人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集1(8、9)

2023年05月19日 08時27分06秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 1 - 8. 神様の主管世界を探しましょう(1956年6月27日)
1956年6月27日(日)、元本部教会。
聖書拝読 マタイによる福音書22:15-22


<祈り(Ⅰ)>
 愛するお父様、私達はお父様の抱擁を慕い、哀れなる者たちに同情の念を抱いて参りました。どうか、私達の身体と心を導いてくださり、私達全体をお導き下さい。私たちの心身が、お父様に喜ばれる心身であることを知ることができますよう、お許し頂ける様にお願い申し上げます。お父様の栄光と正義に賛美の歌を捧げることができる恵みの中に、この時間を過ごすことができますよう、お許し下さいませ。


 愛するお父様! お父様が慕しくて集まった子ども達を憐れんでください。彼らにお父様がいない時は、哀れな者の中の哀れな者です。これら全てを主管してください。彼らの願いで彼らが実践してくれる主人公として、この時間の歴史をお与え下さる事を、愛するお父様、切に願って参りました。


 この一時、散らばった私たちの心を集め、あなたの聖なる御前に供え物をささげるために、謙虚に臨みますので最初から最後まで、あなたが許可されないすべての要素を除去し、和やかであることができる要素だけを残して、全体の雰囲気を整え、私達の心を動かして頂けるよう、愛するお父様、切にお願い申し上げます。


 今日、私たちの祝福を求めて集まる多くの人々がいることを知っておりますので、各地で聖なる三位一体が同じ恩寵を注いでくださるようにお願い申し上げます。終わりの日に託された全体的な使命を果たすために、私達が集まる場所ごとに、あなたの栄光を讃える人々が同じ恩寵を受けることができる時が、この民の前に早く訪れように、愛するお父様に切に願い求めます。


 最初から最後まで、悪魔に奪われる時間が訪れないように許して下さい。勝利に満ちた栄光のお父様、保護して下さる様に心からお願いいたします。愛する主の御名によってお祈り致します。アーメン。

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<祈り(Ⅱ)>
 愛するお父様! 何も持たない兄弟たちがお父様のひざの前に出て参ります。彼らの心情が自己中心的な心情とならないようにして下さい。天のため、お父様のために自己を中心とせず、お父様のみを尊いものとするように明らかにして下さい。お父様の摂理の御旨のために全体が献身的になされるように許して下さい。

 私たちは心と体が暗い影に包まれているかわいそうな存在です。愛するお父様、どうか憐れんで下さい。力もなく、気力もない手を天に向けて広げています。お父様どうか憐れみの手を差し伸べ、私たちを抱きしめて下さい。悪魔に引きずられていた姿が天に向かって両腕を広げ、叫んでおりますので、お父様、どうか私たちを抱きしめて下さい。

 たとえ悪魔が支配するこの荒れた地上に生きていても、天の盾として、戦いの勇士として、天の誇りとなる子供たちとして立てて下さい。愛するお父様、切に願い求めます。

 お父様、今、お父様の愛する子供達がここに集まりました。集ったこれらの子供達の心は様々な形で表れているかもしれませんが、お父様の心に似たいと切望する姿を持っています。一つの心で私達を受け入れて下さい。そして、お父様の御言葉に従い、指示に従い、天の心を証明することを許して下さい。

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 この時間、お父様が呼ばれた子供達が集まりました。世界中に広がっている敵である悪魔と戦い、押し寄せる苦難を勝利の盾で防ぎ切る力が不足しないように導いてください。奪う者の立場ではなく、与える者の立場に立たせて下さい。私一人の価値を明らかにし、お父様の栄光となることを許して下さい。お父様、切に願い求めます。

 お父様、困難に疲れ、悩みに巻き込まれたお父様の愛する子供達がいます。もし、お父様が彼らを支えて下さらないならば、彼らよりも悲しい存在はこの世に存在しないでしょう。彼らが歩む一歩ごとに、彼らが身を置く環境ごとに、試練と苦難と悲しみが前に立ち塞がっています。どうか、彼らを守り、保護して下さい。

 お父様が今日まで共に苦労し、共に心配して下さり、一緒に戦うことができました。彼らはお父様の苦難を受けており、お父様の涙を流しています。お父様、永遠に守って下さい。最後の勝利の領域で、勝利の喜びを持ち、すべての創造物に代わってハレルヤを歌い、ホサナの栄光をお父様の前に返し、感謝と敬意を捧げる日まで守って下さい。

 今この時、お父様の許しを受けてお話しをしようとしています。誤った儀式や概念を排除し、お父様が命じられる全体的な再創造の感動的な時間となるようにして下さい。また、活気ある時間が現れるように許してください。

 それ故に、私達の身も心もみな、お父様の愛に満たされて感動せずにはいられません。敬虔(けいけん)な崇拝を捧げずにはいられません。従わずにいられません。悔い改めずにはいられません。どうか、この時が許されて、天の心情を受け入れることができる時となりますように、お許し下さい。心から願い求めながら、愛する主の御名によってお祈り致しました。アーメン。

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<御言葉>
 聖書の本文を中心として、今日伝えようとするタイトルは「神様の主管世界を探しましょう」です。このような内容でしばらくお話しします。神様が六日間にわたって創造されたすべてのものは、まだ神を主として祀られることない状況にとどまっていました。


 これは私たちが悔い改めて信仰を持つ過程で必ず解決しなければならない運命として残っています。したがって、私たちの一人一人が天の前で誓い、勝利することができる供え物として立つことを望むなら、神様が求める主体的な復帰を完結させなければなりません。それができないならば、決して勝利の供え物となることはできません。人間の前にこのような過程が存在するのは、堕落の後に誰も望まない、悪魔が主導する世界が生じたためです。


 アダムとエバを通じて喜びを共有するために万物を創造されたお父様は、アダムとエバの堕落によって創造されたすべてを失いました。アダムとエバ自身も失い、万物も失いました。そして、考えもしなかった悪魔が創造主なる神様の立場に代わって万物を支配し始めています。これが神様の悲しみであり、これまで復帰の歩みの中で神様の心に似るために天に向かって祈っていた良心的な人々や聖徒たちの悲しみとして残っています。

 もし、ある創造物に彼らの願いが何であるか尋ねるとしたら、その創造物たちは何を望んでいるのかと答えるでしょうか? 彼らは、どんな存在も主体的な神様を求めていると答えるでしょう。このように、万物の存在は真の主体である神様を求めています。神様自身もよくご存じですが、神様はこのような万物を直接的に主管することはできない立場にあります。これが天の悲しみであることを皆さんは知るべきです。


 現代の私たち人間は、主体的な神様を失った創造物の一部として、身体と心のどちらの希望を抱いているのでしょうか? それは、万物全体が求め、願っている通りに主管してくださっていた創造主なる神様が、再び直接的に主管してくださることです。


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 今日、私たちにはこのような希望と御旨を実現する使命があり、その使命を達成するための使命を受けています。したがって、私たちは神の主権を回復しなければならず、また万物の主としての主権も回復しなければなりません。そして、神が主管してくださる恵みに感謝し、栄光を捧げなければなりません。


 この責任は万物にあるわけでも、天の軍勢や天使たちにあるわけでもありません。今日の私たちには何もないように見えるかもしれませんが、この責任が私たちにあることを認識する必要があります。


 そのため、私たちが一度も責任を果たさなければ、天の全体の統治権を失うことになります。本来の天を失えば、すべての創造物の希望を失うことになるのです。そのため、私たちが生活を通じて、生命を通じてその歴史的な運命を代行する責任を果たさなければ、神の前に立つことはできませんし、また創造物の前に創造物の姿として現れることもできないのです。


 そして今、皆さんは被造世界全体の中心であり、同時に神の創造性を持つ、内的な世界の中心として創造された私自身が進むべき路程は、今日の私の一つにとどまるものではない事を知らなければなりません。


 皆さんが天の意志のために生きる中で、自己のことだけを考えて生活するならば、神の創造的な主管はそのような行為によって中断されるでしょう。また、万物が皆さんによって主管されることを望むその希望も中断されることを、皆さんは認識する必要があります。


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 そのため、今では皆さん自身が天が全体を主管する立場を代わりにし、万物の主管者としての価値を示さなければなりません。そして、あなた自身が求める存在、全体を代表する本来の主管者として立ち上がっって、「主よ、命じてください」と言うべきです。


 このような立場に立つ存在は、6千年の歴史の中で現れた神の求める存在です。したがって、神の6千年の歴史の中で苦難と戦い、逆境に立ち向かい、敵である悪魔を打ち破り、人間を復帰させることが私たちの総合的な義務です。


 その様に、全体を代表する私たち自身が探すべき主管性の権限について考えると、今日の私たちが具体的に何を求めるべでしょうか? 人間は堕落のために全体を主管される神を失ってしまいました。


 私たちが考えなければならないのは、全体を主管し、全体の源である神を失ったということです。したがって、今日の私たちが探すべきものは、創造主である神であるということです。ですから、皆さんが神様の被造物を自分の主管とする人にならなければなりません。


 それでは、今日の私達の悲しみは何ですか? 私達の悲しみは何であり、私達の嘆きは何ですか? これまでの6千年の間に復帰歴史過程に隠された 切実な願いは何だったのか。それは私が、万人が、万宇宙が、天地が失われた神を探す事でした。神様は私達が求めなければならない希望の本体であり、同時に全体の価値を代表する栄光の本体です。


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 そのため、今日皆さんが神様の全体の主管性を復帰する為には、皆さん自身で神様を所有できなければなりません。神様を迎える事ができる人にならなければならないと言う事です。


 では、その神様はどのような方なのでしょうか。億万万象を造られた神様であり、万物に対する全体を主管する為に復帰に投入して下さる神様である事を皆さんは知らなければなりません。したがって、今皆さんが神様を所有しているならば、その神様は皆さんの神様ですので、彼が永遠であれば皆さんも永遠になり、神様が全体の被造世界に対して主管性を持つ様になれば、皆さん自身も実体を持って神様の場に立っています。万物を主管できる様になると言う事です。そうする事ができる皆さんでなければ、皆さんは神様を所有したとは言えないでしょう。


 今日、この地上の全ての悲哀と死がある様になったのは、基の神様を失ってしまった事からもたらされます。そして神様を失う事で、悪魔が主人の行為をする様になりました。人間はもともと創造原則を中心としてみると、神様を主人として祀られなければならない被造物でした。


 今皆さんには愛の神様を再び所有しなければならない運命的な責任が残っています。指摘されたこの被造世界で神様を主人公として祀られなければならないその意志に反対している者は誰ですか。今日皆さんに罪悪を抱かせている悪魔と言う事です。


 ですから、今皆さんが自分の心にとどまっている罪の根を抜き出し、万民に代わって今日まで6千年間天を裏切って戦ってきた悪魔を屈服させ、神様の世界を成し遂げられなければ、この地上で神様の主管的な行事をできないと言う事です。


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 それでは皆さんが心で自由を探していますが、どのような自由を探していますか? 皆さんが神様を求めなければ悪魔の僕になると言う事です。したがって、皆さんが神様を所有できず、サタンを所有する事になれば、皆さんは天理原則に対抗する力になる存在なのです。これを皆さんは知る必要があります。


 それでは、神様が天倫の法度を教えてくださった理由はどこにありますか? 神様を見つける事ができる方法、神様が分かる方法を教えてくれるためでした。そしてその方法を教えていただく為に摂理して出た路程が6千年の歴史路程でした。


 今日皆さんは信仰によって、神様が実在している事を知っており、神様の本性が被造万物の中心の性質として現れている事を私達は誰もが全てよく知っています。ところで知っているその神様が皆さんのものにならなければならないと言う事です。皆さんが神様と永遠に絶えない関係を結ばなければならないと言う事です。


 その様になれば、皆さんが東に走っても互いに走っても、南北のどこに走っても、いかなる過程にあるとしても神様が変わらない限り、皆さんが持っている神様の所有権は変更されません。皆さんがそのような場所に立つ事ができなければ、皆様に対する神様の要求と神様の願いは、それまで未完成の状態にあり、不備な立場に置かれる事になります。その様になれば、そのような私として、悪魔が讒訴する条件が残る様になり、神様の悲しみが残る様になる事を皆さんは知らなければなりません。


 このような立場にある私たち人間が現代において行うべきことは何でしょうか? まず最初に、悪魔の誹謗中傷から離れなければなりません。そして、あなたが実際に神の子であり、神様を所有する資格があり、神様と一体となった関係を持つ神の子であるとイエス様と同じく証しを受けることができる日を迎えなければなりません。もしもそのような日に戻ることができなければ、全創造物を支配する神の前で、皆さんは創造物の主役として立つことはできないことを理解しなければなりません。


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 人間は堕落によって神を失った同時に、何を失ったのでしょうか? それは創造本来の本性を失ったということです。そして、自己分析すると、神様を失ったと同時に本来の心を失ってしまったということです。皆さんが意識するべきことは、自分自身の心を主管する事です。自分自身の心を思い通りにできないならば、皆さんは神様を所有することもできず、神様もまた皆さんとの関係を持つことができません。


 皆さんの心が神様と永遠の相対基準を造成するとき、皆さんは神様を所有する事ができ、神様は皆さんの心を自由に主管されます。ですから、神様とイエス様の心が一つになる様に、今日皆さんがイエス様の心と一つになり、神様の心と一体的な関係を成した立場に立たなければなりません。もしそのような立場に立つ事ができなければ、皆さんのそのような心にはサタンの惨訴条件が残る様になるのです。


 もともと人間は、神様が求められる御心の中で、私の心が望む目的どおりに生き、神様の全体的な理念に代わる事によって、第二の神様の立場に立たなければならなかったのです。しかし人間はそのような本性の心を堕落によって失う事で、今日人間達は憂いながらこの本性の心を求めなければならない条件として、悲しい運命の路程を歩かなければならない条件が残る様になったと言う事です。


 ですから、私達はイエス・キリストを通して自分の心を取り戻さなければなりません。そうして、悲しみに惹かれている心ですが、天の願いを成そうとする時に新しい心を起こし、暗闇を乗り越える事ができる本性の心を立てなければならないと言う事です。それで天上におられる神様の心情を通じて死亡権に包まれた人間達の心まで関係を結び、起き上がれる心の形を見つけて立てなければなりません。そのような皆さんにならなければ,皆さんは神様が永遠に所有する事ができる心を持たない事を知って悔い改めもしなければなりません。


