほど速く作用するのです。
間違いなく霊界はあります。間違いなく霊界は実在し、我々人間は、霊界から生まれた為に、いずれ霊界に帰らざるを得ません。韓国の言葉の中で、おもしろい言葉があります。「トラガンダ(帰る、亡くなる)」と云う言葉です。どこに帰るのでしょうか。共同墓地に行くのは、帰る事ではありません。出発した故郷に帰ると云う事です。その出発は共同墓地ではありません。果てしなく遠い歴史の起源を越えて帰ると云う意味です。
人間が帰る(亡くなる)と云う事は、韓国人として生まれて、韓国人として帰る(亡くなる)と云う事を言うのではありません。韓国人として死にましたが、韓国人として帰ると云うその道ではないのです。我々人類の先祖の根源の世界に帰ると云う意味です。それは何を言うのでしょうか。創造主がいらっしゃるなら、その創造主がいらっしゃる所に帰ると云う事です。そこから出発したので、そこに帰るのです。
宇宙は、循環作用をします。山に積もっている雪が解けるようになれば、小さな渓谷を通じて流れていき、多くの支流を通じて大海に流れ込みます。大海に入るようになれば、それが水蒸気になって、再び帰るのです。循環運動をします。同様に、帰ろうとすれば、どこに帰るのでしょうか。高くなれる所に、もっと良くなれる所に帰る事を願います。誰も小さくなる事を願いません。
しかし、すべての自然界の運動法則と云うものは、作用すれば小さくなるようになっています。作用すれば、だんだん小さくなるのです。我々が何かを転がしてみても、それが永遠に転がらないのです。早く転がっていた物も、だんだん遅くなり停止するようになります。
我々は、この世の中に暮らしていますが、この世の中だけがあるのではなく、霊界もあります。ところが、この世の中と霊界は、二つの世界ではなく、一つの世界としてつながっています。では、我々が行くべき所、我々が行って暮らすべきその所とはどこでしょうか。もちろん我々は、肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かっているのです。人は誰しも世の中に生まれて、十代、二十代、三十代、中年、壮年、老年時代を経ていきます。青春時代を過ごして、壮年時代に入るようになれば、一つの峠を越えて、その次には老年時代に入るようになるのです。このように沈む日のように、一生を終えます。
しかし、霊界があると云う事実を知る人たちは、一生はちょっとの間であり、死んだのちに我々が迎えるべき世界が永遠だと云う事を知っています。ゆえに、一生は、永遠の世界の為に準備する期間と思って、準備する一生を送るのです。
「死」と云う単語を使った目的は、人生の意味を知る為です。では、人生の価値は誰がよく知っているのでしょうか。生きようとする人は分かりません。死の境地に入って、生死の岐路で、天にしがみついて人生の価値を打診してみた人でなければ分からないのです。
では人間は、死を歓迎すべきでしょうか、歓迎してはいけませんか。歓迎すべきです。死ぬのに、何の為に死ぬのかと云うときに、「神様の真の愛の為に死ぬ」と言うべきです。それゆえ肉身を脱ぐのは、無限の神様の愛の活動圏に自分が同席する為であり、神様の愛の世界の為にそうするのです。
神様の愛の中で生まれる事が、死ぬ事ですが、人間世界では、「ああ、死ぬ」と大騒ぎするのです。制限された愛の圏内から、無制限の愛の圏内に突入し得る喜びを迎える事のできる瞬間が、死ぬ瞬間です。ゆえに死ぬ瞬間が、第二の出生の瞬間です。
そうであるなら、神様は、皆さんの肉身が生まれた日を喜ぶでしょうか。第二の無限の世界の愛の為に活動する子女として生まれるその瞬間を喜ぶでしょうか。なぜこのような話をするのか分かりますか。皆さんが死の恐怖から解脱せずには、神様と関係を結ぶ事ができないからです。
第三節 三段階の人生行路
人の人生は、蘇生、長成、完成の三段階を経ます。腹中の水の世界、地上の地球星世界、天上の空中世界で暮らします。言い換えれば、母親の腹中の水の時代、地上に生まれて生きる百年の地の時代、飛んでいく空中の霊界時代、このように三時代を経ます。
