人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

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2023年04月28日 15時51分49秒 | 学習

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注) 
このサイトは自己学習の為に制作しております。

「御言葉選集」は独自の翻訳ですので間違い等が有ればご指摘頂けると幸いです。

 また日本語の文中にも誤字や脱字等が見受けられる事が残念ながらあります。お気づきの時は「何処の章のどの項番に有る」旨をコメントにてご指摘下さると助かります。

より良い文面作りにご協力を感謝申し上げます。


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御言葉選集1(2、3、4)

2023年04月25日 14時31分33秒 | 学習

それでは、このイエス様、今日私達が信じているイエス様を祀るためには、どうすればよいでしょうか。いつもイエス様の責任を消す者になってはいけません。


それでは、私達はどんな人になるべきですか? イエス様は4千年の歴史を担当し、当代の人類を担当し、亡くなってから2千年の間人類を担当してきました。私達は今イエス様の責任を消す様な生活をしてはいけません 。


そして私達は自らのお父様に、「2千年間責任を持ってきたイエス・キリストの難しさを知っています。」と言いながら、今日も私達のために、世界のために責任を負っておられるイエス様を第一に考える事と知っておくべきです。


これらの事が誰のためだったのでしょうか!
間違いなく私達のためです。ですから、私達はこれを踏まえてイエス様の前に頭を垂れることを知っている人にならなければなりません 。主よ!と呼びながらも骨が溶けるような心情、肉が溶けるような心情を感じてみなければなりません。


神様は初めて4千年のみ旨に責任を負うイエス・キリストを抱いて、「あなただけが私がしなければならない責任を負っているのです」と言えたということです。それで、全てを信じて全てを任せることができました。全ての責任の内容を覆すことができる場で、神様はイエス様を扱われたのです。

   1

 それと同じ様に、神様の前に立てられたイエス様と同様に、私達も全体の責任を余儀なくされると知っておくべきです。責任あるそのことが難しいなら「難しいそのことを私に任せてください。」と言える心情で、神様とイエス様の前に現れ、「念願されるその心情を私を通して示してください。私をご覧下さい。」というべきことを知らなければなりません。


 こういう人達が終わりに残る群れだということです。このような群れが出ていないとしたら、神の一人子イエス・キリストが2千年にわたって人類のために責任を負ってきたその目的をどこで成し遂げるのでしょうか。神様の一人子として命をかけて責任の路程を歩んだイエス様が責任を負うことを知っている人々を見つけられないならば…。


 ですから、私達は『イエス・キリストが「十字架上の歴史に対する責任と現実に対する責任と未来に対する責任を負う」と神の前に誓った責任を私達に任せてください。』と祈るべき時が来たということです。


 私達はこの日まで生きて、天の前に責任を返すことが多かったのです。しかし、今は4千年にわたって残念な思いを持って来られた神様の心情に代わって、地上で責任の王として歴史的なすべての責任を果たしてきたイエス・キリストの代わりにその責任を負って戦う時です。


 「サタンと数千万人の人間が歓迎しなくても、私が代わりに責任を持って戦うだろう。」と祈る人が出なければならないということです。こういう人々が出てこそ、イエス様が安息の園で休むことができるのです。

   2

 今日の終わり、この時に聞こえてくるのは、私の命のアピールを聞く者が誰だと? という言葉です。神の命を受け継いだイエス・キリストの命の懇願を聞く人は誰ですか。天はそんな人を探しているということです。


 これまでイエス様は万民のために神様の前で祈ってきました。ところが、イエス様が休んでおらず、まだ祈っておられるのは、イエス様に対する何かが間違っているからです。また、イエス様が父の前に立てない場でおられるからではありません。これら全ては私達の故です。ですから、2千年間活動されたイエス様のために、皆さんは何よりも生命を断っても命の責任を果たそうとしなければなりません。


 イエス様が十字架上から帰ることによって、命の責任がこの地上に残っているというのです。この残された命の責任を果たさなければならない時が再臨時代だということです。この生命の責任を持てる人が現れることで再臨時代は始まるのです。彼は歴史的な生命の責任と未来の命の責任を持てる人なので、皆さんは最後の戦いで彼と共に戦わなければなりません。


 神様は愛されるイエス様を立てて、信仰のイエス様を通して、あるいは真理のイエス様を通して人間達を愛することを願っておられます。私達を愛することを願っています。


 今日、私達は心で信仰のイエスを模倣しようとするとき、「はい。そうだ」と言えるはずです。勝利されたイエス様を模倣しようとする時、「そうだ。」責任を持っているイエス様を模倣しようとするとき、「はい。そうだ。」と言えるはずです。皆さんがこんな人になれないとしたら、これまでどれだけの時を、どんな時間も休めなかったイエス・キリストがどうして休むことができますか。

   3

 ですから、神様が自慢され立てられたこの条件を皆さんが代わりに引き受けなければなりません。そして霊界に行ったイエス様の誇りの条件をこの地上で成し遂げる皆さんにならなければなりません。神様が自慢できる皆様にならなければなりません。


 まずは信じられない世界で信じることを誇らなければなりません。そしてサタンとの戦いで勝利したことを誇らなければなりません。責任のないこのような世界で責任を負うことを誇らなければなりません。


 ですから、神様の誇りが霊界のイエス・キリストを通して地上の私達に現わされ、地上の私達を通して万物にもその誇りが及ばなければなりません。そうしてこそ、神様が創造の理念、人間を万物の主人公として立て、万物の前に誇ろうとしたという意味がなされるのです。そうすれば、初めて人間と万物が誇る神様に感謝の礼拝をささげることができるのです。このような全体的な責任が私達にあるということです。


 今日、私達はあまりにも不便です。私達が持っている信仰も見えません。ですから私達は今後、人間がサタンと戦わなければならない時、「お父様、この世界の万人がサタンと戦って勝てる様に力を与えてください。全人類が責任を負うことができる様にしてください。」と祈らなければなりません。そして全ての敵を迎えて一人で戦って勝利して、「お父様、喜んでください。」と言える様になるはずです。


