文鮮明先生御言葉選集 1 - 8. 神様の主管世界を探しましょう(1956年6月27日)
1956年6月27日(日)、元本部教会。
聖書拝読 マタイによる福音書22:15-22
<祈り(Ⅰ)>
愛するお父様、私達はお父様の抱擁を慕い、哀れなる者たちに同情の念を抱いて参りました。どうか、私達の身体と心を導いてくださり、私達全体をお導き下さい。私たちの心身が、お父様に喜ばれる心身であることを知ることができますよう、お許し頂ける様にお願い申し上げます。お父様の栄光と正義に賛美の歌を捧げることができる恵みの中に、この時間を過ごすことができますよう、お許し下さいませ。
愛するお父様! お父様が慕しくて集まった子ども達を憐れんでください。彼らにお父様がいない時は、哀れな者の中の哀れな者です。これら全てを主管してください。彼らの願いで彼らが実践してくれる主人公として、この時間の歴史をお与え下さる事を、愛するお父様、切に願って参りました。
この一時、散らばった私たちの心を集め、あなたの聖なる御前に供え物をささげるために、謙虚に臨みますので最初から最後まで、あなたが許可されないすべての要素を除去し、和やかであることができる要素だけを残して、全体の雰囲気を整え、私達の心を動かして頂けるよう、愛するお父様、切にお願い申し上げます。
今日、私たちの祝福を求めて集まる多くの人々がいることを知っておりますので、各地で聖なる三位一体が同じ恩寵を注いでくださるようにお願い申し上げます。終わりの日に託された全体的な使命を果たすために、私達が集まる場所ごとに、あなたの栄光を讃える人々が同じ恩寵を受けることができる時が、この民の前に早く訪れように、愛するお父様に切に願い求めます。
最初から最後まで、悪魔に奪われる時間が訪れないように許して下さい。勝利に満ちた栄光のお父様、保護して下さる様に心からお願いいたします。愛する主の御名によってお祈り致します。アーメン。
1
<祈り(Ⅱ)>
愛するお父様! 何も持たない兄弟たちがお父様のひざの前に出て参ります。彼らの心情が自己中心的な心情とならないようにして下さい。天のため、お父様のために自己を中心とせず、お父様のみを尊いものとするように明らかにして下さい。お父様の摂理の御旨のために全体が献身的になされるように許して下さい。
私たちは心と体が暗い影に包まれているかわいそうな存在です。愛するお父様、どうか憐れんで下さい。力もなく、気力もない手を天に向けて広げています。お父様どうか憐れみの手を差し伸べ、私たちを抱きしめて下さい。悪魔に引きずられていた姿が天に向かって両腕を広げ、叫んでおりますので、お父様、どうか私たちを抱きしめて下さい。
たとえ悪魔が支配するこの荒れた地上に生きていても、天の盾として、戦いの勇士として、天の誇りとなる子供たちとして立てて下さい。愛するお父様、切に願い求めます。
お父様、今、お父様の愛する子供達がここに集まりました。集ったこれらの子供達の心は様々な形で表れているかもしれませんが、お父様の心に似たいと切望する姿を持っています。一つの心で私達を受け入れて下さい。そして、お父様の御言葉に従い、指示に従い、天の心を証明することを許して下さい。
2
この時間、お父様が呼ばれた子供達が集まりました。世界中に広がっている敵である悪魔と戦い、押し寄せる苦難を勝利の盾で防ぎ切る力が不足しないように導いてください。奪う者の立場ではなく、与える者の立場に立たせて下さい。私一人の価値を明らかにし、お父様の栄光となることを許して下さい。お父様、切に願い求めます。
お父様、困難に疲れ、悩みに巻き込まれたお父様の愛する子供達がいます。もし、お父様が彼らを支えて下さらないならば、彼らよりも悲しい存在はこの世に存在しないでしょう。彼らが歩む一歩ごとに、彼らが身を置く環境ごとに、試練と苦難と悲しみが前に立ち塞がっています。どうか、彼らを守り、保護して下さい。
お父様が今日まで共に苦労し、共に心配して下さり、一緒に戦うことができました。彼らはお父様の苦難を受けており、お父様の涙を流しています。お父様、永遠に守って下さい。最後の勝利の領域で、勝利の喜びを持ち、すべての創造物に代わってハレルヤを歌い、ホサナの栄光をお父様の前に返し、感謝と敬意を捧げる日まで守って下さい。
今この時、お父様の許しを受けてお話しをしようとしています。誤った儀式や概念を排除し、お父様が命じられる全体的な再創造の感動的な時間となるようにして下さい。また、活気ある時間が現れるように許してください。
1956年6月27日(日)、元本部教会。
聖書拝読 マタイによる福音書22:15-22
<祈り(Ⅰ)>
愛するお父様、私達はお父様の抱擁を慕い、哀れなる者たちに同情の念を抱いて参りました。どうか、私達の身体と心を導いてくださり、私達全体をお導き下さい。私たちの心身が、お父様に喜ばれる心身であることを知ることができますよう、お許し頂ける様にお願い申し上げます。お父様の栄光と正義に賛美の歌を捧げることができる恵みの中に、この時間を過ごすことができますよう、お許し下さいませ。
愛するお父様! お父様が慕しくて集まった子ども達を憐れんでください。彼らにお父様がいない時は、哀れな者の中の哀れな者です。これら全てを主管してください。彼らの願いで彼らが実践してくれる主人公として、この時間の歴史をお与え下さる事を、愛するお父様、切に願って参りました。
この一時、散らばった私たちの心を集め、あなたの聖なる御前に供え物をささげるために、謙虚に臨みますので最初から最後まで、あなたが許可されないすべての要素を除去し、和やかであることができる要素だけを残して、全体の雰囲気を整え、私達の心を動かして頂けるよう、愛するお父様、切にお願い申し上げます。
今日、私たちの祝福を求めて集まる多くの人々がいることを知っておりますので、各地で聖なる三位一体が同じ恩寵を注いでくださるようにお願い申し上げます。終わりの日に託された全体的な使命を果たすために、私達が集まる場所ごとに、あなたの栄光を讃える人々が同じ恩寵を受けることができる時が、この民の前に早く訪れように、愛するお父様に切に願い求めます。
最初から最後まで、悪魔に奪われる時間が訪れないように許して下さい。勝利に満ちた栄光のお父様、保護して下さる様に心からお願いいたします。愛する主の御名によってお祈り致します。アーメン。
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<祈り(Ⅱ)>
愛するお父様! 何も持たない兄弟たちがお父様のひざの前に出て参ります。彼らの心情が自己中心的な心情とならないようにして下さい。天のため、お父様のために自己を中心とせず、お父様のみを尊いものとするように明らかにして下さい。お父様の摂理の御旨のために全体が献身的になされるように許して下さい。
私たちは心と体が暗い影に包まれているかわいそうな存在です。愛するお父様、どうか憐れんで下さい。力もなく、気力もない手を天に向けて広げています。お父様どうか憐れみの手を差し伸べ、私たちを抱きしめて下さい。悪魔に引きずられていた姿が天に向かって両腕を広げ、叫んでおりますので、お父様、どうか私たちを抱きしめて下さい。
たとえ悪魔が支配するこの荒れた地上に生きていても、天の盾として、戦いの勇士として、天の誇りとなる子供たちとして立てて下さい。愛するお父様、切に願い求めます。
お父様、今、お父様の愛する子供達がここに集まりました。集ったこれらの子供達の心は様々な形で表れているかもしれませんが、お父様の心に似たいと切望する姿を持っています。一つの心で私達を受け入れて下さい。そして、お父様の御言葉に従い、指示に従い、天の心を証明することを許して下さい。
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この時間、お父様が呼ばれた子供達が集まりました。世界中に広がっている敵である悪魔と戦い、押し寄せる苦難を勝利の盾で防ぎ切る力が不足しないように導いてください。奪う者の立場ではなく、与える者の立場に立たせて下さい。私一人の価値を明らかにし、お父様の栄光となることを許して下さい。お父様、切に願い求めます。
お父様、困難に疲れ、悩みに巻き込まれたお父様の愛する子供達がいます。もし、お父様が彼らを支えて下さらないならば、彼らよりも悲しい存在はこの世に存在しないでしょう。彼らが歩む一歩ごとに、彼らが身を置く環境ごとに、試練と苦難と悲しみが前に立ち塞がっています。どうか、彼らを守り、保護して下さい。