人はうまれるとき、一番深い水の中から生まれるのです。腹中時代は水の中の時代です。赤ん坊が母親の胎中にいるときは、水の中に浮いています。水の中で暮らす為に、水を吸って送り出さなければならないので、赤ん坊はホースを母親のおなかにつなげて生きるのです。赤ん坊は、栄養分をどこから供給されますか。へそから供給されます。へそが口なのです。ですから、それをばかにしてはいけません。
「へそや、お前は昔苦労した」と言い、たたいてやれと云うのです。へそをたくさんたたいてやれば、健康になるのです。そのように運動しろと云うのです。へその運動をたくさんすれば、健康になるのです。いくら寒い部屋で寝たとしても、へそさえちゃんと覆いかぶせて寝れば下痢になりません。
腹中では、皆さんの口はへそです。この息をする器官が、へそを踏んで上がるのです。その次の段階の口は何ですか。皆さんが食べ物を食べる口です。絶えず上がるのです。では、へそにつながった緒を、どのようにすべきでしょうか。切り捨てなければなりません。
同じ事です。空気の世の中では、霊人体が体にくっついて、胎児のように肉身を吸い取っているのです。そうして肉身が老いれば、捨てていくのです。胎児が生まれて、お母さん、お父さんの前に愛の対象になるように、霊人体が、霊的父である永遠の神様と相対する事ができる人として、再び生まれなければならないのは、原理原則です。
胎児が生まれて、お母さん、お父さんと友達になる事ができる所が、地上世界です。お母さん、お父さんと、愛を共にする事ができる地上世界に生まれるのと同様に、霊的に無限の世界に通じる事ができる父母になられる神様と、愛を分かち合う事ができる霊界に再び生まれなければなりません。
腹中から出て何を発展させるのでしょうか。空気ではなく愛です。愛の要素を受けると云う事です。御飯だけを食べていてはいけません。御飯だけを食べていれば、死んでいくのです。それは、第二段階の人生を生きなければなりません。したがって地上生活では何を満たすべきでしょうか。この期間には、新しい愛の人格を形成しなければなりません。
この地上で、皆さんに必要なものとは愛です。お母さんとお父さんの愛を受けられない子供を、なぜ、「孤児」と言うのでしょうか。あの霊界と永遠につながり得る愛を受けられずに暮らすからです。それで、一人で独身暮らしをする人を、「かわいそうだ」と言います。
死ぬと云う事は、第二の呼吸をしていた肉体に連結された器官を壊して、愛の要素を受け継ぐ事です。愛は見えません。父母の愛、夫婦の愛を中心として、一つの内的な構造が育つのです。ですから、神様の法則のとおりに、胎内で正常な赤ん坊として育つのと同様に、地上でも天理に従ってちゃんと育たなければなりません。
とんぼは初め、幼虫になって水の中で泳ぎ回った後、地上に上がってくると、しばらくの間、這い回ります。その次には、ひらひらと飛び回り、地で這っていた時には食べるとも思っていなかった虫を捕まえてたべます。天下を自分の舞台として飛び回るのです。
昆虫類の中には、三段階の世界を経るものがたくさんいます。昆虫といえば、大概羽があります。昆虫も水で、陸地で、空中で暮らすのに、万物の霊長と云う我々人間に羽があるでしょうか。次元の高い羽があるのです。死が第二の出生の、幸福なる関門です。
死ぬと云う事はどういう事でしょうか。地上生活は、空気中において「胎中で泳ぎ回って暮らす事」と同じです。空気と云う包みの中で、生きているのです。死ぬと云う事は、特別な事ではなく、第三の人生へと出生する事です。その瞬間が、死ぬ瞬間です。
第四節 霊界、肉界の中心
皆さんは、霊界について相当に気掛かりでしょう。世界には、多くの宗教がありますが、その宗教が行く道は、霊界と関係を結んで、永世と云う世界、永遠に生きる世界、すなわち神様と共に生きる世界を探して行くのです。そのような世界が宗教の目的地です。しかし、今日、宗教はどのように変わったでしょうか。だんだん堕落して、「宗教は、弱者たちが信じるものだ。我々人間に必要ないものだ。それは道義的な一つの表象として、人間たちが操作しておいたものだ」と結論を下す時代に入ってきました。