 世界の全ての責任を負っていく姿を神様にお見せするのです。億千万人、あるいは千千万聖徒達と被造世界の前に責任を持っていく中心を誇ることができる人を通して、地に対する神様の恨みを解怨することができ、そのような人を通して神様の御心を広げることができるということです。これを皆さんは確かに知る必要があります。
 祈りましょう。

   4

<祈祷>
 お父様! これは私の責任であり、私を見ても私の責任であり、世界の邪悪なことを見るとき、涙が止まっていないのがイエス・キリストの生涯だったことを知っています。


 今日、私達は邪悪なものを見ても感覚がなく、迷い悩み悲しみに苦しんでいる若い心情を抱いて責任を感じざるを得ません。敵を倒そうとする心とその思いと苦しみがなかった私、また戦おうとしなかった私、全能の神様を信じられなかった私でした。天に対するイエス・キリストの忠誠を知らなかったのです。


 お父様、この夕方の一時、少数の群れを前に置いて勧告しました。イエス・キリストを立てて誇りに思っていたお父様の御心が使徒達を通して、歴史を経て今日の私達につながり、その意志が私達から伝播されることを望んでいることを知り、生命を得たという歓喜に加えて千千万聖徒達が歓迎できる中心的な責任が今日私達に任せられていることを知っております。


 今、私達を、天地と万物、イエス・キリストの恨みを解くための供え物になる様に許してくださり、誠心誠意を尽くす慈しみのある子とになる様に許して下さる様に、お父様、切にお願い申し上げます。


 十字架の道を通って新郎新婦の理念を立てられまし た。この内容をどの程度まで深く知る事ができるかということが問題であることを知りました。

   5

 お父様がこの時間を勧告してくださったので、今日私個人と、私達に天の解怨ための責任が任されており、天の恨みを解放するための戦いが私達に終結しなければならない事情があることを知って頂くようにお願いします。これを知り、誰よりも実践するという心、お父様に感謝できる心だけを持たせてください。


 十字架を持っても感謝させてくださり、億千万サタン達と戦うとしても父の前に卑屈な者にならない様に許してください。十字架につく場所に立ってもお父様! 私がいるので、心配しないでくださいと言える子ども達になれる様に導いてください。難しい場所に置かれている子供達を見て、寂しいお父様を慰めることができる子供達になることを許してください。


 御言葉が彼らの生命と道になる様に働いてくださり、彼らの生活中心に訴えて生きていく中心と標準を見つけることを許してくださり、不変の信仰と命の中心を持ってお父様の前に進むことができる様に導いてください。どうか、そうできる様に御言葉の創造の歴史をかけた心情を許して下さる様にお願い申し上げます。
 この御言葉を主の御名によってお祈り致しました。アーメン。







御言葉選集 1 - 3. イエス様は私達を探しています (1956年5月20日)
1956年5月20日(日)、前本部教会
聖書拝読 マタイによる福音書 18:1-14


 この時間に話そうとする内容は、この様に「イエス様は私達を探している」と言うことです。 このようなタイトルで申し上げます。


 神様が4千年間働いて準備された人として、地上に来られた方がイエス・キリストです。このイエス・キリストは神様の御心に代わって、神様の切ない心情に代わって地上に残された数多くの人類を生かすために来られました。

   6

 堕落した後、私達人類は神様の前にいて、どのような場所に立ったのかというと、四十九頭の羊の中にはなく、迷子になった一匹の羊と同じ立場に置かれています 。


 天にある千千万天軍天使も一匹の羊のようなアダムとエバを失ってしまい、神様の前にうれしい賛美をささげていません。この様に天軍天使達が喜びの賛美をささげることができなかった人間を再び探すために、神様はこれまでにご苦労を重ねておられます。


 イエス・キリストは、神が4千年にわたって探して見つけられた存在として地上に送られました。そのようなイエス様は、万民の前に善の先祖として、死亡した中にある私達人類を生き返らせるために真の父母の立場に立って苦労の歴史を重ねています。


 今日、私達がイエス・キリストを神の4千年の摂理歴史の過程で神の唯一の独り子として建てられた方です。


 それでは、イエス・キリストを中心に立てるために、神はどの様にされましたか? 世界人類について摂理されたそのすべてをイエス様に任せられました。こうしてイエス・キリストは新たな中心に立てられて、万民を責任を持って救うべき立場に立つ様になりました。イエス様がこういう立場に立つ様になった時、彼の心と体は言えない寂しさに浸りました 。

   7

 それでは、イエス・キリストが今日私達を見つけてくださるのにどのような過程を経て、求めてこられたのでしょうか。神様は4千年の歴史を通して人間を救うための御言葉を立てられました。


 そのため、ユダヤ教の信者達は、預言者達が訴えていた証の言葉を通して、メシアを迎える準備をしてきました。それが旧約聖書の歴史です。この様に準備された地上に来られたイエス・キリストは、神様の前に旧約聖書の4千年の歴史を善の歴史として終結させなければなりませんでした。ですから、彼が話される新しい御言葉は、神様の4千年復帰摂理路程に絡み合った苦しみが込められた御言葉であり、同時に、億祖創生達が信仰路程を行く上で知るべき千輪の法度を明らかにした御言葉でした。


 しかし、イエス様が発表されたこの新しい御言葉を、多くのユダヤ教の信者達が耳を傾けて聞いて信じなければならないにもかかわらず、信じて貰えずに、この信じられない群れを眺めるイエス様の心情はどのようなものでしょうか。イエス様は悲痛な心で訴えられたことを皆さんが知らなければなりません。