お父様が今日まで共に苦労し、共に心配して下さり、一緒に戦うことができました。彼らはお父様の苦難を受けており、お父様の涙を流しています。お父様、永遠に守って下さい。最後の勝利の領域で、勝利の喜びを持ち、すべての創造物に代わってハレルヤを歌い、ホサナの栄光をお父様の前に返し、感謝と敬意を捧げる日まで守って下さい。
今この時、お父様の許しを受けてお話しをしようとしています。誤った儀式や概念を排除し、お父様が命じられる全体的な再創造の感動的な時間となるようにして下さい。また、活気ある時間が現れるように許してください。
それ故に、私達の身も心もみな、お父様の愛に満たされて感動せずにはいられません。敬虔(けいけん)な崇拝を捧げずにはいられません。従わずにいられません。悔い改めずにはいられません。どうか、この時が許されて、天の心情を受け入れることができる時となりますように、お許し下さい。心から願い求めながら、愛する主の御名によってお祈り致しました。アーメン。
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<御言葉>
聖書の本文を中心として、今日伝えようとするタイトルは「神様の主管世界を探しましょう」です。このような内容でしばらくお話しします。神様が六日間にわたって創造されたすべてのものは、まだ神を主として祀られることない状況にとどまっていました。
これは私たちが悔い改めて信仰を持つ過程で必ず解決しなければならない運命として残っています。したがって、私たちの一人一人が天の前で誓い、勝利することができる供え物として立つことを望むなら、神様が求める主体的な復帰を完結させなければなりません。それができないならば、決して勝利の供え物となることはできません。人間の前にこのような過程が存在するのは、堕落の後に誰も望まない、悪魔が主導する世界が生じたためです。
アダムとエバを通じて喜びを共有するために万物を創造されたお父様は、アダムとエバの堕落によって創造されたすべてを失いました。アダムとエバ自身も失い、万物も失いました。そして、考えもしなかった悪魔が創造主なる神様の立場に代わって万物を支配し始めています。これが神様の悲しみであり、これまで復帰の歩みの中で神様の心に似るために天に向かって祈っていた良心的な人々や聖徒たちの悲しみとして残っています。
もし、ある創造物に彼らの願いが何であるか尋ねるとしたら、その創造物たちは何を望んでいるのかと答えるでしょうか? 彼らは、どんな存在も主体的な神様を求めていると答えるでしょう。このように、万物の存在は真の主体である神様を求めています。神様自身もよくご存じですが、神様はこのような万物を直接的に主管することはできない立場にあります。これが天の悲しみであることを皆さんは知るべきです。
現代の私たち人間は、主体的な神様を失った創造物の一部として、身体と心のどちらの希望を抱いているのでしょうか? それは、万物全体が求め、願っている通りに主管してくださっていた創造主なる神様が、再び直接的に主管してくださることです。
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今日、私たちにはこのような希望と御旨を実現する使命があり、その使命を達成するための使命を受けています。したがって、私たちは神の主権を回復しなければならず、また万物の主としての主権も回復しなければなりません。そして、神が主管してくださる恵みに感謝し、栄光を捧げなければなりません。
この責任は万物にあるわけでも、天の軍勢や天使たちにあるわけでもありません。今日の私たちには何もないように見えるかもしれませんが、この責任が私たちにあることを認識する必要があります。
そのため、私たちが一度も責任を果たさなければ、天の全体の統治権を失うことになります。本来の天を失えば、すべての創造物の希望を失うことになるのです。そのため、私たちが生活を通じて、生命を通じてその歴史的な運命を代行する責任を果たさなければ、神の前に立つことはできませんし、また創造物の前に創造物の姿として現れることもできないのです。
そして今、皆さんは被造世界全体の中心であり、同時に神の創造性を持つ、内的な世界の中心として創造された私自身が進むべき路程は、今日の私の一つにとどまるものではない事を知らなければなりません。
皆さんが天の意志のために生きる中で、自己のことだけを考えて生活するならば、神の創造的な主管はそのような行為によって中断されるでしょう。また、万物が皆さんによって主管されることを望むその希望も中断されることを、皆さんは認識する必要があります。
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そのため、今では皆さん自身が天が全体を主管する立場を代わりにし、万物の主管者としての価値を示さなければなりません。そして、あなた自身が求める存在、全体を代表する本来の主管者として立ち上がっって、「主よ、命じてください」と言うべきです。
このような立場に立つ存在は、6千年の歴史の中で現れた神の求める存在です。したがって、神の6千年の歴史の中で苦難と戦い、逆境に立ち向かい、敵である悪魔を打ち破り、人間を復帰させることが私たちの総合的な義務です。
その様に、全体を代表する私たち自身が探すべき主管性の権限について考えると、今日の私たちが具体的に何を求めるべでしょうか? 人間は堕落のために全体を主管される神を失ってしまいました。
私たちが考えなければならないのは、全体を主管し、全体の源である神を失ったということです。したがって、今日の私たちが探すべきものは、創造主である神であるということです。ですから、皆さんが神様の被造物を自分の主管とする人にならなければなりません。
それでは、今日の私達の悲しみは何ですか? 私達の悲しみは何であり、私達の嘆きは何ですか? これまでの6千年の間に復帰歴史過程に隠された 切実な願いは何だったのか。それは私が、万人が、万宇宙が、天地が失われた神を探す事でした。神様は私達が求めなければならない希望の本体であり、同時に全体の価値を代表する栄光の本体です。
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そのため、今日皆さんが神様の全体の主管性を復帰する為には、皆さん自身で神様を所有できなければなりません。神様を迎える事ができる人にならなければならないと言う事です。
では、その神様はどのような方なのでしょうか。億万万象を造られた神様であり、万物に対する全体を主管する為に復帰に投入して下さる神様である事を皆さんは知らなければなりません。したがって、今皆さんが神様を所有しているならば、その神様は皆さんの神様ですので、彼が永遠であれば皆さんも永遠になり、神様が全体の被造世界に対して主管性を持つ様になれば、皆さん自身も実体を持って神様の場に立っています。万物を主管できる様になると言う事です。そうする事ができる皆さんでなければ、皆さんは神様を所有したとは言えないでしょう。
今日、この地上の全ての悲哀と死がある様になったのは、基の神様を失ってしまった事からもたらされます。そして神様を失う事で、悪魔が主人の行為をする様になりました。人間はもともと創造原則を中心としてみると、神様を主人として祀られなければならない被造物でした。
今皆さんには愛の神様を再び所有しなければならない運命的な責任が残っています。指摘されたこの被造世界で神様を主人公として祀られなければならないその意志に反対している者は誰ですか。今日皆さんに罪悪を抱かせている悪魔と言う事です。
ですから、今皆さんが自分の心にとどまっている罪の根を抜き出し、万民に代わって今日まで6千年間天を裏切って戦ってきた悪魔を屈服させ、神様の世界を成し遂げられなければ、この地上で神様の主管的な行事をできないと言う事です。
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それでは皆さんが心で自由を探していますが、どのような自由を探していますか? 皆さんが神様を求めなければ悪魔の僕になると言う事です。したがって、皆さんが神様を所有できず、サタンを所有する事になれば、皆さんは天理原則に対抗する力になる存在なのです。これを皆さんは知る必要があります。
