人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集3(14,15)

2024年03月30日 17時33分32秒 | 学習

文鮮明先生御言葉選集3-14 クリスマスを天に代って祝おう
1957年12月25日(水)、韓国総本部教会

ルカによる福音書 2:1-

 イエス・キリストの誕生によって、神はアダム以降4千年間、定められた計画を遂行されたと言えます。また、アダムの堕落以降、回帰・遂行の歴史の中に生きてきた我々の先祖たちの望みも、イエス・キリストの誕生によって達成されたと言えます。神の意志が遂行される同時に、人間の意志が遂行される時がキリストが生まれたその一時であったことを、皆さんは再び考えてみるべきです。
 キリストの誕生から今日までの2千年という長い歴史を経てきましたが、私たちは今、2千年前のイエスが誕生した当時と同じように、神の意志が遂行され、人間の意志が遂行される、歴史的かつ宇宙的な緊張のある時間に立っていることを感じます。
 イエス・キリストは小さな幼子として生まれましたが、神の意志を代わり得る実体であり、彼の泣き声、彼の動きは、神の4千年の悲しみを代わり得るだけでなく、神がこの地上に新たな歴史を築き進められるすべてのことを典型的に表現し、また、人間の罪を贖う4千年の歴史の悲しみを表現した姿でした。ですから、彼の誕生によって新たな善の歴史が始まる喜びの場面を迎えることができたのです。
 このように、イエス様一人のために神の懸念と、歴史を経てきた人間の歴史的な懸念と当時の時代的な懸念が取り除かれ得たことを考えると、イエス様は本当に偉大な方であり、大いなる方でした。しかし当時、心を込めて父の心情を代わり、万民の心情を代わり、多くの預言者たちの心情を代わった者はありません。皆さんはこれを深く考えるべきです。
 それでは、イエス様の誕生日を祝うために集まった私たちはどのような心構えを持つべきでしょうか。私たちは神の心情を代わり、歴史の中に行ったり来たりした多くの預言者たちの心情を代わり得るべきです。また、当時のイスラエルの選民が約束の日を待ち望み、メシアを待ち望んで祈った心情を代わり、赤ん坊イエスの前に贈り物を捧げる心を持たなければなりません。そうすれば歴史は進んでいきますが、その当時の神の心情を慰め、当時天にいた聖徒たちの心情を慰め、イスラエルの民を代わって選民の資格で父の栄光に参加できる価値を皆さんは持つことができることを知らなければなりません。
 そして、イエス・キリスト一人の誕生日は、天地万物が喜びを示すことのできる日であり、神の計画の一日でありながら、同時に万民の願いが達成される日であることを感じ、感謝を捧げなければなりません。そして、緊張した心で、これまで信仰生活を通して準備してきた贈り物を捧げ、父の心と歴史的な心情、時代的な心情を代わって持ち、イエス・キリストに礼拝し、祝福を捧げるべきだと思います。
 そして、今、イエス・キリストの誕生のために誰がどれほど労力を費やしたかを見てみましょう。まず第一に、神様が4千年間労力されました。神だけでなく、数千年にわたって神に従ってきた私たちの先祖たちである多くの預言者、聖賢、先祖たちも同様に労力されました。そして、選ばれたイスラエル民族を代表するユダヤ教徒たちも生涯をささげて労力されました。こうして、イエス様が誕生するまでには直接的な関係がないように見える歴史的な労力が潜んでいるのです。
 ただそれだけではありません。イエス様がこの地においでになって30年余りの生涯を過ごされ、その後現在まで2千年の間に天倫の意志を為すための計画的な歴史が過ぎ去ったことを考えると、ここには過去のイエス様以前の歴史的な悲しみと、イエス様以後の2千年の歴史が重なっていることが分かります。
 歴史的な解援、または時代的な解援、または未来的な解援のために生まれられたイエスの願いは、その当時の人々の誤りのために2千年が経過した今日この時代にもまだ成就されていません。ですから、イエス様がおいでになるまでの4千年の歴史の悲しみに加えて、イエス様がおいでになって労力された後の2千年の歴史の悲しみが加わっているのです。
 今日、私たちはどのような使命を背負っているでしょうか。私たちはイエス様がおいでになった後も希望として残っている神の怨を解決していく使命を背負っています。このようにして、私たちは創世以来最後の神の救済計画の意志を迎える緊張した時間を迎えています。
 そして、クリスマスを迎えるこの時、私たちが祝福の意志を持たなければならず、祝福の贈り物を天に差し出さなければならない責任を持っているとすれば、私たちはイエス様がこの世のために心配された心情と、6千年間労力しながら心配された神の心情を代わって抱き、救世の意志のために現実の栄光の誕生を祝福の祭壇に供えることができる一つの姿にならなければなりません。そうでなければ、天が今までイエス・キリストの誕生日を祝福してきたその栄光の意志を地上に成就させた人間としての価値を実現することができないのです。
 また、父の祭壇の前に伏している私たち自身は、2千年前、マリアが天にイエスの誕生を祝福していた心情を代わることのできる存在でありながら、さらには神がイエス様を誕生させて喜ばれた心情を代わることのできる存在であり、イエス様が誕生されるまで数千年間労力された預言者たちの願いの心情を代わって、彼らが願っていたことを成就させてくれる存在にならなければなりません。
 こうして、歴史的な全体の意向を実現しようとする心を持った一存在として、イエス・キリストがこの地に誕生される時、この一瞬を通じて神が悲しまれた心情、マリアとヨセフが悲しんだ心情、また路傍の羊飼いたちが悲しんだ心情を感じ、イエス・キリストが飼い葉桶に横たわられたことを心痛く思いながら、新たな決意で再び来られるイエス様を迎える準備を整え、天が喜ぶ栄光の先駆者として立たねばなりません。そうしなければ、天が我々にクリスマスを祝わせる意図を完成させることはできないことを皆さんは理解すべきです。
これまでこの地には数多くの人々がいましたが、神が遂行される全体的な意図を達成するために使命を帯びておられたイエス・キリストの誕生を真に祝った人は一人もいなかったと断言しても過言ではないでしょう。
 それでは、今、私たちはどのような心を持たなければならないでしょうか。私たちは神の心情を代わり得るべきです。そして天上にいる無数の聖徒や天使たちの心情を代わり得るべきです。さらには、来られたイエス様の心情を代わり、神のすべての憎しみを私たちを通じて解消していく覚悟と責任感を持たねばなりません。このようにして将来に現れる希望の日に向けて準備する心を持ち、祝福の礼拝を捧げない限り、神の希望は我々にやって来て終わってしまい、我々の子孫に伝わらなくなることになります。皆さんはこれを確実に理解すべきです。
 イエス様の時代でも、すべての人々がキリストを見つめましたが、キリストの後に現れる遂行の意志については考えませんでした。彼らがイエス様の誕生を見守りましたが、誕生後になされる神の意志については考えませんでした。
したがって、皆さんはイスラエルの立場からイエス様の誕生を祝うこともよいですが、イエス様が来られた後の遂行の意志を含め、言い換えればイエス様を全体的な価値の実体として知り、彼の誕生を祝わなければなりません。
 2千年前に来られたイエス・キリストの誕生がユダヤ民族の不信によって悲しみと憎しみを加える結果となったのに、終わりの時である今日、私たちが6千年の歴史を代わってこれを解消しようとすれば、どのようにすべきでしょうか。私たちは歴史的なすべての悲しみを解消する準備が整った実体とならねばなりません。さらには再び来られるキリストの心情まで通じなければなりません。そうすれば、私たちがイエス様の誕生を祝うこの意義が、私たちを超えて私たちの子孫の永遠の歴史的な理念に結びつけられることができるのです。
こうして、神はキリストの誕生を祝福されるだけでなく、現在の一瞬だけで祝福されることを望まれるのではなく、過去と現在と未来を通じた理念を持つ人が神の心情を代わり得る心を持って祝福してくれることを望んでおられるのです。
 では、皆さんはどのような人間になるべきでしょうか?キリストの誕生を実現するために労苦された神の心情を代わり得る人々となるべきです。また、イエスの前に来た先知先駆たちが天国で働き、その心情を代わり得るべきです。
では、イエス様の誕生を見守った神の心情はどのようなものだったでしょうか。天使たちは羊飼いたちにキリストの誕生を告げましたが、地上でもキリストの誕生を告げる人はいませんでした。これが天国の悲しみでした。こうしたことを考えると、当時、イエスの誕生を見て天使の代わりにメシアの到来を宣言した存在があったとしても、天がイエスの誕生を祝福したように地上でも同じように祝福できたはずですが、イスラエル民族を代表したユダヤ教徒がこの使命を果たせず、イエス・キリストが十字架に掛かられたことを我々は知ることができます。
 ですから、皆さんはこうした先祖たちの不信の条件を反省し、皆さん自身がこの意志を負担し、実践できる人々になったかを反省しなければなりません。また、私たちはこのような行動を実践してもなお、その意志を後世にまで引き継げる自分がなったかを考えると、今日この一瞬がどれほど緊張した時であるかを知り、自分を反省し、新たな決意をしなければなりません。
 当時のイスラエル民族が天使の心情や天が喜ばれた心情を代わり、天使たちを送り、死が来ることにもそれ以上のことが来ることにも、聖徒として果たすべき責任を果たし、イエス様の十字架を代わりに担おうとしましたが、イエス様は決して十字架に掛かることはありませんでした。当時の聖徒たちは羊飼いたちの告げられた言葉を聞き、東方の賢者たちの証言の言葉を聞き、他の人々からの証言も聞いたため、人類が古くから望んでいた歴史的なメシアが誕生したその日から喜びと栄光の心情を持ち、不信する民族を代わり戦わなければなりませんでした。そうした聖徒たちがいれば、イエス様を失った悲しみは私たちにまで伝わらなかったでしょう。
 天は2千年前、その一日その一瞬にそのように働いてくださいましたが、地上の人々は2千年が経過してもなお、そのような心情を持ち、天の前に出ることができていません。これが、天が我々にクリスマスを祝福して欲しいという意味を持つことを集まった皆さんは確実に知らなければなりません。
クリスマスを祝福するこの時、神はただ一つの望みであるキリストの誕生を喜んでいる一方で、今日の一瞬でキリストの誕生を喜ぶことを抑えられず、天使や羊飼いを通じて告げたような熱心な心が皆さん一人一人にもあるかどうかを見極められるでしょう。
 もし私たちがこのような心を持ってこの日を迎えることができれば、たとえ私たちが直接イエスの誕生を見ていないし、2千年という長い歴史を経ても、そのような私たちの心情は歴史的な障壁を超えて神の心情、そして天使たちの心情と結びつくものです。皆さんは今、この瞬間が歴史的な瞬間であることを理解する必要があります。本当にそのような心情に至った場合、悲しみが幸福に変わることを感じるでしょう。
 私たちは喜びに溢れ、栄光のメシアを証言する者になれず、十字架にかけられたその方の悲しい物語を証言しなければならない悲しい者たちです。皆さんは今、それを感じるでしょう。
 こうしたことを考えると、今日、皆さんはこれまでの2千年の歴史を経て多くの聖徒たちがこの日を祝ったが、本当に天の心情を代わって祝福した者は極めて少ないことを知るべきです。また、2千年の歴史を代わりにこの日を迎えるために、2千年前の聖徒たちが天使や東方の賢者、または牧者の声を聞いてキリストの死と悲しみを証言しなければなりません。これらのことをしなければ、歴史的な誕生をされたイエス様の前に立つことができる資格がないことを皆さんは理解しなければなりません。
 今日、新たな意志を持って集まった皆さん!皆さんはイエス様の立場を考え、イエス様の心の中にあなたが誕生するまでの4千年の歴史の悲しみが満ちていたことを知る必要があります。また、誕生された後の30年以上の生涯の悲しみがこの日にあることを知る必要がありますし、再び来られると約束された後の2000年の悲しみがこの日にあることを知る必要があります。
 それでは、今日、私たちはどのような使命を果たすべきでしょうか。皆さんはまず、イエス様の悲しい事情を代わり得る立場に立って、神がイエス様をどのように悲しまれていたかについて思いやるべきです。その後、皆さんは自分たちを通じて歴史上行き来したすべての聖人たちから慰めを受ける存在にならなければならず、天使の加護と証言を受ける存在にならなければなりません。
 そして、イエス様が再び来られる時、天が一瞬にして全ての天使を動員されたその価値を代わってやるべきであり、イエス様の誕生時に数多くの聖人たちが心配したことを代わって癒やし、慰める心を持つ存在にならなければなりません。このような準備と決意がなければ、イエス様の誕生の日を中心に過去と現在と未来の神の計画と思想を引き継ぐことができず、継承することができないことを皆さんは理解しなければなりません。
 また、イエス・キリストが去られることによって、4千年間にわたって備えて来られた神の計画の目的を完了しようとされたイエス・キリストの御心が2千年延長され、6千年の復帰の歴史となったこと、また、イエス・キリストによって成し遂げられるべき先祖たちの希望が2千年延長されて降りてきたこと、そして、神の憂いによって無数の使徒や聖人、あるいは何千万もの天使たちの憂いが込められ、2千年間延長されて降りてきたことを考えると、私たちはイエス・キリストを十字架に掲げられた神の悲しみ以上の悲しみを感じなければならず、イエス・キリストが十字架に行かれた時のイエス・キリスト以上の悲しみを感じなければならず、イエス・キリストが十字架に戻られた時、天上で何千万もの聖人や天使たちが悲しんでいたこと以上の悲しみを感じなければなりません。
 したがって、歴史を振り返りながら、天地が悲しんでいた怨念の気持ちを解消するために、一人で全てを代わりに準備できる人間となるべきです。このようにして再臨の日を待ちながら、準備が整った資格者となり、おいでになるメシアの理念が何であるかを知り尽くし、その御心が現れる時に証する天使たちの使命まで負う覚悟を持つ皆さんが、天が望まれるようにクリスマスを祝うことができることを、皆さんは知っておかなければなりません。
 今日、キリストの誕生を祝う礼拝に集まった皆さん、皆さんは神とイエス・キリスト、そして何千万もの天使の悲しみを清算し、天の御心を引き継いでその御心をこの地に実現させる資格者とならなければならず、神がようやく永遠の祝福の日を見つめ、安息されることができると気づかなければなりません。
このようにして、今日、皆さんは重要な歴史的な焦点に立っているということです。ですから、キリストが再臨される希望の日のために準備しなければならないこの時に置かれた皆さんは、歴史的な証人としてまたは神の計画を引き継ぐ者として、キリストの誕生を振り返りながら祝福する人々とならなければなりません。そうすれば神が皆さんを見て、今までに構築された全ての怨念を解消されることができます。また、キリストの御心を代わりに達成する喜びを感じると同時に、イエス・キリストも皆さんを通じて自身の栄光を神に還元することができるということです。