 今日まで、天は私一人を探し、罪の中に陥っている私達人類を再び探し立てるために長い間苦労してきました。旧約時代には,預言者達を通してイスラエル民族に旧約律法の言葉を与えました。そして 4千年の悲しい歴史を解怨するためにイエス・キリストを送って、新しい真理の言葉を発表しました。しかし、その御言葉をユダヤ民族が信じてくれ ないことで、神様の心情を慰めることができず、神様の穏やかであるべき心情を自分の心から慰めなければならない結果になったことを皆さんが知らなければなりません。


 ですから、イエス様は、行くべき方向を知らずサタンの中にある群れの前に現れて行くべき方向を示し、生きる道を教えてくださいました。しかしイスラエルの民はその言葉を受け入れませんでした。そうして私達人類は人生の方向も失われ、神様が立てられた4千年の苦労の祭壇も崩壊してしまったということです。もし神様の御言葉の上でイスラエルの民族が一つになったならば、彼らは神がくださった御言葉によって結実され、神は彼らを再び子として抱かれたでしょう。

   8

 イスラエル民族がイエス様がくださった新しい御言葉を信じずに一つにならなかった故に、イエス・キリストは悲しみの御言葉を残していきました 。ですから、百匹の羊のような立場に立つべきイスラエル民族がどのような立場に立ったのかというと、迷子の一匹の羊のような立場に立てられており、私達も同様の立場に置かれています。


 私達は、一匹の迷子の羊と同じ立場にあるイスラエル民族を扱ったイエス様の心情を知る必要があります。失われたイスラエル民族を捜し立てるために、イエス様は悲しい心情をもって御苦労されました。


 今日、私達が知る必要があるのは、天は一人の人を探したてるために4千年の間、儘ならぬ心情を抱いて摂理されてきました。


 それでは、イエス様は30年以上の生涯にわたってどんな御苦労の道を経ましたか。イエス様は神様の御心が現れることを願いながら、30年間の私生涯期間に準備してくださったのです。その期間が過ぎた後、新しい御言葉を持って現れて伝える様になると、イエス様は喜びを感じる中で御言葉を伝えたのではなく、天の悲しみを抱いて御言葉を伝えました。


 「私に従ってください。」という言葉、「私を信じなさい。」という御言葉など多くの御言葉をしましたが、その悲しい心で訴える声を聞いてくれる人々は極めて少なかったのです。

   9

 そのような環境で、イエス様は悲痛な心情を抱いて30年の生涯を過ごしました。神様の御言葉を求めている人を探して来たという事実を知る必要があります。


 ですから、今、皆さんはイエス様が訴えていた御言葉の内容が何なのかを知って、自分が行かなければならない方向を見出さなければなりません。


 皆さん自身が天の前に失われた一匹の羊のような立場にあるにもかかわらず、自分が行かなければならない方向も知らず、自分がどんな所にいるかも知れず、世界がただこのまま続くと分かっているなら、皆さんは大きな誤解をしているのです。


 皆さん自身はよく分からないかも知れませんが、イエス様は生まれて以来、これまでの2千年の歴史過程を経て、悲しい声で叫んでおり、その召しの声の音は皆さんの願いになっているということです。


 切実に訴えるイエス様のこの声を皆さんは無視しますか? 聞けない者がいるなら、同じ恨みの心でも持っていなければなりません。皆さんの中で呼ぶ声を懐かしく思わない者がありますか? この声を見分けるためには心を分別しなければなりません。あるいは呼ぶ声を皆さんが聞いたとしても、体が丈夫でなく動けない時は、そこに向かって心を集めることができる私にならなければなりません。

   10

 神様は、失われた羊と同じ立場にある今日の私を探すために孤独であり、その歩みが一日でも、一年でも、百年でも、六千年をかけて訪ねて来られました。天地の上の失われた羊の群れを探すために努力してきた6千年の歴史は、天の大贖罪史でした。


 私達人間への神様の召しは、声を聞くことができない場合は、実体の神様となったイエス・キリストを通して見せてくださり、実体となるイエス様に神様の無形の心情を示す様に宣言された御言葉が現わされた福音の御言葉でした。


 人間が無形でおられる神様の心情を知らず、神様の声を聞くことができないので、これを解決するために神様の実体として現れたイエス様でした。また、彼が伝える御言葉を聞いてイスラエル民族がイエス様に来て、4千年間知らなかった神様の真の意志を知り、神様の心情を感じて悔い改めるべき立場であったにもかかわらず、イスラエル民族は悔い改めずにイエス様を遠ざけました。


 ですから、今、皆さんはイエス様の悲しい声を聞くために準備しなければなりません。そのためにはどうすればいいですか? 皆さんが世の中のすべての言葉をよく聞く様に、本当に神様の心情を代わりにして、神様の御心の代わりに万民の前に現れたイエス様を信じる心を持たなければなりません。

 イエス様は無形の神に代わって来られ、4千年の間、天の前に寂しさだけを与えて来た無知な人間に代わって贖罪の道を歩みました。この様に、イエス・キリストを悲しい場に立てて再決心させられた神様の心情を皆さんは計り知らなければなりません。

   11

 イスラエル民族が心を広げて、切ない神様の内的心情に代わって訴えるイエス様を聞きき入れていたら、実体として現れたイエス・キリストの悲しみにさらされて叫んだ御言葉を問題なく聞いたことでしょう。しかし、イスラエル民族はどうでしたか? 旧約聖書に現れた言葉だけで満足しようとしました。神様の最後の御言葉が旧約聖書にすべて記されていると思いました 。


 神様の悲しみはこれだけではありません。イエス・キリストを立てて神様の内的心情を実体に見せて証しする時にこれを悟れなければ、天の愛が地上の悲惨さにつながることをイスラエル民族は悟りませんでした。