宗教の中心になるキリスト教だけを見ても、そのようになりました。アメリカが全世界のキリスト教国家の代表国ですが、そのようなアメリカの家庭で育った人たちが、宗教を離れて、今まで自分勝手に暮らしています。
世界の中心であり、すべての理想の中心である、その神様がいらっしゃる霊界を中心として理想を描いたそのようなキリスト教の中にいたのに、なぜそこから離れるようになったのでしょうか。
第一の原因は、霊界がある事をはっきりと知らなかったからです。知能をもった比較の能力がある人間なので、良い所があれば、悪い所を捨てて、そこへ行くようになっています。より次元の高い価値のある所があれば、そこに行くようになっています。それが人間の本性です。人間は、霊界の実存をはっきりと知らなければなりません。
第二の原因は、神様を知らなかったからです。堕落によって神様との関係が断絶し、孤児として生きてきたのです。
第三の原因は、霊界の中心になり、神様の中心になる愛によって関係が結ばれる事が分からなかったからです。この三つがわからなかったのです。たとえ神様を知り、霊界を知ったとしても、愛を中心とした世界と云う事がわからなかったのです。
愛がある所では、上がっても良く、下がっても良く、間にいても良いと云うのです。愛する夫が自分より高いといって嫌がったり、愛する妻が自分より低いといって、それを憎んだりしますか。一つになれば、自由に低い所から高い所に上がる事もでき、高い所から低い所へ下りてくる事もでき、中間にいる事もでき、どこでも行く事ができます。制限がありません。
それで世の中では、「この世界は、一つの世界であるべきだ。統一の世界であるべきだ。平和の世界であるべきだ」と云う事をよく口にするのです。
霊界と肉界、霊的な存在と肉的な存在も同じです。ここは神様の愛、神様が中心になっています。我々が普通考える堕落した人間は、神様が中心になっていません。
人間は、心と体から成っていますが、それとは違います。次元が違うのです。心と霊界は違うのです。霊界と肉界とは、神様の愛を中心として言うのです。したがって、霊界と肉界が一つになる為には、必ず神様が介在しなければなりません。神様の愛が介在しない事には霊界はありません。神様を中心として霊界と云うものがつながるのです。
「自分の心も霊だろう」と考えるかもしれませんが、混同しています。心は霊界ではありません。堕落した為に、心は霊的世界と関係を結んでいません。いわば、骨のない人のようなものが、堕落した人間たちの心であると考えれば実感がわきます。骨のない人のような形態が、堕落した人間たちの心と云うものです。
霊人体を見ると、霊人体も体的な要素があり、心的な要素があります。霊人体の心のようなものが、霊的世界です。それは必ず神様と関係を結んでいます。それゆえ、神様と関係を結ばずには、霊人体の心のようなものが生じないのです。霊と心が違うと云う事を知るべきです。心は、神様と関係がないのです。神様が離れたのです。神様ご自身が関係する事ができません。神様が直接主管できないのです。
皆さんの心は、ああしたりこうしたりと変わります。しかし、霊的世界、霊的存在は変わりません。それは、永遠に一つの目標を立てて、絶えず行くのです。それは、なぜそうなのでしょうか。神様の側に立っているからです。心は、人間内に属しています。行ったり来たりする人間内にあるのです。
皆さんは原理を学んでいるので分かりますが、生心とは何でしょうか。生心とは、心と霊が合わさって、新しく一つの目的に向かって動くものです。神様を中心として、我々の良心と一つになり、理想的な自分をつくり上げ得る動機的心です。それで、その生心がなくては、霊界と真なる愛と関係を結べる、自体の根源を探す事ができません。
生心が自分に生じれば、体も喜び、全部それについていきます。自動的にこれらが一つになるのです。今まで、人間にとって一番問題になる事とは、体と心が互いに離れていると云う事です。霊的な力が自分に臨んで生心的起源にさえなるようになれば、心と体が自然に一つになるのです。
そのような根本から革命が起こり、根本から是正する根源を発見できない限り、我々は理想を尋ねていく道理がありません。動機があってこそ結果が出てくるのです。宗教は生心を植えつけようと云う事です。生心を中心として多くの宗教があります。ありとあらゆる形態があるのです。