それでは、神様が天倫の法度を教えてくださった理由はどこにありますか? 神様を見つける事ができる方法、神様が分かる方法を教えてくれるためでした。そしてその方法を教えていただく為に摂理して出た路程が6千年の歴史路程でした。
今日皆さんは信仰によって、神様が実在している事を知っており、神様の本性が被造万物の中心の性質として現れている事を私達は誰もが全てよく知っています。ところで知っているその神様が皆さんのものにならなければならないと言う事です。皆さんが神様と永遠に絶えない関係を結ばなければならないと言う事です。
その様になれば、皆さんが東に走っても互いに走っても、南北のどこに走っても、いかなる過程にあるとしても神様が変わらない限り、皆さんが持っている神様の所有権は変更されません。皆さんがそのような場所に立つ事ができなければ、皆様に対する神様の要求と神様の願いは、それまで未完成の状態にあり、不備な立場に置かれる事になります。その様になれば、そのような私として、悪魔が讒訴する条件が残る様になり、神様の悲しみが残る様になる事を皆さんは知らなければなりません。
このような立場にある私たち人間が現代において行うべきことは何でしょうか? まず最初に、悪魔の誹謗中傷から離れなければなりません。そして、あなたが実際に神の子であり、神様を所有する資格があり、神様と一体となった関係を持つ神の子であるとイエス様と同じく証しを受けることができる日を迎えなければなりません。もしもそのような日に戻ることができなければ、全創造物を支配する神の前で、皆さんは創造物の主役として立つことはできないことを理解しなければなりません。
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人間は堕落によって神を失った同時に、何を失ったのでしょうか? それは創造本来の本性を失ったということです。そして、自己分析すると、神様を失ったと同時に本来の心を失ってしまったということです。皆さんが意識するべきことは、自分自身の心を主管する事です。自分自身の心を思い通りにできないならば、皆さんは神様を所有することもできず、神様もまた皆さんとの関係を持つことができません。
皆さんの心が神様と永遠の相対基準を造成するとき、皆さんは神様を所有する事ができ、神様は皆さんの心を自由に主管されます。ですから、神様とイエス様の心が一つになる様に、今日皆さんがイエス様の心と一つになり、神様の心と一体的な関係を成した立場に立たなければなりません。もしそのような立場に立つ事ができなければ、皆さんのそのような心にはサタンの惨訴条件が残る様になるのです。
もともと人間は、神様が求められる御心の中で、私の心が望む目的どおりに生き、神様の全体的な理念に代わる事によって、第二の神様の立場に立たなければならなかったのです。しかし人間はそのような本性の心を堕落によって失う事で、今日人間達は憂いながらこの本性の心を求めなければならない条件として、悲しい運命の路程を歩かなければならない条件が残る様になったと言う事です。
ですから、私達はイエス・キリストを通して自分の心を取り戻さなければなりません。そうして、悲しみに惹かれている心ですが、天の願いを成そうとする時に新しい心を起こし、暗闇を乗り越える事ができる本性の心を立てなければならないと言う事です。それで天上におられる神様の心情を通じて死亡権に包まれた人間達の心まで関係を結び、起き上がれる心の形を見つけて立てなければなりません。そのような皆さんにならなければ,皆さんは神様が永遠に所有する事ができる心を持たない事を知って悔い改めもしなければなりません。
私達が神様に対して誠心を尽くすにあたっては、ある特定の時にだけ真心を尽くす生活をしてはいけません。神様が変わらないこの上、皆さんが自分の生涯路程において天に対して変わらない不変の心情で立てなければならないと言う事、つまり悪魔のいかなる条件でも侵犯できない心の土台を立てなければならないと言う事です。それが今後は不変の体系で立てられなければならないでしょう。
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今、皆さんが神様に誇りを持てる心を持っていないとするならば、神様が皆さんに対して憐れむことができない立場に立っていることを理解する必要があります。
今、人間がこの本性の心を探す事によって全体の主管権を復帰する事になるときには、万物の中のどんな存在物でもその心の働きを通して命じられる権限が立てられる様になりますが、誰もまだこのような心の主管を完成できません。
また、まだ神様がお望みの様に、人間が神様の代わりに体系的な権限を立てて行動する事ができない寂しい立場にとどまっています。そうする振る舞いは、人間がとどまっているだけに悪魔が楽しむ舞台を残す事になると言う事です。そして、神様の悲しみの条件として残るというのです。これを皆さんは知る必要があります。
天地の理は、二つが合わなければ一つになる原則を、あるいは一つの新しいものを作り出す事はできません。それでは、神が4千年にわたって準備して送られたイエス・キリストを通して成し遂げようとされた願いは何でしたか。4千年の歴史過程を経てきても誰も失われた神様を所有した人がいません。人間が彼を通して失われた神様を所有できる事を望んだのです。
ですから、神様を所有した者として完結されて立てられた方が誰だったのかというと、まさにイエス様でした。また、人間世界において人間の心に代わって神様の心情の外的部分に代わる形をとった存在、霊界の無形世界と実体的な世界において万物を主管できる存在として送られた方がイエス様だったというです。
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イエス様が来られてから2千年が経過していますが、今どのような民族、いかなる種族、いかなる個人であっても、彼らが栄光の条件として持たなければならないのは何ですか。それはまさに神を所有する事です。そのような人が現れるのがイエス様が望まれた事であり、イエス様を送られた神様の願いである事を皆さんは知らなければなりません。
イエス様はこの地上に来て神様を所有し、さらに彼の心が人間と相対基準を造成する事によって、彼の体は神様の体の身代りなのです。 神様の心を所有し、万物を所有できる基準を立てて現れたイエス様は、その体が原則的な所有権を持って現れたので、彼が現れた日は天倫に代わる神様の日であったと言う事です。
それでは、今日の聖徒達がイエス様を信じて神様を知り、神様の全体的な所有権、不変の所有権を持つ為にはどの様にすべきでしょうか。その所有権を中心とした価値的な基準と皆さんの心が結合し、イエス・キリストが地上に残して行かれた、肉身を中心とした全体的な所有権の価値を全天上天下に表わさなければなりません。そのような日が来る事を望む事が今日の再臨思想である事を皆さんは知る必要があります。
それでは、この地上に再臨主が来て為すべき使命は何ですか? 終わりの日のクリスチャンが果たすべき最後の目的は何ですか?キリストの信徒達がどんな心で神を所有していたのか、皆さんが自分の心を所有したとしても、一つの 条件が残っているので、それは体を自分のものとして所有できなかったのです。ですから、今皆さんが体の所有権を終結させ、神様の愛の実体、神様の本性を実証できる実体として現れなければなりません。そのような存在はどの年に現れるのでしょうか?そのような存在を探し出す為にイエス・キリストが来られた事を皆さんは知っておく必要があります。
その為にイエス様が行った後、この地上に聖霊を送られました。ですから、今皆さんがイエス様が持っていた心の主管性と神様の全体主管性と一つになり、自分の所有権と神様の所有権と一つになって現れるので、自分の体が聖なる価値を示さなければなりません。ところが、霊が分離されたため、実体的な価値を示さなかったのですが、イエスの心情的な部分と、神様と一つの価値観となる聖霊が現れた事を皆さんは知らなければなりません。
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ですから、4千年の歴史が何だったのかというと、人間が持つ事ができる心の所有権を天的な本来の所有権に転換させる事でした。これはそれほど難しくありません。しかし、その認識を通じて身体から完結させ、その認識の価値を相対的な価値で表わそうとするのが摂理路程での困難さである事を知らなければなりません。