 私達が神様に対して誠心を尽くすにあたっては、ある特定の時にだけ真心を尽くす生活をしてはいけません。神様が変わらないこの上、皆さんが自分の生涯路程において天に対して変わらない不変の心情で立てなければならないと言う事、つまり悪魔のいかなる条件でも侵犯できない心の土台を立てなければならないと言う事です。それが今後は不変の体系で立てられなければならないでしょう。


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 今、皆さんが神様に誇りを持てる心を持っていないとするならば、神様が皆さんに対して憐れむことができない立場に立っていることを理解する必要があります。


 今、人間がこの本性の心を探す事によって全体の主管権を復帰する事になるときには、万物の中のどんな存在物でもその心の働きを通して命じられる権限が立てられる様になりますが、誰もまだこのような心の主管を完成できません。


 また、まだ神様がお望みの様に、人間が神様の代わりに体系的な権限を立てて行動する事ができない寂しい立場にとどまっています。そうする振る舞いは、人間がとどまっているだけに悪魔が楽しむ舞台を残す事になると言う事です。そして、神様の悲しみの条件として残るというのです。これを皆さんは知る必要があります。


 天地の理は、二つが合わなければ一つになる原則を、あるいは一つの新しいものを作り出す事はできません。それでは、神が4千年にわたって準備して送られたイエス・キリストを通して成し遂げようとされた願いは何でしたか。4千年の歴史過程を経てきても誰も失われた神様を所有した人がいません。人間が彼を通して失われた神様を所有できる事を望んだのです。


 ですから、神様を所有した者として完結されて立てられた方が誰だったのかというと、まさにイエス様でした。また、人間世界において人間の心に代わって神様の心情の外的部分に代わる形をとった存在、霊界の無形世界と実体的な世界において万物を主管できる存在として送られた方がイエス様だったというです。


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 イエス様が来られてから2千年が経過していますが、今どのような民族、いかなる種族、いかなる個人であっても、彼らが栄光の条件として持たなければならないのは何ですか。それはまさに神を所有する事です。そのような人が現れるのがイエス様が望まれた事であり、イエス様を送られた神様の願いである事を皆さんは知らなければなりません。


 イエス様はこの地上に来て神様を所有し、さらに彼の心が人間と相対基準を造成する事によって、彼の体は神様の体の身代りなのです。 神様の心を所有し、万物を所有できる基準を立てて現れたイエス様は、その体が原則的な所有権を持って現れたので、彼が現れた日は天倫に代わる神様の日であったと言う事です。


 それでは、今日の聖徒達がイエス様を信じて神様を知り、神様の全体的な所有権、不変の所有権を持つ為にはどの様にすべきでしょうか。その所有権を中心とした価値的な基準と皆さんの心が結合し、イエス・キリストが地上に残して行かれた、肉身を中心とした全体的な所有権の価値を全天上天下に表わさなければなりません。そのような日が来る事を望む事が今日の再臨思想である事を皆さんは知る必要があります。


 それでは、この地上に再臨主が来て為すべき使命は何ですか? 終わりの日のクリスチャンが果たすべき最後の目的は何ですか?キリストの信徒達がどんな心で神を所有していたのか、皆さんが自分の心を所有したとしても、一つの 条件が残っているので、それは体を自分のものとして所有できなかったのです。ですから、今皆さんが体の所有権を終結させ、神様の愛の実体、神様の本性を実証できる実体として現れなければなりません。そのような存在はどの年に現れるのでしょうか?そのような存在を探し出す為にイエス・キリストが来られた事を皆さんは知っておく必要があります。


 その為にイエス様が行った後、この地上に聖霊を送られました。ですから、今皆さんがイエス様が持っていた心の主管性と神様の全体主管性と一つになり、自分の所有権と神様の所有権と一つになって現れるので、自分の体が聖なる価値を示さなければなりません。ところが、霊が分離されたため、実体的な価値を示さなかったのですが、イエスの心情的な部分と、神様と一つの価値観となる聖霊が現れた事を皆さんは知らなければなりません。


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 ですから、4千年の歴史が何だったのかというと、人間が持つ事ができる心の所有権を天的な本来の所有権に転換させる事でした。これはそれほど難しくありません。しかし、その認識を通じて身体から完結させ、その認識の価値を相対的な価値で表わそうとするのが摂理路程での困難さである事を知らなければなりません。


 この為に、イエス様自身は33年の生涯を通して神様を所有し、その心を所有していましたが、まだ2千年の歴史の中で悪魔の讒訴圏を抜け出せずにいます。まだ悪魔の認定試験を受けて完全な席に立っていないと言う事です。いくらイエス様であっても、いくら聖霊と言っても、イエス様は霊界で悪魔の讒訴を受けており、聖霊は肉界からサタンの讒訴を受けていると言う事です。


 これは人間が肉的に創造の原則である3段階基準を超えない過程が残っているので、悪魔が今日までイエス様に対して戦う事ができる条件を持っているのです。これを皆さんは知らなければなりません。また皆さんは、イエス様が30年余りの生涯を通して心情的な面では神様を所有していましたが、肉体的な面では神様を所有できなかったため、まだ私達の体を神様が主管していない事を知らなければなりません。


 今日、人間は信仰路程において自分の体を打つべき立場に置かれています。それでは、体を打つのは何のためか? 体を打つのは悪魔を取り除こうと言う事です。さらに、この体を誰が占領できるかというと、聖霊が占領する事ができます。それで私達が体を打つのは、聖霊が体を占領させるための条件でもあるのです。私の体を打つのは、結果的に悪魔を打つ事になるので、私の体を打って悪魔を叩き、悪魔が占領したのを代わりに聖霊が占領させようと言う事です。でれで神様を所有でき、本来の良心を所有でき、体を所有できると言う事です。その時、そこから初めて天上天下の全ての万物に代わる永遠不変な一つの所有権を初めて完結させたといえる価値を取り戻す事になるのです。


 したがって、そのような境地を見つけられないと、皆さんは自分の体を打ったとは言えません。それを探せれば、皆さんは悪魔の邪魔できない全体の主管的な基準を立てて、神様の代わりに栄光を受ける事ができるのです。また、このような意志があったので、イエス様は亡くなって以来、これまでも働いておられ、神様も苦しんでいる歴史もあるのです。ですから、霊肉を持ったどんな人、悪魔圏内にいる人でも、聖霊が占領できるその日を願って摂理してきたのがイエス様以来、神様の寛大な2千年摂理歴史だったのです 。


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 今、この内容に基づいて私たちは私たちの過去を振り返る必要があります。神を所有する権利が残っている限り、自分自身を所有する権利が残っている限り、主体としておられるお父様の悲しみが残っています。したがって、神様と被造世界にあるその悲しみが、皆さんに起因するものであると考える時、今日、皆さんは自身の罪を悔い改めなければなりません。


 自分が犯した罪に悔い改めることは、自己の心の価値を見つけるためのものです。全体の主管主である神様を所有していると言えるような、そのような価値ある悔い改めをしなければなりません。


 そして今まで信仰する聖徒達が自分の体を打つ生活をしてきたのですが、霊的にそうではないはずです。体を打つ目的は、聖霊にその体を占領させ、体が神様の愛を受ける様にしようと言う事です。そうする責任がある事を今日、キリスト教徒は忘却しています。2千年間これを忘却しています。肉の愛が道外視された中で、霊の愛は完全ではありません。


 なぜなら、神様と心が一つになり、心と体が一つになれば、体は自然に動き、心と体が神様を中心とし、完全にやりとりする上で発展するのが天理原則だからです。相対的な基準を造成し、互いに一つになってよく与え、よく受ける受受作用がなされるところでは、実証的な一つの実体が創造されるのが創造の法です、そう完全なのです。


 神様が万物を創造する様になった原因がどこにあるのかというと、神様自身が喜ばれるためでした。人間の心と神の心が一つになる事ができるその関係を成し遂げる為に実践を尽くすときには、神と一つになり、さらには地上の人間と一つになれる基準を持つ様になるので、地上に天の摂理が新たに展開されるのです。したがって、今日皆さん一人においても心と体が一つになって聖霊と縁を結ぶ様になる時、神様の勝利的な全体主管性を復帰できる事を皆さんは知らなければなりません。


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 今知ってみると、神様の御心に向かって進むに当たっては一つの方向だけがあるのではありませんでした。前後左右四方です。ところが今日、人間には悪魔に向かう方向だけが残っています。だから皆さんが心が主管できる体を見つけようとしても、また皆さんの体の心が縦的な面を備え、横向きの面を揃えようとしても四方に悪魔がいて、さらに前後左右上下6方向で悪魔が闇の幕屋を打って遮っていると言う事です。


 ですから、今皆さんは悪魔の幕屋を突き抜け、私が自分自身を立れば、神様は永遠の私の所有です、私の心は神様の所有です。自分を万物の前にさらす事ができなければなりません。天上と地上で三位神が共同で探しているこの一つの実体が出て来なければなりません。


 これらの価値のある存在、聖霊が彼に臨む事ができ、イエス様が臨む事でき、神が臨む事ができる価値のある存在がこの創造の世界のどこにありますか。その一つの存在が神様が6千年間にわたって惜しみなく望まれた実体です。
 ですから、そのような価値のある存在がこの地上に現れれば、神様はそれに対していかなる不備な条件も許さないでしょう。悪魔でも、神様までも彼を掴み、慰めの涙を流します。したがって、今日私達は私の存在目的がどの環境にあるのかを知る必要があります。皆さんは、このような全体的な責任権内にある皆さん自身を無視してはならず、そのような大きな責任を痛感しなければなりません。


 今、私たちが神様を心の中に所有すると言えるのであれば、私たち自身の心を永遠の中心として確立することができると言えるでしょう。また、私たち自身が永遠の命を形成できる存在として完全に所有されていると言えるのであれば、東に行こうが西に行こうが南に行こうが北に行こうが、方向は問題ではありません。あなたがたが滞在する場所ならば、そこには勝利のホサナの声が響くでしょう。すべての創造物は、あなたがたが光栄において神の御子であることを確信しています。これによって、自然の従属の立場が生じるのです。これを理解する必要があるでしょう。


 そして今日、そのような事が一部だけに現れてはならず、全体に現れなければなりません。ところが、まだ全体の主管権に代わる人間として原則的な所有の問題を全て終結させ、その価値の栄光を備え、万物の前に現れた存在がないため、そのような一人の存在になる事が皆さんの願いとして残っているのです。


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 このような立場に置かれた人間に一緒にいて、私も悲しみ、皆さんも悲しみ、神様も悲しむのです。 今日、私達がそのような価値を持った立場で万物万象に代わって、全体に代わって天の栄光を備え、神様の前にホサナの栄光を返さなければなりません。そんな時に初めて天上にいる天軍天使と千千万聖徒達が喜びの一日を迎える様になり、さらに私達は神様の前に栄光を返す様になるのです。このような事が完結しなければ、このための道を人間は億千万年でも行かなければなりません。


 まだこれを完結させていません。それでは、これは誰の為にそうなりましたか? これはもちろん、私が不完全で、自分自身が悪くてそうでもありますが、私よりも天に対して懇願する悪魔がいて、そうなった事を皆さんは知らなければなりません。


 全体の主人、全体の主管主になる方がいらっしゃったら、その方一人で宇宙万象を主管できたら、彼が全体の復帰を完成できなかったとしても大丈夫です。全体的な力を利用して集中的に新しい事ができると言う事です。この様に、神様は全体の働きを一つの方向に出て行く様に導こうとされましたが、悪魔がいたので、その事を全て完結させる事ができませんでした。


 それで、神様はその悪魔を無条件に屈服させる為に、また完成する事ができずに行った天上の全ての霊人達が完成の場に進む事ができる賜物を下さる為に一人を送る事を約束されました。


 それでは、皆さんが神様の栄光を求めるべき立場に立っている事を考えるとき、今私が持っているべき事は何ですか? もともと人間に対する天の理想は、天の所有権、心の所有権、体の所有権を持つ事でした。したがって、皆さんがそのような理想圏に進まなかった場合、皆さんは悪の所有権と善の所有権を見る事ができるという目を持っているはずです。また、そのような目を持っていたら、次は善の所有権と悪の所有権を分別して聞く事ができる耳を持たなければなりません。さらに、そのような五感を全て持っていなければなりません。


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 ところが皆さんが一日の生活において悪魔が近づく事を防ぐ事ができる自分にならなければ、皆さんは再臨主が来られても分からなくなります。 皆さんは「再臨主」と聞くと、うっとりして喜びますね。喜びの理由は何でしょうか? イエス・キリストはイスラエルの人々、具体的にはパリサイ人や祭司たちには直接見えませんでした。ローマの兵士たちも彼を見ることができず、反対していた人々も彼を見ることはありませんでした。自分の心と心が通い、体が通じて全体を代表する価値基準が確立された人だけがイエス様を見たのです。見ることや聞くことは、人間の自己の心性による一面があるのです。


 ですから、今や皆さんは人々の前で正義と価値を持つべきです。しかし、肉体はそれに反対します。それが悪魔の本質です。ですから、秘密裏に、他の人が知らない中で神様を所有している人、他の人が知らない中で本来の心を持っている人、そんな人はどこにいますか? そのような人を求める者は、永遠なる神様が共にいてくださるでしょう。

 ですから、現代の私たちは、悪の主管圏と善の主管圏を見極めることができるようにならなければなりません。それらを心と身体で見極めるだけでなく、深く考えずに見極めることが出来る様になる事が必要です。したがって、皆さんが天の価値を理解しなければ、イエス様とはまったく関係がありません。ですから、悪魔の全てを見極めることが必要です。天と地に残された悪のあらゆる主観的要素を見極めることができない人は、神の前で勝利的な完全条件を築くことができないということです。

 もしも皆さんがそのような条件を築くことができるなら、この地上で苦しみはなくなるでしょう。神を所有する人として、心はキリストに固守され、体は聖霊によって保持されるからです。これまでは、精神的な領域に関する探求の過程で、身体の苦痛が共存していました。身体は苦痛を経験しました。心と体が分裂していたのです。

 しかし、現在ではそれが統合され、霊的な領域が肉体の領域を探求し、肉体の領域が霊的な領域を探求する様に相互に統合し進展しています。さらに、父なる神、御子、聖霊が共に働いています。ですから、今や皆さんはこのような状況でイエス様の前で崇拝できるだけでなく、聖霊の前で崇拝できるだけでなく、神様の前で崇拝する存在自体とならなければなりません。