文鮮明先生御言葉選集 3-15 三位基台の意義

1958年1月3日(金)夜、前本部教会

 三位基台を組織しましたが、皆さんはその天的な価値をよく知らないでしょう。皆さんは原理を通じて帰還という言葉の意味を知っています。では、何を帰還するのでしょうか?イエス・キリストはこの地上で何を帰還すべきでしたか?帰還の任務において、イエス・キリストの中心的な責任は何でしたか?それはアダム家庭で失われたその数を見つけることです。これを帰還すべき使命を持ってイエス・キリストはこの地に来られたのです。
 そのため、アダム家族にはアダムを中心にし、三人の息子と彼らの妻を合わせた八人の家族がいましたが、この八人の家族を帰還するために神は1600年間の間、計画されました。また、120年間、計画の意味を理解するためにノアを選ばれ、ノアの八人の家族を立てられたのです。
 アダムから10代を経てノアを立て、ハムの過ちにより継続して計画を理解できなくなり、さらに10代を延長してアブラハムまで降りてきました。しかし、アブラハムが犠牲を捧げる際にもまた過ちにより2代をもっと延長することとなりました。そしてヤコブの時にようやく2千年の計画の段階を完了したのです。これを皆さんはご存知のはずです。
 では、ヤコブの十二人の息子は何を象徴するでしょうか?それはアダムからノアまでを象徴し、これを帰還する数を象徴し、縦の歴史を横に帰還する数を象徴するのです。ヤコブはこのような意味を持つ十二人の息子を立てなければならなかったのです。
 如何にも、皆さんが知っているように、6千年の計画の終わりには6千年間神が計画された内容が横に現れることになります。聖書66巻が6千年の帰還計画の記録であるならば、聖書66巻の事実が横にこの地上に一斉に展開されるのです。そのため、ある場所では創世記1章を担当する人がいて、また別の場所では2章を担当する人もいるのです。そしてこのように、多くの人々が聖書66巻の部分部分を担当しています。
 では、終わりはいつですか?終末の歴史過程に現れた全体の計画を一時に地上で完成させなければならない時です。なぜなら神の帰還の計画は地上で完結されなければならないからです。それゆえ、終末の計画は横に世界中で現れなければならないということです。
 それでは、これは何を表しているのでしょうか? 全体的に見れば、アダム家族のカインとアベルの争いを表しており、また歴史的に見れば、全体の争いの歴史を表しています。この中で計画の意味を終結させ、勝利者となった自己を見つけるためには、どのような存在になる必要がありますか?イエスはこの地に来て望んでいたその中心基準を、あなた自身が見つけて確立しなければなりません。そうでなければ、終わりには勝利の花婿としてイエスの前に立つことができないでしょう。
 イエスは33年の生涯を過ごされましたが、イエスは30年の準備期間、3年の実践期間、3日の完成期間を経て、3つの段階の歴史過程を解決しておられます。また、3年の共生命の期間を置いて、意志を受け入れて出発される際に3つの試練を経験し、最後の十字架が目前に迫ったゲツセマネの園で3度の祈りをされました。3度の祈りを捧げられる際には、一人ではなくペテロ、ヤコブ、ヨハネ、すなわち3人の弟子を連れて行かれたのです。
 イエスが最後に命を賭けて懇願の祈りを捧げる場面で、三人の弟子もイエスと同じ心で夜を明け方まで祈り続けなければならなかったにもかかわらず、三人の弟子は眠ってしまいました。それゆえにイエスとの関係が断たれることとなり、そこに敵意が残ることとなりました。これを理解する必要があるでしょう。それでは、今日の帰還の運命を挽回するためには、私たち一人ひとりの使命は何であり、私たちはどのようにすればよいでしょうか? 私たちはゲツセマネの園のペテロ、ヤコブ、ヨハネとなり、一人の責任を担わなければなりません。この責任を果たさないといけない立場に置かれていることを覚えておかなければなりません。
 イエスの悲しみは十二人の弟子がイエスの意志を受け入れなかったことであり、十二人の弟子を代わって三人の弟子がイエスの心情を理解してくれなかったことです。死の直前にイエスの悲しい心情が今日までの一つの恨みとして残っていることを理解する必要があります。
 では、今日のあなたたちはどのようになるべきでしょうか? あなたたち自身がペテロ、ヤコブ、ヨハネとなり、三人が一つとなって主の前に誰も引き離すことのできない一つの模範を備えておかなければなりません。そうすることで、ゲツセマネの園で祈っていたイエス・キリストの悲しみの心情の前にやっと立つ資格者となるのです。
 この意志を帰還するために探しに出た私たちだからこそ、このような三位基台の組織をしなければならないのです。それでは、イエスはどうして三人の弟子を連れて行ったのでしょうか? アダム家族においてアダムを代表した方がイエスであり、アダムの三人の息子を代表したのがイエスの三人の弟子でした。このように、イエスはアダムとして来られたのです。
 ペテロ、ヤコブ、ヨハネはカイン、アベル、セトを代表する弟子たちです。イエスはこの地において三人の弟子を立て、相手を見つけて八つの家族を形成し、アダムとノアの八つの家族形を回復する使命をなさったが、その意志を果たせずに独身のまま去られました。
 それゆえ、花婿と花嫁の名を残して2千年間労苦されました。その後今日までこの原則的な基準、すなわちアダム家族でアダムを中心とした三人の息子の基準をこの地に見つけて立てることが最後の計画の意志としてこの地に残されていることです。
 今日の私たちの教会において、男性三人、女性三人、このように三位基台を創りました。なぜこのようにしたかというと、今後主を奉仕する私たちにとっては、アダム家族のアダム夫妻とその三人の息子と三人の婿を代表できる模範を持たなければならないからです。
 そのため、これらの三人が一つにならないと再び破壊される恐れがあります。特に三人の男性が一つにならなければなりません。肉体的にも、精神的にも一つになり、一つの体となることができなければなりません。それゆえに、時間的な限界ではなく、時間を超越した一つの形を持たなければなりません。そうしなければ、再び来られる主の前に立つ資格がないことをあなたがたは理解しなければなりません。
 もし三人が一つになり意志を代表できる原則的な足場を築くならば、もう一度言いますが、天が変わるかもしれませんが、私たちは変わらない三位基台であり、天はこのような期待の上に意志を達成されるでしょう。
 このような内容を持つために、あなた方を中心にして三位基台を組織しました。そして三位基台を構成するにあたり、あなた方は三位基台を中心にし、十人が団結しなければなりません。なぜなら、三位基台は主を中心にし、ゲツセマネの園で祈っていた三人の弟子を代表すると同時に、アダムを中心とした三人の息子の形を探して立てる形態でもあるからです。
 また、三位基台を中心にし、班を作る意味があるとして、結局はアダムからノアまで十代を代表するものであり、班長は二人の責任があるため、十二人の形を持ったものと見ることができます。
 これはまたノアからヤコブまで十二代を代表するものであり、歴史的な側面、すなわち終末の側面においては、十代と十二代を代表するものです。そして終末の2千年の歴史を代表できる横の十二の形を持っているため、ヤコブの十二の子供を代表した数の人が一つになれば、2千年の神の計画の目的であったノアの家族を回復すると同時に、ヤコブ家の形を回復することになります。こうして三組が一つになり、一組は36数36人を代表することになります。これはヤコブにおいては十二の子、モーセにおいては十二の部族、イエスの十二使徒を示すものであり、6千年の歴史的代表を合わせたものを象徴する数が36数であるということです。
 したがって、男性36人(36数)が一つになると、6千年の神の計画の過程で求めていた中心メンバーを終末の形でも持つことができ、横の面でも持つことができます。このような重大な責任と使命が36人にあるのですが、ここには重大な意味があります。男性36人と女性36人が合わせると72人になります。
 ですから、イエスを中心にして70人の長老がいましたし、モーセを中心にして70人の長老、ヤコブの70家族がいました。そのため、イエス様と70人の長老、そしてイエス様の花嫁と合わせると72人になるのです。今日、天地の度数を合わせなければならない使命が私たちにありますので、私たちはこの山を越えなければなりません。
 あなた方が三位基台に所属する三人が互いに心を合わせるべきではありません。そのような人は天国に行けません。統一の理念はここから始まります。三人の心を合わせなければ、天国に入ることはできません。入門もできません。天国の景色も見られません。また、三人が一つになってこれを単位として十二人の心を合わせて一つになれなければなりません。逆に、三組が合わさって一つのチームになり、この一チームの36人が団結すれば、サタンは何もできません。誰も壊すことはできません。世界でも3人が合わされば何もできないのです。
 私たちの教会は八つの家族が動かなければなりません。どんなに大きな迫害を受ける教会であっても、指導者とその妻、そしてそこに三人の男性と三人の女性が結ばれた八つの家族が一つになれば、誰も壊せません。これが原則です。このような回復形を各自が持たなければならない使命があるという理由で、三位基台を組織しました。
 天国の歴史もこのようになります。一人を立てて歴史をするのではなく、三人以上を立てて二人を打つのです。終末の時代に恩寵の歴史が始まる時にも、この原則で行われます。
 天国は必ず三人を立てて一人を選びます。韓国の現実もこのようになっていますよね? 終末には必ず天が立ててくださるペテロ的存在、ヤコブ的存在、ヨハネ的存在、このように三人の使命をする人が現れます。その中で一人でもない二人は壊れやすいのです。しかし、三人が一つになれば壊れません。今日の霊的な人々が進む途中で壊れる大部分の原因がここにあります。
 私たちがサタンを打ち負かし、神の怒りを解放するためには、末端の家族まで一つにならなければなりません。そうすればサタンは耐えられません。これが歴史的な形においても天地の運行度数にも当てはまるのです。一点を中心にして四方性があるように、東西南北があり、春夏秋冬の四季があります。四方を再び12方に分けると、東にも三人、南にも三人、北にも三人、西にも三人になります。このようにイエスを中心にして12数が立てられると、東西南北と春夏秋冬の完全な四方形を持つことができるのです。
 イエスを中心に考えると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネは春の季節の形、つまり正月、2月、3月を象徴しています。彼らが12か月を通してイエスを中心にし、同じ距離で円を描いていれば、イエス様は帰られなかったでしょう。春の季節の形である三人の弟子の後ろには10月、11月、12月がありますが、これはサタンが侵入できるスペースがあることを意味しています。三大試練の根拠もここにあります。
 10人が一つになろうとすると、そこには必ず三人の邪魔者がいます。理由もなく嫌い、攻撃する群れがいるということです。ですから、あなた方は三回以上試練を受けなければならないのです。この現象は終末に起こるため、個人の信仰にもそのような試練と苦難があり、個人から家庭単位へと発展していく際にもそのような試練があり、社会から国家、国家から世界へと移行する際にもそのような三大試練が生じることになります。
 ですから、今日の世界的な終末時代において、世界人類は三度の天の試練とサタンの試練を超えなければなりません。これが第一次、第二次、第三次世界大戦なのです。個々の存在においても同じです。
 今日の私たちにはこのような中心的な形に合わせて、それぞれの基準を持つ責任があるのです。霊界を見ると、12使徒を中心とした24長老があり、四元素があり、多くの霊がいるということです。地上の季節の運行を見ると、一年には四季があり、十二か月があり、また24節気があります。
 そして、一つの季節には三か月があります。このように天と地は、その運行法に従って順理的に回る中で、人間だけがこれとは反対に回っているのです。これが堕落であるということです。これを正す責任があるため、イエス様はその使命を果たすためにこの地に降臨されたのです。そして今日の信者たちもこのような使命を果たさなければなりません。
 信者たちにこのような使命があるために、全体のキリスト教の歴史を見ると、三段階の形を経なければならなかったということです。例えば、古教会にも新教会が生まれましたが、新教会からまた新しい宗教が生まれなければなりません。
 そして、教派の分裂を見ると、新しい教派が12教派に分かれ、再び36教派や360教派になることを意味します。そうなると終末が来ることを知らなければなりません。また、国家的に見ると、三大国家を中心に世界は三つのブロックに分かれており、これが歴史の終わりを経て超えていくということです。そして、民主陣営だけでなく共産陣営でも三つのブロックに分かれているのです。
 したがって、今年の天の命令は、皆さんを死に至らしめるために訓練することだということです。今年は修練の年、試練の年として、どんな苦痛も堂々と乗り越えることのできる年にしなければならず、12人以上の心を合わせる人を早急に作り上げなければなりません。
 それでは、これからは天敵的なイデオロギーを代わって天の家族として立つことができる数が相当数いるでしょう。霊界には数億の霊が住んでいます。その霊たち全員が手を挙げて歓迎できるそのイデオロギーが、私たちが守るべき本来のイデオロギーであり、今日の地上で10人が一つになれなければ天国に行けないということなのです。
 それでは、私たちは今度は他人の心を合わせる歴史的な代表者となりましょう。これまで神様は皆さんの心を合わせてくださる神様であり、神様には皆さんの市場を聞かねばならない責任があったということです。
 このような原則があることを知り、特に今日は1月3日ですが、皆さんはしっかりと決心しなければなりません。3か月ごとに三位一体を変更するときには、皆さんが誰と会うことになろうとも一つにならなければなりません。皆さんは三位一体で結ばれた相手に「あなたは長い6千年の世界の歴史を辿って、なぜ私と出会ったのか?」と尋ねながら、歴史的な運命の出会いを感じなければなりません。そして、三人が一つになり、十人が一つになり、36、70人が一つにならなければならないのです。
 したがって、このような組織は原理原則を離れてはならず、原則は組織を離れてはあり得ません。これが組織の生命です。このような形で天地の度数に合わせて、天地の中心と私の心の中心が一つになって回らなければならず、自分が万物の世界の運行法もに従って回らなければならないということです。
 一日一日、私の心は天輪を中心にして回り、一年中、一生中も天倫を中心にして回らなければなりません。そうしなければ永遠に生きることはできないのです。
 それでは、朝起きて、今日は誰のために回るのか、天倫のために回るのか?また、行く時には、今日は誰のために回ったのか、天倫のために回ったのかを自問自答しなければなりません。
 その道は三位一体であり、班(バン)というものです。これを離れては生命の足場が存在しないのです。したがって、今回新たに三位一体を組織しました。ここで問題になるのは、どの程度まで天の意志を考え、それを生命にして動くかです。私たちの教会信者は皆平等で一つの家族です。
 したがって、原則的な条件を設けて、法度に従って一つになればよいということです。今年からは、新たな覚悟のもとに新たな動きを展開しなければなりません。攻撃を開始しなければなりません。その意味で、天倫の前に実生活を通じてこのような原則的な足場を整え、宇宙的な一つの単位形態が自らを中心に据えて始まる驚くべき事実を、皆さんの喜びとして知り、進んでいかなければなりません。
 6千年の歴史の中で意志の道を歩んでいる私は、最大の悲劇役者だと思ってください。これは他の人ができないことをしようということです。他人が辿れない一歩を踏み出そうということです。ここで、サタンは耐えられないということです。



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御言葉選集3(12,13)

2024年03月10日 15時21分07秒 | 学習
『文鮮明先生御言葉選集 3 - 12.  真の道を知り、偽ものを見極めよう 』(1957年11月1日)

1957年11月1日(金曜日)、全本部教会

聖書拝読:
創世記4:1-8、マタイによる福音書13:24-31、ヨハネによる福音書10:1-6

<祈祷>
 危うい地上で不足する私たちを見つけ出し、心配や悩みから守ってくださったお父様! 私たちは自ら父の前に正しく立ち、お父様の涙を受け止め、お父様の優しい心情を心と身体で感じられるように許してください。
 また、そのような心があるならば、この時を見つけてください。そして、お父様が成そうとされる御業の意志を彼らと共に協議し、終わりの暗闇と死の波がこの時代を襲うであろうとしても、それを見分け越える能力を持つあなたの知恵と力を持たせてください、愛するお父様、切に願います。
 罪に埋もれて生きる人間であるが故に、すべてを自己中心に考えることが容易であり、意図しない意図を立て、それが意図であるかのように動き出すことが容易な私たちであると知っています。お父様、そうした私たちを完全に目覚めさせてください。
 こうして完全な自己の中心を立て、お父様の永遠の命の道に進むことができるように許してください。唯一、お父様の望まれる御心のためにすべてを排除し、サタンと闘い抜くことができる子どもたちとなるように許してください、愛するお父様、切に願います。
 私たちはまだ無知な人々を導くことができる命の基準がどこにあるかを知らずにおり、ただ自分自身のために心配し、祈ったことが多いと思っています。お父様、こうした私たちを目覚めさせてください。私たちの正しい心と身体が原理法度に従って、最後の勝利の地点まで進むことができるように導いてください、お父様、切に願います。
 この時もサタンはお父様が私たちに与えようとしている恵みを阻むためにあらゆる策略と陥穽(かんせい)で混乱させていると知っています。お父様、そうしたすべてを打ち破り、サタンと闘い抜くことができる私たちを導いてください。そして、勝利の狭い門の内側で父と緊密なつながりを持ちながら進んでいけるお父様の子として許してください、愛するお父様、切に願います。
 また、今日終わりを迎えるべき私たちに、すべてを見極める新たな眼差しを与えてください。また、私たち自身を中心に据えた周囲のすべてが、自らの試練の対象であることを知らせてください。
 さらに、それらがサタン的な要素にならないように許してください。私たち自身がそれらを踏み越え、お父様の栄光を示すに足ることができるように、お父様、私たちを導き、保護してください、切にお願いいたします。
 この時、地方に広がり、お父様の前で祈っている家族が多いことを知っています。彼らがどのような状況や環境に置かれているかに関わらず、お父様が直接保護してくださいますように。
 こうして、終わりに委ねられた神聖な使命を果たし、他者に残ることができる姿となれるように許してください、愛するお父様、切に願います。
 お父様の栄光を示す勝利の日を築くために、新たな覚悟と決意を持ち、サタンに立ち向かう力と能力を心と身体に備えることができるように、この時を許してください。また、お父様の無限の愛の手がこの地上の万民、この国の三千万人の民族に現れることを切に望みながら、すべての言葉を主の名によってお祈り致します。アーメン。