この為に、イエス様自身は33年の生涯を通して神様を所有し、その心を所有していましたが、まだ2千年の歴史の中で悪魔の讒訴圏を抜け出せずにいます。まだ悪魔の認定試験を受けて完全な席に立っていないと言う事です。いくらイエス様であっても、いくら聖霊と言っても、イエス様は霊界で悪魔の讒訴を受けており、聖霊は肉界からサタンの讒訴を受けていると言う事です。
これは人間が肉的に創造の原則である3段階基準を超えない過程が残っているので、悪魔が今日までイエス様に対して戦う事ができる条件を持っているのです。これを皆さんは知らなければなりません。また皆さんは、イエス様が30年余りの生涯を通して心情的な面では神様を所有していましたが、肉体的な面では神様を所有できなかったため、まだ私達の体を神様が主管していない事を知らなければなりません。
今日、人間は信仰路程において自分の体を打つべき立場に置かれています。それでは、体を打つのは何のためか? 体を打つのは悪魔を取り除こうと言う事です。さらに、この体を誰が占領できるかというと、聖霊が占領する事ができます。それで私達が体を打つのは、聖霊が体を占領させるための条件でもあるのです。私の体を打つのは、結果的に悪魔を打つ事になるので、私の体を打って悪魔を叩き、悪魔が占領したのを代わりに聖霊が占領させようと言う事です。でれで神様を所有でき、本来の良心を所有でき、体を所有できると言う事です。その時、そこから初めて天上天下の全ての万物に代わる永遠不変な一つの所有権を初めて完結させたといえる価値を取り戻す事になるのです。
したがって、そのような境地を見つけられないと、皆さんは自分の体を打ったとは言えません。それを探せれば、皆さんは悪魔の邪魔できない全体の主管的な基準を立てて、神様の代わりに栄光を受ける事ができるのです。また、このような意志があったので、イエス様は亡くなって以来、これまでも働いておられ、神様も苦しんでいる歴史もあるのです。ですから、霊肉を持ったどんな人、悪魔圏内にいる人でも、聖霊が占領できるその日を願って摂理してきたのがイエス様以来、神様の寛大な2千年摂理歴史だったのです 。
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今、この内容に基づいて私たちは私たちの過去を振り返る必要があります。神を所有する権利が残っている限り、自分自身を所有する権利が残っている限り、主体としておられるお父様の悲しみが残っています。したがって、神様と被造世界にあるその悲しみが、皆さんに起因するものであると考える時、今日、皆さんは自身の罪を悔い改めなければなりません。
自分が犯した罪に悔い改めることは、自己の心の価値を見つけるためのものです。全体の主管主である神様を所有していると言えるような、そのような価値ある悔い改めをしなければなりません。
そして今まで信仰する聖徒達が自分の体を打つ生活をしてきたのですが、霊的にそうではないはずです。体を打つ目的は、聖霊にその体を占領させ、体が神様の愛を受ける様にしようと言う事です。そうする責任がある事を今日、キリスト教徒は忘却しています。2千年間これを忘却しています。肉の愛が道外視された中で、霊の愛は完全ではありません。
なぜなら、神様と心が一つになり、心と体が一つになれば、体は自然に動き、心と体が神様を中心とし、完全にやりとりする上で発展するのが天理原則だからです。相対的な基準を造成し、互いに一つになってよく与え、よく受ける受受作用がなされるところでは、実証的な一つの実体が創造されるのが創造の法です、そう完全なのです。
神様が万物を創造する様になった原因がどこにあるのかというと、神様自身が喜ばれるためでした。人間の心と神の心が一つになる事ができるその関係を成し遂げる為に実践を尽くすときには、神と一つになり、さらには地上の人間と一つになれる基準を持つ様になるので、地上に天の摂理が新たに展開されるのです。したがって、今日皆さん一人においても心と体が一つになって聖霊と縁を結ぶ様になる時、神様の勝利的な全体主管性を復帰できる事を皆さんは知らなければなりません。
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今知ってみると、神様の御心に向かって進むに当たっては一つの方向だけがあるのではありませんでした。前後左右四方です。ところが今日、人間には悪魔に向かう方向だけが残っています。だから皆さんが心が主管できる体を見つけようとしても、また皆さんの体の心が縦的な面を備え、横向きの面を揃えようとしても四方に悪魔がいて、さらに前後左右上下6方向で悪魔が闇の幕屋を打って遮っていると言う事です。
ですから、今皆さんは悪魔の幕屋を突き抜け、私が自分自身を立れば、神様は永遠の私の所有です、私の心は神様の所有です。自分を万物の前にさらす事ができなければなりません。天上と地上で三位神が共同で探しているこの一つの実体が出て来なければなりません。
これらの価値のある存在、聖霊が彼に臨む事ができ、イエス様が臨む事でき、神が臨む事ができる価値のある存在がこの創造の世界のどこにありますか。その一つの存在が神様が6千年間にわたって惜しみなく望まれた実体です。
ですから、そのような価値のある存在がこの地上に現れれば、神様はそれに対していかなる不備な条件も許さないでしょう。悪魔でも、神様までも彼を掴み、慰めの涙を流します。したがって、今日私達は私の存在目的がどの環境にあるのかを知る必要があります。皆さんは、このような全体的な責任権内にある皆さん自身を無視してはならず、そのような大きな責任を痛感しなければなりません。
今、私たちが神様を心の中に所有すると言えるのであれば、私たち自身の心を永遠の中心として確立することができると言えるでしょう。また、私たち自身が永遠の命を形成できる存在として完全に所有されていると言えるのであれば、東に行こうが西に行こうが南に行こうが北に行こうが、方向は問題ではありません。あなたがたが滞在する場所ならば、そこには勝利のホサナの声が響くでしょう。すべての創造物は、あなたがたが光栄において神の御子であることを確信しています。これによって、自然の従属の立場が生じるのです。これを理解する必要があるでしょう。
そして今日、そのような事が一部だけに現れてはならず、全体に現れなければなりません。ところが、まだ全体の主管権に代わる人間として原則的な所有の問題を全て終結させ、その価値の栄光を備え、万物の前に現れた存在がないため、そのような一人の存在になる事が皆さんの願いとして残っているのです。
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このような立場に置かれた人間に一緒にいて、私も悲しみ、皆さんも悲しみ、神様も悲しむのです。 今日、私達がそのような価値を持った立場で万物万象に代わって、全体に代わって天の栄光を備え、神様の前にホサナの栄光を返さなければなりません。そんな時に初めて天上にいる天軍天使と千千万聖徒達が喜びの一日を迎える様になり、さらに私達は神様の前に栄光を返す様になるのです。このような事が完結しなければ、このための道を人間は億千万年でも行かなければなりません。
まだこれを完結させていません。それでは、これは誰の為にそうなりましたか? これはもちろん、私が不完全で、自分自身が悪くてそうでもありますが、私よりも天に対して懇願する悪魔がいて、そうなった事を皆さんは知らなければなりません。
全体の主人、全体の主管主になる方がいらっしゃったら、その方一人で宇宙万象を主管できたら、彼が全体の復帰を完成できなかったとしても大丈夫です。全体的な力を利用して集中的に新しい事ができると言う事です。この様に、神様は全体の働きを一つの方向に出て行く様に導こうとされましたが、悪魔がいたので、その事を全て完結させる事ができませんでした。
それで、神様はその悪魔を無条件に屈服させる為に、また完成する事ができずに行った天上の全ての霊人達が完成の場に進む事ができる賜物を下さる為に一人を送る事を約束されました。
それでは、皆さんが神様の栄光を求めるべき立場に立っている事を考えるとき、今私が持っているべき事は何ですか? もともと人間に対する天の理想は、天の所有権、心の所有権、体の所有権を持つ事でした。したがって、皆さんがそのような理想圏に進まなかった場合、皆さんは悪の所有権と善の所有権を見る事ができるという目を持っているはずです。また、そのような目を持っていたら、次は善の所有権と悪の所有権を分別して聞く事ができる耳を持たなければなりません。さらに、そのような五感を全て持っていなければなりません。