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 さらに、皆さんは生涯を通じて信仰において体験して理解するために、分別された原則に基づいた規範を確立し、創造物の前で永遠を代表し不変の勝利者として誇る基準を確立しなければなりません。そのような基準を確立できなければ、この地上に悲しみの条件が残ることになります。そして、悲しみの条件が残っている限り、天に行っても神の内なる心を見出すことは困難です。ですから、皆さんは心的なイエス様と聖霊を通して生命体として現れ、神の栄光の実体として現れなければなりません。その時に初めて皆さんは信仰の実体となるでしょう。

 ですから、今や皆さんが三位一体の協力なしにその使命を代行できる栄光の存在として復帰したと言えるなら、この天地が運行する法則と同様に喜びに満ちた心が皆さん全体を支配するでしょう。そのような生活は一瞬ではなく、永遠に続ける必要があります。そして、父は私のものであり、主は私のものであり、聖霊も私のものであり、私自身も私のものであると言いながら、万物の前で堂々とその主管者として立ち上がることができなければなりません。さらに、天に向かって「おお、お父様! ありがとう御座います」と言えるようになるべきです。

 天地の運命に関しては相反する存在はありません。人間は創造主の全体的な理念を代表し、創造主の主管者を代表できる存在として立てられています。したがって、心と体が存在する限り、これらの関係から逸脱する存在はありません。ですから、皆さんはこの地上で天上の全てと関係を持つことができる主管者としての世界を形成する必要があり、それによって神の栄光を表現することができることを心に留めておかなければなりません。



<祈り>
 愛するお父様、私たちに残された運命の道がこれほど複雑で山高く、谷深いものであることを知った時、今日の私たちの信仰の範囲は非常に狭いことに気付かされます。私たちはあまりにも狭く、消極的で、意気消沈してこの道をたどってきたことを、お父様の前で懺悔(ざんげ)せざるを得ません。

 お父様、この日、この時から天の法則を導かれるお父様の前で主管権を受けることをお許しください。お父様の姿を見ることができるように、お父様、憐れみを与えてください。イエス様、私たちを守ってください。聖霊よ、臨んでください。この地上のすべてのものを代表するに足る形で、自然に善悪を判断できる本来の実体として備えてください。私のお父様、熱望し求めます。

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 今夜集まったお父様の子供達に、お父様、今こそ自己という概念を忘れさせてください。そして、私たちの体から悪魔の所有権を取り除くことを許してください。それによって、私たちの心から神様だけを所有し、神様だけを呼び、神様だけを誇ることができる、万物に対する不変の個性体として復帰させてください。

 ですので、私たちがお父様に栄光を帰し奉るとき、万物は歌い、天にいる数え切れない聖人たちも歌い、一つの叫び声、一つの呼び声、感謝、感謝のハレルヤが天上に一斉に現れるでしょう。悪魔が自然に従うことを知っているので、勝利を勝ち取れるように、お父様、導いてください。

 お父様の全体的な主管権を私たちの実体で完結させるように、許可してください。私たちが代わりに立って、建てられた勝利のホサナの旗印を父の前で高らかに宣言できるように、許可してください。万物が響く中で、天を代表する勝利の子供たちが証しの主人公となれるように、許可してください。お父様、熱望し求めると共に、すべての御言葉を主の御名によってお祈り求め申し上げます。アーメン。








文鮮明先生御言葉選集 1 - 9. 根付いた者の責任(1956年7月1日)
1956年7月1日(日)、元本部教会。
聖書拝読 創世記18:22-19:12、イザヤ6:11-13


<祈り(Ⅰ)>
 愛するお父様! ここに集まった子供たちの心情を知って下さる様に願っております。彼らの身体の細胞一つ一つまで、慈悲深いお父様に向かって動かして頂けるようにお願い致します。

 この一人一人の身体と心が、お父様の主管される愛の手に捕らえられるようにお許し下さい。彼らを全体の調和の要素として表現し、お父様の御言葉を証明するために、命を捧げて走り回る天の勇士たちとしてこの時を聖なるものにして下さい。

     18

 お父様、ここに集まったお父様の子供達を慈悲深くお守り下さい。私たちはお父様が許される生命の御言葉に頼らなければならない運命の復帰の道が残っていることを知っております。愛のお父様、愛の手を伸ばして、私たちの弱い手を握りしめ、導いてください。私達は身も心も結びついていますので、お父様、私たちを抱きしめ、導いて下さい。私達の心を天の心に変えて下さるようお許し下さい。切望し、願っております。

 本日ここに集った多くの人々をお父様、祝福して下さい。神様の生命の歴史、感動の歴史、復活の歴史が現れるようにお許し下さい。今日、私達が持っているこの世のあらゆる概念をお父様の前に捧げ、柔和で謙虚な子供の心情を持ってお父様の前に立ちました。お父様、恵みの御手で再創造の歴史を起こして下さい。聖霊の炎を示して下さい。隠されていた愛を現して、彼らが最後に行き詰まっていた死の権限の扉を開き、お父様の勝利の栄光を示すことができるようにお許し下さい。愛するお父様、切望し、願っております。

 今は多くの御言葉が必要ではないことを知っております。ここに集まった子供たちが多くの御言葉を受け取っていなくても、お許し頂いた御心の祝福を適切に受け入れ、それに応えることができるようにして下さい。父なるお父様、お許し頂いた約束の御旨を成し遂げるために、天に向かってこの時を約束し、決意しましたからそれぞれの器を満たして下さい。私たちをあなたの満足される御心によって感謝し、あなたに栄光を帰すことができる聖なる子供達として立てて下さい。あなたが愛される子供たちとして、この時に許される恵みをお与え下さい。父なるお父様、切望し願っております。

 伝える者の心と受ける者の心を一つに結びつけて下さい。私達の心が天の心に共鳴し、私たちの身体が天の動きに合わせて動き、心から体現される父なるお父様の姿を学び、似ることを許して下さい。切望し、願っております。残された時間もお父様の御言葉で働いて下さるよう願いながら、愛される主の御名によってお祈り致しました。アーメン。



<祈り(Ⅱ)>
 許されたこの日、お父様の前に崇拝する為に参りましたので、ここに集まった個々人の心霊を洞察して下さり、傷のない心として下さい。この時間に捧げる崇拝が、お父様の愛深き心情を慰める事ができる崇拝になる事をお許し下さい。切にお願い申し上げます。

     19

 お父様! 子ども達を集められたのも、お父様であることを知っております。そして彼らを導き、命の権利の中で活動できるようにすることも、お父様の御業であると知っております。お父様が約束された聖霊の炎を許され、個々の体と心が躍動し、全体の喜びとして現れるために不足がないようお支え下さい。お父様が求められた神聖な全体がこの時に明らかになることを許されますように、愛するお父様、熱望しております。

 お父様、ここに集まった子ども達の上に憐れみの愛を下さる様にして下さい。天の栄光に向けて全体の心が傾く様に聖霊の働きとして成して下さい。そうして私達全員が民族に代わって、人類に代わって天上天下の全被造万物に代わって至聖所の扉を開き、お父様の前に近づいて、勝利の頂上の供え物を差し上げる事ができる崇拝の時間として下さい。

 そうして私達の崇拝をして、この民族がお父様の前に近づける事を許して下さる様に切にお願い申し上げます。 この時、民族を代表して天の前に心を込めた祭壇が各地に広がっていることを知っております。どの場所であろうとも、同じ祝福を注いでください。そして終わりの時に予告された全体の歴史を踏まえ、お父様がこの民族を通じて確立すべき全体の御意を知って、この民族が証明する使命を通じてお父様が喜ばれる基盤を築いて下さい。お父様、切望し願っております。

 今、この時を迎え、全身全霊を以てお父様に敬意を表し、従順な心をお父様の前に捧げます。お約束に基づき、この集まりの中で成し遂げられるすべての御意志を、彼らに明確に示して下さい。切望し願っております。 聖なる三位一体の歴史が全体の上に満ちることを願いながら、主の御名によってお祈り致しました。アーメン。


<御言葉>
 この時間は皆さんに「根付いた者達の責任」というメッセージを伝えます。イザヤ書6章11節以下の聖書の言葉を見ると、「もしこの中に十分の一が残されても、それも焼かれてなくなるでしょう。しかし、柏や樫の木が切り倒されても、その根が地に残るように、聖なる種はこの地の根です」と書かれています。ここでは神様は、残された根があるなら、その根を通じて新しい芽を芽吹かせ、新たな歴史を始められると繰り返し述べられています。

     20

 人間の先祖であるアダムとエバは、天地の永遠に変わらない一つの根として人間の全体の希望と理想を成し遂げなければならなかったのですが、できなかった事で、その根本の根が打たれて抜かれて悪魔の世界に移された事を皆さんはよく知っています。

 従って、神の摂理の意味を受け入れて歴史の進行に従事してきた多くの先人達は、天の計画についてはよく知らなかったかもしれませんが、彼らが努力してきたのは、摂理の目的として失われた根を不変の実体として迎え入れるための基盤を築くことでした。

 ですから、摂理の御意を受け入れてきた歴史過程の数々の先烈達も、天倫の事情はよく分からなかったが、彼らがその意志に対して苦労してきたのは、摂理の目的として成し遂げなければならないその失われた根を不変の実体に迎えるための土台を築いて来たのです。

 そうして摂理歴史を始めてから4千年が経過する中で、エデンの園で失われたその根を再び探し立てる為に立てられた方が誰だったかというと、皆さんが信じているイエス・キリストでした。

 ですから、この地に来られたイエス・キリストの使命は、神様が永遠に残る根として受けとり、この根を根拠として摂理展開する事ができる一つのブドウ園のような形を堕落した地上に再建する事でした。これがまさにこの地にイエス・キリストを送られた神様の目的でした。

     21

 天の摂理が出発してから4千年が経過してイエス様が現れるまでは、数多くの預言者達が天の御心を中心にして涙を流す苦労の道があった事を皆さんは知らなければなりません。

 すなわち、種族を代表した摂理の意味もあり、民族と国家、世界に代わる摂理の意味もあり、歴史に代わる摂理の意味もあったが、その種族と歴史を中心とした摂理の御意に代わるその一地域であれば地域、環境であれば環境を経て、根の要素になる事ができる数多くの先知先列達の苦労があった事を皆さんは忘れてはいけません。

 そして、個人として建てられる根を完結させ、民族として建てられる根を完結させ、さらに世界として建てられる根まで完結させる実体として送られたのがイエス様でした。

 今日イエス様を信じている私達が知っておくべき事は、イエス様の30余年の生涯のその苦労と亡くなって以来、これまでの2千年の歴史の全ての苦労は世界を代表して苦労したと言う事です。そして、イエス様が完成した一つの根として、神様の前に建てられるまで、その背後に隠された根として、歴史の難しい摂理を代行し、悪魔と戦ってきた先知先列達の苦労を皆さんが知らなければなりません。

 イエス様がこの様に一つの完成した存在として立てられた歴史的な背後の存在が誰だったのかというと、アブラハムでした。 アブラハムは他人が気づかない環境の中で、つまり悪魔圏内の敵の国に捕らえられ、天倫の御意を裏切る事ができる立場でも、天を裏切らなかった隠れた人格の所有者だったのです。この様に隠された根のようなアブラハムは、時代が悪く、歴史が混乱し、環境が乱れたとしても、そのような全ての境遇を避けずに克服していきました。

     22

 たとえ悪しく邪悪なものであっても、人間は自分が持っているものを誇ることを欲する傾向があります。アブラハムは長い時間をかけて神の御意志を受け入れるために、心に約束された偉大な目的を持ちながらも、この事実を明らかにせず、ただ一つの根として希望の中で立ち上がりました。彼はどんな迫害や苦難の中でも、詰(なじ)られても引き抜かれようとも、揺るぎない基準を築くためにあらゆる試練を乗り越え、隠れた努力の人生を生きていました。

 アブラハムは、彼自身の唯一の神への不変の期待を天に立てるだけでなく、彼の犠牲的な生活がまかれた種として、全世界の人々を超えて、邪悪な民族ですら天に立ち返ることができる環境の中で、不変の期待を持つ日が来る時までこの基準を守り、変わることなく持ち続けるという熱い思いを抱いていました。

 ソドムとゴモラの町は、神から審判の罰を受けるべき場所であり、アブラハムがいる場所とは関係のない地域でした。しかし、アブラハムはソドムとゴモラの町が天の意志を知ろうと知るまいと、その民が滅びようともなんの関係もない人ではありませんでした。彼は天の前で使命感を持ち、それに耐えなければならない責任を感じたからこそ、昼も夜もソドムとゴモラの町について心を痛め、憂いました。聖書に書かれた言葉は、アブラハムの内面の思いが表れています。

 今日、6千年の歴史の終わりにあたる今日、皆さんが快適な睡眠をとり、良い服を着て、美味しい食べ物を食べることは、皆さんが優れているからではありません。もしそう思っているならば大変なことになります。

 今日、世界がこんなにも栄えていくのは、皆さんが知らない人達が背後で隠れた根となって、涙の懇願の祭壇を築いているからです。皆さんはこれらの事実を全ての人に知らせるべき使命があります。

     23

 もしソドムとコモラの町中にアブラハムの切実な祈りが天上に通じて神様と一問一答しているという事実を知る群れがあったなら、またその群れの中でアブラハムを知る義人が何人もいたら、アブラハムは天の前に切に訴えてソドムとゴモラに降りる審判を免除できる条件を提示したでしょう。義人が数人でもいたら、アブラハムはソドムとゴモラ城がどんなに悪いとしても、「そこには義人がいる事を条件として公義で判断され、裁かれるお父様であって、義人と悪人を一緒に火で審判する事はお父様のされる事ですか?」 と呼びかけられたはずです。

 しかし、自分自身だけが、自分だけがソドム・ゴモラを代表して祈る事になる事を感じたとき、アブラハムの悲しみがなんとも言えず大きかった事を皆さんが知っておくべきです。 それでは、アブラムがアブラハムになった原因がどこにあるのかを知っています か?