<御言葉>
 今日皆さんに贈る言葉のタイトルは『真の道を知り、偽ものを見極めよう』です。
 現代の多くの人々は、真偽を見分けられずに混沌の中で生きています。この時間を通じて、この聖書の文章を通して真実とは何か、偽りとは何かを見極めたいと思います。
 人類の堕落によって、天の嘆きは何千年もの歴史の中で人々に向けられてきました。また、現世の人類にも天の嘆きが向けられていると同時に、私たちの子孫についても天が嘆きをもっています。
 また、人間に授けられた万物にも天の嘆きがあることを知っています。人間が天の摂理を背いて進んだ道が、現代の終末時代のすべての事態の悲しみと嘆きとなったことをよく知っています。では、そのような嘆きを取り除くために人間はどうすればよいのでしょうか?また、どのような姿勢を持たなければならないのでしょうか?これが今日の皆さんが知るべき重大な問題です。
 では、今、皆さんはどのような頂を越えなければならないでしょうか?皆さんは万物の嘆きの頂を越えなければなりませんし、残された人類の嘆きの頂を越えなければなりません。そして、残された天の嘆きの頂を越えなければなりません。言い換えれば、今日の皆さんは、これまでの6000年の歴史を通じて、数多くの人類に向けられた天の嘆きを解消し、また、その人類の嘆きを癒し、創世以来持ち出された万物の嘆きを解消しなければならないということです。
 皆さんは救済還元原理を学んでいるため、救済条件というものを知っているでしょう。個人が一つの救済条件を設けることは、その一因に留まるだけでなく、創世以来現在まで内的に存在する神の嘆き、イエスと聖霊の嘆き、霊界にいる千万の聖人と天使の嘆き、または地獄にいる諸霊の嘆きまでも解消する救済条件とならなければなりません。それだけでなく、その救済条件は現在この地上に生きている全人類の嘆きまでも解消する救済条件とならなければなりません。これを皆さんは確実に知っておかなければなりません。
 また、今日の皆さんは、自らを超えて創世以来の無数の嘆きの頂を越え、終末の最後の審判台に向かって歩まなければならない立場にあることを忘れてはなりません。
 では、今皆さんは宇宙的な嘆きの頂を越えて命の道に向かうか、それともその頂を越えられずに死の道に向かうか、このような岐路に立たされています。そのため、今日皆さんはその生死の岐路に立ち、どのようにしてその頂を越えるか、どのようにしてサタンと戦い、どのようにしてその頂を越えて天の栄光を示すかを考えなければなりません。
 もしもそのような考えを持って生きる人がいるなら、彼の生活は重大なものになるでしょう。彼の視線は自己を超えて天の摂理を見つめる必要があり、彼の感情は罪悪の現実ではなく、この世界を憂いながらも神の真実な愛を感じる必要があります。そして彼の行動は自己のための行動ではなく、万物の嘆きを癒す行動とならなければなりません。
 誰でも、そのような重大な立場から天と地と人間の代わりに歴史的なため息の崖を超えるための生活を送れば、その生活は語り尽くせない驚異的な生活となり、語り尽くせない生命力を発揮する生活となるでしょう。他人がどうであれ、自分の心を守りながら、厳しい困難や逆境、ため息の崖を乗り越え、サタンと戦わなければなりません。
 ですから、今日の皆さんも、それぞれに与えられたため息の崖を越える責任が自分にあることを認識し、立っている足場、持っている精神、見つめる希望と向かう標準がそれぞれどこを向いているかを常に忘れず、反省する人になるべきです。もしそれを忘れてしまえば、忘れるその日がちょうど神の悲しみの日となり、忘れるその時がちょうど人間と万物が皆さん一人一人を通じて持っていた無限の希望と期待が一瞬にして消え去り、再びため息の崖に戻る悲しみの時間となるでしょう。この事実を今日の皆さんは自分の身体と心ではっきり感じなければなりません。
 では、今日の皆さんはどのような崖を超えるべきでしょうか?皆さんはまず、歴史的なため息の崖を超えなければなりません。その次に、皆さんの前後左右に見えない恐怖の力であるサタンたちを打ち負かさなければなりません。
 もし皆さんが歴史的なため息の崖を踏み越えようとすると、そこからはんぱないサタンの力から派生する恐怖の力にぶつかると、皆さん自身の進む道を向かうことができず、横道に向かわざるを得なくなります。
 ですから、今日の皆さんはその道を越えるために、皆さん一人一人の心が捧げられることさえあれば、全宇宙が皆さん一人一人をため息の条件とすることさえあれば、皆さんは命を捧げてその道を越えるためにサタンと戦わなければなりません。
 そのような皆さんがサタンと戦わなければ、皆さんは自らも知らずに堕落したアダムと共に行かざるを得なくなり、また神の意志に反して天倫を背くカインの後を追うしかないことを念頭に置かなければなりません。
 今の時は皆さん一人一人が立って全宇宙のため息をため息の帰還に戻さなければならない時ですから、今日の皆さんには友が一人もいません。また今の時はアダムが堕落する直前に神が直接介入できなかった立場と同じようなそのような時ですから、神が堕落した人間自ら新しい帰還の過程に入って、今までのすべてのため息の歴史を踏み越えさせるために皆さんの仕事に直接介入されないことです。
 ですから、今日の皆さんの周りで見られるさまざまな現象は、これまでのすべてのため息の条件を開拓するために現れるものであり、見える事実があるとすれば、それは皆さんにため息の崖を自ら超えさせるための、つまりため息の崖を帰還させる事実であるということです。
 では、今日の皆さんが天地のすべてに対して溢れるため息を取り除くために、どのようにすればよいでしょうか?皆さんが天地のため息を解放しようとすると、まずすべての存在が皆さんを攻撃しようとするでしょう。その時には、そこに受けて倒れることがあるとしても、死を覚悟して進んでいかなければなりません。今日の皆さんが進む道には、必ず物質的な苦痛が伴うでしょうし、またその物質が皆さんを攻撃し、万民が皆さんを攻撃するときがあるのです。
 イエス・キリストが人類のためにこの地上で帰還的な条件を設けるために現れたときも、万民や万物がイエス・キリストを攻撃しました。私たちがこれを振り返るとき、皆さんが進む道でも人間や万物が皆さんを攻撃するということがわかります。
 また、皆さんが進む道において、神が皆さんを攻撃する時、そのことに絶望して天を恨む人になるとすれば、終末の審判の関門を通過することはできません。
 ですからキリスト教では、すべてを捨てるように言いました。肉体的なすべてを犠牲にするように言いました。自分の内にある人間的なすべてを軽視するようにというのです。その時、人間はようやく良い存在となり、父の栄光を心行くまで享受することができ、父の愛の領域に無限に吸収されて入ることができるのです。そのような人になれない場合、彼は人間の骨の中にこれまでため息の要素が沈殿したままになってしまうのです。
 では、そのため息の要素はどのような歴史的な過程を経てきたのでしょうか?アダムとイヴの堕落以降、6000年の歴史的な過程を経て、そのため息の要素がサタンに導かれてきたのです。皆さんはこれを理解しなければならず、またそのため息の要素を皆さんの子孫に引き継ぐかもしれない危うい瞬間に直面していることを理解しなければなりません。
 ですから今、皆さんは自分のすべてを捨てることができる人にならなければなりません。自分自身を天の前に屈服させ、従わせ、誰よりも早く天を代表してサタンの矢を受ける覚悟ができる人にならなければなりません。サタンとの戦いにおいて誰よりも早く立ち上がる人にならなければなりません。また人間に対しても同様であり、神の意志に対してもそうであり、物質に対しても誰よりも早く自己を犠牲にすると公言する人にならなければなりません。このような人にならなければ、終末の最後の審判を免れることはできないことを皆さんは確実に理解しなければなりません。
 聖書の歴史を時代的に区別してみると、旧約時代は象徴の犠牲の時代であり、次に実際の犠牲の時代であり、その次には心の犠牲の時代であることがわかります。また、これを結論付けると、神・人間・万物が存在するが、これらを一度に帰還させることはできないため、これまでの6000年間のすべての内容が今日の終末の世界に現れていることがわかります。
 つまり、神が6000年間持っていたため息の内容が今日この地上の全ての人類の前に現れているということです。したがって、このような時代に生きる人々は、誰も安らぐことができず、誰もため息の波に巻き込まれないことはできないということです。
 では、このような時代に生きる今日の皆さんはどうすればよいのでしょうか?皆さんはすべてのことで失敗してはならず、時代や場所を超えてサタンの誹謗にかからないように努めなければなりません。そして、皆さんはこれまで自分自身をかけて6000年のため息の歴史が押し寄せてきたことから、その6000年の大洪水の波が皆さんの進む道に横たわっていることを理解しなければなりません。
 皆さんがその洪水の波に巻き込まれないためには、この地上のことに執着してもがき苦しむ人になってはいけません。言い換えれば、自分自身に縛られて神の計画に目がくらんだ人になってはいけないということです。
 では、皆さんがそのような歴史的なため息の崖を越えた後はどうすればよいのでしょうか?これまでガイン的な使命分野を担ってきた皆さんは、アベルとして現れる神の子女を奉仕し、彼を代わりに奉仕し、自分に残っている堕落的なすべてのため息の要素を排除して唯一神の御心に従う人にならなければなりません。
 そして、皆さんは周囲の10人と向き合うとき、その10人が自分を完全な人間にするために自分を性格づけし、自分のため息の条件を取り除く人々として感じ、そうして扱うことができる人にならなければなりません。つまり、皆さん一人を完成させるために周囲に数多くの人々が存在していることです。彼らは誰のために、またはどのような意図で動いているかと言えば、皆さん一人を完全な人間にするために動いているということです。
 また、皆さんはガインとアベルが共に神に犠牲をささげたとき、アベルの犠牲を受け入れた神の立場と、ガインの犠牲を受け入れなかった神の立場が相違しているように見えるかもしれませんが、そうではありません。ガインに天の立場を代弁していたアベルを通じて少しでも心があった場合、神はそのガインの犠牲を受け入れていただろうということです。神は時間的な差異はあったかもしれませんが、公正な立場から彼らを扱おうとしたということです。
 では、皆さんが今や神の前で宇宙的なため息の崖を超え、神が喜び、喜ぶことのできる唯一の犠牲として現れたいと思うならば、皆さんはどうすればよいでしょうか?宇宙万物を帰還させるためのアベル的な祭壇を築き、アベル的な犠牲として羊を捧げるのではなく、皆さん一人の生命の実体を捧げることができるべきです。
 昔のアベルが天の使命を受けて負担せず、血を流して神の計画を挫折させたことと同様に、今日の皆さんもそうではならないはずです。皆さんの周りに現れるすべての事実は、自分自身を完成させるために現れるという心を持ち、どのような人がどのような不正な環境に自分を追いやろうとも、天の道に背いてはならないという堅固な信念を持たなければなりません。そして、皆さんが周囲の環境のすべてを忘れ、ただ父の栄光を示すために死を覚悟して前進できる人になるべきです。
 ケインとアベルが犠牲を捧げた後、アベルの犠牲だけが神に受け入れられたことをアベルがケインを憎んで打ち殺したが、ケインがアベルを憎んでいたときから、皆さんは理解する必要があります。ケインは神が自分の犠牲を受け入れないので、一瞬のうちにアベルに対する憎しみが生まれ、彼を殴ったのではなく、その出来事にぶつかる前からアベルを憎み、殺したいと思っていたのです。
 そのような堕落的な血統を受け継いだ今日の皆さんが宇宙的なため息の崖を超えるためには、どうすればよいでしょうか?今、皆さんは神への不信と闘争の条件を確立する祭壇を築くべきではなく、父の栄光を紹介し、父に喜びと栄光をもたらす勝利的なアベルの祭壇を築くべきです。
 したがって、今日の皆さんの生活は単に個人に限定されるものではありません。全体を代表する生活なのです。皆さん一人一人が父の前に伏せるその時が、その時間、意志を中心に生きる生活が、その時間と生活で終わるものではありません。そこでケインの立場かアベルの立場か、という二つの分岐路が決定されるのです。つまり、今日の皆さんは過ちによってアベルとなり、また過ちによってケインとなるかもしれない、この莫大な歴史の崖に直面しています。
 私たちが帰還の原理を見ても、人間をよりアベル的な存在として見つけて、礼拝し、奉仕させることを目指していたのは、これまで神が6000年間労働された摂理の歴史であることがわかります。したがって、すべてを帰還させるために、神は世界的なアベルとして人類の前に一人を送ったが、その人はイエス・キリストであったのです。
 当時のユダヤ人やイスラエルの民が、昔のケインがアベルを妬んで憎んだことと同じ立場を取らず、ケインの立場ではなくアベルの立場にあるイエス様に絶対服従し、礼拝すれば、彼らは宇宙的なため息の崖を超えることができたでしょう。また、そこから、神が望まれた生命の祭壇、つまりアベル的な栄光の祭壇をこの地上に建設することができたでしょう。しかし、当時のユダヤ人やイスラエルの民がイエス様を妬み、憎んで十字架にかけたため、そのような意図が一時にして挫折したことを、今日の皆さんは確実に知っておかねばなりません。
 今、皆さんが無限の欲望を抱き、無限の永遠の世界を讃えるのであれば、ただ自分自身にとどまっていることはできません。皆さんに迫ってくるすべてのため息の崖を超えなければならず、無限の悲しみや苦難にもかかわらず、それを踏み越えてサタンと果敢に戦うことができる人にならなければなりません。
 また、皆さんは天に従って忍耐しなければなりませんが、ある時だけではありません。耐え続けるが、ある時だけ耐えることはできず、自分の命が消えるその時まで天に従い、苦難に耐えねばなりません。もしもそのような皆さんがなれない場合、皆さんは終末の最後の審判の崖を越えることができないことを心に留めておかねばなりません。
 では、今日の時代はどのような時でしょうか?神の意志がこの地上に現れる時です。今日のこの地上にはケインとアベルがいます。マタイ13章にある言葉のように、この地上には雑草と穀物があります。また、ヨハネ10章の言葉のように、門を通り抜ける真の牧者がいる一方で、門を通らずに他へ行く偽りの牧者もいます。ですから、誤解すれば、私たちの教会でも同様の状況が起こり得ることを皆さんは直視しなければなりません。
 そんなことを知り、今や皆さんは教会を中心にして誰がアベルであり、誰がケインであるかを見分けなければなりません。二人がいれば必ず一人はアベルであり、一人はケインであること、三人がいれば二人はアベルにもケインにもなり得るが、最も中心的なアベルとケインがいること、これを皆さんが確実に見分けなければならないことです。そして、そのケインとアベルが一つにならずに分かれてはなりません。
 一方は正しい手であり、一方は悪い手であることです。ですから、誰もが私の神でありながら、あなたの神であり、私を愛するだけでなく、あなたを愛する神であるという信仰の立場から、お互いにアベル的な存在を見つけ、ケイン的な立場を避けるための最大の努力をしなければなりません。もしもそのような人になれない場合、皆さんはいつでも天の審判にかかり、ただちに見破られることを確実に知らねばなりません。
 今日、私たちの教会を中心に見ると、必ずしもケインとアベルが存在します。したがって、神はアベルを通して言葉を示し、すべての人がアベルと一体になることを望まれています。しかし、アベルと一体にならないようにする者がいます。それが誰かと言えば、まさにサタンです。したがって、正しい信仰を持つためには、あなた自身よりもアベル的な存在と一体になるために、根本と自分のすべてを検討することができる必要があります。
 かつてエデンの園で、太陽は天使から誘惑の言葉を聞いてアダムと相談し、「天使がこう言っているのですが、どうすればよいですか?」と相談しましたが、太陽は堕落しなかったのです。また、太陽が神と相談したが、堕落しなかったのです。しかし、太陽はその誘惑の言葉を聞いてアダムと相談せず、神と相談しないことで、堕落する過ちを犯してしまいました。
 神は「食べてはいけない」という掟を定めましたが、それを否定する天使が太陽に対し、「その日にそれを食べると、あなたの目が開き、神のように善悪を知るようになる。」(創世記3:5)と誘惑したように、今日でも、このようなサタンの巧妙な動きが、あなたが気づかないうちに起こっています。
 したがって、今日のあなたは、あなたの周りで起こっているすべての事実を識別することが必要です。農夫が収穫の時を迎え、穀物とからくり、血と穀物を識別できるように、あなたも神とサタンの行為を識別し、その結果を判断できるようになる必要があります。
 今、あなたはどのような人になる必要がありますか?収穫の喜びを味わう人になる必要があります。あなた自身が父の前に誇らしく立つことができる人になる必要があります。からくりの実を結ぶのではなく、真の穀物の実を結ばなければなりません。したがって、今日のあなたは、天からの恵みを正しく受け入れることができるよう、真の穀物として成長しなければなりません。そして、あなたは天が恵みを与えるその時を知る必要があります。
 神は堕落した人間を救うための新しい摂理の時がいつなのかを知る必要があります。あなたが神の新しい摂理の時を迎えて、からくりの立場にならず、真の穀物の実として結ばれるために、すべてを正しく識別することができなければなりません。
 しかし、人間は6000年の歴史の中でまだ真実と偽りを正しく識別していませんでした。人類史を代表して真の穀物として実を結んだ者は、まだ一人もいませんでした。歴史以来、多くの人々が一貫して望んでいた実を結んだ人はいなかったのです。ただし、それを収穫するための使者がいるなら、その方がまさにイエス・キリストであったことをあなたは知る必要があります。
 今日、皆さんは人間が最終的に結ぶべき実がどのような形で結ばれるかを心配し、切望する心で生命の道を向かわなければなりません。それによって、自らが生命の道に入り、新たな第二の生命を生み出す姿にならなければなりません。
 あなたの心には常に真実だけが存在するわけではありません。あなたの心という畑には、真の穀物が植えられることもあれば、からくりが植えられることもあります。単にあなたが滞在する環境にだけからくりが植えられているのではなく、あなたの心の奥に堕落の要素が残っていることを意味します。それを取り除き、自分の心を清めるために犠牲の道を歩まれた方は誰でしょうか。それは今日の皆さんが確実に知るべきことは、イエス・キリストであったということです。
 それでは、皆さんの生活はどうでしょうか?皆さんが日々の生活の中で一度動くたびに、その行動が真実か偽りか、どちらかになります。皆さんが見たり、聞いたり、話したり、感じたりするすべてが真実か偽りかです。このように、皆さんは自分自身を中心に立ち上がる一つ一つのすべての事実が真実と偽りの分岐点にあることを感じなければなりません。
 今日の皆さんの心にはケイン的な面とアベル的な面があります。また、皆さんの心にはからくりと真の穀物があるということです。したがって、皆さんがどのような行動をした後は常にそれがケイン的だったかアベル的だったかを反省することになります。
 このように、すべてはケインとアベルの立場、または全方位の存在として存在しています。ですから、今日の皆さんはどこに行くにしても、アベルのものはアベルのもので、ケインのものはケインのもので見分けて立てなければなりません。下等動物でさえ、自分が食べる草が毒かどうかを見分けるのに、万物の王である人間が自分にぶつかってくるすべての事実を正しく見分けなければならないことです。誰がケインであり、誰がアベルであるかをはっきりと見分けなければなりません。
 もし昔、太陽が自分にぶつかってきたその誘惑の手を正しく見分けていたなら、堕落しなかったでしょう。神の言葉に頼って生命を賭け、最後までサタンと戦っていたら、太陽は堕落しなかったでしょう。しかし、時には時としてのものを欲する不貞な欲望を見分けられずに堕落してしまったことを皆さんは確実に知るべきです。
 今日、皆さんの前にはからくりと真の穀物があるでしょう。真の牧者と偽の牧者もいるでしょう。ですから、今こそ皆さんはそれを正しく見分けなければなりません。真の牧者は自らが真の牧者であるとは言いません。いつでも黙々と神の御心と、すべての万物を自分の心に抱き進んで行くだけで、自らの立場を弁明しません。ですからイエス様も、ピラトの法廷に立った時、悪人たちは自らが正しいと主張しましたが、イエス様は自らを弁明しませんでしたことを振り返るべきです。
 しかし、終末のいつかは、何が真で何が偽かを見分けることができない時が来るでしょう。そのため、神はそのような時を迎える人に油を塗り、密室に入って祈れと言われました。互いに自分が正しいと主張した後では、激しい混乱と混乱が起こり、誰が真の牧者であるか偽の牧者であるかを区別することができなくなるため、静かに密室に入り、自分自身で祈って判断するように教えられたのです。
 真の子は、父が褒めることがない限り、自己を自慢せず、自分自身を弁明しません。父の栄光の座に立っても、それを自慢せず、むしろ自己を謙遜させようとするのです。ですから、今日の皆さんもそのような人になるために、不断の努力をしなければなりません。今日の私たちの教会を中心に見ると、自分自身は知らないが先生がそのような道を切り開くために、霊的または実質的な面で激しい闘いを繰り広げていることを認識しなければなりません。
 現在、皆さんは踏み外すと暗い死の権下に落ちる可能性があります。全体を助けようとするよりも、自己の利益を中心に置く、つまり欲望を満たそうとする要素が多くあります。そのため、今日の皆さんはそのように欠けた自己を否定し、すべてを父に委ねて、「父の御心が行われるように」と内面的な心情を持たなければなりません。もし皆さんがそのような心情を持たずに進むなら、皆さんは無駄な足掻きをするしかありませんし、サタンが支配する死の権力から逃れるすべがありません。
 今、皆さんが進む道にはサタンの試練が多いでしょう。また、霊的な経路を通じて行く人は多くの試練に直面するでしょう。そのため、サタンが自身の試練で人間が倒れると、「あなたがこれでどうなるのか?」と嘲笑しながら皆さんの道を遮るでしょう。
 ですから、今日の皆さんにはサタンのそのような嘲笑を避ける道がなければならず、皆さんはその道を原理を通じてよく知っています。それでは真の牧者はどのような牧者であり、真の子に従う真慵はどのようにすべきか、真の御言葉を通して播かれる種、つまり真の穀物を結ばせる種はどのようなものか、真のアベルの立場に立つためにはどのように生活すればよいかといったこれらの問題を解決して越えなければなりません。
 したがって、皆さんは天地の前や人間と万物の前に自分を立てるアベルの資格を備える必要があります。そのためには、誤った道を避け、真の道を進むことができるでしょう。これを心に留めておいてください。
 あなたが自分に微かに教えられるものがあるからといって、軽率に動いてはいけません。確かな真理による方向性がない場合、絶対に動いてはいけないということです。たとえ誰かが新しい事実をはっきりと教えてくれたとしても、それをそのまま信じてはならず、必ず自分よりもアベル的な人と相談しなければなりません。もしそれをあなたたち自身で考え混乱させると、天使界の霊的な堕落などの現象が起こることをあなたは確実に知るべきです。
 今日、終わりの日を迎えた皆さんは、アベルの立場から父の前に捧げられるべき一つの贈り物を持っている必要があります。もし皆さんが真のアベルとして立ち上がろうとするならば、唯一父だけが知り、自分だけが知ることができる贈り物、誰もが持つことのできない貴重な贈り物を持っていなければなりません。もし他の人に知られたら、その贈り物が真の穀物であっても、からくりになってしまうということです。
 ですから今日、皆さんは誰もが知りえない真の穀物の贈り物を準備し、父の前に心を込めて捧げなければなりません。そうすることで、皆さんは父の真の従順な子、またこの地のすべての民のアベルとして立ち上がることができ、新しい生命を再び実らせることができるでしょう。
 そして終わりの日を迎えた皆さんは、ただ父の従うだけで終わるのではなく、万民を導く指導者にならなければなりません。父の国が完成したとき、万民を導く指導者として喜び、真の牧者として喜ぶことができなければなりません。そのためには皆さんが誰の力も借りず、自分自身の隠れた真摯な贈り物を父の前に捧げる羊の群れにならなければなりません。
 盗みと強奪はどのような人ですか?自分のものではないものを自分のものとして利用する人です。今日でもそのような人々が多いようです。私たちの教えを利用して、自分たちのものでないものを自分たちのもののように使っているということです。天からもらったら天に返し、自分のものとしてもらったら自分のものとして使う人が正しい人です。天からもらったものを自分のものとして利用する強奪や盗みのような人になってはなりません。
 ですから、今皆さんはアベル的な存在として立つための条件を持たなければなりません。真の牧者の倉庫に入ることのできる真の実りを結ばなければなりません。真の牧者が喜び、楽しむことのできる真の実り、真の穀物にならなければならないということです。春の季節に咲く花はどのような花であっても、秋には実りを結ぶことです。しかし、その花が秋に豊かな実りを結ぶためには、成長する過程で適切な温度、湿度、栄養が必要です。
 今後も、皆さんが天の意志を受け継ぐアベル的存在として果実を結ぶためには、今日も明日も、10年後も20年後も30年後も、あるいは60年後も、死ぬその瞬間に至るまで、天に対する真心を尽くし、誠実に仕えることが求められます。また、死の床に就いたとしても、変わらぬ中で父に対する信仰の道理を尽くすべきです。
 しかしながら、信仰生活において信じられないことがあったり、あるいは無知で知らないことがあった場合、そのように不確かな事実に動揺して行動してしまうことは避けるべきです。もしも不確かな事実に動揺して行動してしまった場合、自然とサタンの立場に陥ります。そのようになると、最後の審判の座に立たざるを得なくなるでしょう。
 皆さんが進む道には必ず敵が現れます。信仰的な敵が現れ、経済的な敵が現れるでしょう。また、進んでいく中で、わたしたちの統一教会の家族同士が互いに敵として立ちはだかることもあるでしょう。そして、サタンは皆さんが一度でも誤りを犯すその瞬間を狙い、皆さんをカインの道へと追いやろうとします。そのような敵に立ち向かい、カインの立場に立たないためには、どのように生きるべきでしょうか?皆さんは、自分を犠牲にしてでも、全体のために生きなければなりません。
 皆さんの心は親の心として、体は主の体として、すべての人々のために生きるべきであり、だれよりも真心を尽くして父をたたえ、父の前に真っ直ぐな供物として立つべきです。こうして人間が堕落し失った「息子」「成長」「完成」の三冊の書を超えるために、天に対する忠誠の道理を尽くさなければなりません。皆さんがこれまで数十年間にわたって父の前に忠誠を尽くしたとしても、それだけではすべてが終わるわけではありません。
 今後、どのような忠誠を示そうとも、皆さんは自らの一代で三代以上の忠誠を尽くさなければなりません。そして、そのようになると、堕落した「息子」「成長」「完成」の三冊の書を一挙に還元できるでしょう。もしそのような皆さんになれないならば、最終的にはサタンの支配する領域にとどまることになり、父の前に真実なアベルとして立つことができません。
 したがって、今こそ皆さんは父に対して、サタンが知らないし、サタンが讒言することのできない忠誠と信仰の道理を尽くすべきです。皆さんの一途な忠誠が永遠の忠誠として残るために、皆さんはサタンの結果である邪道を見分け、天の真実な道に従い、最後の瞬間まで父の前に従順であり、真の供物として立つべきです。


<祈祷>
 愛するお父様、わたしたちはこれまで前しかあると思っていたが、後ろがあることを、今日をもって知りました。また、今日だけでなく明日もあり、上があると思っていたが、下もあることをこの時知りました。
 また、それが永遠の計画に基づいて結ばれているならば、右が左になり、左が右になる、つまり前後左右が入れ替わっても、父の前に立つことができることを知るようになりました。
 しかし、まだ人間の本質的な罪の根源を取り除くことができていないため、今日のこの時代は前後左右上下が混乱し、正しく交換されていないことも感じるようになりました。
 愛するお父様! 今や、父の永遠の計画を中心にして前後左右が完全に一つになる喜びの日が早くやってくるように許してください。
 今、私たちは自分自身を捨てようとする心はなく、自分を立てようとする心だけがあったので、いつかお父様の審判を免れることはできないことを悟らせてください。
 そうして私たちは、上が下を代わり、下が上を、右が左を、左が右を代わり、結局はすべてが不可分の関係を築き、お父様の前で誇れる姿として、お父様の栄光を歌う真の父の子どもになれるように、愛するお父様、切に求めます。
 お父様、今この時代は見えない邪道が私たちの前に横たわっていることを知っておりますので、今や私たちはその道を見極め、静かに天に向かって進みながら、勝利の日の意志を成し遂げ、お父様を喜ばせるお父様の子どもになれるように、許してください。
 これまで一つの目標を見据えてきたすべてが一つの目標で終わり、一つの目標で実を結ぶその日の父の喜びが早くこの地上に現れるように、また、お父様が喜ぶその心に共感し、私たちも喜ぶことができるように、愛するお父様、切に求めます。
 残されたこの時間も全て、ただお父様がお預かりになり、お取り計らいください。すべての言葉を、主の名によってお祈り申し上げました。アーメン。






文鮮明先生の言葉選集 3 - 13. 「神の力は一つの心と一つの意志が結ばれた場所に現れる」(1957年11月10日)
1957年11月10日(日)前本部教会
使徒行伝4:27-5:11