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ところが皆さんが一日の生活において悪魔が近づく事を防ぐ事ができる自分にならなければ、皆さんは再臨主が来られても分からなくなります。 皆さんは「再臨主」と聞くと、うっとりして喜びますね。喜びの理由は何でしょうか? イエス・キリストはイスラエルの人々、具体的にはパリサイ人や祭司たちには直接見えませんでした。ローマの兵士たちも彼を見ることができず、反対していた人々も彼を見ることはありませんでした。自分の心と心が通い、体が通じて全体を代表する価値基準が確立された人だけがイエス様を見たのです。見ることや聞くことは、人間の自己の心性による一面があるのです。
ですから、今や皆さんは人々の前で正義と価値を持つべきです。しかし、肉体はそれに反対します。それが悪魔の本質です。ですから、秘密裏に、他の人が知らない中で神様を所有している人、他の人が知らない中で本来の心を持っている人、そんな人はどこにいますか? そのような人を求める者は、永遠なる神様が共にいてくださるでしょう。
ですから、現代の私たちは、悪の主管圏と善の主管圏を見極めることができるようにならなければなりません。それらを心と身体で見極めるだけでなく、深く考えずに見極めることが出来る様になる事が必要です。したがって、皆さんが天の価値を理解しなければ、イエス様とはまったく関係がありません。ですから、悪魔の全てを見極めることが必要です。天と地に残された悪のあらゆる主観的要素を見極めることができない人は、神の前で勝利的な完全条件を築くことができないということです。
もしも皆さんがそのような条件を築くことができるなら、この地上で苦しみはなくなるでしょう。神を所有する人として、心はキリストに固守され、体は聖霊によって保持されるからです。これまでは、精神的な領域に関する探求の過程で、身体の苦痛が共存していました。身体は苦痛を経験しました。心と体が分裂していたのです。
しかし、現在ではそれが統合され、霊的な領域が肉体の領域を探求し、肉体の領域が霊的な領域を探求する様に相互に統合し進展しています。さらに、父なる神、御子、聖霊が共に働いています。ですから、今や皆さんはこのような状況でイエス様の前で崇拝できるだけでなく、聖霊の前で崇拝できるだけでなく、神様の前で崇拝する存在自体とならなければなりません。
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さらに、皆さんは生涯を通じて信仰において体験して理解するために、分別された原則に基づいた規範を確立し、創造物の前で永遠を代表し不変の勝利者として誇る基準を確立しなければなりません。そのような基準を確立できなければ、この地上に悲しみの条件が残ることになります。そして、悲しみの条件が残っている限り、天に行っても神の内なる心を見出すことは困難です。ですから、皆さんは心的なイエス様と聖霊を通して生命体として現れ、神の栄光の実体として現れなければなりません。その時に初めて皆さんは信仰の実体となるでしょう。
ですから、今や皆さんが三位一体の協力なしにその使命を代行できる栄光の存在として復帰したと言えるなら、この天地が運行する法則と同様に喜びに満ちた心が皆さん全体を支配するでしょう。そのような生活は一瞬ではなく、永遠に続ける必要があります。そして、父は私のものであり、主は私のものであり、聖霊も私のものであり、私自身も私のものであると言いながら、万物の前で堂々とその主管者として立ち上がることができなければなりません。さらに、天に向かって「おお、お父様! ありがとう御座います」と言えるようになるべきです。
天地の運命に関しては相反する存在はありません。人間は創造主の全体的な理念を代表し、創造主の主管者を代表できる存在として立てられています。したがって、心と体が存在する限り、これらの関係から逸脱する存在はありません。ですから、皆さんはこの地上で天上の全てと関係を持つことができる主管者としての世界を形成する必要があり、それによって神の栄光を表現することができることを心に留めておかなければなりません。
<祈り>
愛するお父様、私たちに残された運命の道がこれほど複雑で山高く、谷深いものであることを知った時、今日の私たちの信仰の範囲は非常に狭いことに気付かされます。私たちはあまりにも狭く、消極的で、意気消沈してこの道をたどってきたことを、お父様の前で懺悔(ざんげ)せざるを得ません。
お父様、この日、この時から天の法則を導かれるお父様の前で主管権を受けることをお許しください。お父様の姿を見ることができるように、お父様、憐れみを与えてください。イエス様、私たちを守ってください。聖霊よ、臨んでください。この地上のすべてのものを代表するに足る形で、自然に善悪を判断できる本来の実体として備えてください。私のお父様、熱望し求めます。
17
今夜集まったお父様の子供達に、お父様、今こそ自己という概念を忘れさせてください。そして、私たちの体から悪魔の所有権を取り除くことを許してください。それによって、私たちの心から神様だけを所有し、神様だけを呼び、神様だけを誇ることができる、万物に対する不変の個性体として復帰させてください。
ですので、私たちがお父様に栄光を帰し奉るとき、万物は歌い、天にいる数え切れない聖人たちも歌い、一つの叫び声、一つの呼び声、感謝、感謝のハレルヤが天上に一斉に現れるでしょう。悪魔が自然に従うことを知っているので、勝利を勝ち取れるように、お父様、導いてください。
お父様の全体的な主管権を私たちの実体で完結させるように、許可してください。私たちが代わりに立って、建てられた勝利のホサナの旗印を父の前で高らかに宣言できるように、許可してください。万物が響く中で、天を代表する勝利の子供たちが証しの主人公となれるように、許可してください。お父様、熱望し求めると共に、すべての御言葉を主の御名によってお祈り求め申し上げます。アーメン。
文鮮明先生御言葉選集 1 - 9. 根付いた者の責任(1956年7月1日)
1956年7月1日(日)、元本部教会。
聖書拝読 創世記18:22-19:12、イザヤ6:11-13
<祈り(Ⅰ)>
愛するお父様! ここに集まった子供たちの心情を知って下さる様に願っております。彼らの身体の細胞一つ一つまで、慈悲深いお父様に向かって動かして頂けるようにお願い致します。
この一人一人の身体と心が、お父様の主管される愛の手に捕らえられるようにお許し下さい。彼らを全体の調和の要素として表現し、お父様の御言葉を証明するために、命を捧げて走り回る天の勇士たちとしてこの時を聖なるものにして下さい。
18
お父様、ここに集まったお父様の子供達を慈悲深くお守り下さい。私たちはお父様が許される生命の御言葉に頼らなければならない運命の復帰の道が残っていることを知っております。愛のお父様、愛の手を伸ばして、私たちの弱い手を握りしめ、導いてください。私達は身も心も結びついていますので、お父様、私たちを抱きしめ、導いて下さい。私達の心を天の心に変えて下さるようお許し下さい。切望し、願っております。
本日ここに集った多くの人々をお父様、祝福して下さい。神様の生命の歴史、感動の歴史、復活の歴史が現れるようにお許し下さい。今日、私達が持っているこの世のあらゆる概念をお父様の前に捧げ、柔和で謙虚な子供の心情を持ってお父様の前に立ちました。お父様、恵みの御手で再創造の歴史を起こして下さい。聖霊の炎を示して下さい。隠されていた愛を現して、彼らが最後に行き詰まっていた死の権限の扉を開き、お父様の勝利の栄光を示すことができるようにお許し下さい。愛するお父様、切望し、願っております。
今は多くの御言葉が必要ではないことを知っております。ここに集まった子供たちが多くの御言葉を受け取っていなくても、お許し頂いた御心の祝福を適切に受け入れ、それに応えることができるようにして下さい。父なるお父様、お許し頂いた約束の御旨を成し遂げるために、天に向かってこの時を約束し、決意しましたからそれぞれの器を満たして下さい。私たちをあなたの満足される御心によって感謝し、あなたに栄光を帰すことができる聖なる子供達として立てて下さい。あなたが愛される子供たちとして、この時に許される恵みをお与え下さい。父なるお父様、切望し願っております。