 アブラハムには神様の幸福,神様の安寧を世話するよりも,種族の為に命をかけて訴えた隠れた基準があったという事実を皆さんが忘れてはなりません。

 イエス様が信仰の実体として現れたのは、アブラハムのような方が天の摂理の前に建てられ、地上に現れなかった隠れた根の役割を果たしたからです。言い換えれば、摂理歴史の過程で他の全てが崩れたとしても、天上に対して永遠に変わらない不変の信仰を実証できるアブラハムのような方があり、信仰の根の役割を果たす事によって、その実績の上でイエス・キリストが誕生する事ができた事を知らなければなりません。

 アブラム(大叔父という意味)の個人的な立場から、信仰の祖先となることが決定されたアブラハム(国の父という意味)自体よりも、彼が他人に知られていない大変な苦労の道を経験したとすれば、私たちは今日の歴史を振り返り、私とアブラハムを一対一の立場で比較し、自己反省しなければなりません。そして、アブラハムの立場を思いやることが必要です。

     24

 アブラハムがソドムとゴモラの町に対して隠れた祭壇を築いたように、自分たちが住む地域とそこに住む人々に対して切望し、祈りを捧げるアブラハムの燃えるような心情を、皆さん自身も持つべきです。アブラハムの努力によって築かれた信仰の希望や、隠れたルーツと同じ基準を、皆さん自身が受け継がなければならないことを、絶対に忘れてはいけません。

 信仰の祖先であるアブラハムの家族は祝福の約束を受けました。この約束はイサク、ヤコブを経て、モーセを通じて民族的な形態を成し、そしてイエス様を通じて世界的な範囲に拡大されました。もしアブラハムが天に向かって真摯な忠誠心と信仰を持っていなければ、この地上に天との繋がりを築くことができる関係は存在しなかったでしょう。

 今日、人々は自分にとって良いことがあると、それを示そうとします。それを公にし、自慢したいと思います。しかし、これらを公にし、他人に知らせようとする人々は、一つの枝のような責任を果たせるかもしれませんが、一つの根としての責任を果たせないということです。

 アブラハムが信仰の祖先となることができた隠れた鍵は何だったのでしょうか? それはただ天に向かって熱望する心と、地上のことに情熱を注ぐ心が極めて強かったからです。それによって天の父との広く深い関係の礎を築くことができ、信仰の祖先となることができたのです。

 モーセもそうです。モーセ自身が民族の前に立てられるまでは、当に一つの隠れた根として過ごした宮中での40年の苦労の期間があったのです。モーセは豪華絢爛な宮中にとどまっている間でも、演劇をみて食べて歓喜にあふれる生活をしなかったのです。彼が宮中にとどまっている間、一日中観て、食べて、着て、寝ているその生活のいずれかの瞬間においても、イスラエル民族を心配しなかった事はありませんでした。

     25

 エジプトにいたイスラエル民族の中で、モーセ一人だけがその民族だと知っていたのかは分かりませんが、天に向かった忠誠心は変わらなかったのです。

 モーセは敵対する者の中にありながらも不変の核として、自分を制し、天の意志に向けた彼自身の心を阻む何かがあったとしても変わらないと誓いました。モーセには天に対する不変の気持ちと熱意があり、それは40年間の経験によって培われました。それが彼が後に民族への愛の力が爆発することができた理由です。

 皆様にとって、モーセは勇ましい人物に見えるかもしれませんが、実際にはそうではありません。エジプトの人々とイスラエルの人々が争っているのを見て、エジプトの人間を殺す決心をしたモーセの意志は、その瞬間に衝撃的に生じたものではありませんでした。

 その光景を目にしたとき、モーセは40年間にわたり心の内に秘めた悲しみが爆発し、民族のために神に向かって嘆願していた内的な悲しみの感情が溢れ出たのです。つまり、イスラエルの選民が不当な扱いを受けるのを見て、抑えられない憤りが湧き上がり、エジプトの人々を攻撃したのです。これは、イスラエル民族への愛とエジプト人への憤りが、モーセの行動の内的な原因であったことを意味します。そして、そのようなモーセの行動には神意が含まれていたのです。

 モーセが憤りに負けてエジプト人を殺したのは、イスラエル民族の運命を心配し責任を負っていた立場から行ったものであり、それはエジプト人がイスラエル民族に対して行った迫害と比べれば些細なものであったため、神は民族のために心配するモーセを民族の指導者として立てられたのです。しかし、イスラエル民族はモーセを誤解し、エジプト人を殺したことを暴露したため、モーセは自分の行動がばれてしまったことを知り、避難するしかなく、ミディアンの荒野に身を隠すこととなったのです。

     26

 ミディアンの荒野で生活していたモーセは、かつて豪華な宮廷で贅沢に暮らしていたことを恥ずかしく思い、王の娘が自分のためにあらゆる要求を叶えてくれる自由な環境で過ごした昔の栄光を完全に忘れました。そして、モーセは羊飼いの姿で羊を追い、名もない牧羊者としての身分でしたが、その羊を見つめながら、かつての先祖アブラハムによって約束されたカナンの地を懐かしく思いました。

 今は羊を追いながら歩んでいるが、いつかは羊を導くように民族をカナンの地に導くという使命感を持ち、天に向かって訴えるモーセでした。モーセは食べることも飢えることも眠ることも目覚めることも惜しまず、そのすべての情熱を注いで、アブラハムがソドムとゴモラの人々のために知らない間に祈りを捧げたように、民族のために心配し祈りました。

 モーセはエジプトの迫害と苦難の中でイスラエル民族が受ける困難を目にすると、骨が溶けるような悲しみを感じ、天に向かって「主よ、私を見てこの民族をあわれんでください。」と訴えました。そのため、神はこのような訴えの真摯な心を持つモーセを60万の大衆をエジプトの地から導き出す指導者とし、他人には何もないように見えるミディアンの荒野で一人の牧人として生活していたモーセに、先祖から受け継いだ隠された起源の使命を継承させ、民族の代表者としました。そして、イスラエル民族がこのようなモーセと一体となり、カナンの地に進入することができるようになったのです。

 モーセが天から許された約束を受けて、エジプトの宮廷に入って行くことになった時、彼は喜びに満たされました。しかし、モーセは決してその喜びに満足していませんでした。彼は自分の民をカナンの地に導くために、生涯を捧げると天に訴えたその意志が実現し、民の道を切り開くことになりましたが、そのような喜びに満足しているだけではなく、これからは第二の責任を忠実に果たす使命感と責任感を持つようになりました。

 その時から、モーセは自分を中心に置かず、小さなことでも大きなことでも、どんな一つの仕事であっても神との結びつきなしには行いませんでした。

     27

 こうして、モーセは邪悪なエジプトの宮廷に入り、彼らの神の前で10回以上の奇跡と神迹を行い、イスラエルの民を険しい荒野から導き出すことになりました。イスラエル民族はモーセと一体とならなければなりませんでした。

 つまり険しい荒野から自由な環境への脱出を果たしたイスラエル民族は、カナンの豊かさへ向かうためには、モーセの心が彼らの心そのものでなければならなかったのです。彼らは自分たちをエジプトの宮廷から救い出してくれたモーセと心を一つにする必要がありました。しかし彼らはモーセと一体となることができず、天意に反する道をたどることで滅亡する結果となりました。では、彼らがこうして滅亡する原因は何処にあったのでしょうか?

 彼らは、モーセが民族の指導者となる過程で天に訴えた隠れた熱意の基盤を知らなかったのです。そして、彼らはモーセが彼らを導いて熱心に脱出したその日から、さまざまな困難に直面しながらも、自分たちのために尽力し苦労したモーセの努力と苦労を認めませんでした。そのため、彼らとモーセは荒野で分かれ、結局、彼らは荒野で倒れる運命に瀕しました。

 こうして、イスラエル民族がモーセに対して不信感を抱いていた歴史的事実は、今日の終末の聖徒たちにも再び現れています。 イエス・キリストがこの地上に来て30余年の命を人類の為に苦しみ、亡くなって以来2千年間、人間を求めてくださり、愛と賜物として働かせてくださったにもかかわらず、人間はそのようなイエス様を生活の中で真に祀られなかった事にあると言う事です。

 そして、イスラエル民族がモーセを不信心することで、モーセがイスラエル民族をカナンの地へと導こうとする神の意志を完全に受け入れられなかったように、終末の聖徒たちにも同様の恐ろしい出来事が起こるかもしれません。イスラエル民族と自分自身が一体となれないという事実に直面したとき、モーセは不信心な民族を責める前に、自身の不足を天に訴えました。つまり、彼はシナイ山に登って40日間の断食と祈りの中で言いました。

     28

 「父よ、どうしてこの民族は許された地が目の前にあるのに進むことができないのでしょうか? 責任は誰にあるのでしょうか? その責任は私にあります。私が責任を果たせなかったからです。だから私を犠牲にして、民族の滅亡の道を阻止してください」と。こうして彼は訴えました。皆さんは、モーセの秘められた熱意の期間があったことを知る必要があります。

 もしイスラエル民族が、モーセが優しい心を持って断食するのがモーセ自身のためではなく自分達のためである事を知っていたならば、彼らはモーセの40日断食期間に金の子牛を作って崇拝する不信仰はしなかったでしょう。また、彼らが民族の祝福に代わるモーセが一つの隠れた供え物として天の前に捧げられたとき、モーセの心を同情し、彼の苦労を心配して、シナイ山のモーセの様に涙を流して天の前に訴える事ができたし、神様の懐を離れなかったでしょう。

 この様にモーセが一人で民族を代表して孤独な道を行った様に、イエス様もそのような道を行きました。すなわちアブラハムの歴史的な犠牲とモーセの民族を代表した供物の路程を通じて世界の中心に建てられたイエス・キリストは、アブラハムが家庭を代表して悪魔の条件を防ぎ、モーセが民族を代表して悪魔の讒訴条件を阻止したのと同様に、世界人類に代わって一人で悪魔の全ての讒訴条件を防ぎ、勝利的な蕩減の基盤を築かなければなりませんでした。

 皆さんはイエス様にこの責任があった事を知る必要があります。ですから、世界的に勝利して不変の場を備えるまで、イエス様の神は自分一人の神として終わってはならないと言う事です。ですから、イエス様は4千年の歴史の中で天の前に忠実だったどんな信仰の中心人物よりも忠実であり、全体の為に自分の一身を犠牲にしたのです。

 この様に、イエス様は30余年の命を通して、自分の使命分野で歴史上、誰も備えられなかった全体に代わる中心としての実体を成し遂げたのです。もしそのような中心人物にならなかったならば、イエス様は世界的な摂理の責任を負った救世主になる事ができなかった事を皆さんは知らなければなりません。

     29

 今日の信仰者は、イエス様が一代の十字架を背負われた方と信じていますが、皆さんはそのようなイエス様だけを信じてはなりません。イエス様の十字架の死の前には、アブラハムが築いた苦労の祭壇があり、モーセが努力した犠牲もありました。そして、イエス様は苦難と荒廃の中にある民族や世界人類の苦しみを感じ、「彼らの苦しみの重荷を私に取り除かせてください」と天に訴えただけでなく、実際に彼らの苦しみを負うために、一日たりとも気の休める生活を送れなかったのです。

 この様にイエス様は悪魔の懐にある人々までも心配してくださり、自分の喜びよりも全体の意志を持った責任ある立場で生活したので、悪魔の世界との戦いに勝利した中心存在で、万民の救世主として立てられたというのです。

 では、終末に立たされている私たち信仰者が悟るべきことは何でしょうか?私たちはこれまでに悪人のために涙を流し、心配し、祈りをささげる生活を送れなかったことを反省しなければなりません。終末に審判を受ける人が多ければ多いほど、私たちは彼らのためにより一層祈りを捧げる必要があります。

 そして私達の為に心配して祈って下さるイエス様がおられる事を忘れてはいけません。私達がそのようなイエス様を忘れて不信するなら、私達は終わりの裁きを免れないでしょう。

 もし昔ソドムとゴモラの民がアブラハムとロトを通して予告してくださった神様の裁きに対する警告を受け入れ,自分達の悪行を反省して悔い改めた者達ならば彼らは裁きを免れる事ができたでしょう。歴史的な事実は今後に起こる事を実証的に教えてくれる事なので、週末に処している今日の私達も先の自分の生活を反省して悔い改めなければなりません。ですから私達はモーセがシナイ山に登り、不信のユダヤ民族の為に祈ったのと同じです。イエス様が今この時間も霊的シナイ山上で私達の為に祈っておられるという事実を確かに知らなければなりません。

     30

 イエス様が2千年間天の御座におられながら人間の為に祈られるその心は、モーセがシナイ山に上がって不信のユダヤ民族の為に祈っていた寂しい心以上でした。ですから今地上にいる皆さんはこれを知ってイエス様の御心通りに生きなければなりません。昔、アブラハムが義人10人がいたら、彼らを見てソドムとゴモラの裁きを免れてほしいと神に祈りましたが、そのソドムゴモラには義人の十人がいないので、神様の裁きを受けました。

 ですから、皆さんはイエス様が十字架で亡くなられて以来、今日まで天上におられながら人間の為に祈っておられる様に、またモーセがシナイ山頂で祈った様に、その寛大な心情を受け入れてこの時代を握り、イエス様の代わりに心配して祈らなければなりません。そして皆さんは、イエス様の世界的な御意志に代わる事ができ、歴史上の預言者の列に加わる事ができる天が立てられた者がどこにいるのか、目を覚まして祈り、誠実に探す事を忘れてはなりません。

 終わりにこの地上にこの様に根として残る者がたった一人もでなければ、イスラエル民族が荒野で倒れたのと同様に、私達が生きているこの地も世界的な終末期を迎える事になると言う恐ろしい審判を免れる事ができないでしょう。

 では、今日私たちはどのように行動すべきでしょうか? 皆さんは隠れた存在であるため、キリストの精神を持ち、歴史的な経験を通じて現れてきた祖先たちの願いに応える存在となるべきです。そして、これまでの2千年間を再臨の一日として重視し、苦労してきたイエス・キリストの心情を共感できる存在となるべきです。これが問題です。

 ですから、今後は自分自身を歴史的な中心人物たちの相対的な立場に置いて検討し、分析する必要があります。つまり、自分自身をアブラハム、モーセ、イエス様との相対的な立場に置き、彼らの心であり、自分自身の心であり、彼らの願いであり、自分自身の願いであり、彼らの怨みであり、自分自身の怨みであるかどうかを分析する必要があるということです。

     31

 今、私たちは悪魔に立ち向かって天の前に立ち、請願の祭壇を高く築く方法を知る必要があります。アブラハムがソドムとゴモラのために天の前に請願した心情を理解する必要があります。アブラハムがソドムとゴモラのために祈ったのは、彼の息子や娘、甥であるロトのためではありませんでした。しかし、アブラハムがすべてを忘れて隠された心の祭壇を築いたため、アブラハムと関係のあったロトは審判を免れることができたのです。

 今日信じるという人々は「私の意志を成し遂げてください。」と祈ります。私達はそのような祈りをせずに、むしろ「私の御心より神様の御心がなされる様にしてください。」と祈らなければなりません。天の意志がこの様になる時は、私が楽しみにしていた事も成し遂げられるのです。だから 「私の意志を成してください」とする祈りはしないでください。私達は今ある心を尽くして「父親であり、私を立てられ,私を呼んだので、その意味を通してお父様の意志を成していかなければならない」と言う事です。