<祈祷>
 愛お父様、最後の戦いが私たちの目の前に迫り、イスラエルの民に告げ示され、示された父の御心をこの地上に成就させねばならないこの場所で、再び聖霊が現れなければならない時が迫っていることを認めます。
 今は前例のない歴史的犠牲を全地球の前に示さねばならない新たな時であり、お父様の無限の努力の手を共にしなければならないと感じております。お父様、お任せください。立ててください。呼んで命じられるときには、天の力と能力を授けてください。お父様が望まれる御心をこの地上に成就させ、余剰があるように、歴史をなさってください。お父様、切望し、願っております。
主を失い、120人の弟子がマカの屋根裏部屋で一つになり、叫び声を上げたその叫び声が天地を通して新たな再創造の歴史を引き起こしたことと同様に、今日、私たちも心と体が一つとなり、お父様の御心を代わりにマカの屋根裏部屋に集まった120人の弟子と同じ歴史を私たちの心と体に示してください。
 そして、天が震動し、地が揺れ、勝利的な天の栄光がこの地上に現れることを許してください。お父様、熱望し、望んでおります。そして、これまで多くの先達がただお父様の御心のために自らのすべてを捧げたことと同様に、私たちもお父様の御心の前に純粋な心で従う生ける犠牲として捧げられることを許してください。愛するお父様、切望し、望んでおります。
 この時間、私たちのすべてを父に委ねました。喜びの御心を示してください。約束された時と場所を延期しないでください。急いで起こし、6000年間にわたって結びついた憎しみの感情を解消してください。お父様、切に頼み、望んでいます。
 この場に集まった私たち一人ひとりが、新たな決意と決心を持ち、新たな誓いとしてお父様の子女の資格を自ら持ち、進んで行けるように許してください。
 切に願い、望み、すべての言葉を主の名においてお祈り致しました。アーメン。


<御言葉>
 今日のこの時間は、「神の力は一つの心と一つの意志が結ばれた場所に現れる」と題して、お話ししたいと思います。
 イエス様が復活された後40日間、この地におられ、慰めの聖霊を送り、約束され、昇天されましたが、イエス様を追っていた弟子たちは、イエス様が復活された栄光の姿を見て、神の約束の意味が成就されると思い喜んでいましたが、イエス様は彼らにいつ「再び来る」と明確な言葉を述べないまま昇天してしまったのです。
 では、当時の弟子たちの心境はどうだったでしょうか?愛する主イエスを十字架に掛けた不信のイスラエルの民とユダヤ教の一派に対する言いようのない敵意が湧き上がったでしょう。復活した主の御心、神の御心であれば自分の身が粉々になり、骨が溶けることすらあるとしても、最後の勝利のために復活した主を追いかける覚悟を持っていたことでしょう。
 そのような覚悟、すなわち主が去られた後、天に慕い求めていたその心、死ぬことがあっても、または困難な十字架の道が遮られているかもしれないが、この道を放棄してはならないという覚悟を持っていた姿で、弟子たちはこの人あの人に対して励まし合ったでしょう。そうしてこのような心境にあった弟子たちに、イエス様は現れて聖霊を送り、約束されました。
 その後、マカの屋根裏部屋に集まった120人の弟子は、天が背後で起こすことも想像もつかない体験をしてから、歴史的なすべての理の意味を受け止めることができ、またイエス様の30年間の人生の経験と3年間の公生涯の中で感じた内的な心情を共感する段階に入ったのです。
 そして彼らは、自分たちがイエス様を裏切った罪悪感に押しつぶされずにはいられず、この地に来られたイエス様が自分たちにそうではない天の唯一の子であったことを悟るようになりました。
 さらに彼らは、イエス様がこの地に万民の救い主として来られたことを確実に悟れば悟るほど、心の中で鉄壁の覚悟と決意を持ち、兄弟と兄弟、使徒と使徒、信徒と信徒が励まし合い、一つの心を中心にして一つの目標に向かって動くようになりました。
 彼らが追求する一つの意志のために、お互いが心を交換し、お互いに一体となって、120人の弟子が一人ひとり異なっているが、父の御心に従って進む方向とその動きは一つの姿として現れることです。
 このような現象が使徒たちの間で起こり、彼らは燃え盛る心を持ち、その後彼らはどこを向いて叫ぶようになったのでしょうか?彼らはイエス様を反対したイスラエルの民を向いて叫び始めました。そして、イエス様を信じない多くの人々に対して、新たな決心と覚悟を持って新たな誓いとして、自分たちが一体となっているその心を曲げる者がないことを示しました。
 自分たちが最初に天の前に固く誓い、覚悟した姿で現れたことはもちろんですが、いかなる迫害が激しい環境であっても確固たる中心を持って現れる時に、天は彼ら一人ひとりをイエスの代わりの存在として立て、使命を委ねられたことを皆さんは知るべきです。
 このような心を持った人は一人だけではありませんでした。そして、主を失った悲しみが大きければ大きいほど、その心には悔しさが入り混じり、神の御心が強く動くほど、その心には天を裏切った群衆に対する敵意が強く高まりました。彼らを一挙に砕き、天の御心を即時に成就させる覚悟で天に対して現れた時、ここには人間ではなく、神の力が現れたのです。
 ここで人間としては想像できない神の直接的な権能の行使が無知な民、不信心の民、反逆的な民に示されたことを私たちは知らなければなりません。
 こうして120人の弟子がマカの屋根裏部屋に集まり、聖霊を送って下さるというお約束を心に信じ、一つになって祈ることがなければ、今日のキリスト教は世界的な宗教にはならなかったでしょう。
 その時、地に伏して祈っていた120人の弟子には恐れる心がありませんでした。自らの名誉や自らの体面、そして家庭さえもすべて忘れ、ただ主の約束がいつか、どこかで果たされると信じ、120人の弟子が一つになって祈るとき、4000年間、天と地の間に立ちふさがっていた死の支配を打ち破り、聖霊が地上に臨んだのです。
 この出来事は偶然ではありませんでした。この出来事によって人間を再び創造できる新しい道が切り開かれたのですが、これが誰によって成し遂げられたのか?これは120人の弟子が一つの心、一つの熱意、一つの犠牲の精神で父の御心を望み求めた切実なその心によって成し遂げられたのです。こうして地において行われなかった聖霊の歴史がようやく新たな歴史的な出発をすることができたということをあなた方は知らなければなりません。
 120人の弟子は天に向かって切望する心に感動し、どんな敵にも対処しながらも死を覚悟して進んでいく心を持つようになりました。ここに天の力が再び働いたので、この力は誰も断つことができなかったのです。このような力が踏み台となって彼らが言葉通り天を動かせる力を行使したことをあなた方は知らなければなりません。
 では今日の神の御心を成就するためにはどうすればよいでしょうか?まず第一に、私たちは神と一体となる心を持たなければなりません。神と一体となる心の持ち主になった後、私たちはまた兄弟と一体となる心を持たなければなりません。これが最後に神の御心を成就するための最も重要な礎になるということをあなたがたは忘れてはなりません。
 この地上には千人いれば千通りの考えがありますが、神の御心は一つです。そのため、私たちは自分の意見や提示する条件を踏みにじり、全てのものを取り除き、父の御心、父の条件に従うべきです。私たちの考えや心が異なり、それぞれの立場や環境が異なっていても、父の御心と一致しなければ神の御心は達成されないということです。
 では、当時の使徒たちはどの程度まで一致していたでしょうか? 有無相通する程度まで一致していました。彼らは自分のものと他人のものの区別がありませんでした。彼らは神の御心を中心に置き、私はあなたであり、あなたは私であるという統一の心で、一つになりました。したがって、彼らは誰がどのような困難に直面しようとも、それを個人の問題として放置せず、自らの問題として捉えました。
 兄弟の苦難を自らの骨と肉、髄として感じるようになったとき、天も動きました。つまり、あなたも互いに自分のすべてを忘れ、ただ父の御心だけを求めるためにどんな犠牲が伴っても自らのすべてを捧げる覚悟、兄弟の苦難を自らの苦難として感じる心を持つ者にならなければなりません。
 今、地上に生きるあなた方にとって、物質が敵です。あなたが自分の財布に入っているお金を自分のものと考え、また自分だけがそのお金を使えると考え、私の意志のためにそのお金が使われるべきだと考える自己中心的な考えに捕らわれているならば、あなたはまだ父の御心を中心に置き、一つになった立場にありません。
 これに対する天の憐れみと哀れみは、あなたが想像する程度の悲しみや哀れみではないことを理解しなければなりません。あなたが想像できないほどの悲しみ、あなたが想像できないほどの緊急事態に置かれていることを、あなたが思いやり、理解する必要があります。
 さて、あなたは使徒たちを見習い、全信徒が従っていた初代教会の動きを取り入れなければなりません。そうしないと、天の祝福を受けることができない最後の聖者たちであり、天国の審判の行使を代行しなければならない最後の聖者たちであるあなたは、天の御心を自分のものに利用する人となったのではないか、自らを考えなければならない時が来たということを心に留めなければなりません。
 このような使徒たちの動き、あなたにとっても私にとっても、全体が一つの心となることを阻むものが現れるのは、サタンの働きです。それは、信じるすべてのものを一つにし、神の審判を代行するように、全てを信じ、一致できる環境を崩すためのサタンの働きです。
 このように一つに結ばれた使徒たちの前に、誰が現れたかというと、アナニヤとサッピラが現れました。彼らは使徒たちが行動し、信者たちが動くのをうらやましく思っていたのです。しかし、それは世俗を中心にした、うらやむ気持ちだったのです。今日の私たちにとっては、これを忘れてはならないことです。
 天の驚くべき恵みは、だれにでも栄光ある恵みとして示され、だれもがそれが自分に現れることを望むでしょう。ペテロが一言言うだけで、数千人が悔い改め、あるいは異言を話し、病人が癒されるなど、想像を絶する驚くべき出来事が起こるのを見て、アナニヤとサッピラが同じ立場にあることをうらやみながら、自分も同じ立場に立とうとする人間的な考えを持ち、一つの聖徒の姿として現れるとき、天は許せなかったのです。今日のあなた方は、特にこれを忘れてはならないでしょう。
 自分が持っていたものを売って、いくらかを隠しておき、一部だけを差し出し、その後すべてを差し出したかのような振る舞いをすると、天の意志を破壊しようとする、巧妙なサタンの策略であることを、あなた方は知らなければならないでしょう。
 自分の真心をそのまま示して、天の意志に吸収される聖徒ならば、差し出すことは問題ではありません。『私の心を全部差し出します。死んでも生きても、あなたの喜ばれるとおりに主がお使いになり、支配してください』と祈りながら、切望する心を持ち、すべてを忘れて差し出し、動く使徒たちの前にアナニヤとサッピラが自分の欲望を中心にし、自分の問題を心配し、立ち去ったことは、イエスの昇天直後、初代教会が新たな基盤を築かなければならない場で、天の道を遮る最大の条件となったのです。
 アナニヤの心情が聖霊を通して露呈されると、ペテロは、「天には許されないサタンがあなたの心に入り込んでいる。あなたにサタンが侵入したことは許されない」と言い、聖霊の言葉を代弁し、アナニヤを裁いたことを、この時に悟らなければなりません。
 それでは、今度は私たちはどのような心構えを持つべきでしょうか? 自分を中心に置いた条件を立て、天の意志に立ち向かおうとする者は、アナニヤやサッピラと同じ立場に置かれることになります。これは何を予告しているのでしょうか?これは、一つにまとまる群れの前に一体になれない要素を持つ者は、終末の審判の時、死を免れないことを予告しているのです。
 マルコの屋根裏部屋に集まった120人の弟子は、昇天した主イエスのためにすべてを捨て、自分の名誉や面目やすべての社会的状況を忘れ、あなたも私も一つで、こちらもあちらも一つで、約束された言葉を崇拝しながら、一つに結びついたとき、ここで天の新たな計画が聞かれました。
 終末の使命を担う私たちには、マルコの屋根裏部屋に集まった120人の弟子に起きたような歴史が起こるべきです。そして今、この時こそ、聖霊と聖者と父の歴史が、あなた方一人ひとりの身体で繰り広げられる時なのです。
 それでは、終末に父の前に立つ者は誰でしょうか? 主の名と父の名がその額に刻まれた者が、終末の父の前に立てる14万4千人の群れに入ることができると仰せになりました。
 今日の私たちは、聖霊の歴史を通じてキリストの認めを受け、キリストと聖霊の認めを受けた後に、誰の認めを受けるべきかと言えば、父の認めを受けるべきです。そして聖霊は母なる神であり、イエス様は父なる神と言われていましたので、これまで聖霊を受け取ったならば、今度は父なる神を受け取る時が来たということです。
 したがって、私たちが父なる神を受けるためには、どうすればよいでしょうか? 父と私とが永遠に一つになる資格を得なければなりません。では、一つになるためにはどれほど切望すればよいのでしょうか? イエス様が復活して40日間を過ごされ、約束を残して昇天された後、120人の弟子が一つになり、切望の心で待ち望んでいたその以上の切望の心で、「父の神よ、早く臨まれますように!」と切望しなければなりません。その時が今私たちの前に来たのです。
 では、この時にあなた方はどうすればよいでしょうか? あなた方は自分のものがないという事実を知るべきです。私の体も私の心も私のものではないということです。自分のものだという人は、まだサタンの側にいるのです。あなた方の分け前とは、あなた方の心の中で感じる使命だと考えてください。私たちはこのような心を持たなければなりません。
 私が私のものでなければ、私は誰のものになるべきでしょうか? 私は父のものにならなければなりません。父のものになるためには、父の御心を中心にし、一つの心とならなければなりません。一つの心と一つの意志がなければ、神の御心は成就されません。
 120人の弟子がマルコの屋根裏部屋で一つになったように、終末において120人の弟子以上の人々が一つの心で結びつけることができるでしょうか? これが問題ですが、そのような道を行く私たちにとって、誰が敵でしょうか? 一つに結びつくことを断ち切り、破壊する条件を提示しようとする集団があるなら、そのような集団があなた方の敵です。
 今日、私たちが戦わなければならないのは、世界のサタンではなく、聖徒たちが動く様子や、天にいる使徒たちを中心にし、信徒たちが動く様子と同じ様相を持ち、自分の心に誤った心を抱いて動くこのような群れが、今日の私たちの敵であること、あなたたちの中にそのような心を持つ者がいるならば、聖徒たちの前に正直に打ち明けなければならないことです。打ち明けずに天の前にこれを隠していって、重苦しい条件に陥りながら、天の前に進もうとするならば、その人の終末の運命は審判台を免れることはできません。
 ですから、今日のあなたたちは心のかばんを解いて置かなければなりません。そうしないでアナニアやサッピラのようなそのような心に捕われて、心身で自分を囲み、自分のものを満たして置き、天の全体の価値を考えず、神と一つにならず、一つの意志を達成しようとするこのような心を忘れ置かれて、自分のものとして主張すれば、終末には天の審判を免れることはできません。
 では、今あなたたちは何を知らなければならないでしょうか? 自分が二つの心を持っている矛盾した存在であることを知らなければなりません。そしてあなたたちと異なる考えを持っている兄弟がいることを知らなければなりません。そうであっても、あなたたちはあなたたちと異なる考えを持つ兄弟を反対せず、その兄弟と一つになろうとしなければなりません。これが父の御心です。
 あなた自身が真実な命を持つ存在として、天の義の歴史を経験した十人と一つになれば、十人の物質を持つようになり、百人と一つになれば、百人の物質を持つようになるのです。
 堕落とは何か? 神と私たちの心が一つにならなかったことです。サタンは何か? 天と私たちとの心を引き裂いたものがサタンです。あなたがたが今日この教会を中心にして、父の御心を求め、原理の言葉を学びながらいます。この原理の言葉を中心にして生活することが神の御心であるため、あなたがたがその御心を中心にして生活しない限り、アナニアやサッピラのようなそのような立場を免れることはできません。
 今、そのように非常に恐れ多い時であるため、あなたがたが今条件に陥れば、脱出する術がないことを知らなければなりません。誰一人として自分を守るために弁明してくれる時が来ていることを知らなければなりません。昔も今も無知な人々は、天の方向と衝突した後に気付きます。しかし、その時はもう遅いのです。
 あなたがたに父の御心を案じる心がありますか? そうであれば、兄弟たちと一つになりなさい。父の御心を求めて努力する心がありますか? 自分が一つになれる生命の源となりなさい。一つになれないすべての条件を補うし、自分が居る所で一つになれる力を示す人が、お父様の子・娘であるのです。
 父の御心のために最後の戦い場に立ち、父の御心を達成しようとする責任感を感じる皆さんなら、自分のすべてを忘れて統一しなければなりません。一心一意になって、一つの姿を持たなければなりません。ここに裏切り者がいるとしても、ペテロがため息をついたように、皆さん自身がまずこの心を持ち、それぞれがサタンのすべての条件を排除しなければなりません。そうしないと、最初は神の御心を強く支持していても、知らぬ間にサタンの支配下に落ちてしまうことになります。これを忘れてはいけません。
 今、一心一意になれない場合、むしろ原理を知らずに神の御心を知らなかった方がましなことでしょう。もしアナニアやサッピラが使徒たちの集まりを知らなければ、裁きを受けなかったでしょう。こうして、壮大な歴史的瞬間に皆さんが立っているのです。
 今、全てを忘れ、一心一意になり、そのために熱中し、全力を注ぎ、忠誠を尽くし、最後の父の手にしっかりとしがみつかなければなりません。
 すると、皆さんは勝利の子となるでしょう。最後に聖霊の手を経て、イエスの手を経て、父の手を握った後、再びサタンは奪うことはできません。このような瞬間に直面している今日の皆さんは、「アーメン」とおっしゃられた主の約束を心に留め、今日も明日も、使徒たちが切望したように熱心な心で父の手を握り、父の命令に従って行動し、善と悪を見分ける資格者とならなければなりません。そうしなければ、聖霊の裁きもイエスの裁きもなく、父が行う裁きの大いなる山を越えることはできません。
 父の裁きの時がまだ来ていないため、イエスや聖霊の時には罪を犯しても許されましたが、父の裁きの時には許しがないということです。私たちはこの意味を理解し、私たちの心と意志が一致しない人がいれば、父も運行できないという原理の言葉を学びました。そして、どの程度統一されているかに応じて、神の御心がそこに比例して現れることを理解しなければなりません。
 今、皆さんが父の聖霊を受けて、父と同じ心で生活する人にならなければならない時です。そうなると、皆さん自身に父が直接教えてくださることがたくさんあるでしょう。父が自ら現れて介入し、皆さんの進む道を教え、サタンと戦う方法も教えてくれるでしょう。
 したがって、皆さんは互いに父なる神の聖性を受け取り、父なる神と同じ心を持ち、父なる神の御旨を受け入れ、父が私を代わりにし、私もまた父を代わりと感じると同時に、一体となることができなければなりません。このような形が広がるにつれて、次第に父なる神の御旨が達成されることになります。何度も祈るよりも、皆さんが一体となろうとする努力を、他の誰よりもたくさん行い、深くその価値を理解し、御旨のために闘う心を持つことが重要です。そうでなければ、裁判台に立たされることになるでしょう。
 ですから、この時点では、皆さん個々人が心と体を合わせて父なる神の聖性を受け入れ、父と一体となる生活をしなければ、父の御旨を知ることもなく、父の御旨を知らない限り、父の心も知らないということです。父の心を知らない限り、父の御旨を中心にして一体となることはできないのです。
 皆さん自身がこれまでこの教会に通ってきたからこそ、今知るべきことは、父の御旨の前に皆が一心一意になることと、父の御旨が私の御旨であり、父の心が私の心であるべきだということ、このようにならなければ神の権威の行使が起こらないことを知る必要があります。
 イエスと聖霊も父の御旨を中心にし、父の心を中心にし、一体となった時に勝利的な復活の歴史がありました。同様に、皆さんも父の熱望が皆さんの心と一体となり、神の御旨が皆さんの御旨と一致して、互いにそれを達成しようとする何かの力が一つの方向に向かうことを感じるようになった時、ここで皆さんが考えられない神の権威の行使が現れるのです。
 したがって、二人が一緒に祈る中で神が動きます。したがって、皆さんが意志を見据える中で、三位一体の期待を生み出してくれました。皆さんが三位一体の期待を中心に据え、どの程度まで一心一意になれるか、これが問題です。
 密議を中心にし、どの程度一心一意になったか、これが問題です。もし過去にこのように一心一意になる使命を持っていたのにもかかわらず、一心になれなかった立場に立っていた人は特に、自分がアナニヤやサッピラと同じ立場に立っていたということを忘れてはいけません。すべてを忘れて今、最後の戦いを展開するためには、結束した力と結束した心と一つの御旨を私たちは全体的に実現しなければなりません。今日、私たちが標語を立てるなら、『一心になろう、一つの御旨になろう』です。
 一心一意となるためには、皆さんは物質や社会的な名誉、社会的な地位や権力など、すべてを忘れることができる人間でなければなりません。これが阻まれているのであれば、これを堂々と打ち破ることができる人間でなければなりません。昔、使徒たちがマルコの屋根裏部屋に現れた聖霊の歴史と同じように、無知な敵を打ち破った英雄を生み出すことができるでしょう。皆さんもそのような心を持って、「一つの心とならせ、一つの意志とならせ、一つの行動が現れるようにしてください。」と祈るべきです。これが今私たちが叫ばなければならない標語です。これを阻止し、これを実現できないような人がいるのであれば、その人は直ちに天の敵であると言えます。
 皆さんは今日、大きな目標が達成されることを望みますか?それなら、一心にならなければなりません。大きな栄光が現れることを望みますか?皆さん一人一人が一体とならなければなりません。心が一致する場所にはすべてが通じます。無限に忍耐することもできます。
 ですから、今日は早急に一心にならなければなりません。私の心に一致しない要素がありますか?これが敵であり、これが大悪魔であることを知り、これがあなたを地獄に引きずり込むことを知らなければなりません。サタンがあなたを取り憑くことを知らなければなりません。それが条件となり、あなたが裁判台に立たされることになるのです。
 そのような条件をあなたの生活から取り除き、環境から整理していく覚悟を持ち、あなたの心が一つになり、意志が一つになり、父の心と父の御旨の代理としてサタンを従わせるまで、私たちは団結しなければなりません。今日この時だけではありません。10年後もサタンのものが残っていると言えば、父の御旨が達成されるまで10年間一人と団結し、10年間千人と団結しなければなりません。私たちは生涯をささげてサタンと戦い、結局サタンを従わせて、私たちが生きている間に父の栄光を示さなければなりません。これを皆さんは忘れてはなりません。