 無形の神様が4千年にわたって苦しんだその憐れみを地上で喜びとして解怨しなければならなかったイエス・キリストでした。それを皆さんは知らなければなりません。

 神のご意志に代わって、4千年の働きに代わって地上に来たイエス・キリストは喜びの御言葉を発表できませんでした。ですから、イエス様以来2千年の歴史が経過しましたが、今日6千年の歴史を通して考えると、まだ神様の悲しみとイエス・キリストの苦しみは地上に満ちているのです。

 今日、私達はこれらの神の悲しみとイエス・キリストの苦しみを知り、今、神の喜びの御言葉とイエス・キリストの御言葉を伝えることができる筈です。イエス様が私達を見つけた目的は御言葉を伝えようとする事だけではありせんでした。

   12

 失われた羊の群れのような私達を見つけるために御苦労される過程では、悲哀の御言葉だけではありません。6千年にわたって悲哀の御言葉が溢れていた中で、失われた羊の群れを訪れるその瞬間には、6千年の悲しみを忘れることができる喜びの御言葉が現れなければならないのです。皆さんはその喜びの御言葉が天から現れると思いますが、それは大きな誤解です。

 今、私達は2千年にわたって苦しんだイエス・キリストの心の前に、私達を訪ねて来て下さった主の前に愛されることができる羊の群れになるべきです。悲しみのイエス・キリスト、傷ついたイエス・キリストが叫ぶ声を聞いても、叱られ、方向も解らない者になってはいけません 。

 イエス・キリストが悲惨な思いで訪ねて来られて悲しみの声で皆さんを呼ぶ時、皆さんは眠っていてはいけないということです。それではどうすればいいのでしょうか? イエス・キリストの悲しみの声が聞こえる前に、皆さんが最初に叫ばなければなりません。私が最初に、「あなたは私の羊飼いです! 主よ!」 という声が天地に木魂しなければならないということです。

 そうすれば、皆さんを訪ねて下さるイエス様は、皆さんが叫んでいる声を聞き、再び叫ぼうとする時、悲しい声ではなく喜びの声で叫ぶでしょう。皆さんはそのような立場に立たなければなりません。

   13

 今日、私達はイエス・キリストの悲哀の心情を証明しなければなりません。羊飼いを失ったことを悲しむだけではなく、失われた羊飼いを探すために叫ぶことを知らなければなりません。

 この様に叫んで呼び集められたイエス様の前に一歩であっても責任を負うことができる存在となってこそ、このイエス様の前に喜んで頂けることができるでしょう。今日、イエス様は悲哀の声で私達を探しており、また私達を見つけるために苦しみの生活を重ねているという事実を皆さんは知る必要があります。

 人類を救うために4千年の歴史に代わって歩まれたイエス様は、人類全体の救いの摂理によって良い生活もできませんでした。苦しみの生涯を経て今日私達を訪ねてきているのです。

 皆さんが知っている様に、イエス様の30年以上の生涯は苦しみの生活でした。大工のヨセフの息子としての30年の準備期間における彼の生活は、外的にも内的にも苦痛の生活だったということです。

 皆さんの様に快適にも自由にも生活できませんでした。万民の様に生きたと知っているのは大きな誤解です。義父のヨセフとマリア、そして弟達にまでも非難される位置で、イエス様は御言葉があってもやりきれない苦しみの生活を送ったというのです。イエス様の苦痛はイエス・キリストの神のための苦痛ではありませんでした。

 4千年の間に苦労された神様の心情に代わって、私でなければ失われた家庭を再び探す者がいないことをご存知で、一片丹心の天に対する心だけで切実だったのです。そしてその様な環境のなかの自分として、凄惨な環境で闘争する群れを見て、イエス様は困難と悲痛の生活のなか、4千年間、神様に代わって御言葉を持って理想世界を成し遂げるために命を捧げて戦ったのです。

   14

 生まれた時からきちんとした扱いを受けなかったイエス様は死ぬまで荒野の生活のような孤独で大変な生活をしました。こういうイエス様の外的な苦痛も苦しみですが、外的に現れなかった内的心情の中に隠れた苦痛というのは、神様のみが知っています。

 イエス様を信じて従うべきイスラエル民族にみ旨を知るべき人はおらず、知らなくてもいい人が集まりました。このようなイスラエル民族の中で、イエス様は本郷の生活を見逃したのです。

 彼が食べて着て飲んだ生活は自分のための生活でなく、一身の安息のための生活ではありませんでした。彼の食べて身に着けて飲むことのすべては、イエス様自身を越えて神様のために、世界の人類のため、民族のためのものでした 。

 ところがそのようなメシアの事情を知った人は一人もいませんでした。孤独なイエス・キリストの心情を抱き、イエス様の心を私が知り、イエス様の心情を私が知り、あらゆる場所に従い、イエス様の心を慰める友達になろうとする人がいなかったということです。まさに慰めなければならない弟子達も、イエス様の隠れた内的心情を慰めてあげられなかったのです。

 ですから、イエス・キリストの30年余りの生涯は、苦しみの生活で占められました。福音を宣べ伝えた3年の公的愛の路程が始まった日から、彼が伝えた御言葉は私的な御言葉ではありませんでした。自分の利益のための御言葉ではなく、自分のいかなる能力を示すための御言葉でもありませんでした。神様の御心を成し遂げる為の御言葉だったのです。

   15

 ところが、これらの御言葉とみ旨を持って来られたイエス様を、民族全体に代わって知り、友達になる人がいなかったのです。ですから、イエス様は村で一人きりであり、民族全体でも一人きりだったのです。今日、皆さんは快適な場所で神様の御言葉を聞くことができる環境にいます。皆さんはこの様に自由な環境で神様と接することができるこの時を逃してはいけません。

 イエス様の当時は御言葉を伝えるのにもこっそり伝えなければならず、御言葉を聞くのにも隠れて聞かなければなりませんでした。ですから、彼らが行くところが荒野だったのです。そんな中でもイエス様は数多くの群衆を荒野において神様の御言葉を伝えようとしました。それでも、神様の御言葉を宣べ伝え、神様の御心を成し遂げようとしたイエス・キリストの心情を皆さんは知らなければなりません。