 それでは、皆さんが知っておくべき事が何であるかというと、皆さんが受け継いだ御旨は皆さんだけの唯一の御旨ではなく、アブラハムからモーセとイエス様を通って下ってきた御旨です。

 この時代に生きている皆さんは、モーセ以来の全ての部族に代わるべきであり、イエス様が必要とした部族に代わって天が求める御旨を成し遂げなければなりません。ですから、この地は邪悪であっても、この地は暗くても、この地は滅びても、皆さんは天が立てた隠れた根にならなければならない事を知らなければなりません。

 天は今、個人の信仰を基盤として宗教の使命を果たすよう私たちに要求しています。その願いとは、アブラハムが果たした責任と同じような責任を果たしたかどうかです。そして次にモーセがイスラエルの民のために献身的な心情を持ち、努力したように、皆さんが韓国の三千万人の民が苦難に直面した時、モーセのように皆さんの意思と心を込めて献身し、努力したかどうかです。さらに、イエス様が創世以来現在までの万民を救うために努力されたように、同じ意図と心情を持ち、万民のためにイエス様の代わりに尽力したかどうか尋ねられるでしょう。

     32

 そうすれば、この様にアブラハム、モーセ、イエスのような人生を生きたのかと反問を受ける様になった時に、正しく生きたと言えるのです。皆さんは「私達を知っていますか? 隠された神様の根は私達だけにあるのではなく、神の中にもあるのです。」と言える人にならなければなりません。

 そうなった時、アブラハムが彼の信仰を通じて築いた意志が、皆さんを通じて結実するでしょう。モーセが民衆を通じて嘆願した意志が、皆さんを通じて達成されるでしょう。また、イエス様が世界に対して抱いていたすべての悲しみの要素が、皆さんを通じて解放されるでしょう。

 もしもそのような人がこの地上に存在するとしたら、アブラハムが昔から心から願った心、モーセが昔から心から願った心、そしてイエス様がこれまでに心から願われた心が解放されるでしょう。そのため、もしもそのような人がいるのならば、あなた方は心を尽くしてその人を支えるべきです。もしもそのような人が存在しないのであれば、あなた方自身がそのような人となる必要があることを認識する必要があります。

 そして、もしもそのような人がいる場合は、その人をアブラハムの代わりに、モーセの代わりに、イエス様の代わりに高く尊び、受け入れることを知る必要があります。さらに、民族のためにさらに祈り、さらに活動することを求めるでしょう。そして、あなた方が天の前に捧げることができる犠牲が、祭壇ではなくても、その祭壇を築く人となるべきです。

 したがって、今日のあなた方は神に対して「私たちの父よ!」と呼ぶべきです。そして、創造以来の歴史の進行において、まだ主人の役割を果たしていないそのお父様を実感できなければ、あなた方は真の解放を受けることができません。したがって、あなた方はアブラハムが祈ったように、モーセが祈ったように、イエス様が祈ったように、祈りの祭壇を築かなければなりません。


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御言葉選集1(5、6、7)

2023年05月04日 14時30分42秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 1 - 5. イエスの様に復活の栄光を神様に向けよう (1956年5月27日)

1956年5月27日(日)、元本部教会 
聖書拝読 マタイによる福音書22:34-40


<祈祷>
 愛するお父様、イエス様は信仰のないイスラエル民族に対して、パリサイ人とユダヤ人達に対して悔い改める事を何度望んだのでしょうか。

 安息の睡眠を成せなかった程に追い込まれたイエス様の路程が私達の心の中で、イエス様の心情を解らないと言う事が言えず、その心情に似なくては行く事ができないこの時間になる様に許して下さい。また、そのような心が私達の中に現れれる事が、お父様が求められる事です。また私達が望む願いではないでしょうか。

 今イエス・キリストが歩んできたその路程を、イエス・キリストが残して行った神の福音の御言葉を代わりに背負って億千万のサタンと戦って勝利の栄光をお父様の前に返す責任が私達にある事を、この時間心の中に感じる様にしてください。そうして、イエス様が天に対して切実な心情を抱いた様に、今日私達も天に向かった切実な心を持たせてくださいます様に。

 天を信じて集まった全ての群れに対して堂々と出てきたイエス様の凛々しい態度の様に、私達もお父様の命の御言葉、真理の御言葉を信じ、堂々と出ていける子供達になる様に許してください。

 今日の私自身をイエス様の前に誇らない様にしてくださり、今日の私の事情をお父様の前に示さない様にしてください。この時間、お父様の前に不平を言う者が多いので、恥ずかしい者にならない様にしてください。
   1
 イエス様のような立場を取る事ができ、お父様の心に代わる者と成れる様に導いてください。イエス・キリストのご意志に代わって、万民の前にいつでも、いつまでも恐れずに現れる事を望むのが、お父様の願いであると言われる様に、お父様、ここに復活した子供達を覚えてください。毎日呼んでくださり、毎日命令してください。

お父様の御心を成し遂げる為に、イエス・キリストの代わりに戦っていく事ができ、父の御心の前に同行する聖徒達になるよう導いて下さる様に、私のお父様、導いて下さる様にと願っています。

お父様、イエス様は反論を受けた時にも天の為に言われました。いつお父様を置いて反論した時がありましたか? 父の意志一つを握って心配しながら、その意志を立てるために戦われました。

お父様、これらの私達を許してください。今、私達のお父様の意志を万民の前に堂々と叫びましょう。お分かりください、お勧めし、探して来て、自慢できる場所に立ててください。それを愛してくださり、導いて下さる様に、お父様、切にお願い致します。

この時間の初めから終わりまで、父の力ある御手が一緒にいてくださり、私達が優しく謙虚な子供のような心を持たせてください。尊厳のある父の前に生きた供え物としてささげられる子どもになり、本来の自我で再創造できるこの時間になる事をお許しください 。

   2

この時間多くの御言葉が必要ではありませんので、命の感動の歴史が心の中全体に響く様にしてくださり、父の喜びを歌う事ができ、父の栄光を証しできるよう、御言葉で私達の体の中心を目覚めさせてください。懇切にお願いし、主の御名によってお祈り申し上げました。アーメン。


<御言葉>
 この時間の皆さんと考えようとする御言葉のタイトルは、「イエス様の様に復活の栄光を神様に向けよう」です。イエス様の様に復活の栄光を神様に向ける為に、このような題名でしばらくお話しします。

エデンの園は永遠の神様が栄光を享受し、被造万物が神様に歓喜の崇拝をささげて喜んで生きる園です。このような園を作る事が神様の創造目的でした。また人間は神様が望む希望の栄光を地上に現わさなければなりませんでした。この様に、神様の栄光を実体で表さなければならないのが、私達の先祖アダム・エバの責任でした。

神様が創造理想を成し遂げて喜ばれようとした本然のその園は、人間が堕落する事によって成し遂げられませんでした。それで、これまで全人類は復活の栄光を願いながら闇の勢力と対決し、戦いの道を経ているのです。これが6千年の歴史の路程でした。

神様はこれまでの歴史を経過しながら、全体的な復活の栄光と全体的な復活の大業を成し遂げ、この地上の被造創生と霊界の千千万天軍天使、そして被造万物までも神様の栄光を歌って感謝の礼拝の日を迎えようとしました。その一日を迎える為に、神様は数多くの預言者達をこの地上に送られ、4千年の歴史が経過した後に神様自身の内的心情と外的実体を備え栄光の実体に送ってくださった彼がまさに独り子イエス・キリストだったのです。

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この様に、神様の栄光の存在が現れたので、全世界は楽しく感謝を返さなければなりませんでした。その結果、イエス様は悲しみの嘆きと恨みの嘆きを残さなければならなかった事を皆さんはよく知っています。

イエス様が残した御言葉を今日私達が見る様になる時、彼の御言葉を信じない民のみについて叫んだ御言葉ではありません。万民について仰ったのです。イエス様は神の為に死を覚悟しました。残りの道ではなく、行く事ができない運命の道である事を知り、堕落した人間が、ある時、ある歴史の過程で神様の為に心を尽くし、精誠を尽くし、愛を尽くせませんでしたが、これを知ったイエス様は堂々と叫びました。「皆さんの心を尽くし、愛を尽くし、思いを尽くして皆さんの神を愛してください」と堂々と言われました。皆さんはこの一言の言葉が皆さん一身のみに該当する御言葉としか考えてはいけません。

それでは、この一言の言葉は何を表す言葉ですか? イエス様は4千年の歴史の過程に染み込んだ神様の切ない内的心情を切実に感じました。そうして、自分が神様を解放しなければならない責任を感じ、いつの時でも、自分は今まで4千年の歴史過程になかった心を尽くす代表者にならなければならず、命を尽くす代表者にならなければならず、心を尽くす代表者にならなければならない事をここで改めて天の前に明らかにされたのです。

天の栄光がイエス様の栄光として現れ、イエス様の栄光が万民の栄光として現れ、万民の栄光が生きた被造万物のどれにも及ばなければならなかったのです。ところが、イエス様とイスラエル民族が断たれた事で、イエス様一身になされるべき復活の栄光、感謝の栄光は、今日人類の希望として残された事を皆さんは知らなければなりません。

イエス様は神の栄光に代わって現れました。神様の為に自分の心を尽くして思いを尽くし、御心を尽くされた一つの存在、歴史の過程になかった勝利の結果が、まさにイエス様だったのです。ですから、イエス様一身には神様の心情が籠っている事を知らなければなりません。さらに、皆さんはイエス様が心を尽くす前に、まず神様が心を尽くされた事を知らなければなりません。イエス様が御心を尽くす前に、まず神様が御心を尽くされた事を知らなければなりません。そしてイエス様が精誠を尽くす前に、まず神様が精誠を尽くされた事を知らなければなりません。この様に、福音として貴重な存在として現れた方がイエス様であったと言う事です。

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ですから、イエス様のこの真理の御言葉は、絆で感じられる事を通じた言葉ではなく、人間創造理念を通じた御言葉でした。これを皆さんは知る必要があります。

今日、皆さんは神様が送られた御言葉が自分だけを愛して下さったと考えてはなりません。そしてイエス様がそのような御言葉を下さったのは、神様が自分を立てる為に苦労されたその御心を自分が今実体的に成し遂げなければならないと考えました。神様がイエス様を尽くしたのと同様に、人間が神様に対して尽くす責任があると証したその御言葉をまだ成し遂げられないまま残っているのです。

したがって、今私達は心を尽くし、愛を尽くし、精誠を尽くして神様を敬う必要があり、神様自身がまず心を尽くし、心を尽くし、精誠を尽くして私達を見つけ出された事を知らなければなりません。

神様は4千年間、人間についてどんな心を持って来られましたか? 自分の為に心を持ってこなかったのです。すぐに死んでしまう人であり、苦しんでいる人間でしたが、神様は人間達に対して心を尽くす立場から、我慢の4千年の歴史路程を歩んできた事を皆さんは知らなければなりません。

この様に不変の愛の心を持って4千年間我慢し、戦い、愛して来られた神様の心情を知らなければなりません。このような神様の前に現れたイエス様は、イスラエル民族を中心とした神様の国を築く為に、自分の心を尽くしました。ですから、イエス様の30余年の路程は、心を尽くす犠牲の期間だったのです。30余年の路程において、民族の前に自分を表わさず、黙々と4千年間我慢してきた天の心情を掴もうとしてきました。

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こうしてイエス様は4千年の歴史過程においてサタンと関係した紆余曲折の歴史事実を感じ、それを霊界で内的に証拠を受けて明らかにされたのです。さらに、4千年の歴史の中に隠されている天倫の秘密を明らかにし、神様の内的な我慢の実体を成し、外的な実体を30余年に立てなければならない責任を担ったイエス様であった事を皆さんは知らなければなりません。

ですから、イエス様は難しい立場に置かれれば置かれるほど自我を求める立場にありましたが、探して考える事はできませんでした。イエス様は、神様が4千年の歴史を経てイエス様自身を探す為に忍耐して来られたその一つの心、人間一人一人を探す為に忍耐されたその神様の心を感じ、その心を解放するための実体として現れる為に30余年準備の生活をされた事を皆さんは知らなければなりません。

神様はこれまで誰に対しても自分の立場を言い表しませんでした。万民に対して言い訳ができず、敵のサタンについても言い訳をしませんでした。神様のこのような全体の心情を相続しようとするイエス様であったので、孤独な立場に置かれても、誰にも言い訳せず忍耐されました。このようなイエス様の忍耐の生活を皆さんは学ばなければなりません。

ところが、神様はイエス様の為に忍耐され、イエス様は自分の為に忍耐されたのではなく、お父様の為に忍耐されたのです。つまり、イエス様は神様が自分を探す為に時間を掛けて歩んできた事を感じ、自分の為に忍耐されたのではなく、神様の為に忍耐されたと言う事です。

この様に、イエス様が30余年間自身を離れ、神様の為に忍耐された天使長サタンの忍耐を上回りました。サタンはこれまで神様が4千年間我慢してきた道、その道を破壊する為に活動してきました。しかし、サタンが忍耐した以上のお父様の心情があった事を知っていたイエス様は、そのお父様を信じてお父様の様に忍耐したため、心情の化身となったのです。

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この様にイエス様自ら神様が4千年間我慢してきた心情の基台の上に立って、それを勝利の基台としてサタンと戦うにあたって、忍耐心を持って戦って勝ったが、実体的な勝利の基盤を持てなくなったときには、神様が4千年間我慢して来られた心情は破壊される様になった事を皆さんは知らなければなりません。

イエス様が30余年の寿命を通して自分が我慢できない環境に置かれる様になっても神様の御心をめぐって忍耐したので、またサタンが我慢できない立場から神様の御心を受けたので、また我慢した者の表象として立てられました。ですから、イエス様はサタンに対して戦う事ができる主人公になったと言う事です。

神様はイエス様を探すのに4千年の歴史の流血の路程を経られました。また、人間は自分の個人の欲望を成し遂げる為に生きる様な中でも、神様は人間の為に戦いの歴史路程を歩んできました。この様に神様は4千年間サタンと戦ってきましたが、神様は自分を中心に戦わなかったのです。

ところが、サタンが今日まで戦ってきた目的は、自分の栄光のためでした。また、これまでも自分を中心に神様と戦ってきていると言う事です。しかし、神様は自分の為に戦わなかったのです。神様が戦う目的は、サタンの下にある貧しい人類のためであり、選ばれた民族を通してイエス様を打ち出す事でした。