<祈祷>
 お父様の心とアダムの心が一つになり、お父様の御旨とアダムの御旨が一つになったならば、今日私たちが二つの世界が互いに戦う悲しい歴史がなかったと知っています。
 今日、私たちの心にはお父様の悲しい心と哀しい心があります。誠実な心はこれを認めていますが、自己中心的な堕落だけがこれを否定しています。常にこのような真心と私心の戦いに直面している私たちであることを知っていますから、今日私たちは自分の心を整え、お父様の心と一体になるように許してください。
 自分の意志を整え、神の意志と一体にならなければならない戦いの時期が近づいていますので、お父様、もし子供の中にお父様と一体になれない心があれば容赦してください。自分のすべてを忘れて、ただお父様の心とお父様の意志と一体になるために努力する私たちが、許されるようにしてください。
 お父様の心と一つになったその心は、何千万もの金を払っても変えることのできない心だと知っております。その一つを見つけるために、あらゆるものを犠牲にしてでも戦い抜くことができ、守り抜くことができるように、私たちを導いてください。愛するお父様、切望し、願っています。
 お父様、今こそ極めて困難な時であり、また、サタンが私たちの一つになろうとする心を阻止しているため、あなたの御心を遂げるために、他者のために自らを犠牲にする新たな組織を築くことができるように許してくださいと切望し、願っています。
 あなたの御心に従って戦うことができ、あなたの栄光を広げるための使命を果たすことができるように、許してくださいと切望し、願っています。
 この日に集まった私たちの心と意志が、お父様の前に一つの姿として、サタンを屈服させる条件となるように許してくださいと切望し、願っています。全てを主の御名によって、お祈りいたします。アーメン。


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人生訓16-真の愛-90

2024年03月03日 15時53分14秒 | 学習

 皆さんの血族を大切にしなければなりません。お父さん、お母さんを大切にしなければならなりません。おじいさん、おばあさんは天国の王権を代表した、うちの主人です。しかし今は、年を取ったと疎まれる者になったでしょう。そのようにしておいて、何が世代の差ですか。これは誰がつくりましたか。サタンがつくっておいたのです。世代差がどこにありますか。愛に世代差がありますか。千年前の愛する方法と、千年後の愛する方法と違いますか。方法も同じで、そのようにするのも同じです。内容が違ったのです。堕落しなければ、愛の内容は公式になるので、億万年が過ぎても変わらないのです。
            *
 千万回の天地開闢があったとしても、おじいさん、おばあさん、お母さん、お父さん、息子、娘の三代が一つになり、鉄城(注:堅固に取り囲んだもののたとえ)のようにくるくる巻き固め、そこに神様を核として迎えれば、どこでも天国を実現できる一つの種になるのです。これは神様の愛の種です。生命の種として血統の根本だと言えるのです。これを探し出さなければなりません。そうしなければ地上天国、平和の天国、幸福と自由の世界という、すべての願いは成り立ちません。
            *
 天国とは何でしょうか。極楽あるいは天国に行くと言っても、自分一人で行くところではありません。自分の父母と兄弟すべてが、共に行かなければならないところが天国です。
            *
 第五章 愛と霊界
 一 霊界の空気は愛、愛が生命要素である
 私たちは神様の愛によって生まれ、愛によって生きて、息子、娘を生んで、愛の目的地に到達し、永遠に神様と共に生きるために神様の元に帰っていくのです。すなわち私たちの一生は愛によって始まり、愛によって成熟し、愛の実として収穫されるのです。人が死ぬということは、愛の実を刈り入れることです。

            P91

 死とは、人間が肉身生活を終えたのちに第二の出生をすることです。第二の出生をするところ、死んでから行く世界がすなわち霊界です。その霊界に入って、第三の父母である神様から宇宙全体を代表する真の愛を供給してもらうのです。霊界は愛を呼吸して愛を中心として生きる世界です。それで完全な真の愛の人格を成すことができなければ、行ったり来たりする道が制限され、四方に通じることができません。ドアを通っても、一つのドアしか通れないのと同じです。春夏秋冬いつでもどこでも、合わせて生きることのできる資格をもつためには、地上生活において完全な愛の人格を具備しなければなりません。
            *
 神様の愛の中に生まれることは死ぬことですが、人間世界では「ああ、死んでしまう」と大騒ぎになります。そうすると神様はそれを見て大笑いされるでしょうか。人間の世界で泣きわめく姿を見て神様は悲しまれるでしょうか、喜ばれるでしょうか。制限された愛の圏から無制限の愛の圏内に突入できる喜びを迎えることのできる瞬間が、第二の出生である死の道を通る、その瞬間ではないでしょうか。それでその道は、昇華の道です。
            *
 死を屈服させなければなりません。第二の生を促進させる変化の過程が死です。それゆえに、死は悲しいものではありません。新しい世界に飛躍するものであり、昇華なのです。
            *
 この世では死が生命の終わりを意味しますが、死は他の世界に新しく生まれることを意味します。それで死のゆえに憂欝になったり、悲しんだり挫折してはいけません。代わりに与えられた使命のために一生を生きて、霊的な勝利の中でもう一度生まれることを喜ばなければなりません。私たちが地上であまりにも悲しみに沈んだり悲痛に思うと、天上に上った人を地の下に引っ張るようになるのです。赤ん坊が第一の母の胎内から生まれ出たように、第二の宇宙的な母の胎内からまた別の世界に誕生する昇華式は、実際に男女が出会って結婚する、その式に比べることができます。悲しみの瞬間では絶対にありません。それは昆虫が堅い皮を破り繭から出て、新しい形態に、新しい存在として、新しい本質になるのと同じです。
            *
 人間が死ななければならない理由は肉身によって制限された愛しかすることができないからです。無限な神様の真の愛の対象的実権をもって現そうとする時には制限された肉身のみをもってしては駄目なのです。ですから無形の霊に和するほかありません。さらに真の愛の理想を全天地と共に同一化するためです。ですから死は苦痛の道ではなくて宇宙的真の愛を所有することのできる幸福の門を開門する時間だというのです。

            P92

 私たちが父母の愛を受けて、夫婦の愛を分かち合って子女を愛したので、私の一生にわたって蒔かれた神様のすべての愛を刈り入れて、自分の国に行くのです。そして私たちが完全に愛によって一つになれば、神様と似るようになります。夫婦が合わさって三段階の愛を完全に成して霊界に行くと、永遠の主体であられる神様の前に、永遠に相対的な神様になるのです。真の愛を中心として夫婦が死ねば、そのようになるのです。神様で始まり、神様で終わりを結ぶのです。
            *
 人間は母親のおなかの中にいてから生まれ、一定期間を地上で生きて、死を迎えるようになっています。そうして大部分の人間は、年を取れば取るほど死に対する恐れを感じるようになります。人間が年を取るほど死に対する恐怖や不安を感じるのは、死後の世界を信じないからです。
            *
 霊界は愛の成分によって覆われているところです。地球は空気で覆われていますが、霊界は愛で囲まれているところです。人間は地上で空気を吸いガスを吐き出しますが、霊界は愛を吸って生きているところです。霊界で授受する愛は、真の愛だというのです。
            *
 私たち人間の一生は腹中時代十カ月、肉身時代百年、そして霊魂時代千年、万年を永遠に生きるのです。赤ん坊は生まれてすぐに泣くと同時に、鼻の穴で息をする第二の世界、すなわち空気の世界につながるのです。腹中から空気の世界につながる時には、腹中の世界で生きていたへその緒と水袋をみんな破壊して出てこなければなりません。それら死(破壊)と同時に、地球星という母親から生まれたのです。生まれると口で食べ、鼻で息をします。ところで地上で食べる食べ物は肉身が生きるのに必要な栄養分であり本質的生命要素ではありません。本質的生命要素はすなわち愛です。それで、この世で愛という空気を吸わなければなりません。母親、父親から愛の空気を吸わなければならないのです。
            *
 霊界における愛の宮殿は真の父母から始まります。霊界に宮殿があるとしても、真の父母が行って、「ここを宮殿にする」と宣布して初めて、そこを中心として全霊界が位置を決めるのです。そのような責任が残っているので、霊界でも真の父母を絶対に必要としているのです。

            P93

 霊界の裏通りまでも通いながら調べてみると、天地の道理は簡単なものでした。二人が絶対的な力で合わさって真空状態になったところに神様が入ってきて、骨髄のような芯になるのです。
ここに男性の愛と女性の愛の二つのかけらがぴったりとくっつくのです。これが宇宙の核です。愛の理想的実体が合わさって愛の軸になるのです。
            *
 地上の生活と霊界の生活は別々ではありません。地上の生活も重要で霊界の生活も重要です。霊界の生活は地上生活から連結されているのです。両方とも重要ですが、今日この地で生きている人は地上生活が重要であると思っています。問題はこれです。現在の生活が永世を保障する基盤であることを知らない人が多いのですが、それは本当に不幸な人たちです。
            *
 もしアダムとエバが完成して霊界に行くとアダムとエバは神様の体になり、神様はアダムとエバの心になります。ですから霊界に行っても神様は見えません。完成した人を実体世界の体と心のような一つの結果として成して置こうというのが、神様がアダムとエバを創造した目的です。
            *
 地上世界と霊界は、互いに向かい合って動きます。地上世界が上がると霊界も上がり、地上世界が下がると霊界も下がります。一方が回ればもう一方も共に回ります。それで現世でそれを実感して、永世にプラスさせる生活をしなければなりません。永世と現世は分けられていないのです。
            *
 私たちは結局どこに行かなければならないのでしょうか。霊界とは何なのでしょうか。死後の世界だと大抵は言いますが、死後の世界ではありません。なぜ死後の世界ではないのでしょうか。
愛と関係のある世界だからです。愛と関係のある世界なので、死後の世界ではありません。真の愛を中心として出発したものなので、私が真の愛の真理に立つようになる時は今ここが霊界なのです。ですから愛が偉大だというのです。
            *
 神様は愛に酔って億千万世を生きるように人間を造りました。ですから人が年を取るのは怨讐ではありません。人は愛から始まって、愛をもって生活して、愛の実を刈り取ります。死ぬことは愛の実を刈り取ることです。私たちは父母の愛を受け、子女の愛を受け、夫婦の愛をもって父母として子女を愛して生き、神様の愛、すなわち内的な愛の世界に蒔いたすべてのものを一生を通して実を結ばせ、これを刈り取ってあの世に行くのです。

            P94

 この地上で肉身の皮はだんだんと年を取りますが、夫婦生活をして愛すれば愛するほど霊人体はもっと若くなります。それはどういうことでしょうか。人間が長生きすればするほど、内的な人間である霊人体は最高の厳粛な美男、美女になるというのです。
            *
 私の生涯に何をするのでしょうか。愛の墓を残していこうというのです。愛の墓の中で生きられれば恨みはないというのです。人生というものは永遠において成功するものです。そのように皆さんが生きて死ぬ時には神様が祝福して下さるでしょうし、霊界では神様が息子、娘を連れて歓迎するために出てこられるはずです。
            *
 霊界では、神様の愛がなければ食べられません。食べる権利がないというのです。地獄は、見ながらも食べられず、知っていながらも行うことのできないところです。ですから神様の愛を中心として地上で霊肉が一つになって天国生活をした人以外には、永遠の理想的世界をもつことはできないのであり、天国を所有できないということを知らなければなりません。
            *
 あの世で必要なことは、世界よりも、自分よりも、自分の妻や夫よりも、自分の息子や娘よりも、神様をもっと愛したということです。愛の圏内の最大の人格を構成した人は、その世界では神様のような能力行使が可能です。
            *
 あの世は愛の空気でできています。愛によってすべてのものが生まれ、愛によって生き、愛によって「ため」に生きることのできる愛の道理によって満たされてこそ、今まで歴史時代に願われた神様の希望の実体を完成したという立場に立つことができ、天国のどこに行っても歓迎されるのです。皆さんの家庭が、天国に向かう修練所です。家庭で修練を受けたものを四方に拡大させて、「ため」に生きることのできる愛の圏をもって生きる人は天国に直行するのです。
            *
 霊界という世界は無限に膨大な世界ですが、何百万里の距離も瞬時に愛を中心として行ったり来たりできる世界です。愛は最大の速さをもっています。

            P95

 霊界で神様が見る時、皆さんの心の中で愛の鐘の音が鳴るようになると明かりがだんだんと大きくなります。この光は神様の目にはダイヤモンドの光よりももっと美しく見えます。またその光は味のある、見れば見るほどいいものです。ですから神様は愛だというのです。
            *
 霊界の空気は愛です。愛が生命要素になっています。その世界は鼻で息をするだけでなく頭のてっぺんでも息をし、細胞全体が息をします。ですから完全な霊界生活をしようとするならば、地上生活で完全な愛の人格を具備しなければならないのです。
            *
 霊界に行ってみると父母、夫婦、兄弟姉妹、子女という、家庭生活で深い愛の経験をした人は多くの自由を得ることができ、その人はどこへでも、何の制限もなくどの方向にも行くことができます。その反対に愛の経験のない人は心が狭く、霊界でも自分一人で孤立していて自由がありません。
            *
 霊界では神様の愛がすなわち法です。
            *
 霊界とは、永遠の要素を望む永遠のところです。ですから愛を体験した霊人体は間違いなく、自動的に磁石に引っ張られてその世界に行くようになります。霊界はどのようなところでしょうか。すべてが愛で充満した、愛で詰まった調和の世界です。今日の人間は誰でも愛の関係を結ぼうとします。これは霊界の拍子に合わせるためです。

            *

 愛の力で動かない存在は無いし、愛の力の対象にならない存在も無いので、愛の言葉で聞いて答えないものもありません。愛はすべてのことを可能にすることができ、起こすこともできます。再現させることのできる能力があります。したがって霊界は、直感的な愛の心をもってすべてのことを可能にすることのできる自由自在の世界だというのです。
            *
 霊界を結束しなければならないのですが、霊界を収拾することのできない人は天下を統一できません。天運の根が天なのですが、天を収拾できない人がどのように世界を統一するのでしょうか。ですから地上を統一する前に、霊界を統一しなければなりません。

            P96

 皆さんは全部先祖の顔に代わって生まれた歴史的な復活体です。その歴史がどのくらいになるでしょうか。何十万年にもなるというのです。そのように長い歴史過程は、結局は私自分一人をつくるために苦労したというのです。金氏ならば金氏という自分一人を誕生させるために、数多くの先祖たちが来ては去っていきました。ですから私たちは歴史的な結実体です。
            *
 おじいさん、おばあさんが亡くなったなら、お墓参りをしなければなりません。神様がお墓に埋められたと言って、お墓参りをしなければなりません。
            *
 今まで霊界に行った霊人たちは全部別れています。霊界では横的には通じません。縦的にはこの程度に通じます。
            *
 あの世に行けば殺人を犯した人、殺された人、様々な人が一箇所に集まっているので、そこでは包丁ざたが起こり、復讐しようとする出来事も起こります。ですから数多くの塀に囲まれているところです。ですから悪なる霊が怨讐の子供を捜し回って事故を起こさせて連れていくような、そういうことが起こるのです。これを全部解かなければなりません。解くためにはまず地上世界で解かなければなりません。解くためにはもっといいものをあげなければなりません。死ぬよりももっといいもの、怨讐関係になったものよりももっといいものをあげなければ解けないのです。
            *
 人はどこに行くのでしょうか。霊界に向かって行くのです。霊界は海と同じです。どうせ行かなければなりません。海にも流れがあるように、そこにはこの上ない調和の取れた変化があるのです。海では主流の流れを中心として、淡水にはない調和の存在があります。海には数多くの魚族があるように、そこには数多くの新しい天地家庭があります。あの世に行っても同じなのです。
            *
 二 愛の人格体は地上生活で具備しなければならない
 地上にいる時の生活がどんなに重要でしょうか。地上生活は一度しかありません。瞬間ですが一度しかありません。地上生活を永生に比喩すると、これは一点にすぎません。あまりにも短い瞬間です。この期間に肉身生活を越えて霊界のために準備しなければならないのです。常にそのような思想をもって、中心に立って一体をコントロールして征服できなければなりません。そうでなければ完成を成すことができません。それを知らなければなりません。

            P97

 もし生涯の中で三分の二以上が罪の生活をしたならば、その三分の二の生活をすべて切り捨てることができるでしょうか。できません。切り捨てることができないのです。これは必ずついて回るのです。皆さんの心をフィルムに撮って、その写真を自分が見ると思ってください。
            *
完成は地上でするのであって、霊界でするのではありません。地上でこそ真の愛を中心として可能なのです。霊界ではありません。今日、信仰生活をしている人は蕩減法を知りません。無責任な立場で天国に行くと思っている人は多いけれど、責任をもって蕩減し歴史的な罪を清算してから天国に行こうとする人はいないというのです。ですから私たちは肉身をもっている地上生活で責任を果たし、歴史的なすべてのことを清算した条件を立ててから行かなければなりません。
            *
霊界に行った人は蕩減できないので、もう一度来て蕩減しなければなりません。今まで来て去っていった歴史時代のすべての霊人たちは蕩減復帰をすることができなかったので、全部この法に引っ掛かって、霊界に行ってからもう一度来て蕩減条件を立てなければならない運命にあります。地上に住んでいる人が霊界の人より一つ有利なこととは何でしょうか。直接蕩減条件を立てることができる肉身をもっているということです。
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 皆さんが天国に行く人か、地獄に行く人か、確実に知らなければなりません。レバレンド・ムーンは霊界をよく知っている人です。いろいろな人が生きては去っていきます。死を避けることのできる人は一人もいません。死は避けることができないというのです。ここで生きて去っていくのですが、自分のために生きた人は、この世界に行ってぐるっと回って地獄に行くのであり、他のために生きた人はぐるっと回って天国に行くのです。
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 なぜ結婚しなければならないのでしょうか。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を体験するために結婚するのです。それでは、それがなぜ必要でしょうか。愛の空気が充満するところが霊界です。霊界の拍子に合わせる訓練をするためには、家庭をもたなければならないことを知らなければなりません。これを感じられずに行く人は、あの世に行って拍子を合わせることができません。このような人は愛の空気をかぐことのできる鼻のない人と同じなのです。

            P98

 父子間の愛は縦的な関係であり、夫婦間の愛は横的な関係であり、兄弟姉妹間の愛は旋回して取り囲む関係です。この三つの関係はすべて違います。それで地上でこの三つの違った方法によって深い愛の経験をもってこそ、霊界に行って制限なく縦的、横的、円として旋回できるのです。例を挙げると、父母が早く亡くなったことによって父母の愛を味わうことのできなかった人は、とても重要な愛の経験ができなかったので多少悲劇的な人であり、夫婦関係を経験できなかった人は、人生の重要な部分が不足しているので霊界ではとてもみすぼらしい人です。また兄弟姉妹がいない人はすべての分野が欠けているので、完全な人生を生きることができずに霊界で寂しい立場に立つのです。
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 地上で子女を立派に育てて残していかなければなりません。将来その子女すべてが霊界に行きます。霊界に行って天国の国民になるのです。自分が天国の国民として何人捧げたかという時、地上ではつらいことだったけれども、永遠の世界ではそれが高貴な光栄の道になるのです。あの世に行くと、霊界に行ったすべての次元の高い人たちのことが、地上のことと同じなのです。地上とはどのようなところでしょうか。天国の国民を生産する生産工場です。分かりますか。広大無変の天国です。無限大です。あまりにも広いのです。人は数億年の間来ては去っていきましたが、どこにいるのか分かりません。そのように広いのです。
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 一人が百人ずつ子供を生んでも天国は広いので、過人生産ということがありません。あの世は、いくらでも収容できる世界です。産児制限しなければならないでしょうか、してはいけないでしょうか。あの世に行く時、天国の民をどのくらい引き連れていくかということが問題になります。真の天国の息子、娘をたくさん引き連れてくる時、それが自分の権域になり、天上世界で表彰を受けることのできる等級の等差を設定できる資料になるということを知らなければなりません。
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 これから霊界に行って自分の所有権が何かというと、天国の民をどれくらい連れて入っていくかということです。それは自分の財産です。永遠の財産なのです。道端の乞食や体の不自由な人を悪く言ってはいけません。皆さんの霊人体がその姿ではないかと思いなさい。霊界には繁殖がありません。神様は縦的な父母の立場におられ、軸は一つなので一点しかないのです。