第五節 明らかに実存する霊界
神様は、尊厳な方です。それで、霊界と肉界は一体化をなさなければなりません。真の愛が現れなかった為に、霊界と肉界が統一できなかったのであり、真の愛が現れなかった為に、心と体が分かれたのであり、真の愛がたたなかった為に、宗教と政治が分かれたのです。
真の愛を中心として、全部一つになるのです。個人、家庭、社会、国家、世界、天宙が、みなつながるのです。我々の手で、そのようにしなければいけないのです。そうでなければ、本然の天上天国、地上天国を相続する事はできません。霊界と肉界の一致をどのようにするのでしょうか。真の愛で一つにするのです。
世界人類の中で、霊界を知らない人は八十パーセントになります。信じる人たちも、霊界があるか、神様がいらっしゃるか、はっきり分かりません。しかし、霊界はあります。考えてみてください。この世の金持ちが、これから幸福の園をつくろうとするとき、自分のすべての財産をつぎ込んでもつくりたい気持ちがあるのと同じように、天地を創造なさった神様は自分のお住まいになる所をいかにつくったでしょうか。
霊界は、どの部分を探して凝視しても、千年眺めても飽きない美の世界です。想像を絶します。何か世界で最良のものがあったとしても、霊界に比べれば何でもありません。霊界の一角にもなりません。ですから、この地上が欲しいとは思いません。私に言わせれば、この地上は私の目的に適っていないので、帰りたいのです。
一般の人の大部分は、今も霊界を考えません。生まれたから、ただ父母といっしょに家庭で暮らしている、このように生まれたからこのように暮らしている、と思って生きています。そのように暮らすすべての生活の中心とは何でしょうか。どのように食べ、どのように暮らすかと云う事です。それゆえ、一番重要な事を衣食住ととらえています。
どのように住むかと云う問題、どのように食べるかと云う問題、どのように装って暮らすかと云う問題、これが中心だと云うのです。もちろんそこには、人間関係において人倫道徳があり、向上し、互いに発展し、互いに喜び合える内容がありますが、その道徳基準が異なり、民族が異なり、国家が異なり、世界すべての文化背景の差によって、生活基準や社会制度が全部異なるのです。
このように見ると、人間が求めるべき本然の基準、すなわち創造本然の基準と、今日、我々が暮らしている生活の標準として立てていくべき人倫道徳の基準との間には大きな差があります。これが一つに収拾されていません。本然の世界に基づいて、我々が生まれ、生きてから、行き着く所はどこでしょうか。これがはっきりしていないのです。ですから一般の人たちは、霊界があるかないか、神がいるのかいないのか、知らずにいるのです。
しかし、原理を学んだ人たちは、霊界が確実にあると云う事を知っているのです。信じているだけではなく、知っているのです。なぜでしょうか。多くの体験を通じて知っています。今日、統一教会がこれほど世界的な基盤を形成するまでの背後を調べてみるとき、多くの体験過程を経てきているのです。それゆえ、「霊界はない」と言う事ができない立場にいる人たちが、原理が分かる人たちです。
原理が分かる人たちは、どのような道を行くべきでしょうか。神様が願う道に従っていかなければなりません。天意の道に従っていくのです。天意とは何でしょうか。個人が行くべき天意の道があり、家庭が行くべき天意の道があります。そして、社会が、国家が、世界が、霊界が行くべき天意の道があります。その専門家が、私です。霊界は、間違いなくあります。
神様がいて、霊界があるなら、どのようになるでしょうか。ある人は、「神様がいるとしても我々とは関係ない」と思うかもしれませんが、それは考え違いをしています。「霊界があっても私とは関係ない」と言うのは、まるで「自分は家庭の一員であって、国も世界も必要ない」と言っているのと同じなのです。
それゆえ、もっと大きな神様がいて、もっと大きな霊界があるなら、もっと大きいものと関係を結ぶ事を自分は願います。関係しているだけでなく、関係をもって何をするのでしょうか。一つにならなければなりません。一つの目的に向かって行かなければならないのです。