伝える者の心と受ける者の心を一つに結びつけて下さい。私達の心が天の心に共鳴し、私たちの身体が天の動きに合わせて動き、心から体現される父なるお父様の姿を学び、似ることを許して下さい。切望し、願っております。残された時間もお父様の御言葉で働いて下さるよう願いながら、愛される主の御名によってお祈り致しました。アーメン。
<祈り(Ⅱ)>
許されたこの日、お父様の前に崇拝する為に参りましたので、ここに集まった個々人の心霊を洞察して下さり、傷のない心として下さい。この時間に捧げる崇拝が、お父様の愛深き心情を慰める事ができる崇拝になる事をお許し下さい。切にお願い申し上げます。
19
お父様! 子ども達を集められたのも、お父様であることを知っております。そして彼らを導き、命の権利の中で活動できるようにすることも、お父様の御業であると知っております。お父様が約束された聖霊の炎を許され、個々の体と心が躍動し、全体の喜びとして現れるために不足がないようお支え下さい。お父様が求められた神聖な全体がこの時に明らかになることを許されますように、愛するお父様、熱望しております。
お父様、ここに集まった子ども達の上に憐れみの愛を下さる様にして下さい。天の栄光に向けて全体の心が傾く様に聖霊の働きとして成して下さい。そうして私達全員が民族に代わって、人類に代わって天上天下の全被造万物に代わって至聖所の扉を開き、お父様の前に近づいて、勝利の頂上の供え物を差し上げる事ができる崇拝の時間として下さい。
そうして私達の崇拝をして、この民族がお父様の前に近づける事を許して下さる様に切にお願い申し上げます。 この時、民族を代表して天の前に心を込めた祭壇が各地に広がっていることを知っております。どの場所であろうとも、同じ祝福を注いでください。そして終わりの時に予告された全体の歴史を踏まえ、お父様がこの民族を通じて確立すべき全体の御意を知って、この民族が証明する使命を通じてお父様が喜ばれる基盤を築いて下さい。お父様、切望し願っております。
今、この時を迎え、全身全霊を以てお父様に敬意を表し、従順な心をお父様の前に捧げます。お約束に基づき、この集まりの中で成し遂げられるすべての御意志を、彼らに明確に示して下さい。切望し願っております。 聖なる三位一体の歴史が全体の上に満ちることを願いながら、主の御名によってお祈り致しました。アーメン。
<御言葉>
この時間は皆さんに「根付いた者達の責任」というメッセージを伝えます。イザヤ書6章11節以下の聖書の言葉を見ると、「もしこの中に十分の一が残されても、それも焼かれてなくなるでしょう。しかし、柏や樫の木が切り倒されても、その根が地に残るように、聖なる種はこの地の根です」と書かれています。ここでは神様は、残された根があるなら、その根を通じて新しい芽を芽吹かせ、新たな歴史を始められると繰り返し述べられています。
20
人間の先祖であるアダムとエバは、天地の永遠に変わらない一つの根として人間の全体の希望と理想を成し遂げなければならなかったのですが、できなかった事で、その根本の根が打たれて抜かれて悪魔の世界に移された事を皆さんはよく知っています。
従って、神の摂理の意味を受け入れて歴史の進行に従事してきた多くの先人達は、天の計画についてはよく知らなかったかもしれませんが、彼らが努力してきたのは、摂理の目的として失われた根を不変の実体として迎え入れるための基盤を築くことでした。
ですから、摂理の御意を受け入れてきた歴史過程の数々の先烈達も、天倫の事情はよく分からなかったが、彼らがその意志に対して苦労してきたのは、摂理の目的として成し遂げなければならないその失われた根を不変の実体に迎えるための土台を築いて来たのです。
そうして摂理歴史を始めてから4千年が経過する中で、エデンの園で失われたその根を再び探し立てる為に立てられた方が誰だったかというと、皆さんが信じているイエス・キリストでした。
ですから、この地に来られたイエス・キリストの使命は、神様が永遠に残る根として受けとり、この根を根拠として摂理展開する事ができる一つのブドウ園のような形を堕落した地上に再建する事でした。これがまさにこの地にイエス・キリストを送られた神様の目的でした。
21
天の摂理が出発してから4千年が経過してイエス様が現れるまでは、数多くの預言者達が天の御心を中心にして涙を流す苦労の道があった事を皆さんは知らなければなりません。
すなわち、種族を代表した摂理の意味もあり、民族と国家、世界に代わる摂理の意味もあり、歴史に代わる摂理の意味もあったが、その種族と歴史を中心とした摂理の御意に代わるその一地域であれば地域、環境であれば環境を経て、根の要素になる事ができる数多くの先知先列達の苦労があった事を皆さんは忘れてはいけません。
そして、個人として建てられる根を完結させ、民族として建てられる根を完結させ、さらに世界として建てられる根まで完結させる実体として送られたのがイエス様でした。
今日イエス様を信じている私達が知っておくべき事は、イエス様の30余年の生涯のその苦労と亡くなって以来、これまでの2千年の歴史の全ての苦労は世界を代表して苦労したと言う事です。そして、イエス様が完成した一つの根として、神様の前に建てられるまで、その背後に隠された根として、歴史の難しい摂理を代行し、悪魔と戦ってきた先知先列達の苦労を皆さんが知らなければなりません。
イエス様がこの様に一つの完成した存在として立てられた歴史的な背後の存在が誰だったのかというと、アブラハムでした。 アブラハムは他人が気づかない環境の中で、つまり悪魔圏内の敵の国に捕らえられ、天倫の御意を裏切る事ができる立場でも、天を裏切らなかった隠れた人格の所有者だったのです。この様に隠された根のようなアブラハムは、時代が悪く、歴史が混乱し、環境が乱れたとしても、そのような全ての境遇を避けずに克服していきました。
22
たとえ悪しく邪悪なものであっても、人間は自分が持っているものを誇ることを欲する傾向があります。アブラハムは長い時間をかけて神の御意志を受け入れるために、心に約束された偉大な目的を持ちながらも、この事実を明らかにせず、ただ一つの根として希望の中で立ち上がりました。彼はどんな迫害や苦難の中でも、詰(なじ)られても引き抜かれようとも、揺るぎない基準を築くためにあらゆる試練を乗り越え、隠れた努力の人生を生きていました。
アブラハムは、彼自身の唯一の神への不変の期待を天に立てるだけでなく、彼の犠牲的な生活がまかれた種として、全世界の人々を超えて、邪悪な民族ですら天に立ち返ることができる環境の中で、不変の期待を持つ日が来る時までこの基準を守り、変わることなく持ち続けるという熱い思いを抱いていました。
ソドムとゴモラの町は、神から審判の罰を受けるべき場所であり、アブラハムがいる場所とは関係のない地域でした。しかし、アブラハムはソドムとゴモラの町が天の意志を知ろうと知るまいと、その民が滅びようともなんの関係もない人ではありませんでした。彼は天の前で使命感を持ち、それに耐えなければならない責任を感じたからこそ、昼も夜もソドムとゴモラの町について心を痛め、憂いました。聖書に書かれた言葉は、アブラハムの内面の思いが表れています。
今日、6千年の歴史の終わりにあたる今日、皆さんが快適な睡眠をとり、良い服を着て、美味しい食べ物を食べることは、皆さんが優れているからではありません。もしそう思っているならば大変なことになります。
今日、世界がこんなにも栄えていくのは、皆さんが知らない人達が背後で隠れた根となって、涙の懇願の祭壇を築いているからです。皆さんはこれらの事実を全ての人に知らせるべき使命があります。
23
もしソドムとコモラの町中にアブラハムの切実な祈りが天上に通じて神様と一問一答しているという事実を知る群れがあったなら、またその群れの中でアブラハムを知る義人が何人もいたら、アブラハムは天の前に切に訴えてソドムとゴモラに降りる審判を免除できる条件を提示したでしょう。義人が数人でもいたら、アブラハムはソドムとゴモラ城がどんなに悪いとしても、「そこには義人がいる事を条件として公義で判断され、裁かれるお父様であって、義人と悪人を一緒に火で審判する事はお父様のされる事ですか?」 と呼びかけられたはずです。
しかし、自分自身だけが、自分だけがソドム・ゴモラを代表して祈る事になる事を感じたとき、アブラハムの悲しみがなんとも言えず大きかった事を皆さんが知っておくべきです。 それでは、アブラムがアブラハムになった原因がどこにあるのかを知っています か?