 この様に、イエス様は多くの人の群れに福音を広めましたが、それを歓迎する人は一人もいませんでした。福音を伝える心がいくら伝えても分からない人が多かったのです。イエスが与えられた使命と責任を果たすために苦労すればするほど、それを妨害する者が多かったということです。

 その様な状態で、一日中この群れに荒野で叫ばれていた哀れなイエス・キリストは、再び天の前に訴えるためにオリーブ山の険しい道を訪ねていきました。従う弟子達はまばらであり、一人で神様の前に進み、自分の傷ついた心を癒しながら、再び第二次にサタンと戦う力を補うためのイエス様の苦労を皆さんは考えなければなりません。

 イエス・キリストは30年余りの生涯を費やして苦痛な生活をしたことを知る必要があります。ただそれだけではありません。イエス様の苦しみが30年余りの生涯の苦しみだけで終わったと言う事は大きな誤解です。今日、霊界に行ってもイエス・キリストは苦しみの中にあるのです。

   16

 2千年の歴史が延長され、神様の御心を成し遂げなければならない一つの目的を持ち、摂理の中で神様の御心を代行するイエス・キリストは、今日この時間までも苦しみの生活をしています。その苦しみの生活が繋がり、今日に繋がっています。

 それでは、この一つの苦痛をどこに行って解決するのでしょうか。今日、この地上だけではありません。この地上だけが絶対ではありません。今日を責任を持つことができる皆さんを通して、その苦痛と苦労の中での恨を解かなければならないということです。

 ですから、イエス様は永遠の摂理路程での苦しみを皆さんの前に歴史的な時間的距離を置いて示されたのです。皆さんがこの事実を知っているなら、皆さん自身はイエス様の苦しみの手を握って慰めることを知るべきです。そうして憎しみと悪口を言われていたイエス・キリストの心情の恨みを代わりに背負って慰めるべき責任が今の皆さんにあるというのです。

 しかし、皆さんがそのような立場に立つことができなかったならばどうすればよいでしょうか。皆さんの環境でイエス様の苦しみを感じる事が出来る様にならなければなりません。皆さんの生活の中でイエス・キリストの苦難の生活を知らなければならないということです。

 それではイエス様はどんな罪があったから、30年余りの生涯の苦難の生活、苦痛の生活をしなければならなかったのでしょうか。罪があるなら、神様の前に万民を救わなければならない救い主として立てられた罪しかありません。こういうイエス様が万民のために苦しんで。万民のために哀れでであった事を知らなければなりません。そのようなイエス様について今日、私達は悔い改めの心を持たなければならないということです。

   17

 皆さんの生活の中でもイエス・キリストの30年余りの生涯の苦難の跡が残っています。皆さんがこれを収めなければなりません。馬小屋で生まれた時の苦難からゴルゴダ山上までの苦難、そして復活後の2千年の苦難の跡まで全部収拾しなければなりません。このような全体的な意味を皆さんは知らなければなりません。

 イエス様の悲しみは激しく叫ぶことで終わりませんでした。苦難と苦労の生涯を経ても終わらなかったのです。今日、人々はイエス様が苦しみの生涯を経て、十字架にて終わったことを知って、皆さんは死を覚悟し、イエス様を悲しみから救うべきです。

 この様に、イエス・キリストは私達を探し出すために6千年の歴史が過ぎた今日まで苦しみ、恨みに綴られた道を行きました。

 イエス様は30年余りの生涯を終結する十字架の死の道に進み、死が迫ったとしても、「天のお父様、出来る事ならこの杯を過ぎ去らせて下さい。」と訴えました。4千年にわたって苦労した多数のクリスチャン達が叫んだ血の訴えは、イスラエル民族によって解怨されなければなりませんでしたが、それに応える道理すらなかったということです。

 ところが、これを民族に代わって歴史的な血の訴えの代価を払って蕩減された方がイエス・キリストでした。アベルの血が流され、訴えたときに血を流された時と同じ様にそれまでの多くのクリスチャン達が、血にまみれてイスラエル民族に対して訴えた条件がイエス様によって解怨されたのです。4千年にわたって訴えていた声が、4千年にわたって数多くのクリスチャン達の訴えの目的がイエス様の死で終わり、死んだ後の復活によって完成されたということです。

   18

 イエス・キリストの復活によって、この地上に血を流して行った先祖達の恨みの解怨が成し遂げられたのです。その様にして、初めてイエス様を前に立てて天の前に崇拝することができる様になりました。

 イスラエル民族が天を信じて受け入れることができず、それまでに犠牲になった預言者達の血の訴えを完結したイエス様は、同時に後代に何を残したのでしょうか。イエス様は後代に十字架の死によっての「血の道」を残しました。それで今日、皆さんの心にイエス・キリストの死の血が残っているのです。

 ですから、皆さんがイエス様の前に立つ様になったとき、また皆さんの一生を見ると、皆さんの一生にも血の跡があったことを感じるでしょう。これは、預言者達の血の懇願に対する答えであり、イエス・キリストの血の訴えに対する答えであることを知っておくべきです。ですから、十字架の死を通してもイエス様が私達に来る様に言われた時には、私達は逆に十字架の歩みを通してイエス様を探しに行かなければならないのです。


 今、皆さんはイエス・キリストがゴルゴダ山の十字架で疲れて果てながら訴えた情熱が皆さんの体の中で脈打っていることに知らなければなりません。

 イエス・キリストが十字架をかけて皆さんを探し出してくださったのですが、皆さんは今までその様にやって来たイエス・キリストの苦労を知らなかったし、十字架をかけてイエス様を呼んでもいませんでした。死の道を歩んだイエス・キリストは、十字架を通して私を訪ねて来られ、今もなお私の為に叫んでおられ、私の為に無限に訴えており、苦しみ、死の道を歩み、私の為に苦労しておられます。