使徒パウロが霊界の「第三の天」の世界を見て体験した事が、彼にとって十四年間絶えず宣教活動をし得る原動力になったのです。分かりますか。そのような体験がなければなりません。私もそれと同様です。
私は、死を恐れません。何がそのようにしたのでしょうか。愛です。獄中にいくらほうり込まれても、私はそれも消化する事ができます。ですから、今日このように反対する環境を消化して屈服させてきたのです。私の手で全部屈服させたのです。
第六節 霊界の創造
霊界は天使世界に相当します。そして、今日の世の中は、アダム、エバのような立場にあります。ところで霊界は、アダム、エバを造る前に造られました。霊界が神様のみ旨に反対する事によってサタン世界が生じた為に、霊界が神様のみ旨を歓迎してこそ、その世界が復帰されるのです。
また、霊界を屈服させずには、地上世界に主が来る事はできません。それで、統一教会が今まで霊界を屈服させてきたので、霊界は統一教会に協助しなければならないのです。
霊界は、どこにあるのでしょうか。皆さんの体の中にあります。ですから、皆さんは常に霊界を背負って回り、連れて回っているのです。ですから逃げる事ができません。
霊界はあります。霊界は、この世界の為にあるのです。また、この世界も、永遠の世界の為にあります。「世の中のどのに神様がいて、霊界がどこにあるのか」と言うかもしれませんが、神様のいらっしゃる所が霊界です。
我々の人生が七、八十年で終えれば、別に問題がありませんが、永遠の生を中心として生きていくから深刻です。では、霊界があるとしたとき、死後に霊界に行くようになれば、何を持って行くのでしょうか。真の愛を実践する人生を生きなければ、霊界と関係を結ぶ事はできません。霊界は広大な世界です。皆さんは知りませんが、広大無辺な世界です。
今日、電気とか宇宙などと言って大騒ぎするのは、愛の理想世界を成す為の一つの内的な潤滑剤のようなものです。そのように見ると、霊界と云う所は、愛の電気で充満した世界なのです。愛の電気をもってして、できない事はありません。ここから、我々の意識構造をもって治め得る可能圏が霊界だといえます。
霊界とは何でしょうか。永遠の要素を願う所です。霊界は、すべてが愛で充満した、愛でいっぱいになった調和の世界です。ですから、愛のボタンを押せば、宇宙が作動するのです。
地上天国とはどのような所でしょうか。すべての愛の電球に、明かりがともる所です。それでは、天上天国とはどのような所でしょうか。愛の電球に、明かりが永遠にともる所が天上天国です。
それゆえ、皆さんが愛の心さえ抱いて、愛の綱さえ引けば、みな引かれてきます。後ろに引けば後ろに行き、横に引けば横に行きます。思うがままに操縦されるのです。嫌でそうするのではなく、自動的にそうなると云うのです。
それで、霊界と云う所は、「愛の空気で充満した所」と云う概念を探す事ができます。愛の神様が、愛の心で、世界の人類に一度に全部食べさて、喜ばせたくて、「御飯よ、出てきなさい」と言えば、出てくるのです。
霊界では、愛の食べ物を食べます。互いに見るのも、愛の目で見るのです。そして神秘さが形容できない所です。聞いても絶えずもっと聞きたいし、眠りとか疲れと云う観念はあり得ないのです。霊界とは、愛の電気で充満した所です。今日人間は、何でも愛に関係を結ぼうとします。
なぜ、愛の関係を結ぼうとするのでしょうか。霊界に拍子を合わせる為です。そのようになっている為に、そこにお応じるしかないのが人間の存在です。その位置を離れる事ができません。
皆さんが夢で私に会う現象は、神様の愛の波長を通じて現れるのです。そうしようとすれば、自分があってはいけません。自分を犠牲にせよと云う事です。真空状態をつくらなければなりません。真空状態になった次には、共鳴圏をつくり、(電気)抵抗のない黄金にならなければなりません。黄金と云うのは他の要素が混じっていないのです。純粋な、そのままです。黄金をなぜ宝物と言うのでしょうか。黄金は抵抗がないのです。
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