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御言葉選集3(10,11)

2024年03月02日 17時24分56秒 | 学習
文鮮明先生の言葉集 3 - 10. 神の悲しみを知る者となろう (1957年10月25日)

1957年10月25日(金曜日)、前本部教会

創世記6:5-13



<祈祷>
 愛のお父様! 私たちが6000年の歴史を振り返るとき、あなたがいつも安らかに休まれ、楽しまれた時が一度もなく、むしろ悔いと悲しみに閉じこもってこられたことを認めます。またノアの時代を振り返ると、その時代と今日の時代が同様に神の前に立ち、悲しみの涙の跡を作っていることを私たちは感じます。
 無知な人々の中で信仰の子孫を見つけるためにお父様の足跡が言い表せないほどの悲しみと哀しみに満ちていたその事情を今ここに集まった息子娘たちが慈しみ得るように許してください。初めてのノア一人を広大なサタンの世界の前に立たせるしかなかったお父様の心情も悲しかっただけでなく、ノアの心情も言い表せないほど悲しく孤独だったことを今この時私たちは悟らせてください、愛する父様、切に願います。
 天の御心の前に選ばれた預言者たちはいつの時もその時代の人々の前に犠牲の供物として現れ、神の無限の悲しみの象徴として現れたのはノアだけを通してでなく、今までの歴史の過程で数多くの先達たちを通じても現れたことを私たちはよく知っています。またノアの後、神の御心を受け入れた多くの先達たちもノアのその道を再び歩んでいるという事実もよく知っています。
 今最後の審判を迎えなければならない私たち自身、自らを天倫の前に立てねばなりません。私自身がノアと同じ心情を抱いているか、または今まで数多くの先達たちが愛くるしく思っていたその心情を持っているかを反省できるよう許してください。そして私たちこの時、お父様の前にお父様の子としての面目を保てるように導いてください、愛する父様、切に願います。
 私たち、最後の審判を恐れて逃げる者となりたくないと願うお父様が導いてくださり、お父様の無限の憐れみの心情を慈しんで、お父様の悲しみを慰め、お父様の御心をこの地上で成し遂げるためにどのような不正の力とも戦う心を持てるように許してください、愛する父様、切に願います。
 お父様、この時、ここに集まった息子娘を慈しんでください。昔、ノアに教え示されたような言葉を彼らに与えてください。それによって、私たち一人ひとりが持つすべての決意が一時的なものに終わらないように許してください。生涯を通じて困難な試練を克服し、他者を助ける知恵と力を持ち、また、何万ものサタンが周囲に立ちはだかっていても、それを打ち破って進む覚悟と決意を持つことを許してください。愛するお父様、切にお願い申し上げます。
 お父様、この時伝える言葉に共にしてください。言葉を受け取る者の心と伝える者の心が一つになるようにしてください。お父様の恵みに満ち、天が動くならば私たちも動き、天が静まるならば私たちも静まり、天の御心と意志を理解できるように許してください。そして私たちの心に感じるその意志を永遠のお父様の前に立てる意志として受け入れ、進んでいけるようにしてください。愛するお父様、切にお願いいたします。
この一時、私たちの一身をただお父様の前に献げることができるように許してください。愛するお父様、切にお願いし、お願い申し上げます。この残りの時をお預けください。主の御名によって祈ります。アーメン。




<御言葉>
 この時間は、「神の悲しみを知る者となろう」と題して皆様にしばらくお話しいたします。
悲しみは、これまで何千年もの歴史を経て、私たち人間と切り離せない不可分の関係を築いてきたことを皆さんはよくご存知です。また、皆さんは、人間だけが悲しんでいるわけではなく、人間と関わりを持つすべてのものが悲しんでおり、また、万物を創造し、人間を造られた創造主である神様も悲しんでおられることをよくご存知です。
皆さんが今、心を清め、上を見上げ、下を見下ろし、この地上の人類を見渡すとき、誰が神を代わりにして、人間を代わりにして、万物を代わりにして、悲しみの苦しみから解放されたと叫び立ってきたでしょうか?そのような人は、今まで一人もいなかったことを知るでしょう。
神の悲しみが取り除かれない限り、地上の人間の悲しみも取り除かれることはなく、地上に住む人間の悲しみが取り除かれない限り、人間をために造られた動物たちも悲しみを免れる道はありません。
では、神に悲しみをもたらした主たちは誰だったのでしょうか?その主たちは神でも万物でもなく、まさに人間でした。神の中心的な使命を担うべき人間、万物に対して与えられた責任を果たすべき人間が堕落によって神に悲しみをもたらし、万物にも悲しみをもたらしたのです。
ですから、今日の皆さんは自らが天地の前に独り立ちしていることを自覚し、心に流れるその悲しい感情を取り除く闘いの過程を経なければならない運命にあることを心に留めておく必要があります。
また、皆さんの悲しみはただ自分自身の悲しみで終わるものではなく、その悲しみは天の悲しみ、万民の悲しみにつながるものです。皆さん一人一人がその悲しみを持ち、自分の家庭、社会、国家、世界にまでその波及を及ぼすことになります。ですから、今日の皆さんはこのように重大な立場にあることを認識しなければなりません。
では、今日の私たちが同様に悲しい立場にある場合、どのような感情で天の悲しみを代弁し、どのような感情でこの地上の万民の悲しみを代弁し、または万物の悲しみを代弁したいと思うでしょうか。このような問題は、最後の審判を超えなければならない私たち堕落した人間が抱える問題の一つです。世界的なゴルゴダの試練に直面した今、私たちはその重荷と負担を自己負担に置き、『私は自由の身であり、希望の身であり、幸福の身であり、天地万物を愛する身である』と自負できるようにならなければなりません。また、私たちは神の悲しみを取り除き、万物の悲しみまで解消したと言える基準を超える人間にならなければなりません。
もしもそのような基準を超えられなかった場合、今日の皆さんがこの一時間に喜びを持つことができたとしても、その喜びは一瞬で終わり、喜びを得たとしても、その恵みは一瞬で終わり、すぐに悲しみに覆われることになります。そのような悲しみを取り除く責任が私たちにはあります。
では、私たちはその悲しみをどのように克服できるのでしょうか?それは人間単独では克服できません。そのため、天はこれまで何千年もの間、私たちに新たな力と新たな恵み、復活の歴史をもたらし、その悲しみを取り除くための闘いを私たちが知らないうちに行われてきたことを、私たちは原理を通してよく知っています。
そして、皆さんは人間の悲しみが天地の悲しみとなり、堕落した人間によって神と万物とが一つとなって進むべき愛の道を阻まれたことをよくご存知です。
ですから、今日の皆さんは自らの悲しみによって自滅する立場に立つべきではありません。皆さんの立場よりも先に、これまでの長い歴史を通じて多くの人類に対して悲しんでこられたお父様の悲しみが何であるかをまず考えるべきです。そうすることで、皆さんがそのお父様の悲しみを自分の実際の生活で感じる人間となれば、自らに降りかかる悲しみを単に自分自身の悲しみとして考えることができない状況に直面することになります。そのような立場を超えることができない場合、皆さんは終末の審判の頭を越えて神の心情を慰める資格者として立つことができないことを心に留めておく必要があります。
では、神様はどのような悲しみを抱えておられるのでしょうか?これが私たちが知るべき非常に重要な問題です。それは、神様が創造理想を達成するための中心的責任者として置かれたアダムとイブが堕落し、神が彼らを通して築こうとした創造の本質的な世界を成し遂げなかったことによる悲しみです。したがって、今日の皆さんはそのような神の悲しみを理解し、共感する人間とならなければなりません。
 つまり、アダムとイブが堕落したことによって、永遠の神の愛と理想を中心に、愛の楽園で永遠の幸福を享受している創造の理想が挫折され、神様がこれまで数千年にわたって苦労されないわけにはいかなくなったことです。そのため、今日の皆さんはアダムとイブが堕落したことによって成し遂げられなかった創造理想を達成するために、神様が今までにサタンと戦いながら感じられたその悲しい心情を共感する人間とならなければなりません。
 それでは、今、皆さんはアダムが失ったあの時の悲しみ、アダムとイブが神を裏切り堕落した時の神のその悲しい心情を共感しなければなりません。そのためには、まず神の愛が何であるかを知り、神が人間をどの程度愛されているかを共感しなければなりません。
 そうでなければ、皆さんは神様がアダムとイブを失い悲しまれたあの心情をどうしても共感することができません。そのため、今日の皆さんは何よりもまずアダムとイブの堕落によって創造理想が実現されなかった神様の悲しい心情を共感しなければなりません。
 創造理想を達成するための神の懐切な心情は、全ての人類に絡みついています。それを償うためのものが、これまでの歴史の中での神の摂理の歴史であることを皆さんは知らなければなりません。アダムの後、ノア、アブラハム、モーセ、イエスの時代まで続いたすべての先知先覚たちは、この地上で何を人々に証明し、何を紹介したでしょうか?彼らはただ神の悲しみを無知な人々の前に伝えたのです。
 皆さんは、神が人間の堕落によって創造理想を実現できなかった悲しみを抱えていると同時に、その創造理想を達成するために多くの先知先覚を送り、彼らにサタンと戦わせた後、それを見て悲しみを感じざるを得なかった、二重の悲しみを持っていることを知らなければなりません。
 つまり、神を裏切る無知な民衆に対して今まで誰も歓迎していない神の意志と、神のその悲しい心情を紹介するために、多くの先知先覚たちは懐切な苦労の歴程を歩んだのです。彼らは神の悲しみが内的に共感されるほど、地上のために神代わりの悲しみを感じなければならなくなり、神と同じ懐切な心情を持ち、サタンと戦わなければなりませんでした。
 また、神の永遠の意志を代わって価値を認められる存在として現れなければならなかった彼らは、むしろ無知な人々に軽蔑され、拒絶され、非難されながら無価値にこき使われ、その姿を見ている神様は二重の悲しみを感じたのです。
 神にとっては、自らの創造理想を達成しなかったことも悲しみですが、その創造の理想を実現するために、地上の無知な人々を目覚めさせ、サタンと戦わなければならない運命に置かれた多くの先知先覚たちを見ることも言い表せないほどの悲しみでした。このように、神は二重の悲しみを持っていたことを皆さんは忘れてはいけません。
 ノアの時代を振り返れば、1600年にわたり神は言い表せないほどの懐切な心情に包まれましたが、耐え忍ぶ道を歩み出しました。どの瞬間も忘れることのできない人間に対する悲しみが襲いかかりましたが、それを全て耐え抜き、自らの悲しみを代わりに全人類の前や全てのものの前に完全に表したかったために、ノアを選んで立てられたのです。
 それでは、なぜ神はノアをその当時の人間が理解できない立場に立てたのでしょうか?1600年間にわたり人間が神を悲しみに打ちひしがれさせたことをノア一人を立ててその悪人の悲しみと苦しみを感じさせるために、この理解できない環境に置いたのです。
 ノアは自らを信じずに反対し、嘲笑する人々の前に沈黙して現れるようになりました。そして、120年後にこの地を審判するという天からの予告を受けたときも、彼は天に対する信仰の道理を全うしたのです。彼を見て当時の正しい人と言われました。彼が正しい人であった理由は、彼が生きる当時の社会が背信的であるほど、ますますその社会を心配し、悲しんだからです。
 多くの人々が自己の怠慢に陥っている中、ノアだけが正義の道を求めて奮闘し、天の摂理を心配し、他人が望まない環境で悲しんでいたのです。そのようなノア、つまり当時の人々を心配し悲しむ心を持っていたノアだったからこそ、神は彼を呼ばれたのです。
 ノアだけでなく、これまで神の意志を達成しなければならない責任を負ったすべての先知先覚が選ばれた理由は何でしょうか?それは彼らが全て当時の反逆的な土地と反逆的な人々を一人で心配していたからです。そのように個人や家庭、社会、国家、世界を心配する心を持ち、他人には知られずに、「天がありますか?もしそうなら、この罪深い地を救い出してください。」と祈りながら、天に対する熱い心情で忠誠を尽くしたため、彼らは天の呼びかけを受けることができたのです。
 神がノアならノア、どんな預言者なら預言者を選び出すときのその心情は言葉にできないほど悲しみに打ちひしがれたことをあなたは知らなければなりません。また、神の前に召された預言者が地上の人々に不信と裏切りを受ける中で、必死に悲しい心情を持ち、「ああ、父よ!」と叫ぶ祈りの声が響き渡ったとすれば、その祈りの声は人々にとって喜びの声ではありませんでした。
 しかし、そのような祈りを聞く神はその切ない嘆願に動かされて現れました。したがって、今日まで多くの先知先覚は神の悲しみを慰めるために、どんな苦難の道でも受け入れて歩んだのです。
 誰もが懐切な心情を持ち、このように天に訴え、祈るその姿を見て神はますます感動し、涙する悲しみを持って彼らを受け止めたのです。
 しかし、神が自分を信じて従う愛する預言者、または愛する子どもたちに対して、いつも安心して命令することができない立場であり、時間や場所を超えて協議できない状況であったことをあなたは知らなければなりません。このように、どのような象徴的な条件を設けてから、人間を扱うことしかできない神のその悲しみをあなたは知らなければなりません。
 したがって、旧約時代は犠牲を通じて、新約時代はイエス・キリストを通じて神の悲しみを取り除く歴史が進んできたことを、皆さんはよくご存知でしょう。しかし、それによって神の御心がすべて成就したわけではありません。神は直接あなた方と心を通わせ、そしてあなた方を抱きしめ、神の愛の領域内で永遠に共に生きたいと願っておられます。神はすべての人を自分の子供として呼びたいと願っておられます。そして、すべての憎しみや悲しみを打ち明けたい心を、今日に至るまで抑えながらおられることを、皆さんは知っておかねばなりません。
 今日、この地上に生きる皆さんは、自分の悲しみを他人や家族、または民族の前に告白できるかもしれませんが、神はそうすることはできません。また、皆さんは困難な時に、「私は悲しい。私は孤独だ」と自分の状況を告白するかもしれませんが、神様は数千年にわたる歴史の過程で、悲しくても悲しいと一言も言われなかったことです。このように、神の心情を感じ取ることができるべきです。
 過去の歴史の中で、先知たちが自分の悲しみを紹介する前に、彼らの代わりに地上のすべての人々の悲しみを先に示したことを、皆さんは知っているでしょう。そして今、あなたが天に立ち向かいたいと思うなら、まず自分の過去を省みなければなりません。皆さんが自分の生活領域の中で6000年という長い歳月を通じて悲しんでいる神の前に慰めになる何か小さなことでもしたかを思い起こしてください。
 そして未来を見据え、自分の所属する家族のために、またはこの国、この民族のために心配する人にならなければならず、また世界が揺らぐ中でも死の権力の中に巻き込まれるようになっても変わらない心で天を向いて歩む人にならなければなりません。そのようなあなたがなるならば、決して失敗することはありませんし、神から呪いを受けることもありません。
 ですから、神は人間が堕落して創造理想を達成できなかったことから悲しんでおられ、また達成されなかったその理想を再び達成するために、この地を代わりに心配し努力する一人を探し出しておられるのです。今日のあなた方は、そのように悲しい立場にある神を慰め、その悲しみを取り除く道を持たなければならない運命に置かれています。
 しかし、神が悲しみを与えたのも人間であるため、その悲しみを追放しなければならない者も人間であることを、皆さんはよく知らなければなりません。天主を代わって神の悲しみを解消する者が、まさにあなた自身であることに気づき、その悲しみを解消するために努力しなければなりません。これが皆さんが重視すべき最も重大な問題であることを確実に理解しなければなりません。
 これまで神様は選ばれた人々の生涯のいかなる時も、一瞬たりとも悲しまれなかったことがありませんでした。なぜなら神様は、あなたの悲しみを和らげるために存在し、心から真心を尽くして中心的な使命を果たす人もいましたが、いつでもあなたの心が満足するほどに慰められることはありませんでした。神様はあなたが選ばれた人と心が通じ、事情が通じる立場にいらっしゃいましたが、その望まれることを彼らが当代に達成できなかったことを、お気の毒に思われたのです。
 このような悲しみの歴史が4000年を経過した後、神様はついにこの地上に4000年の歴史を代わりに持ち、その4000年の歴史の中に行ったり来たりしたすべての預言者たちを代わりにできる方を送られたのです。
 神様は天を代わって、万物を代わって、人間を代わってくださる一人の存在を送られました。その方が誰であるかと言えば、まさにあなたが信じているイエス・キリストです。その日は万物が喜び、すべての人が喜び、天が喜ぶ日であったことを、あなた方は知っておかねばなりません。
 では、イエス様がこの地上に持ってこられたのは何でしょうか?彼は歴史の全ての人類の悲しみを代わりにし、すべての生物の悲しみを代わりにした存在、つまり言い表せない悲しみを抱えてこの地上に現れられたのです。そして、神の胸の中で4000年間痛み続けた悲しみを全人類とすべての生物の代わりに解消していただかなければならない責任を持ってこの地に現れられた方でした。
 イエス様は人間が神を裏切り、神から離れたその堕落の歴史を振り返り、新しい視点から人間の命と宇宙の命を妨げているサタンと戦ったのです。つまり、いかなる悪魔的な血統とも関係を結ばず、神との関係を結ぶ唯一の思想、唯一の希望と喜びを追求されたのです。
 イエス様は30年余りにわたってそのような歴程を歩まれましたが、誰一人として信じて共感してくれる人がありませんでした。4000年にわたる神の悲しみを和らげ、神の御心を達成するために30年余りも血の滴るような忠誠を尽くされましたが、イエス様のそのような事情を真実に理解してくれる者が一人もいなかったのです。
 ユダヤ教会から、またはイスラエルの民から追われて、最終的にはどこにも行き場もなく、住む場所もなく、この町からあの町、この山からあの山へとさまよい続けたイエス様の悲しい事情を今日のあなたは感じなければなりません。
 では、イエス様の悲しみはどのようなものでしたか?神の御心の前で担った使命を果たせない悲しみであり、無知な民に神の御心を説き起こすことができない悲しみでした。そのため、イエス様は当時の自分を反対し、信じないユダヤ教を悲しみ、イスラエルの民を悲しみました。
 これらの悲しい事情に直面しているイエス様を見守る神様は、イエス様を迫害し、信じないユダヤ教とイスラエルの民を直ちに裁き滅ぼしたいと望んでいましたが、それが叶わなかったのです。このような神様の優しい悲しみがあったことを、あなた方は知っておかねばなりません。
 イエス様がこの地上において万民の救い主として来られたのは、全人類の悲しみを代わりにし、すべての生き物の悲しみを代わりにしたからであることを、あなた方は確実に知らなければなりません。
 ですから、今こそ、イエス様の孤独な心に触れ、その悲しみがどのようなものかを感じようとする心の姿勢を持たなければなりません。人知れぬ悲しい立場にあったイエス・キリストの友となりたい心を持たなければなりません。
 あなた方がイエス様と一日の友になれないとしても、一時間の友でありたいという心を持たなければなりません。もしあなた方にそのような心が少しでもない場合、あなた方は天の御心を代わって進むことができず、人間を代わって神の悲しみを慰めることができず、むしろ天の前で反逆者の立場に置かれることになります。
 あなた方は慈悲深い心を持ち、任された使命を果たすために無限に努力しましたが、結局は十字架にかけられるイエス様の姿を見守られた神様の悲しい心情を感じ取ることができなければなりません。
 イエス様には全人類を代わって全宇宙を代わって神の悲しみを癒やし、神の御心を成就し、サタンを屈服させなければならない使命がありましたが、信じない群衆に追いやられ、最終的にはゴルゴダの丘で十字架まで背負わされることとなりました。そのようなイエス様の心情がどのようなものであったかを考えてください。
 自分を中心として約束されたすべての意志が破壊され、最終的に自分の一生が十字架の架け橋に至ると感じたイエス様でしたが、それでもイエス様は最後まで天を裏切ることなく、天の前の忠誠の道を尽くされました。すべての人間がイエス様を信じなかったとしても、イエス様はそれに関わらず天路を目指し、天の御心に向かって一生の目標としました。
 このようなイエス様の一生が、私たち人間にとって歴史的に希望の道となったことを、あなた方は心に留めておかなければなりません。十字架の死の直前に、「わが神、わが神、どうして私を見捨てられましたか?」(マタイ 26:46)と祈るしかなかったイエス様の立場を見守られた神様の悲しい、悲痛な心情を理解することができなければなりません。
 4000年にわたって悲しみを耐えられた神様であられますが、愛する御子娘がどのような条件を提示される前には、直接裁定することができないため、彼らが条件を提示するまで耐えなければならない神様であることを皆さんは知っておかねばなりません。
 では、イエス様はこの地上でどのようにされていたのでしょうか? 今日の皆さんと同じように、自由に言葉を発したり行動したりしていたでしょうか? それはそうではありませんでした。 イエス様は常に緊張した立場に立たれませんでした。 どこにいても何を食べても、どこに行こうとも、常に神の悲しみの心情を表現せざるを得なかったのです。
 イエス様はどこで語られようとも、信じない群衆から自分の骨が溶けるような悲しみを感じながら、当時のパリサイ人やユダヤ人、イスラエルの民の前で声を大にして叫ばれました。
 イエス様は彼らから受けた様々な悲しみに心を痛め、無知な人々や信じない群衆と協議することができなかったのです。 このような悲しい状況がイエス様にあったことを今日の皆さんは忘れてはなりません。
 天からいかなる使命を受けてこの地に来られたのかをご存知のイエス様は、天の希望と自らが生きている現実との間に大きな違いがあったため、悲しい心情を抱かれたのです。 イエス様は、そのような悲しみが天国を覆い尽くすことができたとしても、自らの事情による悲しみは持ち得なかったのです。
 今日の皆さんも、自らの事情に囚われず、全人類の悲しみと歴史的な神の悲しみを憂い、慰めようとしたイエス様の30年余りの生涯を見習わなければなりません。 そして、自らがイエス様のその悲しい状況をいかに憂い、また神の御心を達成するためにそのような悲しみの域までどれだけ進んでみたのかを反省しなければなりません。
 神様はアダムとイブが堕落してしまい、創造理念を失ったことによって言葉では言い表せない悲しい心情を感じるようになりました。 そこで神様は、人々にイエス様を信じさせて、あなたの悲しい心情を慰める希望の日を迎えようとされましたが、イエス様を十字架に釘付けにして殺す悲惨な状況を再び見られることになりました。
 4000年にわたって苦労してイエス様一人を立ててあなたの悲しみを解き、またこの地上に天国を建設しようとされたのに、そのようなすべての意志が一時に挫折されたとき、その神の心情がどのようだったか、考えてみるとよいでしょう。 この時の神の悲しい心情は、昔のアダムとエバが堕落したときに感じられた悲しみ以上のものでした。
 アダムとエバの堕落の時、神は天と地が崩れ落ちるような悲しみを感じられました。そして、イエスが十字架にかかる時、神は4000年間血の汗と涙で築いた愛情の塔が一時に崩れ去り、再び創造の歴史を始めなければならなかったため、堕落の時の悲しみが重くなり、言葉にできない悲しみを嘆息されないことはありませんでした。
 そして、今日のあなた方はどのような立場にいますか?今日のあなた方は、堕落によって神に悲しみをもたらしたアダムとイブの子孫です。また、あなた方は、神の悲しみを和らげるために来られたイエス・キリストを殺して神の悲しみを増した者たちの子孫であることを知るべきです。
 神は人間があなたに悲しみをもたらした裏切り者であることを忘れ、再びその子孫たちを懐かれ、支配されています。神は人間とすべての生き物の一部となり、地上で神の国が実現されるその日が早く来ることを切に願っておられます。
 では、今日のあなたたちはどのような状況にいますか?今日のあなたが見ている現実はどうですか?世界はどのような状況にありますか?意志がある者としては、今日の現実を見据えて胸を打ち、嘆き、悲しみを感じる時です。
 この地上に神の愛を紹介し、神の悲しい心を慰めるために来られたイエス・キリストの使命を知る人がいるとすれば、彼は全地上で自らの闇と不明瞭な心を打ち明けることができません。なぜなら、今日の現実は神の意志からは遠く、背信と矛盾と闘争に満ちているからです。
 ですから、今日のあなたたちは極めて悲しい神の心を感じながら、神の無限の愛を求め、他人が侮辱し、迫害しても、ただ一つの望みの日を実現するため、すなわちこの地上に神の国を築くためにもがきながら倒れることがあっても、私たちはその一途な道を歩むべきです。それが私たちに課せられた歴史的責任です。あなたたちは、そのような使命を果たす過程で、自らが不信の群衆から受ける様々な悲しい出来事があっても、それよりもっと神の前で悲しい立場にいることを私たちは神に告げるべきではありません。
 神は人間に対する悲しみが測量する道はないが、それを今まで人間の前に全体的に示したことがないのです。今日のあなたたちは、神が自らの悲しみを受け止めて人間を救うための計画を成し遂げたことと同じように、自らの悲しみを受け止め、サタンと戦いながら進んでいかなければなりません。そして、あなたがたが祈りを捧げるとき、自分の利益をすべて忘れ、ただ父の悲しみを和らげる存在となり、今まで父に結び付けられた歴史的な憎しみと宇宙的な悲しみをすべて受け入れるように祈らなければなりません。
 そして、神の御心を成就するためにサタンと戦い続けなければなりません。そのような人間になるならば、神の御心を成し遂げるためにただもがき続けて消える一時があったとしても、絶対に失敗しないでしょう。
 ですから神は、この時代にそのような人が現れることを熱望されています。自らの生命を捧げてでも父の悲しみを和らげようとする人を求められているのです。神は、そのような人に対して、天の摂理の無限な生命の力を吹き込み、彼を通じてあなたの悲しみを和らげ、永遠の関係を結びたいと願われています。また、彼を通じて家庭的な悲しみ、社会的な悲しみ、国家的な悲しみ、さらには世界的な悲しみまで和らげたいと願われていることを、あなたは今この時、確実に知らなければなりません。
 では、あなたにとって天からの悲痛などの悲しみは何ですか?あなたはあなた自身のための悲しみを持ってはならないはずです。もしもあなたがあなた自身のための悲しみを抱えているなら、あなたは不幸な人です。
 あなたはあなた自身よりも、あなたの家庭、社会、国家、世界、さらには神のための悲しみを抱え、そのようなすべての悲しみを解消する人でなければなりません。昔のノアのおじいさんを思い出してみてください。彼は神が120年後にこの地を洪水で審判するであろうと予告されたとき、その予告の一言を120年もの間、いつの時も忘れることなく信じて生きていきました。一言の命令に120年もの間服従したのです。これは驚くべき信仰です。
 しかし、このように神の言葉に絶対服従した人はノアだけではありませんでした。アブラハムも同様に神の言葉に絶対服従した人でした。神がカルデア・ウルを離れろと命じられたとき、彼はその祝福の言葉を忘れることなく荒野に出て行き、一日も欠かさずサタンと戦ったのです。
 そしてヤコブも同様でした。イサクから受けた祝福と神からの祝福を忘れずに生きたために、彼はハランで21年もの苦難の生活を耐えることができたのです。また、イエスも同様でした。イエスは自分に約束された一言の命令を受け入れ、その約束の言葉を実現するために30年以上もサタンと戦い続けたのです。
 このように神の前に召命されたすべての預言者たちは、天から授かった一言の言葉に自らのすべてをささげて、一生を信仰によって守り抜いたことを、あなたは確実に知らなければなりません。
 では、今や歴史的な悲しみがあなたを通り過ぎているこの時代に、あなたはどうすべきでしょうか?まず最初に、神の悲しみを思いやる人とならなければなりません。そして、イエス・キリストと聖霊が神と人間に対して悲しんでいた心情、そしてこれまで6000年もの間この地に来たり去ったりした数多くの先賢たちが悲しんでいた心情を思いやる人とならなければなりません。
 ですから、あなたが自らのすべてを捧げて進み、歴史的なすべての悲しみを解消し、神に喜びと栄光を捧げる人とならなければなりません。そのようなあなたになることを神は今も切望されていることを、今日あなたは決して忘れてはいけません。