   19

 今、私達は十字架を通してのイエス様を知っています。今日、私達はイエス様の恨を解怨しなければなりません。この恨を解怨せずには、イエス・キリストを掴んで「私の新郎」とは言えません。

 ですから復活直後にマグダラのマリアが「ああ、主よ!」と言った時にイエス様が否定した理由がここにあったということです。そのため、マグダラのマリアが復活の主に会ったその日から天国生活をしたかったのですが、天国生活が2千年間遮られていたということです。このような残された十字架の恨みを知り、残された十字架の恨みを私達が解怨しなければなりません。

 この様に十字架を越えて私達を探してくださったイエス・キリストが残したものは何ですか。イエス様はこの地に新郎新婦という名詞を残されました。それで今、皆さんの祈りの中で、主は新郎として現れます。皆さんは花嫁で主は新郎として、そんな姿で皆さんに現れるのです。新郎として現われる主にお会いするとき、皆さんはいつも十字架の血の対価を考えなければならないということです。

 今残ったことが何でしょうか? 私達に主がもう一つ探して下さるべきことは、十字架を廃して万代の後孫に祝福を与えることができる道、十字架を越える道を探さなければならないのです。十字架を越えてイエス様が自由に私達に現れることができなければ、十字架を切り離してしまい、この一つの恨みを解放しなければならないのです。「わたしの働きを通して、祭壇を通して、天地を通して十字架による恨を解怨する」と言う一つの不変の基準を立てる迄は再臨の歴史は完成しないのです。

 この様にしてくださったイエス様は、今日私達に何を残しましたか。悲しい生活を通して、苦しみの生活を通して、十字架の死を通して私を探し出した後に私達に残したのは何ですか? イエス様は私達に命の光を残しました。イエス様が命をかけて私達を訪ねてくださったのですが、どんなプレゼントを持って来られたのかというと、暗い世界を照らす事のできる光を持って来られたというのです。それで、私達がイエス・キリストの死について感謝の涙を流してイエス・キリストの心情を知り、イエス・キリストの事情を知ったのです。

   20

 次にイエス・キリストは私達に何を残しましたか。水と油を残しました。苦しめられ、傷つけられた私達を癒す為に、イエス様は私達に何を残して下さったかというと、水と油を残してくださったというのです。

 私達はイエス様が残してくださった光をして、自分の傷を知って水と油でそれを洗わなければならず、自分が罪人であることと裸の体であることを知って礼服を備えて着なければならないのです。こういう時代になったということです。この様に、皆さんが自分の心情に、心に灯りをもって自分の罪をきれいに洗い、傷を治し、礼服を着た後で、2千年前に亡くなったイエス様の願いを、今日の皆さんが成し遂げることができるということです。

 今、私達は心の灯りをもって水で体をきれいに洗い、傷に油を塗った後に許された礼服を着て、イエス様が十字架を越える事なく、私達自身が十字架を越えてイエス様に礼拝をささげなければなりません。これが地上で人類がしなければならないことです。

 イエス様が十字架を越えて来られることを望まないでください。イエス様が来られるのではなく、皆さんが命の光を放つ存在となり、次にすべての力を備えて永遠に不変な価値の光に代わって、礼服を着て十字架を越えて、イエス様と一つとなって、神様が永遠に安息出来る様にしてあげてください。そして崇拝することができる愛する花嫁とならなければなりません。神様はこの様な花嫁が出て来てほしいと願っておられるのです。

 皆さんは今イエス様が残した恨を解放しなければなりません。イエス様から心の光を継承し、イエス様から水と油の賜物を受け、その後はイエス様の服を着て…。この礼服は皆さん一人一人にとどまるのではありません。皆さんに留まるのではなく、皆さんをして生命の光を受け、水と油の賜物を受け、礼服を着ることで、神様の前に花嫁になることができる人が多くならなければならないということです。

   21

<祈祷>
 愛のお父様! 6千年の歴史がこの様に険しいと感じながら、お父様のその心情、お父様のその心の前に恐怖を感じる者になる事をお許しください。罪の中でどんな罪が一番大きいのかを知らなかったのですが、知ってみると、お父様がくださった光を私のものだけと見なすのが大きな罪でした。礼服を着れなかった事が大きな罪で有る事が解りました。

 今日この場に集まったお父様の子ども達が自分が直接罪を犯すよりも一人の生命に犯罪させること、イエス・キリストの前に残された光と水と油と礼服を残せなかった、これがより大きな罪であることを悟る様にお許しください 。

 お父様、伝えたばかりの御言葉を通して去っていった子供達にイエス・キリストの姿を見せてくださって、呼び集める声を聞かせてください。歴史的な御苦労と苦難、十字架の苦難まで責任を負わなければなりませんから、彼らが足りない座にあり、天の御意を知らず、父が望む御意を知らずにおりますので、お父様、励ましてくださって、まず彼らに御意を明らかにしてくださり、お父様の直接的な声を聞くことを許してください。善の生活をしようとするので、彼らが善なる様に生きていける様に導いて下さる様に、愛するお父様、切にお願い申し上げます。

 主の花嫁となれるようにし、すべてを越えて天の栄光を表わすことができる子供達として導いてくださり、新しい歴史的なみ旨を担当させて下さる様に、愛するお父様、切にお願い申し上げます。

 すべてをお任せしますので、思いのまま主管してくださり、集まった人々の心に現れてくださって、永遠の勝利の栄光に代わることができる子供達として立ててください。アーメン。

   22


文鮮明先生御言葉選集 1 - 4.  天地の為に来られ、帰っていかれるイエス(1956年5月23日)
1956年5月23日(水) 前本部教会
聖書拝読 ヨハネによる福音書 14:2-12