アブラハムには神様の幸福,神様の安寧を世話するよりも,種族の為に命をかけて訴えた隠れた基準があったという事実を皆さんが忘れてはなりません。
イエス様が信仰の実体として現れたのは、アブラハムのような方が天の摂理の前に建てられ、地上に現れなかった隠れた根の役割を果たしたからです。言い換えれば、摂理歴史の過程で他の全てが崩れたとしても、天上に対して永遠に変わらない不変の信仰を実証できるアブラハムのような方があり、信仰の根の役割を果たす事によって、その実績の上でイエス・キリストが誕生する事ができた事を知らなければなりません。
アブラム(大叔父という意味)の個人的な立場から、信仰の祖先となることが決定されたアブラハム(国の父という意味)自体よりも、彼が他人に知られていない大変な苦労の道を経験したとすれば、私たちは今日の歴史を振り返り、私とアブラハムを一対一の立場で比較し、自己反省しなければなりません。そして、アブラハムの立場を思いやることが必要です。
24
アブラハムがソドムとゴモラの町に対して隠れた祭壇を築いたように、自分たちが住む地域とそこに住む人々に対して切望し、祈りを捧げるアブラハムの燃えるような心情を、皆さん自身も持つべきです。アブラハムの努力によって築かれた信仰の希望や、隠れたルーツと同じ基準を、皆さん自身が受け継がなければならないことを、絶対に忘れてはいけません。
信仰の祖先であるアブラハムの家族は祝福の約束を受けました。この約束はイサク、ヤコブを経て、モーセを通じて民族的な形態を成し、そしてイエス様を通じて世界的な範囲に拡大されました。もしアブラハムが天に向かって真摯な忠誠心と信仰を持っていなければ、この地上に天との繋がりを築くことができる関係は存在しなかったでしょう。
今日、人々は自分にとって良いことがあると、それを示そうとします。それを公にし、自慢したいと思います。しかし、これらを公にし、他人に知らせようとする人々は、一つの枝のような責任を果たせるかもしれませんが、一つの根としての責任を果たせないということです。
アブラハムが信仰の祖先となることができた隠れた鍵は何だったのでしょうか? それはただ天に向かって熱望する心と、地上のことに情熱を注ぐ心が極めて強かったからです。それによって天の父との広く深い関係の礎を築くことができ、信仰の祖先となることができたのです。
モーセもそうです。モーセ自身が民族の前に立てられるまでは、当に一つの隠れた根として過ごした宮中での40年の苦労の期間があったのです。モーセは豪華絢爛な宮中にとどまっている間でも、演劇をみて食べて歓喜にあふれる生活をしなかったのです。彼が宮中にとどまっている間、一日中観て、食べて、着て、寝ているその生活のいずれかの瞬間においても、イスラエル民族を心配しなかった事はありませんでした。
25
エジプトにいたイスラエル民族の中で、モーセ一人だけがその民族だと知っていたのかは分かりませんが、天に向かった忠誠心は変わらなかったのです。
モーセは敵対する者の中にありながらも不変の核として、自分を制し、天の意志に向けた彼自身の心を阻む何かがあったとしても変わらないと誓いました。モーセには天に対する不変の気持ちと熱意があり、それは40年間の経験によって培われました。それが彼が後に民族への愛の力が爆発することができた理由です。
皆様にとって、モーセは勇ましい人物に見えるかもしれませんが、実際にはそうではありません。エジプトの人々とイスラエルの人々が争っているのを見て、エジプトの人間を殺す決心をしたモーセの意志は、その瞬間に衝撃的に生じたものではありませんでした。
その光景を目にしたとき、モーセは40年間にわたり心の内に秘めた悲しみが爆発し、民族のために神に向かって嘆願していた内的な悲しみの感情が溢れ出たのです。つまり、イスラエルの選民が不当な扱いを受けるのを見て、抑えられない憤りが湧き上がり、エジプトの人々を攻撃したのです。これは、イスラエル民族への愛とエジプト人への憤りが、モーセの行動の内的な原因であったことを意味します。そして、そのようなモーセの行動には神意が含まれていたのです。
モーセが憤りに負けてエジプト人を殺したのは、イスラエル民族の運命を心配し責任を負っていた立場から行ったものであり、それはエジプト人がイスラエル民族に対して行った迫害と比べれば些細なものであったため、神は民族のために心配するモーセを民族の指導者として立てられたのです。しかし、イスラエル民族はモーセを誤解し、エジプト人を殺したことを暴露したため、モーセは自分の行動がばれてしまったことを知り、避難するしかなく、ミディアンの荒野に身を隠すこととなったのです。
26
ミディアンの荒野で生活していたモーセは、かつて豪華な宮廷で贅沢に暮らしていたことを恥ずかしく思い、王の娘が自分のためにあらゆる要求を叶えてくれる自由な環境で過ごした昔の栄光を完全に忘れました。そして、モーセは羊飼いの姿で羊を追い、名もない牧羊者としての身分でしたが、その羊を見つめながら、かつての先祖アブラハムによって約束されたカナンの地を懐かしく思いました。
今は羊を追いながら歩んでいるが、いつかは羊を導くように民族をカナンの地に導くという使命感を持ち、天に向かって訴えるモーセでした。モーセは食べることも飢えることも眠ることも目覚めることも惜しまず、そのすべての情熱を注いで、アブラハムがソドムとゴモラの人々のために知らない間に祈りを捧げたように、民族のために心配し祈りました。
モーセはエジプトの迫害と苦難の中でイスラエル民族が受ける困難を目にすると、骨が溶けるような悲しみを感じ、天に向かって「主よ、私を見てこの民族をあわれんでください。」と訴えました。そのため、神はこのような訴えの真摯な心を持つモーセを60万の大衆をエジプトの地から導き出す指導者とし、他人には何もないように見えるミディアンの荒野で一人の牧人として生活していたモーセに、先祖から受け継いだ隠された起源の使命を継承させ、民族の代表者としました。そして、イスラエル民族がこのようなモーセと一体となり、カナンの地に進入することができるようになったのです。
モーセが天から許された約束を受けて、エジプトの宮廷に入って行くことになった時、彼は喜びに満たされました。しかし、モーセは決してその喜びに満足していませんでした。彼は自分の民をカナンの地に導くために、生涯を捧げると天に訴えたその意志が実現し、民の道を切り開くことになりましたが、そのような喜びに満足しているだけではなく、これからは第二の責任を忠実に果たす使命感と責任感を持つようになりました。
その時から、モーセは自分を中心に置かず、小さなことでも大きなことでも、どんな一つの仕事であっても神との結びつきなしには行いませんでした。
27
こうして、モーセは邪悪なエジプトの宮廷に入り、彼らの神の前で10回以上の奇跡と神迹を行い、イスラエルの民を険しい荒野から導き出すことになりました。イスラエル民族はモーセと一体とならなければなりませんでした。
つまり険しい荒野から自由な環境への脱出を果たしたイスラエル民族は、カナンの豊かさへ向かうためには、モーセの心が彼らの心そのものでなければならなかったのです。彼らは自分たちをエジプトの宮廷から救い出してくれたモーセと心を一つにする必要がありました。しかし彼らはモーセと一体となることができず、天意に反する道をたどることで滅亡する結果となりました。では、彼らがこうして滅亡する原因は何処にあったのでしょうか?
彼らは、モーセが民族の指導者となる過程で天に訴えた隠れた熱意の基盤を知らなかったのです。そして、彼らはモーセが彼らを導いて熱心に脱出したその日から、さまざまな困難に直面しながらも、自分たちのために尽力し苦労したモーセの努力と苦労を認めませんでした。そのため、彼らとモーセは荒野で分かれ、結局、彼らは荒野で倒れる運命に瀕しました。
こうして、イスラエル民族がモーセに対して不信感を抱いていた歴史的事実は、今日の終末の聖徒たちにも再び現れています。 イエス・キリストがこの地上に来て30余年の命を人類の為に苦しみ、亡くなって以来2千年間、人間を求めてくださり、愛と賜物として働かせてくださったにもかかわらず、人間はそのようなイエス様を生活の中で真に祀られなかった事にあると言う事です。
そして、イスラエル民族がモーセを不信心することで、モーセがイスラエル民族をカナンの地へと導こうとする神の意志を完全に受け入れられなかったように、終末の聖徒たちにも同様の恐ろしい出来事が起こるかもしれません。イスラエル民族と自分自身が一体となれないという事実に直面したとき、モーセは不信心な民族を責める前に、自身の不足を天に訴えました。つまり、彼はシナイ山に登って40日間の断食と祈りの中で言いました。
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「父よ、どうしてこの民族は許された地が目の前にあるのに進むことができないのでしょうか? 責任は誰にあるのでしょうか? その責任は私にあります。私が責任を果たせなかったからです。だから私を犠牲にして、民族の滅亡の道を阻止してください」と。こうして彼は訴えました。皆さんは、モーセの秘められた熱意の期間があったことを知る必要があります。
もしイスラエル民族が、モーセが優しい心を持って断食するのがモーセ自身のためではなく自分達のためである事を知っていたならば、彼らはモーセの40日断食期間に金の子牛を作って崇拝する不信仰はしなかったでしょう。また、彼らが民族の祝福に代わるモーセが一つの隠れた供え物として天の前に捧げられたとき、モーセの心を同情し、彼の苦労を心配して、シナイ山のモーセの様に涙を流して天の前に訴える事ができたし、神様の懐を離れなかったでしょう。