文鮮明先生の言葉選集 3 - 11. イエスの神秘的な生涯と彼の勝利の目的 (1957年10月27日)

1957年10月27日(日曜日)前本部教会

聖書拝読:マタイによる福音書 12:18-37



<祈祷>
 死んでもあなたの遺産を継がなければならない戦いの歴史が今日この場に集まった私たちにとって残されていることを思い至ったとき、立ち止まって自分自身をお父様の前に差し出し、果たして戦うことのできる天の武器、戦って勝利することのできる天の武器が私たち自身に備わっているか自問自答できるように許してください、お父様、切に願い求めます。
 今、私たちが戦わなければならない敵は地上のどの一人でもなく、6000年という長い歴史の過程を経て神に対して反抗し、神を讃えなかった、空中の権力を握ったサタンであることを私たちは知っています。
 今日この巨大な敵をお父様の前に降伏させなければならない責任と使命が私たちにあることを思い至ったとき、私たちは今まであまりにも簡単な生活を望んでいたし、あまりにも恵みに閉ざされお父様の愛だけを求めていたことに気付きます。お父様、許してください。
 敵を降伏させるためには荒れ狂う嵐や戦いや十字架の苦難からもその精神と心が変わってはならない立場にあることをこれまで私たちは忘れていましたが、今後は変わらぬ心を持って万人のサタンたちに対して一人で戦う天の武器たちとなるように許してください、愛する父よ、切に願い求めます。
 この意志を受けて戦いに疲れた子どもたちはいますか?お父様! 力を与えてください。躊躇する者がいますか? お父様の勇気を与えてください。そして勝利の目的に向かって走ることができ、戦いの目標に向かって直進し突進できる愛する子どもたちとなるように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
 最後の決戦を経て勝利に向かってゴルゴダの丘を越えなければならない責任が私たちにあるので、お父様の力と心と覚悟と決意を持ち、このすべての戦場に向かって走り出すことができ、祝福されて勝利できるお父様の子どもたちとなるように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
集まった子どもたちは少数の集団ですが、彼らが留まるその場所で満足してはならないように許してください。与えられた恵みに感謝することを学ばせてください。
 今日与えられた恵みは私一人のためのものではなく、地上または天上のすべての聖徒を代表して数百万のサタンを降伏させる責任と使命を担う代表的な恵みであることを知らせてください、愛するお父様、切に願い求めます。
心が留まる場所はどこですかを父の前に差し出し、父の意志を一つの目的として示し、サタンと対決して勝利の基準を示さなければならない使命を持つ子どもたちが、お父様、弱い立場にいますか? 力を与えてください。お父様の前で祈り、天の悲しみを表現する者はいますか? お父様、喜びを許してください。天国を求める者はいますか?善と正義の歴史を示してください。
 そして彼らにお父様の意志と、お父様の恵みとお父様の計画を一人で負って戦い、指示のない子どもたちとなるように許してください、愛する父よ、切に願い求めます。
 この日は聖なる日であり、三千万の民衆を代表して集まる多くの教会に祝福を与え、また隠れた祭壇を築き、お父様の計画が実現される時期を教え、知らず知らずのうちに熱い涙を流す子どもたちが多いことを知っており、お父様、普遍的な恵みを示してください。
 終わりに聖霊の恵みを注ぎ、約束されたことを早く実現してください。生命のたいまつを持って父の代理者として栄光をささげることができる自己になり、一つの回帰の園を形成するために協力できるよう、お父様、推奨してください、切に願い求めます。
 お父様、召された子どもたちがますます父の意志の前で感謝できるように許し、責任を果たして父に栄光を帰し、この1時間の間に決意します。愛するお父様の栄光のために、すべてを求めるとき、お父様の恵みによって再び認め、お父様の意志の前で一つの基準と一つの目標に向かって進むことができる恵みの歴史がこの時間のすべての聴衆に示されることを許してください、愛のお父様、切に願い求めます。
 今、私たちが進むべき戦いの野に障害が立ちはだかっても、一人でこれを負ってお父様の意志に向かって行けるように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
 イエス様が十字架を前に置きながらも無限の苦しみを乗り越えて行かれた勝利の姿を見習い、私たちも最後の命を捧げても、勝利することができる父の子どもたちの基準を立てられるように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
 今、私たちが集まったので、心と心が共に動くことを許してください。お父様の前に一つになって進むことができるように許してください。そして天にいる無数の天使たちの守りの下で、サタンが隙を突かないように保護してください、お父様、切に願い求めます。
 残された時間を完全にお父様に託しました。聖三位一体が主導してください、そして私たちに勝利の栄光を許してください、切にお願いいたします。すべての言葉を主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。