<祈り(Ⅰ)>
 幼い子供達が再び生きる道を訪ね、お父様の膝の前に出てきましたから、お父様、お受けください。私達は、宇宙よりも皆さんだと言ってくださったことを知っています。多くの群れがお父様を求めて御前に集まりましたから、お父様、集まったこれらの群れがお父様の栄光に代わることを許してくださり、喜びの祭壇に代わってお父様の御心を知ることができ、お父様の御心情を体恤できるこの一時として許して下さる様に、お父様、切にお願い申し上げます。

 お父様は正しく信じなければならないことを知っておられ,必要な歴史を起こさなければならない立場におられることを知っておられます。今日まで天が私達を信じなければならない、信じて立てなければならない立場におられることを知りながら、お父様は私達を信じる事が出来なかった過去の事実をお許しください。

 御意を知って差し上げなければならない責任も余裕がなかった私達でしたので、お父様、この時間許して下さる様にお願い致します。お父様を信じて頼り、私の命までも捨てることができ、私の生涯までもお父様に率直に置くことができ、お父様が受け取られるのにふさわしい供え物としてこの時間受けて下さることを、愛する私のお父様、切にお願い申し上げます。

 お父様、多くの人の中から見知らぬ私達を呼んでくださったので、お受け下さりお父様の憐れみの愛で抱いてください。
 お父様にこの時間、体と心をすべてお捧げし、お父様の心配される心情を持って振舞うことができる様にお許し下さる様に切にお願い申し上げます。

 6千年間解かれずにきた哀しい天の事情が今日まで続いており、嘆息が今日まで続いている歴史を見ていく時、今日も私達自体がお父様の嘆息の源となっていることをお許しください。お父様の命と願いを理念の実体としてお与えになってくださり、お父様が喜べる命の根として立てる様にお願いします。

   23

 今日ここに集まった子供達を誇りに思って頂き、この時間、今ある心情を全て捧げてお父様の愛を賛美し、千千万聖徒達の前に立った子供達として恥ずかしくないお祝いの供え物になることができるこの時間になる様にお許しください。お父様、切にお願い申し上げます。

 すべてを委ねますので、主管してください。主の名前によってお祈り申し上げます。アーメン。


<祈り(Ⅱ)>
 お父様! 孤独な環境の中でも、それぞれの十字架を背負って天に向かって険しい道を歩いていた子供達が、この時間もお父様の膝の前に集まり、お父様の大きくて高かった愛の賜物を望んでおりますので、お父様、親しく訪れて愛で包んで頂き、疲れた心を慰めてくださり、難しくも新たな心霊を起こして立ててください。

 お父様が私達を親しく接してくださらなければ、私達が行く場所がどこにありますでしょうか? 貧しい子供達ですから、お父様、親しくしてくださり、私達の行く道を親しく導き、注視して下さり、お父様が願われる意志に向かって動いていける子供達になれる様に助けてくださるようにお願いします。

 この時間集まった子ども達の心を、お父様、親しく主管してくださり、各者の心をお父様の前にお出ししますので、お父様、新しい歴史を起こしてくださり、思いやりの心を持って導いてください。

   24

 各自が過去に行動したすべてを父の前に立てて悔い改めることによって、この時、お父様の大いなる愛の歴史が起きる様に、神の賜物を施してください。
 お父様! 私達の前にはまだまだ険しい道が残っておりますので、お父様が親しく主管してください 。

 今見たばかりの幼な子のような子供達を抱きしめてくださる様にお願いいたします。 眠っているすべての子供達を起こし、お父様の前に導く責任を持つべき聖徒達が集まったので、彼らが背負った使命を果たすのに不足がない様に導いて、協助してください。過去のどんな聖徒よりも一層高く歩める子ども達になれるように助けてくださり、サタンまでも愛することができる子どもになる様に導きください。

 お父様の抱きしめに応じてふさわしい歩みをなす子供達として、サタンの嘲笑になる子供達にならない様に助けて下さることを望んでおります。自分を中心に天倫を計る愚かな者にならない様にしてください。

 この時間、父の名前で集まるすべての子供達の上に特別な賜物を施してください。子ども達を早く呼んで下さる道、切にお願い申し上げます。

 この時間にも、お父様を呼び、隠れた祭壇を築き、お父様を求めて渇望する子供達がどれくらい暮らしていますでしょうか。彼らが求めなければならない使命も、この場に集まった子ども達が背負っているので、お父様、そのような使命を果たすに足りる様にしてください。その意を高めてあげられる日が早く早く臨む様にしてください。

   25

 眠っている24億人類をお父様の前に見つけて立てなければならない使命が私達にありますので、お父様、私達にくださった御言葉を持って自信を持って進んでいく際に、随所に生命の炎を起こしてくださり、復活の歴史を起こしてください。お父様の喜びと栄光をこの地上に高めることができる子供達として助けて下さることを切にお願い申し上げます。

 今日まで、何千年もの間、この地の人類の為に苦労しておられるキリストの悔しい心情と、私達の為に父の前に訴えるキリストの嘆きを解怨する責任が私達にあることを強く信じさせてください。

 人類がしなければならない責任を果たす前に、天の基準を捨ててはならない様にしてください。お父様、この時間この場に臨んでくださり、責任を尽くして天の賜物を受けることができる子ども達として下さる様に切にお願い申し上げます。

 すでに背負った使命を再び地に捨てる子供達にならない様にしてくださり、お父様の栄光を最後まで表わすことができるお父様の愛する子ども、お父様の力を表せる子どもとして立てて、結果を表せる様にしてください。

 難しい環境の中で孤独な祭壇を築き、お父様の前に叫び訴える子ども達を、お父様、親しく抱いていただき、記憶してください。そうして見事に御意を受け入れて現れる天の子ども達になる様に許して下さる様に請い願っております。