それではイエス様はどのような存在として現れましたか。神様が4千年間サタンと戦って勝った勝利の代わりの実体であり、化身として現れたのです。イエス様はこの様に神様に代わる戦いの主人公としてこの地に来られたのです。それでイエス様が内的に勝利の基準を立てた神様の御心を継承し、外的に勝利の基準を地上に立てなければならない責任を負い、実践していた路程がまさに3年共生の愛の路程でした。

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 この3年の愛の期間において、サタンは自分一人の勝利の為にイエス様と戦ったが敗北したので、再び民族を動員してイエス様と戦わせたのです。

 しかしイエス様は、3年の愛の期間に、いかなる困難な戦いの場にも決して自分を中心として戦った時が無かったと言う事です。イエス様は「父が行った事を見て行なう」と言われました。神様の代わりに戦う化身であり、神様の内的な心情を吐露する、神様の代わりの実体として3年の生涯路程を歩んだのです。イエス様は自分を言い訳する様な戦いをしませんでした。

 神様が自分の為の言い訳をする事ができなかったのと同じ様に、イエス様自身も万民の前でサタンと戦う立場では自分の為の言い訳をしませんでした。神様が4千年間摂理して来られたその苦労について変わらない心を持って神様を受けいれたイエス様でした。

 神様の御心の摂理の戦いの路程で現れたこの事実を悟ったイエス様は、神様が内的に立てられたその全体の御心を外的にも成し遂げる為に戦いを展開されたのです。ところがイエス様とサタンの戦いにおいて、サタンは自分の為に戦いましたが、イエス様は天の為に戦ったと言う事です。ここで勝利の基準が立ったと言う事です。

 それでは、サタンが敗北した原因は何ですか? 自分の為に戦ったからです。サタンの戦いの目的は自分にありました。しかし、イエス様は戦いの目的を天に置きました。そしてイエス様は、「神様が変わらないこの摂理の終わりまで変わらない」という心を持って精誠を尽くして戦ったので、勝利の基準を立てたのです。また、神様が心を尽くし、精誠を尽くしたのと同様に、イエス様も人類の前にそのような姿勢を見せてくださったというのです。

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 そして、イエス様は神様の内的な心情に代わって、すべての困難と悲しみに耐えながら愛された神様の心情を引き継ぐ事ができました。ですから、イエス様は自分がどこにいても、神様の御心、神様の愛に代わる実体としてサタンと戦っていきました。

 イエス様はサタンとの戦いの過程で、サタンが自分の目的を中心に攻撃する様になったとき、その影響はイエス様だけに及ぶのではなく、神様にまで及ぶ事を知っていました。ですからイエス様はどんな受難に遭われても神様が私の為に我慢された様に、また万民の為に我慢された様に、そして当時までの摂理路程でサタンに対して神様が戦ったのと同じ様に、30年余りの生涯を一人で忍耐しながらサタンに対して戦ったのです。この様に、十字架上で亡くなるその瞬間までのイエス様の生涯は、神様の実体として、ずっと神様の愛を体恤し実践して示された生涯なのです。イエス様の生涯路程、神様の愛を実践された路程は、サタンと戦いながら歩いた試練の路程だったと言う事です。

 しかし、なぜ神様はイエス様をサタンに与えたのでしょうか。それは神様がイエス様を愛していなかったからではありません。神様がイエス様を愛しているのに、どれくらいまで愛されたのか、皆さんは知っていますか? 神様の最高の愛は実際の死を越えた場で受ける事を皆さんは知らなければなりません。ですから皆さんは神様の代わりに来られたイエス様の愛を受ける為には、死の峠も越える事ができるという切実な心を持たなければなりません。そんな時にはサタンが屈服しなければならないからです。

 4千年の間、神様は一人で全世界を眺めながら悲しみ、心配されてご苦労されました。それでイエス様は自分のすべてを忘れて神様の為に戦っただけでなく、死の場でも自分のための欲望を持たなかったため、復活の力を表わす事ができました。今日、私達もイエス様のような勝利の過程を経なければなりません。

 イエス様は神様の永遠の命を所有し、神様の栄光を示す為に自分のすべてを捧げました。そして罪ある人間の為に自分の命を供え物として捧げました。私達は、サタンが反対する事を忘れるほどの立場で、人類の為に手を挙げて祈ったイエス様の愛を知る必要があります。
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 サタンの世界で表現できない愛をイエス様は示したので、サタンが彼の愛の前に屈服しなければならなかったのです。サタンは自分を表すばかりでしたが、イエス様を通して恥ずかしさを感じる事になったのです。その様にして、十字架によって4千年間摂理されてきた神様が苦しくなり始めたばかりでなく、人間も堕ち始め、そしてサタンも苦しみ始めたというのです。これを皆さんは知っておくべきです。

 イエス様が亡くなった事をめぐって、神様と人間だけが悲しんだわけではありません。 イエス様の愛の死をめぐってサタンも悲しむ様になったというのです。ですから、サタンの悲しみが大きくなればなるほど、イエス様の愛の実はより多くなる事でしょう。

 イエス様は、自分の愛を実証して十字架の勝利で、最後に4千年の間摂理してくださった神様と不変の縁を結び、不変の勝利、不変の愛の実体となったのです。イエス様は天と地、人間の代わりに神様と一つになったので、神様が変わらない限り、イエス・キリストも変わる事ができなかったと言う事です。

 神様は4千年間栄光を示そうとされましたが、その御心が成されなかった為にイエス様を立てて初めてその御心を成し遂げようとされたのです。それでイエス様は人間を通して、その意志をこの地上に表わそうとされました。そのような神様の4千年摂理の証拠としての実体として現れなければなりませんでした。

 しかしイエス様は神様の永遠の実体であり、4千年の間摂理してきた神様の栄光を見せてくださったのですが、それが何かというと復活の栄光だったというのです。これを皆さんは知る必要があります。

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 その復活は4千年の歴史において初めて天の栄光に代わったものであり、4千年間のサタンとの戦いに勝利した栄光に代わったものでした。イエス様がこの様に勝利的な基準を霊的にも実体的に見せてくださったので、神様は死んだイエス様を再び起こし、新しい摂理を展開する様になったのです。イエス様が十字架に掛けられる事によって4千年の摂理歴史の責任を引き受け、先祖達の責任を引き受けて天の栄光に代わって霊界に行ったのが復活昇天だったと言う事です。

 この様に、イエス様は内なる神様の栄光をこの地上に実体的に成し遂げるため、すなわち神様の完全な栄光を示す為に来られた方です。なぜなら、完全な栄光は内的な栄光と外的な栄光が一体とならなければならないのです。イエス様はまさにこの使命を完成する為に来られたのです。

 神様の栄光が完全に成し遂げられる為には、神様の内的な栄光の実体として来られた独り子イエス様とユダヤ民族が離れず一つになって、イエス様の中にある神様の内的な栄光が地上の栄光にならなければなりませんでした。しかし、神様の4千年の摂理歴史を引き受けて、神様の栄光を地上で実現させなければならないイエス様がユダヤ人の不信によって十字架に掛かる事によって、天の内的な栄光は霊的な栄光になったと言う事です。ですから、イエス様は未完の栄光を持って昇天されたのです。

 イエス様は昇天した後、霊界で神様が4千年間サタンに対して繰り広げられた天の戦いと、人間を復帰する為に繰り広げられた地の戦いと、御心を成し遂げるための摂理の戦いを聖霊に代わって愛の戦いをしておられるのです。つまりイエス様は霊界に行って神様がしてくださったこの戦いを引き継いで神様の代わりに戦っておられるのです。

 それでは、4千年間摂理してきた神様の前に人間に代わって万物に代わって、天の愛に代わられたイエス・キリストが真に勝利しなければならないのはどこですか。変わらずこの地だと言う事です。

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 それでは、今日地上に残っているこの戦いの路程を誰が責任を負わなければならないのでしょうか。イエス様が霊界で神様の内的な戦いを引き継ぎ、戦っておられますが、聖霊と私達は地上で力を合わせ、内的な戦いと内的な摂理を実体的に完結するための愛の戦いで勝利する為に全部が協力しなければならないと言う事です。

 この戦いは精神的にしか戦えない戦いではありません。霊界と共に戦わなければならないと言う事です。そして、その戦いで勝つべき運命が私達人間に残っている事を皆さんは知る必要があります。つまり、イエス様が霊界で神様の内的な戦いを引き継ぎ、これまで戦ってきた事と、この地で30余年の命を犠牲にして、人類の救いの為に戦って来た事を、私達が引き継がなければならない事が私達の運命であると言う事です。

 だから今、皆さんは、「父よ!イエス様よ!聖霊よ、私に力を与えてください。」と祈り、叫びながら、地上で天の歴史的な願いを叶える為に全力を尽くさなければなりません。

 イエス様はこの地上に神様の4千年の苦労の結実体として来られ、神様が望んでいた最初の完成体として来られた方です。しかし、イエス・キリストは約30年の生涯にわたって成してきた道が残っていました。そして3年の期間、共に生きて愛で戦った路程にも、神様の栄光を完全に果たせなかった恨が残り、また十字架で血を流された愛の心情が地上に残っていると言う事です。そのような中で、今日、私達はイエス様が地上でできなかった使命を引き継ぎ、神様とともに行かなければならないと言う事です。そして私達は私達の生涯の努力をすべて捧げ、イエス・キリストの道を継承していかなければならないと言う事です。

 それでは、今日私の一人の人生をお父様の前に立てて批判してみるとどうなりますか?イエス様は神様の御心を成し遂げる為にサタンと戦いました。そのようなイエス様に皆さんは似ていかなければなりません。そしてイエス様はお父様の前に自分の一生を立てて勝利の戦いを展開したのがある一日ではなく、30余年の命の期間であった事を知らなければなりません。6千年間摂理されたお父様の心とその意志を成し遂げる為に切なくなっていたイエス様の心、聖霊の心を知らなければなりません。
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 そうして今日、皆さんが忍耐しなければならない路程に心を尽くして忍耐できないなら、皆さん一人の故に、6千年間悲しんでいた神様の御心、イエス様が生涯捧げられた事、イエス様が亡くなって以来、聖霊が2千年間苦労した意味がすべて挫折してしまいます。これを皆さんは確かに知っておくべきです。ですから今、皆さんはこのみ旨のための戦いを展開しなければなりません。

 イエス様は敵の反論をたくさん受けました。その城から追われたら別の城に訪ねて行き、ここで説教をすると言うようにあちこちに避けて行きました。そのような中でもイエス様は自分の一身を言い訳する事ができませんでした。天の運命全体を持って来られた為に、そのような事を示す事はできなかったのです。そうして、無言の戦いの路程を経てきたイエス様、さらに十字架に掛けられても自分の働きを忘れて神様の御心と愛を中心として証しする為にサタンと戦われたイエス様でした。

 ですから、今あなた方がイエス様を探し求めて愛する心があるなら、それはイエス様を悲しませるものではなく、喜ばせるものです。あなた方はこのような事を思い浮かべて、今日、あなた方がイエス様の代わりに30年以上の使命を果たし、そして今日まで耐え続けてこられた神様の心を代わりに感じ取らなければなりません

 4千年間、神様の御心を実現するために祭壇を築き、民族を通じて使命を果たしてきた預言者たちの心を代わりに感じ取らなければならず、また人間を愛したイエス様の心を見習わなければなりません。そうして今日あなた方はイエス様が自身を立てず、自分を愛せず、勝利の基準を立ててサタンを屈服させたことと同じ行動をする必要があります。そして、6千年にわたるすべての闘いを終わらせなければなりません。

 皆さんは、真理のすべての戦いの路程で勝利しなければなりません。また、天の御意を証する戦いで勝利しなければなりません。皆さん自身がイエス・キリストに代わらなければなりません。4千年の間、神様が忍耐された御心、忍耐された栄光、忍耐された愛の勝利の心情を支えなければなりません。イエス様が自分自身を忘却し、ただ天の御心だけを成し遂げる為に苦労された様に、皆さんも自分自身を忘却し、神様が望む全体の栄光を実らせなければなりません。心と体で勝利の結実を結ばなければならないと言う事です。
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 そうしてこそ心ではイエス様の栄光を歌う事ができ、体では聖霊の栄光を歌う事ができると言う事です。そして私達が心ではイエス様の復活の栄光に代わって、体では聖霊を通した復活の栄光に代わらなければ、聖霊は復活の栄光の場に出る事ができないと言う事です。イエス様は復活昇天できる栄光を備えましたが、聖霊はまだ復活昇天できる栄光を持っていません。

 今日まで6千年間摂理してきた神様の栄光に代わる、栄光を備えた一人の実体が出てこなかったのです。今はイエス様の愛による勝利の栄光に代わる人が出てこなければならず、聖霊によってイエス様が復活の栄光の場に立つ事ができる人が出なければなりません。皆さんがイエス様が神の4千年の摂理の目的を成し遂げる為に体と心で戦う一つの実体として現れなければ、6千年間摂理してくださった神様の御心は栄光として現れない事を知るべきです。

 それでは、今後私達はどうすべきか。皆様の意志と、皆様の心と、皆様の愛を備えた聖霊がこの地に来られた事を知らなければなりません。ですから、天の御心に代わっていたイエス・キリストの代わりに実体、 聖霊の代わりに実体がこの地に現れなければ、神様の御心は成されません。皆さんはこれを知る必要があります。今日、皆さんは命を与えてくださったお父様の前に感謝しなければなりません。そして皆さんはこの地上で聖霊まで解放させなければならない責任を担っている事を知らなければなりません。

 ところが今日この事が成されなければ、神様の6千年摂理の目的は成されません。ですから今日皆さんは神様とイエス様、聖霊が望む御心を成し遂げる為に、すべての戦いの路程に勝利しなければなりません。三位神の復活の栄光を示す為に、その戦いの限界、忍耐の限界を越えなければならないと言う事です。





文鮮明先生御言葉選集 1 - 6. 統一しようとする神様の愛の御心を成し遂げよう (1956年6月6日)
1956年6月6日(水)、元本部教会。

 今日ささげようとする御言葉のタイトルは、「統一しようとする神様の愛の御心を成し遂げましょう。」です。このようなタイトルでしばらくお話しします。この御言葉は皆さんが自分の信仰生活で最も重要な御言葉としてよく知り、よく覚えており、よく暮らすための生活の中心と考えている御言葉です。
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 アダムの堕落によって神様の御心が成し遂げられなかったため、今日まで歴史の路程を経て復帰摂理は繰り返されています。