<御言葉>
 堕落した後、今日まで神の復帰の計画がなかった場合、罪に陥っている人間が神を「父」と呼ぶことはできず、また死の血統を受け継いだ存在としても、また天国の贈り物や愛の贈り物について考えることはできないでしょう。
 また、今日私たちが生命の権利の下に留まるのも、神がお休みにならずに復帰の計画を何度も行われた贈り物であることを知る必要があります。
 イエス様の神秘的な生涯とは、すべてが含まれています。神は4000年の歴史を経てイエス・キリストを送られ、神がイエス様を中心にして新しい計画を始められるようになりました。
 つまり、神が地上の人々と自由に交流することができなかったために、多くの天使を使者として派遣して、古代の時代を経て地上で直接的な歴史を築く実在のキリストを置かれることで、堕落した人々を再び包む神の計画が始まったということです。このような内容を持つキリストの誕生について知る必要があります。
 キリストが来られてから2000年の歴史が経ちました。したがって、今日、皆さんは父の贈り物の権威の下にあり、イエス・キリストを主として受け入れることができ、聖霊の保護を受けて贈り物を受け取ることができるということを知る必要があります。
 イエス様が来られる前の4000年の間、神が直接的に人々と交流できなかったために、多くの天使を使って人々を訪れられた父の苦労の計画があったことを知る必要があります。また、天と地を分け、計画をしていた父が人間の前に直接的で平面的な計画を立てるためにイエス・キリストを送られたことを知る必要があります。
 イエス・キリストが来られてから約2000年の歴史が経過した今日、皆さん自身がその恵みの前に選ばれるには、イエスの来られる前の約4000年間、霊的な面で人間を求めて来られた神の心情を共感しなければなりません。また、イエス様がこの地上においでになり、ご自身の生涯や目的をかけて、皆さん一人一人をご自身の生活に同行させ、その生涯に同行させ、その永遠の目的に同行させようとする計画の意志に直面している歴史的な過程に立っていることを忘れてはなりません。
 イエス様はこの意志を30年以上の生活目的として、また全体的な生涯の目的として立て、これを達成するために2000年の歴史を経て、皆さんの先祖を導いてきました。そして今後も皆さんの子孫を導いていく責任がイエス様に残っていることを感じなければなりません。
 このような立場にいるイエス様が意志に直面するとき、イエス自身だけが喜ぶ生活、イエス自身だけが喜ぶことができる生涯、イエス自身だけが永遠をかけて安穏の日を迎えることができないことを皆さんはよく知っています。
 では、今日、天の縁を見つけ出せず、天が求める希望の一日を見つけられないこの時に地上に住む人々はどのような立場にあるべきでしょうか?どんなに安穏を求めようとしても見つけることはできません。心でどれほど平和を求め、どれほど理想的で思想的な世界を夢見ようとも、それを保証される運命に置かれていません。
 なぜなら、天地を創造された神の意志が悲しみの意志であり、この地の堕落した人間を救いの意志を遂行するために来られたすべての存在であるイエス・キリストもまた悲しみの心情を抱き、意志に直面しているため、地上のどんな人間もその心の安穏を見つけることはできず、私は勝利の栄光を持った者であると自慢することはできないのです。
 このような意志の運命を負って人を導いていく神の悲しい心情が残っている限り、また皆さんを導いてくれるイエス・キリストの懇切な心情が残っている限り、そして数え切れないほどの聖徒たちが意志に直面する悲しみが残っている限り、今日の人類が望む善の園や、人類が敬愛する神の愛を永遠に手に入れることはできません。
 このような意志に直面する天が人を導いていくことも容易なことではないが、そこにはどんなものがあるのかと言うと、悲しい心情の父の前に人を条件にしてサタンが邪魔し、中傷し、抵抗しているということです。これを皆さんは知っておかなければなりません。
 皆さんの生活や生涯の中で、または皆さんが望む理想の中で、千里を射る原則、または神の創造思想に合わない要素がある場合、どのような条件も省かずにサタンから無慈悲な中傷を受けることになり、皆さん代わりに悲しんで、皆さん代わりに戦い出る父と主と聖徒たちがいることを皆さんは認識しなければなりません。
 ですから、神の御計画の中には、神の悲しみが残っており、イエス・キリストの悲しみが残っており、そしてこれまで神の御計画に従ってきた無数の聖徒たちの悲しみが残っていますが、それ以上に大きな神の悲しみとは何でしょうか?それは、私たちを守りながら再びサタンと対決しなければならないという悲しみです。このような立場にいる神であるということを皆さんに知っていただかねばなりません。
 さて、皆さんは今、イエス・キリストの誕生と生涯について考えなければなりません。イエス様がこの地上に生まれる前までは、人間と神との間には遠い距離がありました。そのため、神は人間が尽くしている努力を持ってしても、サタンの支配する闇の世界のすべての条件を踏み破り、つまりは天空の領域を掌握した闇のサタンの権力を打ち破り、神のもとに辿り着けるように願われました。そうすれば、人間は神の恵みを受けることができたのです。これが旧約時代の御計画でした。
 しかし、人間の努力や苦労だけでは、決して神を見つけることはできないと悟られた神は、この地上にイエス様をお遣いになり、平面的な立場から相対的な価値を持って神を代表する中心的存在となるように、中傷の目にさらされていた堕落した人間を天に向かって顔を上げ、泣き悲しむような人間にするための地位に立たせてくださいました。これが4000年の御計画におけるサタンに対する勝利の条件であり、自慢の条件でした。
 しかし、人間たちの不信心により、イエス様がこの地上に来られた目的を完遂することができなかったため、今も私たちは天に向かって祈り続け、真心を尽くさなければならない運命に置かれています。
 元々、人間の視点を平面的に見て動くことができるように創造されていたにもかかわらず、どうして心は天に向かうべき立場に置かれたのか?皆さんが平面的な領域内で神の御計画の意志を達成し、神が喜ばれ、イエスや聖霊が喜べるように、地上のすべての人が喜べるようにするためです。
 このような状況が実現されることが、私たちの希望が実現するための第一歩であり、この目標を達成するためにイエス・キリストをお遣いになったものの、人間の不信心のために去られたイエス様を再び迎え入れなければならない責任が皆さんにあることを知っていただかねばなりません。
 イエス様はこの地上に来られて、その御計画的な生涯の最初の一歩として、天が御計画の意志に従って生活の道を進むことを開始しました。この生活の中心は何でしたか?まず第一に、人々を引き連れて神のもとに進むと同時に、人間を中傷するサタンと対決することでした。このような両面的な立場から、イエスは始まったのです。
 見えない霊的な世界では、サタンから中傷を受け、見える肉体的な世界では、あらゆる不信の矢から反対を受ける立場から、イエス様は一人で4000年にわたって神の悲しみを代わり、天路の悲しみを代わりに感じました。このような心持ちを持ち、その御眼はイスラエル民族に向けられ、神の愛の心情に従って選ばれたユダヤ教を対象にしました。
 しかし、イエス様の使命を完遂するために協力すべきイスラエル民族と神の御旨を受け入れるべきユダヤ教会は、イエスの前に一切現れず、全てが反対の立場にありました。現代のキリスト教徒は、これが必然的な事実であると信じている時、イエス様の真の心情を理解すべき時が来ていることを知らなければなりません。
 イエスは霊的に侵略されるサタンの力を防ぎ、多くの人々によって肉体的に飛びかかるあらゆる不信の矢を阻止しなければなりませんでした。しかし、イエス様はそのような戦いだけをすることができませんでした。もっと大きく、もっと遠い神の御旨とその希望を見据え、そこに自身の身心を合わせなければならない立場にあったキリストの生涯の出発を、皆さんが同じ立場から同情する心を持つべきです。
 このような立場から出発したイエス・キリストにとって、どのようにして神の御旨を達成し、どのようにしてサタンを屈服させ、どのようにして堕落した全人類を再び回復するかということが問題でしたが、イエス様はこれを解決するために立ち上がりました。
 この地上で権勢を握っていたサタンは、神の栄光を自分たちで享受し、神が統治すべき人々を自分たちで統治しました。そのため人々はサタンの圧力の下で生きていたのです。したがって、イエス様はこの地上において、最初には反対する人よりも、人間を自分に反対させる霊的なサタンと対決しなければなりませんでした。この戦いからキリスト教の歴史が始まったことを皆さんは知っておかねばなりません。
 それでは、サタンの本質と対峙するために現れたイエス様は、その生涯の領域内でまず何を示し、現れましたか?サタンができないことをしなければなりませんでした。このような責任を果たすために、イエス様は彼の生活領域内で実践的な行動を示し、現代のキリスト教の福音の原則となったのです。
 言葉だけでなく、彼の心も、彼の生活も、彼の生涯も、彼の死に至るまで、サタンが行うことのできない条件を設定するためでした。このようなイエス・キリストの生涯の経過を皆さんは知らなければなりません。神の法もが厳然として存在するため、言い換えれば法を中心にすべてを統治する神が存在するため、イエス・キリストはこの法に従ってサタンを撃破したのです。
 サタンの本質は高慢と血気です。このような性質で世の人を扱うサタンでしたが、イエス様は穏やかさと謙遜で世の人の前に現れました。
 イエス様は、卑しく謙遜な立場に立ったわけではありませんでした。どんな誰よりも最高に高い存在であり、栄光を享受することができましたが、イエス様はこれらすべてを捨てて卑しく謙遜な立場に立ったのです。サタンはこのようなイエス・キリストと対決して戦おうとしましたが、サタンには神の前に屈服しなければならない条件があることを知っていたため、イエス様は最後まで卑しく謙遜な態度をとることができました。したがって、サタンの本質である高慢と血気に対抗する卑しく謙遜な姿勢を示したのです。
 また、厳然とした天律があることを知るサタンであったため、最終的にはイエス・キリストを認めざるを得なくなったのです。つまり、謙遜と謙遜を持ち出してからサタン世界も自然と屈服するのです。このような原則を知るイエス様は、サタンが行うことのできない、サタンがすることのできない卑しく謙遜な立場を取ったのです。こうして卑しく謙遜な立場に立たなければ、中心を通じて歴史を進める神へと向かう新しい道を開拓することができるということを皆さんは知る必要があります。
 そして、イエス様が何を示してくれたかというと、従順と服従です。従順は応じられる環境で命令に従うことであり、服従は応じられない環境で従うことです。イエス様は不信する人々にこのような従順と服従の道理を教えました。これもまた、サタンの本質、サタンのすべての生活的な要素を阻止するためのものです。
 サタンは自分を中心にして他人がどうなろうと関係ない存在です。これがまた別のサタンの本質です。したがって、サタンの後に従うと不幸になります。そこでイエス様はすべての人々が自分を信じ、自分に従い、天に従うように教えました。このようなイエス様の意図を知らずに、人々はむしろイエス様を神の御旨の前に不正な人間と考えました。
 このような立場で、言葉では言い尽くせない侮辱と非難を受けながらも、イエス様は従順の道を切り開いて行きました。また、イエス様は犠牲と奉仕の精神を持ちました。実際には、天の栄光を代わりにして、神の独生子としてこの地に来られたイエス様は、万民や万物、サタンさえも支配し、彼らの犠牲と奉仕を受け入れなければならない立場でしたが、その反対の立場に立たれたのです。
 サタンがあなたの前に従順し、奉仕し、犠牲を捧げるようにするために、つまり、このようなサタンのすべての力を屈服させるために、イエス様は無限の犠牲と奉仕の犠牲を払う努力をしました。これを皆さんは知る必要があります。
 サタン世界は人間を扱ったり、または創造物を扱ったりする限り、無限に利用し、搾取しようとしますが、イエス様はその反対の立場を取りました。このように、サタンが行えない生活をイエス様が代表的にしたため、つまり、卑しく謙遜であり、従順であり、服従し、犠牲と奉仕の生活をしたため、サタンもその面で屈服しなければならなかったのです。
 皆さんは自分をイエス様が教えられた卑しさや謙遜、従順や服従、犠牲や奉仕に照らして見て、その教えを自分の生活領域内で実践できないと感じる場合、まだまだサタンの子孫であることに気づかなければなりません。
 ここまで、皆さんの生活はどうでしたか? 自己中心的で高慢な生き方をする人々はまだいますか?早くそのような立場から脱出しなければなりません。イエス・キリストが設けた基準、サタンを屈服させる最後の戦いで勝利するための基準である、柔和と謙遜、従順と服従、犠牲と奉仕の姿勢で、血気によって天を追い詰める者たちに対して戦っていく内的な覚悟を養わなければなりません。
 意志に反抗して背く立場に立ったのがサタンであり、これがサタンの生き方とされています。そのため、自らの意志に反発しようとする心は、自身の心ではなく、サタンの力が環境に満ち、その環境に縛られているために、自らも気づかぬうちにサタンの力が自分を中心にして現れるのです。イエス様は憎しみと悲しみがサタンの世界に結びついていますが、犠牲と奉仕を覚悟し、この道を解決しようとしました。
 今日、私たちが直面している終末には、二つの道が残されています。それはサタンが行く道と天が行く道です。しかし、サタンが行く道と天が行く道は異なります。天が行く道は、サタンが行けない道です。つまり、サタンはイエス・キリストのように、神に服従し、柔和で謙遜であり、意志を従順にし、全人類を代表して犠牲と奉仕を行うことができないということです。
 したがって、イエス様は善においては王の中の王であり、柔和で謙遜であり、従順と服従であり、犠牲と奉仕においても王の中の王であったことを知っておく必要があります。
 地上の多くの人々は柔和さを知らず、従順さを知らず、犠牲を捧げる道を歩むことを知りません。イエス様は4000年の歴史の中で多くの人々が来たり去ったりしましたが、彼らができなかったこと、つまり天の前で最高の柔和の基準、最高の従順の基準、最高の犠牲の基準を設け、サタンの世界のすべてを踏み越えて登ることができた理由です。イエス様はこのようにサタンを屈服させる苦しい努力を私たちに示しました。
 イエス様はこの地上に来て、柔和で謙遜であり、従順で服従し、犠牲と奉仕する生活をしましたが、神がこの地を通して長い歴史を経て疲れられたその心と同じ心を持ち、そのような生活をしてきたため、サタンは根本的に屈服しなければならず、根本的に変わらなければならない歴史的な出発点ができたのです。これを知っておく必要があります。
 サタンは神の心情を知りながらも、人間が神に向かって進もうとする道を阻止し、むしろ自分に導いていく存在です。自ら高くなりたがり、自ら対抗しようとし、自ら人々を利用しようとします。しかし、神とイエス・キリストに向かえば、決して頭を上げることができなくなります。イエス様の生活領域内でこれらの条件が設けられたことを知っておく必要があります。したがって、私たちがイエス様に従うと、私たちからサタンが離れるのです。イエス様の生涯は、このような歴史的な出発を果たした生涯でした。
 このような基準をイエス様はどのように設定されたのでしょうか? イエス様はまず、神と私は別々ではなく一体であるという基準を設けました。神が永遠であれば私も永遠であり、神が不変であれば私も不変であり、神が無限の慈悲を持っておられるならば私も無限の慈悲を持つだろうという心を持たれました。つまり、神の内面的な心情をイエス様は誰よりもよく感じ、一体化できたため、サタンとの闘いの中で勝利の基準を設定できたのです。
 しかし、イエス様が来られて以降、今日までこのサタンの世界では、神とイエスとの内面的な心情をつなげるその言葉、また神とサタンとの間にどのような進展、どのような問題があるか、ということを知る人は誰もいませんでした。
 おおよそ約2000年前、イエスはこの地上に来られ、サタンを屈服させる方法として、「柔和で謙虚であれ」「従順で屈従せよ」「献身と奉仕をせよ」と人々に教えられましたが、地上の人々はイエス様が教えられたとおりに柔和で謙虚に、従順で屈従しながら感謝し、献身と奉仕しながら感謝できる生活環境を持たず、自分でも気づかぬうちに従順の心が変わり、血気と高慢、対立と反対になり、奉仕と献身が変わり、利用と搾取になってしまいました。
 イエス様はこのような問題点を解決することができたのは、神と切り離せない関係があり、神とサタンとの間に切ってはならない問題があり、サタンをどのように分断すれば良いかということを知るため、イエスはそのような道を歩むことができたためです。しかし、そのような内容を人々は知らないため、イエス様と同じ道を歩むことができなかったのです。
 そのため、皆さんは天に向かって「父よ」と叫び、イエス様に向かって祈り、神とイエス様の心情を知り、サタンの策略まで知り、歴史的なサタンの犯罪を暴露し、現実的にサタンの集団を屈服させ、神の摂理の秘密を明らかにしてこれを清算しなければなりません。
 柔和で謙虚でなければ、イエス様の心情を理解することはできません。また、従順で屈従し、献身と奉仕をしなければ、イエス様の前に近づくことはできません。これを皆さんは知るべきです。
 現在の私たちには、そのような生活を完全に行い、神を求めて入ることが難しいです。そのため、人々は「ああ、神よ、臨んでください。」「神よ、あわれみたまえ。」と懇願しています。そして、「神の時はいつ訪れるのか?」「イエスと聖霊はいつこの地のすべての人々に現れるのか?」とその時を待ち望んでいます。これが歴史的な悲しみの状況として残っていることです。
あなたがたは、神とイエスとサタンの間の問題について疑念を持つ人々であったため、イエス様が伝えたいことを伝えることができなかったイエス様の心情を理解する必要があります。
 それゆえ、従順の献身として、歴史の献身として、犠牲と奉仕の犠牲として、サタンに「なぜ神の摂理に従わないのか?」と叫びながら、霊と肉を結ぶ実体としてサタンを屈服させる秘密を見つけ出さない限り、イエスが霊的にサタンに勝利したことを現実的にも体現し、サタンを屈服させることはできません。
 そのため、「私はまだあなたがたに言うべきことが多いが、今はあなたがたが耐えられないであろう。」(ヨハネ 16:12)、「私が地のことを語ってもあなたがたが信じないならば、いったい天のことを語ればどう信じるだろうか?」(ヨハネ 3:12)と述べ、すべてを伝えられなかったイエス・キリストの心情を理解する必要があります。
 そうすると、このような歴史的な審判の日が私たちの前に迫っている今、あなたがたが悲しみを持つとすれば、どのような悲しみを持つべきでしょうか? イエス・キリストがサタンを屈服させるために悲しんでいた以上の悲しみを感じる聖徒として存在しなければなりません。
 イエス様が十字架を前にし、ゲツセマネの園に登り、叫ばれた瞬間は、想像できないほど悲しい瞬間でした。自らの死が問題ではなく、天と地が揺り動かされる出来事でした。サタンの支配を解消したいという思いから、自らに衝撃を受け、ゲツセマネの園で祈り、叫び続けたイエス様の心情を共感し、さらには神の心情まで理解し、サタンを神の前に立たせ、サタンを屈服させることができるあなたにならなければなりません。そうでなければ、この地に再臨する主もまた、また悲しみの主となるでしょう。
 では、今日の私たちはどうすべきでしょうか? 私たちは今や死を覚悟し、意志に従う者として、柔和で謙虚なリーダーとして立たなければなりません。意志に従う者として、逆らう者がいようともイエス様が独りで行かれたように、あなたたちも神の意志のために従順で服従的な犠牲として存在しなければなりません。そして、このような覚悟を持って全世界が反対しようとも、父の意志に従う者として奉仕と犠牲の犠牲となり、その意志の前に差し出されなければなりません。
 では、柔和で謙虚であり、献身的であり、従順で服従的である程度はどの程度でしょうか? 神の栄光があり、イエス・キリストの栄光がある以上、あなたがたは神とイエスの栄光を称える立場にありますので、3000万人を代表して柔和で謙虚で、サタンの血気と高慢と対決できなければなりません。そして3000万人を代表して従順で服従し、サタンの対立と抗議に立ち向かわなければなりません。
 したがって、利用し、搾取しようとするサタンに対して犠牲と奉仕の心情を持って立ち向かわなければならず、神とイエスが持っていたサタンに対する憤りの心情を持ち、サタンとの対決に打ち勝つことができなければなりません。もし、あなたがたがこのような聖者になれないとするならば、臨まれる主を地上で迎えることはできず、また主が来られてもその方と何らかの関係を結ぶことはできないでしょう。
 では、今日のクリスチャンが持つべき生活的な理念は何でしょうか? 私がまず従順に従い、私がまず柔和で謙虚であり、私がまず犠牲をし奉仕することを意志します。このような道を通して、父の御心が達成され、父とイエスの心情が満たされることを知らなければなりません。これにしがみつき、教会と国を代表して献身し、天の御心のために従順に服従することができる聖者が、三千万の民の中に多く現れることを天は期待しています。
 イエス様がこのように戦って勝利し、サタンを分別したように、今日私たちもサタンと戦って勝利し、父の腕に抱かれることのできる子どもたちとならなければなりません。終わりの日が今日、この地にはイエス様が内的にサタンと対決して戦われた生活的な理念を継承した柔和で謙虚な人々、従順で服従的な人々、犠牲を捧げ奉仕する人々がいて、全体の使命は果たせないかもしれませんが、神の審判と回帰と摂理を全世界の民を代表して分担しなければなりません。また、一つの分野を一人で負担できないなら、複数が団結してその責任を果たさなければなりません。このような神聖な運命が私たちの前に置かれていることをあなたは知らなければなりません。
 イエス様が4000年の歴史を代表して犠牲の価値を象徴的に示されたように、この時代において私たちはイエス様を代表する立場に立たなければなりません。そのためには、イエス様と従順で服従的な友人になり、柔和で謙虚な友人になり、犠牲を捧げ奉仕する友人にならなければなりません。そうすることができる人が現れることを天は期待しています。
 あなたがたがそのような姿になるためには、他人が何と言おうと、どのようなサタンの非難や妨害、苦難があろうと、それらに打ち勝たなければなりません。そして、イエス様がゲツセマネの園を通って十字架を担いでゴルゴダの丘まで行かれる悲しい心情が従うでしょうが、そのような場面でもイエス様が柔和で謙虚であり、喜んで犠牲の供えとなられたように、あなたも柔和で謙虚であり、従順でなければなりません。私たちは神の子として、神の栄光を称えなければなりません。
 イエス様が自らの立場を誇示したり自らを主張せず、常に神の立場を主張されたように、私たちも神の子として、天の法を守り、自らを誇示すべきではありません。しかし、イエス様が柔和で謙虚であり、従順で服従的であり、犠牲を捧げ、奉仕したのは神から来たからです。神が元々そうであるからです。
崩壊していく命を救い、この堕落した世界を救うためには、すぐに従順で謙虚になり、速やかに柔和で謙虚になることが必要です。すみやかに献身し奉仕することが必要です。こうした人々が世界中で増えれば、サタンの支配や敵対者の支配下にあったこの地が立ち直るでしょう。
 あなた方は柔和で謙虚であり、献身的であり、他者に何を与えても無限に与えなければなりません。そうすれば、天の怒りに満ちた感情を持ち、サタンと戦っていたイエス・キリストが再び来られるとき、審判の権威を持ち、栄光の姿でこの地に現れるとき、共に加わることができるのです。
 イエスはこの地に来られて、愛情深く、悲しみに満ちた生活をされながらも、自らの人生が終わる日を迎えることはありませんでした。ですから、自らの心情を打ち明け、自らのすべての福を委ね、自らのすべての意志を託せる日を望み続け、今日まで2000年の歴史を過ごしてこられたことを理解しなければなりません。
 イエス・キリストはこの地で言いたいことを言わず、やりたいことを行わず、持ちたい家庭を持っていなかったのです。では、イエス様が言いたかった言葉とは何でしょうか?それは神の奥義であり、サタンの奥義であり、人間の奥義を明らかにされる言葉でした。
 このような言葉は一人で述べることができるものではありません。神が創造原則、自律的な運行法則によって支配されるように、言葉を述べるには自然な環境が先に整えられなければなりません。このような自然な環境が整った日をイエス様は持つことができなかったのです。
 あなた方はイエス・キリストが人々に自由な環境で心を許して言葉を述べられる日を迎えられるようにするべきです。その言葉の中で神が共にあり、イエス様が共にあり、私が共にあり、サタンも自らのすべてを捨ててあなた方を従うことができる勝者となり、神も喜び、イエス様も喜び、私たちも喜ぶ日がこの地で実現しなければなりません。そうすれば神の意志が成就することを理解しなければなりません。
 イエス様は言葉の主人として来られ、人格の主人として来られ、愛の主人として来られました。神から天地万物を支配する祝福を受けたアダムとイヴが堕落し、この言葉を実現することができなかった悔しさを残したため、イエス様はそれを解消するために来られました。また、イエス様は万物を支配できる人格的な基準を回復し、万物を支配しているサタンを打ち負かして神の支配権を回復させる言葉の主人、真理の主人であることを理解しなければなりません。
 さらに、イエス・キリストは全ての人々、信じる者だけでなく信じない者さえも愛し、サタンの束縛から嘆息する人々を解放する無限の愛を持って来られた方です。今日、キリストの花嫁の理念を求めている私たちは、その花嫁の理念を持つためにはどうすればよいでしょうか。それについて問われると、「私こそが道であり真理であり命です」と(ヨハネ14:6)、その言葉を受け入れ、その通りに生きなければなりません。
 また、サタンを服従させるためには、サタンが持っていない言葉、サタンが持っていない人格、サタンが持っていない愛を持たなければなりません。そして、イエス・キリストが地上の人々に示されなかった懇切な思いを理解しなければなりません。今日、あなた方は統一教会に通っています。私は時折言っています。「哀れな人の道をたどるあなた方は哀れであり、悲しい人の後をたどるあなた方は悲しむでしょう。しかし、その哀れや悲しみは私のためではありません。」
 あなた方が本当にその立場になったとき、天から与えられるでしょう。その心情を通して、「私はキリストの心情を知り、キリストの生涯目的を知ったから、この目的を代わりに果たし、サタンに対して戦うでしょう。キリストが魂と肉を合わせてサタンを服従させるために戦われたが、私が今その戦いを負うことで、この悪党を打ち破り、サタンを服従させるでしょう」と自信を持って言える人を探さなければなりません。天はそのような人を探し求めています。
 さらに、審判の日が近づいているので、私たちは苦難と悲しみの頂点を超え、死の犠牲となり、新たな真理の言葉を抱え、新たな人格を代わりに立てて、新たな生活理念を見つけ立てることから始めなければ、真の生活をすることはできませんし、生涯の目的を達成することも、新たな永遠の理想的な生活を始めることもできません。これは神がすることでもなく、イエスがすることでもなく、あなた自身がするべきことです。
 イエス・キリストは神の外部の言葉だけを聖書に示しましたが、今、内部の言葉を持って再び来て、サタンの秘密を明らかにし、サタンを永遠に囚人に閉じ込めるでしょう。したがって、あなた方は再び来られる主から与えられた真理の主人たちにならなければなりません。
 その真理の言葉とは、神も納得し、忠実な信者も納得し、サタンまで納得できる言葉でなければなりません。そして、その言葉の前では、正常で本来の心を持つ者であれば誰もが動かされ、引かれる言葉でなければなりません。
 あなた方は真理の言葉を持たれたイエス様が犠牲になられるまでにも、神の前で這いつくばる気持ちを感じたかのように、イエス様の前に這いつくばる花嫁となり、父の前に犠牲として捧げられる人格を持たなければ、人格審判の頂点を越えることはできません。そして、真理審判の頂点を越えることによって、神がアダムとイヴに与えられた万物支配権を回復することができるのです。
 そこから新しい人生の始まりが実現されるのです。花婿花嫁の資格を持ち、永遠の神の愛を中心に新しい生活が始まること、これが終末的な希望であり、千年王国の基盤であるということです。皆さんが原理を学び理解していることであるが、天使長の愛よりも奇妙な神の愛を受けることができる勝利の資格者となり、「ハレルヤ、アーメン!」と言えるようにならなければなりません。
 そして、サタンの死の支配から解放されて、自由と平等と幸福と愛と善と美を中心に生きるが、自己中心的ではなく、神と主と天律を中心に生きることができなければなりません。そして、主の御心が私の御心であり、主の愛が私の愛であり、主の美が私の美であるように、すべてが私の前に現れるとき、皆さんがイエス様を崇拝するように、万物も皆さんを崇拝するでしょう。このような資格を持つ花嫁となることが終末の希望なのです。
 同様に、皆さんが花嫁の資格を完成させ、地上で霊と肉を合わせてイエス・キリストを代表し、彼の願いを達成しサタンに誇りを持てる姿となって全体を指導できるようにならなければなりません。そうすれば、イエス・キリストの希望の日が勝利の日として永遠に天国の前に立てられ、人間の前に立てられ、神の前に立てられるでしょう。



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