この様にモーセが一人で民族を代表して孤独な道を行った様に、イエス様もそのような道を行きました。すなわちアブラハムの歴史的な犠牲とモーセの民族を代表した供物の路程を通じて世界の中心に建てられたイエス・キリストは、アブラハムが家庭を代表して悪魔の条件を防ぎ、モーセが民族を代表して悪魔の讒訴条件を阻止したのと同様に、世界人類に代わって一人で悪魔の全ての讒訴条件を防ぎ、勝利的な蕩減の基盤を築かなければなりませんでした。
皆さんはイエス様にこの責任があった事を知る必要があります。ですから、世界的に勝利して不変の場を備えるまで、イエス様の神は自分一人の神として終わってはならないと言う事です。ですから、イエス様は4千年の歴史の中で天の前に忠実だったどんな信仰の中心人物よりも忠実であり、全体の為に自分の一身を犠牲にしたのです。
この様に、イエス様は30余年の命を通して、自分の使命分野で歴史上、誰も備えられなかった全体に代わる中心としての実体を成し遂げたのです。もしそのような中心人物にならなかったならば、イエス様は世界的な摂理の責任を負った救世主になる事ができなかった事を皆さんは知らなければなりません。
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今日の信仰者は、イエス様が一代の十字架を背負われた方と信じていますが、皆さんはそのようなイエス様だけを信じてはなりません。イエス様の十字架の死の前には、アブラハムが築いた苦労の祭壇があり、モーセが努力した犠牲もありました。そして、イエス様は苦難と荒廃の中にある民族や世界人類の苦しみを感じ、「彼らの苦しみの重荷を私に取り除かせてください」と天に訴えただけでなく、実際に彼らの苦しみを負うために、一日たりとも気の休める生活を送れなかったのです。
この様にイエス様は悪魔の懐にある人々までも心配してくださり、自分の喜びよりも全体の意志を持った責任ある立場で生活したので、悪魔の世界との戦いに勝利した中心存在で、万民の救世主として立てられたというのです。
では、終末に立たされている私たち信仰者が悟るべきことは何でしょうか?私たちはこれまでに悪人のために涙を流し、心配し、祈りをささげる生活を送れなかったことを反省しなければなりません。終末に審判を受ける人が多ければ多いほど、私たちは彼らのためにより一層祈りを捧げる必要があります。
そして私達の為に心配して祈って下さるイエス様がおられる事を忘れてはいけません。私達がそのようなイエス様を忘れて不信するなら、私達は終わりの裁きを免れないでしょう。
もし昔ソドムとゴモラの民がアブラハムとロトを通して予告してくださった神様の裁きに対する警告を受け入れ,自分達の悪行を反省して悔い改めた者達ならば彼らは裁きを免れる事ができたでしょう。歴史的な事実は今後に起こる事を実証的に教えてくれる事なので、週末に処している今日の私達も先の自分の生活を反省して悔い改めなければなりません。ですから私達はモーセがシナイ山に登り、不信のユダヤ民族の為に祈ったのと同じです。イエス様が今この時間も霊的シナイ山上で私達の為に祈っておられるという事実を確かに知らなければなりません。
30
イエス様が2千年間天の御座におられながら人間の為に祈られるその心は、モーセがシナイ山に上がって不信のユダヤ民族の為に祈っていた寂しい心以上でした。ですから今地上にいる皆さんはこれを知ってイエス様の御心通りに生きなければなりません。昔、アブラハムが義人10人がいたら、彼らを見てソドムとゴモラの裁きを免れてほしいと神に祈りましたが、そのソドムゴモラには義人の十人がいないので、神様の裁きを受けました。
ですから、皆さんはイエス様が十字架で亡くなられて以来、今日まで天上におられながら人間の為に祈っておられる様に、またモーセがシナイ山頂で祈った様に、その寛大な心情を受け入れてこの時代を握り、イエス様の代わりに心配して祈らなければなりません。そして皆さんは、イエス様の世界的な御意志に代わる事ができ、歴史上の預言者の列に加わる事ができる天が立てられた者がどこにいるのか、目を覚まして祈り、誠実に探す事を忘れてはなりません。
終わりにこの地上にこの様に根として残る者がたった一人もでなければ、イスラエル民族が荒野で倒れたのと同様に、私達が生きているこの地も世界的な終末期を迎える事になると言う恐ろしい審判を免れる事ができないでしょう。
では、今日私たちはどのように行動すべきでしょうか? 皆さんは隠れた存在であるため、キリストの精神を持ち、歴史的な経験を通じて現れてきた祖先たちの願いに応える存在となるべきです。そして、これまでの2千年間を再臨の一日として重視し、苦労してきたイエス・キリストの心情を共感できる存在となるべきです。これが問題です。
ですから、今後は自分自身を歴史的な中心人物たちの相対的な立場に置いて検討し、分析する必要があります。つまり、自分自身をアブラハム、モーセ、イエス様との相対的な立場に置き、彼らの心であり、自分自身の心であり、彼らの願いであり、自分自身の願いであり、彼らの怨みであり、自分自身の怨みであるかどうかを分析する必要があるということです。
31
今、私たちは悪魔に立ち向かって天の前に立ち、請願の祭壇を高く築く方法を知る必要があります。アブラハムがソドムとゴモラのために天の前に請願した心情を理解する必要があります。アブラハムがソドムとゴモラのために祈ったのは、彼の息子や娘、甥であるロトのためではありませんでした。しかし、アブラハムがすべてを忘れて隠された心の祭壇を築いたため、アブラハムと関係のあったロトは審判を免れることができたのです。
今日信じるという人々は「私の意志を成し遂げてください。」と祈ります。私達はそのような祈りをせずに、むしろ「私の御心より神様の御心がなされる様にしてください。」と祈らなければなりません。天の意志がこの様になる時は、私が楽しみにしていた事も成し遂げられるのです。だから 「私の意志を成してください」とする祈りはしないでください。私達は今ある心を尽くして「父親であり、私を立てられ,私を呼んだので、その意味を通してお父様の意志を成していかなければならない」と言う事です。
それでは、皆さんが知っておくべき事が何であるかというと、皆さんが受け継いだ御旨は皆さんだけの唯一の御旨ではなく、アブラハムからモーセとイエス様を通って下ってきた御旨です。
この時代に生きている皆さんは、モーセ以来の全ての部族に代わるべきであり、イエス様が必要とした部族に代わって天が求める御旨を成し遂げなければなりません。ですから、この地は邪悪であっても、この地は暗くても、この地は滅びても、皆さんは天が立てた隠れた根にならなければならない事を知らなければなりません。
天は今、個人の信仰を基盤として宗教の使命を果たすよう私たちに要求しています。その願いとは、アブラハムが果たした責任と同じような責任を果たしたかどうかです。そして次にモーセがイスラエルの民のために献身的な心情を持ち、努力したように、皆さんが韓国の三千万人の民が苦難に直面した時、モーセのように皆さんの意思と心を込めて献身し、努力したかどうかです。さらに、イエス様が創世以来現在までの万民を救うために努力されたように、同じ意図と心情を持ち、万民のためにイエス様の代わりに尽力したかどうか尋ねられるでしょう。
32
そうすれば、この様にアブラハム、モーセ、イエスのような人生を生きたのかと反問を受ける様になった時に、正しく生きたと言えるのです。皆さんは「私達を知っていますか? 隠された神様の根は私達だけにあるのではなく、神の中にもあるのです。」と言える人にならなければなりません。
そうなった時、アブラハムが彼の信仰を通じて築いた意志が、皆さんを通じて結実するでしょう。モーセが民衆を通じて嘆願した意志が、皆さんを通じて達成されるでしょう。また、イエス様が世界に対して抱いていたすべての悲しみの要素が、皆さんを通じて解放されるでしょう。
もしもそのような人がこの地上に存在するとしたら、アブラハムが昔から心から願った心、モーセが昔から心から願った心、そしてイエス様がこれまでに心から願われた心が解放されるでしょう。そのため、もしもそのような人がいるのならば、あなた方は心を尽くしてその人を支えるべきです。もしもそのような人が存在しないのであれば、あなた方自身がそのような人となる必要があることを認識する必要があります。
そして、もしもそのような人がいる場合は、その人をアブラハムの代わりに、モーセの代わりに、イエス様の代わりに高く尊び、受け入れることを知る必要があります。さらに、民族のためにさらに祈り、さらに活動することを求めるでしょう。そして、あなた方が天の前に捧げることができる犠牲が、祭壇ではなくても、その祭壇を築く人となるべきです。
したがって、今日のあなた方は神に対して「私たちの父よ!」と呼ぶべきです。そして、創造以来の歴史の進行において、まだ主人の役割を果たしていないそのお父様を実感できなければ、あなた方は真の解放を受けることができません。したがって、あなた方はアブラハムが祈ったように、モーセが祈ったように、イエス様が祈ったように、祈りの祭壇を築かなければなりません。
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