 神様と人間が一つの御心を中心とし、一つの愛に調和して生き、全天地が神様の愛を受けながら、その愛を実際の命の中心に立てて全てが一つになって生きる事が神様の創造本然の願いでした。ところがアダム・エバが堕落する事で、神様の愛は神様の愛だけに残る様になりました。つまり、人間と関係を結ばなければならない神様の愛は、人間と関係を結べず、人間から離れる様になり、全被造界から去る事になりました。

 それで、神様は皆さんが立てようとするその愛を中心にしてきた万物を統一し、神様と万物が一緒に楽しむ事ができるその一日を望みながら、今まで6千年の歴史を経てきました。しかし、まだ神様の愛を中心として被造万物が一つに統一されていないまま、その神様のこの理念は理念通りに残り、探さなければならない希望の愛もそのまま残っていると言う事です。ですから、神様はその御心の願いを成し遂げる為に、これまで摂理されておられます。

 この様に、神は人間の堕落以来、これまである時代を問わず、神の希望を成し、人間を信じる事ができる心と愛する事ができる一つの心を探す為に長い間摂理されて来られましたが、まだそれらを成し遂げられず、見つけられずにいらっしゃると言う事です。

 私達が天の摂理歴史を振り返ってみると、神様はアブラハム一人を立て、人間に対する希望と理想と愛の変わらぬ基準を立てようとされた事が分かります。このような神様の御心が成し遂げられる日が来なければなりません。そのような愛の中心が立てられる日が来れば、神様と人間と関係が結ばれる様になり、その結ばれた関係の土台によって神様は新しい理想の喜びを味わう事ができるのでアブラハムを選んで立てたのです。ところが、アブラハムが愛の中心を立てる事ができなかった事により、神様はそれ以来イエス様の時代に至るまで、天の愛の意志を立てるための足場を作って来られたのです。
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 ですから、イエス様までの4千年の歴史は、全摂理の御心の前において、神様の願いと信仰と愛を成し遂げた一つの実証的な存在を立てなければならない期間でした。そのような存在を立てなければ、神様の願いと信仰と愛はそれぞれ別々に分離され、いつの時期にも統一が見られない働きになるので、神様はまず希望の基盤を準備されました。そうして、その基地の上に信仰の基地を置き、その信仰の土台の上に愛の地位を置こうとしたのです。

 それで後にはこのすべてを結実した一つの実体、すなわち、全体の希望の実証体、全体の信仰の実証体、全体の愛の実証体を天の地の前に立てる事ができる一日を迎えようとしたのです。しかし、もしそうした一日を迎えられなければ、神様の愛を中心として統一の理念は、この地上に成就する事ができなくなるのです。

 その一日を立てる為に、神様はアブラハムから始まり、モーセを経て洗礼ヨハネに至るまで、4千年の摂理歴史を3段階に分け、願いの場を準備しながら苦しんだのです。そのような希望の土台の上に一つの実体として現れた方が誰だったのか、まさにイエス・キリストでした。イエス・キリストは、神が4千年にわたって望まれた一つの実体として現れた存在であったので、神様が4千年間にわたって希望を持って摂理してきた総ての実体でした。

 それからイエス様がそのような結実体でこの地上に来られたのは何か、それは神様が路程で建てられた新約の福音、すなわち信仰の福音でした。その後、この信仰の福音を中心として、今日まで2千年の歴史が経過しました。

 そうすると、その信仰の福音を失した基盤の上に天の地に代わって、全体の愛の実体として現れる一つの存在が誰なのかとすれば、すぐに来ると言われた再臨主である事を皆さんが知らなければなりません。では、神様は再臨時代に何をされますか。来られる再臨主を中心として、これまで準備してきた信仰の土台の上に一つの命の種を蒔いて結実させるためのものが、神様の6千年摂理歴史の目的である事を皆さんが知っておくべきです。
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 今日、私達は神様を自分の希望の主人公として見ており、信仰の主人公として見ています。また、私達の愛の主人公として見ています。この希望と信仰と愛の主人公としておられる神様は、人間が歴史の過程で希望に代わる旧約時代、信仰に代わる新約時代を経たので、今後は愛に代わる成約時代を経なければなりません。

 では、そのような成約時代、すなわち再臨時代において永遠の不変の一つの中心要素として残る事ができるのは何ですか? それは神様の愛なのです。それは全体の中心要素であると同時に全体の理想要素になるのです。

 そのため、これまで人間はこの愛の為に希望の摂理路程と信仰の摂理路程を経てきました。しかし今愛の摂理路程を皆さん一人が歩まなければ、神様がこの地上に愛を中心として、この地上に築かなければならない統一の足場は崩壊してしまうという事実を皆さんが知らなければなりません。

 希望の基盤の上に信仰の中心として現れたイエス・キリストは、この地上に信仰を立てるための御言葉を伝えました。もしこのようなイエス・キリストをその当時人間が信仰の実体として受け入れたならば、すなわちイエス様を神様の4千年摂理歴史の望みの結実体、永遠無窮な信仰路程における信仰の中心存在、また永遠な神様の愛を証し統合する事ができる一つの実体として知られていたら、その当時の人間達はイエス様の様に一人の人として永遠に愛の神様の願望を持つ事ができ、永遠に無窮な神様の信仰を持つ事ができ、永遠に無窮な神様の本然の愛を体恤できたでしょう。

 ところがユダヤ民族の不信でイエス・キリストが亡くなったので、今日、私達は信仰路程で霊的な希望の実体だけを完成し、霊的な信仰の実体だけを完成し、霊的な愛の実体だけを完成する様になったというのです。
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 それでは、神様の愛の勝利の基準は何ですか? 天上天下のどんな人物でも神様の愛を中心に動かすのです。ところが、その神様の愛の実体として来られたイエス・キリストが十字架で亡くなられて、そのすべての御志が崩れてしまいました。

 イエス様は、神様が4千年間のご苦労を伴った希望の存在です。もともと人間の先祖が神様と一体になる事を望んだのが、アダム・エバの堕落で目が覚めました。ですから、イエス・キリストを中心として神様の理念と一つになって、霊的に大切な信仰の実体として現れるべきだったのですが、霊的な面でのみ完結しました。

 ですから今日、私達はもうイエス様が残していったそのみ旨を受け継いで成し遂げなければなりません。イエス様の一身が霊肉を持った一つの希望の実体になったのと同じ様に、私がそのような人になって彼に代わる事ができなければなりません。また愛を中心とした一つの実体だった様に、私がそのような人にならなければなりません。そうして、神様の前に立ってイエス様の希望と信仰と愛に代わって進み、聖霊の希望の実体として、聖霊の信仰の実体として、聖霊の愛の実体として、その使命に代わらなければなりません。

 これがイエス様が来た道の後の、今日この地上の人間がお父様の前に成し遂げなければならない使命であると言う事です。したがって、私達がその使命を果たす様になると、イエス様の希望の終結、聖霊の希望の終結を見る事ができます。さらに、イエス様の信仰と聖霊の信仰、イエス様の愛と聖霊の愛の終結を見る事ができると言う事です。そうすれば、皆さんがそのすべてを終結する事ができるその日を成してこそ、この地上に再臨主が現れるのです。

 神様の希望は神様自体のものではなく、人間のための希望でした。神様の信仰も神様のものではなく、人間のための信仰でした。また、神様の愛も、神様自身のための愛ではなく、人間のための愛だったと言う事です。そのため、人間がそのような神様の願いに代わり、信仰に代わり、愛に代わる事ができなければなりません。そんな時に、そのような人間一人自体を、全体の希望、全体の信仰、全体の愛に代わる存在として、神様が万物万象の前に誇る事ができるというのです。
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 言い換えれば、それ自体を、このすべての物が望む希望の中心体である事を誇る事ができると言う事です。また、被造万物、つまり天地にあるどんな存在物でも信じて生きる事ができる主人公として自慢できると言う事です。それだけでなく、すべての存在が愛する事ができる一つの個の中心体として誇る事ができると言う事です。

 イエス・キリストが神の愛に代わる中保的な存在として現れたのと同じ様に、今日私達はイエス・キリストの希望と信仰と愛を受けて、この地上のあらゆる邪悪な人の前に一つの希望の実証体、信仰の実証体、愛の実証体として現れなければなりません。

 そのような存在にならなければ、どこに行ってもイエス・キリストの希望の基準、信仰の基準、愛の基準を蕩減する条件を成立させる事ができないと言う事です。ですから今日、私達はこのサタン世界の前に神様の願い、神様の信仰、神様の愛の実体として現れたイエス・キリストに報いなければなりません。

 しかし、イエス・キリストの部分的な願いについて答えるのではなく、イエス・キリストの部分的な信仰について答えるのでもありません。全体に応えることができなければなりません。人々は今まで、この地上にひとつの基準を見つけて建て、それに応えようとしてきましたが、全体に応えることができませんでした。しかし、イエス様は三人の弟子を通してそのような過程的な形を表現したかった事を皆さんが知らなければなりません。

 それでは、信仰の結実体として現れた人は誰だったのか。それはペテロでした。また希望の結実体として現れた人は誰だったのか? これはヤコブだったのです。そして愛の結実体として現れた人は誰だったのか? これはヨハネでした。
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 この三人がイエス・キリストの福音の一部の部分を責任を持って持つ様になって進み、今日私が希望の実を譲り受け、信仰の実を譲り受け、愛の実を譲る事ができる様になり、そして摂理歴史はその様に流れてきたと言う事です。そのため、三人が和合して一つの完成体で完結しなければならないのが最後の道です。これがイエス・キリストがこの地上に残した最後の教えだったと言う事です。

 ですから、今日皆さんが最後の完成者として現れる為には、イエス・キリストの代わりにならなければなりません。ところで、もし皆さんがキリストの三弟子を根にした一つの不変の実体として立たなければ、三弟子を立てて行かれた新郎になったイエス様の前に出る事ができなくなります。これを考えると、今日私達は私一人でペテロを建てた信仰の希望を成し遂げなければなりません。ヤコブを立てた希望の実を出した自らで成し遂げなければなりません。ヨハネを立てたその愛の実を出した自分自身で収めなければなりません。

 このような皆さんになるならば、つまり皆さんが終わりのイエスの前に立つ一つの花嫁になるならば、皆さんは神様が6千年間にわたって憂いて来たみ旨が自分自身で結実されたと言う喜びを感じる様になり、父の前に感謝を捧げる様になるでしょう。

 さらに皆さんは、神様がこれまで6千年間望んできたみ旨が、イエス様の愛を中心に成し遂げられたという、全宇宙に代わって成し遂げられたというその喜びの事実を示さなければなりません。そうして神様が喜んで愛する中で、その愛の喜びを感じ、父の前に感謝できる皆さんにならなければならないというのです。この事が今日の皆さんに歴史的な責任として残っている事を知る必要があります。

 では、皆さん自身が「アバ、父よ!」と呼びながら希望の結実を備えなければならない時、信仰の結実を備えなければならない時、愛の結実を備えなければならない時となりましたが、今皆さんに求めるものは何ですか? 神様は6千年にわたって希望を抱き続けました。その愛情を感じることが大切です。また、6千年にわたって信仰を築くために努力されたその努力を感じることが大切です。そして、神様が愛を実現するために繰り返し犠牲を払われた6千年の苦労を感じなければなりません。
   20
 イエス・キリストによって、神の4千年にわたる希望の実現にかわって実践的な功績を打ち立てたことが信仰の歴史であり、その信仰を実践的な業績に置き換えたものが霊的な歴史でした。そして、その後に愛を実践的な業績に置き換えたものが統一の歴史でした。

 この様にイエス様は希望として摂理の道を立て、神霊としてそこに種を植えて繁殖させ、それを統合しようとしたのです。

 従って、今皆さんは神の愛、イエスの愛、聖霊の愛を実現しなければなりません。そしてイエス様の希望が神の希望に変わる時代が再臨時代であり、イエス様の信仰が神の信仰に変化する時代が再臨の時代である事を知る必要があります。

 もしもイエス様の希望の結実、イエス様の信仰の結実、イエス様の愛の結実が皆さん自身で果たされていないとするならば、皆さんは再び神の新たな希望の中心を探し出して建てなければなりません。神様の新しい信仰の中心を見つけ、神様の愛の中心を見つける必要があります。これが皆さんに与えられた課題です。

 それでは、それらを見つけるために、あなたたちはどうすればいいですか?あなたたち自身がイエス様の希望を実現し、聖霊の希望を引き継ぎ、イエス様と聖霊の信仰を引き継ぎ、イエス様と聖霊の愛を引き継がなければなりません。そして、「父よ、私たちは聖霊の苦労を知っています。聖霊の希望を知っています。聖霊からの信仰を受け入れてきた歴史を知っています。」と言えるようにならなければなりません。
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 そうなのです。私たちは、イエス・キリストの希望、信仰、そして愛を理解し、その教えに従って生きることが重要です。これによって私たちは、自分自身と周りの人々に対してより良い影響を与え、神との関係を深めることができます。このように、父なる神の前に立つことができる唯一の存在が今日この地上に現れなければならないことを、皆さんは知る必要があります。

 その唯一の存在はどのような存在でしょうか?その唯一の存在が持つ希望はキリストの希望であり、信仰はキリストの信仰であり、愛はキリストの愛です。しかし、その唯一の存在がこれらを神の希望、神の信仰、神の愛によって終結させるとき、神はキリスト・イエスの希望として残された目的を達成し、その意志を確立することができます。

 それ故、その唯一の存在は神の代わりに、イエス・キリストが祈っていた歴史、そして今でも私たちのために神の右側に立って祈っている方のそのような歴史を超越し、更に肉体を持った完成体として天の前に立つことができなければなりません。また、そのような存在がキリストを通して天国の喜びを共有することで、ようやく神と人が一つになれるのです。実体を完結する必要があることを知る必要があります。

 そのため、今日私たちは、神が4千年間苦労して建てられたキリストの心、またキリスト以降2千年間苦労された再臨主を建てようとした心を知らなければなりません。

 そして今日、私たちは、イエス・キリストが精神的な完成の立場を超えて、肉体的に完成させなければならない希望の実体を完成させられず、信仰の実体を完成させられず、また愛の実体を完成させられなかったその実体を完成させる責任があることを知る必要があります。
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 イエス・キリストの愛を中心にして来られる再臨主を立てておき、神様と関係を結ばなければならないと言う事です。それでは、今日私達はこの為にどの様にすべきですか? 実証的な 希望の実体として現れ、信仰の実体として現れ、愛の実体として存在しなければなりません。そのような皆さんの土台の上に再臨主が来られるなら、神様がイエス・キリストを立てて望んでいたその望みが皆さんで決まる事になります。ですから、その再臨主は私の全体の希望として現れ、私の全体の信仰として現れ、私の全体の愛として現れると言う事です。

 ところが、再臨主がその様に愛と望み、信仰として現れる様になったとき、皆さんは皆さん一人で喜べる事ではありません。その喜び、希望がイエス様であったので、イエス様に感謝しなければなりません。私が信仰の実体となったと言う事に感謝しなければなりません。その時、天地全体が皆さんに応え、皆さんは愛の実体となることができるようになります。これによって、天地全体が動いているという感覚を皆さんは持つ必要があります。

 そのような状況の中で、あなたたちは神様がイエス・キリストに対して希望されたことを希望を実現するための実践の努力を通して開拓しなければなりません。また、信仰を代替する心情の歴史を開拓しなければなりません。そして、愛を代替する思いやりのある生活を実践し、統一の歴史を成し遂げ、全ての人々が栄光に値する人々となるべきです。

 そのため、最後に神様の愛を成し遂げる為には、実践的な希望、心霊的な信仰、心霊的な愛をすべて備えなければなりません。その時、私達は主を迎え、永遠に生きる事ができると言う事、神様を祀って永遠に生きる事ができると言う事です。

 そして、今日の私たち自身は、天国の喜びで満たされ、地上のすべての生き物の前に喜びで満たされ、人間の前にも喜びで満たされるべきです。そのようにして、世界中が同じように感じながら、永遠に生き続けることができる時代を皆さんが建設する必要があります。
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 ゆえに皆さんがいる場所ごとに、そこは神の希望の実践の場であり、信仰の実践の場であり、愛の化身的な場であるべきです。そして、神が望まれることが地上で実現され、イエス・キリストを通じて神が達成しようとされた希望が私たちによって実現され、地上のすべてのものにつながらなければなりません。また、神の喜びが人間を通じて万物につながるようになったとき、神が望んでいた統一の歴史が成就することになります。

 それゆえ、今日、皆さんは自分が神の前に希望の存在として立つために、まず天地万物を代表して希望の実りとして喜ぶことができたか自問自答しなければなりません。さらに、今まで地上の数多くの人々が信じてきた信仰の全体を代表して喜ぶことができる存在になり、そして神から愛され、愛するその愛の感覚を感じることができる存在になれたかどうかを問いかける必要があります。

 しかし、全てのものの完成形として現れる存在は誰でしょうか? それは当に再臨主です。つまり、再臨主は全体の希望、全体の信仰、全体の愛を代表して現れる方なのです。しかし、再臨主が現れる時、皆さんは彼の希望、彼の霊的な信仰、彼の愛を所有するために準備をしなければなりません。また、その時には、神の御旨を成すために、行くべき所に行かなければならず、行わなければならないことを行わなければならないのです。ですから、皆さんは今この地上の腐敗した世界に住む人々の感情を超越した希望の実体、信仰の実体、愛の実体として現れなければならないのです。もし、このような存在がこの地上にいるのであれば、再臨主はそのような存在を探しに来るのです。

 それでは、そのような存在を訪ねる目的は何ですか?イエス・キリストが残された使命を実体で完結しなければならない使命の為に訪ねて下さるのです。6千年前から神様が望まれた霊肉を中心としたその御旨を成し遂げようと訪ねて来られると言う事です。

 したがって、そのようなみ旨を条件として隠れた存在がこの地上に現れる様になるとき、どんな存在でも彼を希望の存在として、信仰の存在として、愛の存在として祀る事ができなければなりません。愛を中心に統一の理念が成し遂げられた一つの世界は、希望も過ぎて、信仰も過ぎ去った世界です。ですから今、皆さんには愛を中心とした自分の生活に天上天下が答える日を成し遂げなければならない重大な責任があると言う事です。
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 いくら再臨主がこの地上に来るとしても、人間の実践的な足場がなければなりません。いくら永遠の神様の愛に代わる存在であっても、人間、まさに皆さんの足場がなければならないと言う事です。これらの重大な責任が皆さんにあると言う事です。したがって、今日、皆さんの個人は24億人類に代わって、今まで天上にある億兆の先祖に代わっている事を知る必要があります。さらに、私の一人の存在は、天地のすべての存在が望む存在であると言う事です 。

 したがって、今後はそのような気持ちを持って、食べたり飢えたり、病気にかかったり死んだりしても、あなた方は生活の中心を証明し保護することができなければなりません。そして、自然界を通じて神に栄光を捧げることができるこのような歴史をあなた方が果たす必要があります。あなた方は今日、この重大な責任を負っています。

 それでは、皆さんの過去の信仰生活を見たとき、希望を成し遂げる事ができる個体になっているのでしょうか。信仰であると言える実体、愛の完成者であると言える実体になっているかという事が問題です。

あなた方がそうなった時、イエス・キリストの希望、イエス・キリストの信仰、イエス・キリストの愛が、あなた方から神の希望、神の信仰、神の愛に対して一体になるでしょう。ですから、今後はイエス・キリストを通じて残された神の希望、残された神の信仰、残された神の愛を感じることができるようになるべきです。

 その様に感じる人がいるなら、彼は神様の直接の賜物を得ている人です。また、そのような人は神様の願いを示す事ができ、神様の信仰を示す事ができ、神様の愛を示す表現ができる方です。もし皆さんがそのような存在になれば、皆さんがどこに行っても神様の希望を分かち合う事ができ、どこに行っても 神様の信仰を分かち合う事ができます。
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また、あなた方がそうすれば、再臨される主を地上で神の代わりに迎え入れることができることを忘れてはなりません。


<祈祷>
 愛するお父様、天地が秘めた意志の世界が実現できなかったのは、全て神の責任だと思っていましたが、人間の堕落によって私達にも責任があることを知りました。

 神の永遠の希望が残っている限り、今日私達にも永遠の希望が残っており、神の永遠の信仰の意志が残っている限り、私達にも永遠の信仰の意が残っており、神の永遠の愛の実践が成し遂げられます。負けない限り、今日私達にも永遠の愛の実体を成し遂げる責任が残っている事が分かりました。

 この日に蕩減的な歴史を受け継ぐ為に、私達は4千年の願いを受け継いで6千年の願いとして、4千年の信仰を受け継いで6千年の信仰として、4千年の愛を受け継いで6千年の愛として表さなければなりません。神様の前に立って6千年の願いを永遠の願いで、6千年の信仰を永遠の信仰で、6千年の愛を永遠の愛として立てなければならない責任が私達に残っているので、今日、私達の不十分と不足をお許しください。この私達の不十分さと不足さを容認してください。私一人自体を高めて立てる事を容認してください。

今、万民の希望を結実させなければならない時となり、万民の信仰を結実しなければならない時となり、万民の愛を一つの実体として表わすべき時となったのですが、その一つの実体がどこに存在していますでしょうか?まともな私達であっても、新しく花嫁に重生しなければならない自分達である事を知って覚醒させてください。
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そうしたときに内的な面で完結を成し遂げたイエス・キリストの苦労の歴史が外的な私達を通して結実でき、再臨以降を実践でき、外的な歴史を展開できる事を知っています。

今日、天地の中心的な役割を担当しなければならない人が誰なのかというと、終わりの再臨の歴史を前にしている聖徒達だと思っています。お父様はそのような人々に永遠のお父様の願いを任せたいと考えても、彼らがその望みを引き受ける者になったのか、永遠のお父様の信仰を任せようとしても、その信仰を引き受ける者になったのか 、永遠の神の愛を任せたいと望んでも 、引き受ける者になったのか心配されます。

その全てを主の代わりに引き受けて、お父様の前に永遠に不変な姿として、お父様の愛に属する人になる事で、今は永遠の希望の種族になった者として立たなければなりません。永遠の信仰の種族になった者として立たなければならず、永遠の愛の種族になった者として立たなければなりません。これらの責任が私達に分担されている事を知ってください。

選択されたイスラエルの一つの勝利的な中心実体としておられるイエス・キリストの目的を今日、私達一人一人で成し遂げ、全体に代わる希望の実体を備え、信仰の実体を備え、愛の実体を備えなければなりません。今再臨の歴史の後には、キリストがこの地上に来て行かれたその全てに代わる、すなわちイエス・キリストの希望の実体として立たなければなりません。信仰の後継者にならなければなりません。愛の後継者にならなければなりませんのでこれをよく知ってください。

今、堕落の峠を越えなければならない復帰過程に置かれている私達がお父様の希望を引き受け、お父様の信仰を引き受け、お父様の愛を引き受けますと言えなければなりません。そしてその希望、信仰、愛をお父様の前に返せなければなりません。そうしてお父様の前に愛され得る勝利的な存在になってこそ、最後に最後の栄光に代わる資格者となるのです。今日ここに集まった子ども達に、お父様が皆さんは私の願いの存在、私が信じられる者、私が愛する事ができる者といえる姿になる事を許してください。
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さらに、天地万物の前で宣言し、判決の恩恵を受け、和平の条件を設定できる勝利の子どもたちに導いていただきたく、切に願っております。父よ、どうか私達を導いてください。

そのため、お父様の喜びがこの地の喜びに移り、お父様の愛がこの地の愛に移り、お父様の希望と信念がこの地の希望と信念に移される必要があります。再臨を迎える中で、平凡な喜びをお父様の前にもたらすことができるように許してください。そして、お父様の意志が地球を中心とした私達によって達成される栄光を、全ての世界に示すように歴史を導いてください。

私達の生活を通じて、生涯を通じてモーセの栄光を讃えることができるように、モーセの愛によって私達全員が一つになることを許してください。そして、全世界の24億人を含め、天にいる数多くの聖徒たちをも統合して、神の御心を達成することが自慢となるように、達成された希望、信仰、愛を永遠に自慢できる条件として、天地の中心に立てるように許してください。このように祈りを捧げ、全ての御言葉を主の御名によってお祈り致しました。アーメン。





「文鮮明先生の選集1-7:私達は負債を全額返済する人になろう」(1956年6月10日)

聖書拝読 マタイによる福音書18章21-35節

<祈祷>
 お父様の美しさが全てのものに表れ、お父様の手が触れたものは神秘的で輝きに満ちています。人間の美という創造目的を追求し続ける父なる神の心を、私達は共感し、お父様の愛の前に美しさで応えることを許してください。

 私達の心がお父様によって創造された本質的な心として現れることを許してください。私達の体が罪に染まらず、創造直後の純粋な体として美を表現することを許してください。私達の心と体が神の愛と心を代表して、神が動けば私達も動き、神が決めれば私達も決められる完全無欠な本質を持つように許してください。
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 これがお父様が今までに復帰説歴史を歩んでこられた一つの基準であったことを知ることができます。

 今私達が求めなければならないのは私達自身の心、達成しなければならないのは私達自身の体です。それを見つけ、実現できるようにお許しください。そしてお父様の本性の美を代表して礼拝できる存在として立たせてください。お父様の前で感謝と栄光の歌を歌うことができるように許し、私達がこれがお父様の目的であったことを骨身に感じることを許してください、お父様、切に願い申し上げます。

 私達は堕落の血統を受け継いで、自分自身が気づかないうちに自分を中心とした生活を送ってきました。天地を離れ、自分を中心に動く存在になってしまったのです。これを振り返り、天地を見据える本来の心の叫びに従って導いてください。本心の動きが私の体を刺激し、天が取り戻せる本来の自我を見つけられるようにお許しください。

 私達は腐敗の血統を継いでいることに気づかず、自分自身が中心となる生活を送ってきました。天運を離れて自分自身が中心となり動く者となってしまいました。このことを反省し、天運に対応するための本質的な心の叫びに従って導いてください。本心の動きが私の体を刺激して、天が取り戻すことができる本質的な自我を見つけることをお許しください。

 そして、私達が喘息する人類のために嘆き悲しんで、天地の全ての嘆きを和らげ、謙虚になってお父様の前で礼拝できるように、私達をお父様の愛する子供たちとして立ててください。愛するお父様、切にお願い申し上げます。
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 ここに集まった全ての子供たちを、一人一人手厚くお受け取りください。彼らは1週間中、世界と戦って傷跡が残っているかもしれません。彼らの心と体は、お父様の意志を完全に信じたいと思っていますが、サタンの策略によりサタンの犠牲者になった人々もいますが、それを容認してください。

 彼らが受けた傷を癒すことができるようにお許しください。お父様の慈悲の愛で抱きしめてください。愛の油を注いで、完全にしてください。お父様、切にお願い申し上げます。

 今、私達がお父様に差し出す贈り物がなくても、柔和で謙虚な心をお父様の前に出し、体と心に染み付いている全ての罪を告白して悔い改めることができるように、この時間をお許しください。お父様の前に真っ直ぐに立てる様にこの時間をお許しください。尊厳あるお父様の愛が運行する力に自然に吸収され、お父様と一体化した波動の歴史を体と心で感じることができるこの一時をお許しください。お父様、切にお願い申し上げます。

 今日ここに集まった僅かな群れを育ててくださったお父様、これまで私達が困難な道を歩むときに一緒に歩んでくださったり、孤独な時に友達になってくださったり、争うときに盾になってくださったのは、私達が優秀であったからではなく、お父様の隠された愛の大きな光と大きな慰めが共にあったからです。ですから、今日この命を託してお願い申し上げます。

 お父様、お父様の望まれる意志をこの時、愛で表現してください。お父様が主張される意志を、私達がお父様に代わって尊敬し、称賛することのできる恵みをお許しください。私のお父様、家族があちこちに散らばってお父様に向かって礼拝の祭壇を築き、天の前で祈っておりますから同じ恵みと愛で現れてください。それによって、最後に残され、任命された使命を与えられた場所で遂行することができるように許可してください。全体が繁栄の中心を崇拝できるように許可してください。
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 三千万の人々の前に、新しいみ旨を伝えることができるように許可してください。刺激的な新しい衝動を引き起こして、悪い道に行かないように、善い道へと導いてくださりお父様の愛の手を現してください。愛の力の歴史を示してください。私の愛するお父様、熱望し、望んでおります。

 集められた子供たちを一人でも捨てない様にしてください。お父様の愛の腕に抱かれ、許された全体の指導的な歴史を彼らが同じ恵みとして感じることができるようにしてください。愛するお父様、熱望し望んでおります。残された時間をお預けいたしますので、主管してください。
主の御名によってお祈りいたします。アーメン。

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