   26

 お父様、この時間親密に働き、見つめて下さり、永遠の命の歩みを歩いていける命の御言葉を受けてることができる賜物をお許しください。

 この時間の終わりまで一緒にあってください。
 すべての御言葉を愛する主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。



<祈り(Ⅲ)>
 お父様! 愛する弟子達を残し、十字架の峠を越えて永遠の世界に行かなければならないイエス様の心情を知らせてください。その心情を理解することができるこの時間になることを許してください。

 イエス様を心で知り、体で理解して、それに応じることができる私達の心が天にとどまり、地上の人間を動かし、彼の心が動けば一緒に動いて、一つの御意に対して謙遜な供え物で捧げられる愛する子供達になる様に許して見守って下さる様にと切に願っております。

 苦しみの立場で従った多数の群れはすべて落ちて12使徒だけ残りましたが、その中でも近く、自分を裏切るユダがいることを感じたイエス・キリストの心情を私達が知る事ができる様にしてください。人を信じて過ごした3年間、過ごした愛の路程がこの様に寂しい環境に残った時のイエス・キリストの心情を、今日、私達が体と心で感じ取れる様に許して下さる様に願っております。

   27

 お父様! 十字架の死の道を前にして天と一問一答されたイエス・キリストの苦しみの心情を今日、私達が体験できる様にしてくださり、お父様の前に溢れる程の供え物として、彼の心の慰めの相手となれることができる子ども達として立ててください。切にお願い申し上げます。

 今、私達だけを残さないで、お父様と一緒にして下さって、集まったこの一時に訪れてきた一歩が嘆息を醸し出す一歩にならない様にして下さい。そうして私達の命のすべてを、お父様、引き受けて主管して下さる様に切にお願い申し上げます。

 サタンが周りに広がっていることを愛する子ども達が知ることが出来る様にしてくださり、サタンに譲る心の隙を持つ子ども達にならない様にしてください。お父様に向かう正しい身体と心を持たせてくださり、使命感を持って知性と精誠を尽くして勝利の祭壇を築くことができるこの時間になる様にお許しください。

 人間的な認識と人間的な観念を私達の周りの環境の中から除いてくださり、伝える者の心と受け手の心がひとつになって、お父様に喜びと栄光になることを許して下さる様に切に願いながら、愛する主の御名によってお祈り致しました。アーメン。



<御言葉>
 今日捧げようとする御言葉は「天地の為に来られ、帰っていかれるイエス」です。このようなタイトルでしばらくお話しします。

   28

 神様が天地万物を創造されたのは、神様が喜びたいと考えられた事は間違いありません。そのため、まず無形の天使世界を創造し、次に無形実体世界の象徴として有形実体世界を創造しました。そして霊界と実体世界の中心であり代表としてアダムとエバを創造されました。

 このアダムとエバは天地が変わらない限り天地と運命を共にしなければなりませんでした。つまり、天地が動く通り一緒に動かなければならない運命を持ったアダムを創造されました。それでアダムとエバが変わると天地も変わるのです。そして全天地の中心が分裂すると、創造主の中心も分裂する必然的な条件を持って造られたアダムとエバでした。

 このようなアダムとエバが堕落することで、天地の中心がずれ、其れに寄り、創造主の中心もずれたということです。ですから、神様は天地の中心を再び立てて、被造世界にその正しい中心を据えて、創造主の中心と創造された被造物の中心が二つではなく一つになる様にしなければならない立場におられます。そうなると、再び天が嬉しく、地も嬉しく、地が嬉しいなら天も嬉しくなるのです。

 創造主の運命が間違っていない限り、被造世界の運命は変わらないのです。このような被造世界の中心であるアダム・エバが堕落することで、他の万物が乱れ、万物も各方向と中心がずれる様になりました。これを再び回復するための歴史が復帰摂理歴史であり、復帰摂理歴史を重ねて、長い6千年の歳月を経て今日に至りました。

 今日まで、神様の愛の摂理は数多くの預言者を通して現れ、預言者を通して象徴的に愛を示したとともに、その全体的な愛の結晶体として現れたイエス・キリストを通しては実証的な摂理の愛を内外的に見せてくださったのです。

   29

 ですから、彼の心は無形世界の中心に代わり、彼の体は実体世界の中心を代表したのです。このようなイエス・キリストである事を知るべきイスラエル民族が知らなかったので、イエス・キリストを十字架に掛けてしまいました。それ故に、残された天地が暗闇に浸ったという事実を皆さんは知っておくべきです。

 イエス・キリストが来られた唯一の目的が何でしたでしょうか。天地を創造されたお父様の心情を備え、天と地に変わらない永遠の中心を築くことでした。この中心を築く為に、イエス・キリストがこの地に来られたのです。

 ですから、彼が伝えた御言葉は、自分を中心に立てることではありませんでした。エルサレムのどんな民族やイスラエルの一族の部分的な中心を立てようとしたのではありません。

 彼の行動も彼一人だけの行動ではなく、彼の希望も彼一人だけの希望ではなかったのです。彼が望む事は、全天地万物全体を抱える不変の中心として立って、万物を越えて無形世界を経て創造主である神様の心情に代わる所まで進むことであったことを皆さんが知らなければなりません。

 そのような希望を持ったイエス・キリストの御言葉、イエス・キリストの生涯、イエス・ キリストの実践的な行動であった事を皆さんは知っておくべきです。彼の行動は、天と地を新たに建設する出発としての行動であり、彼の御言葉は、その一つの意志を成し遂げるための再創造の歴史を起こす為の御言葉だったことを皆さんが知るべきです。

   30

 30年の準備期間を経て3年の実践生涯路程でアダムが失った天地の不変の中心を再建する為に語られましたが、語られたその御言葉をイスラエル民族が信じられず、霊界と肉界の中心として立たなければならなかったイエス・キリストは霊界の中心としてのみ立てられ、実体的な肉身世界の中心としては立てられずに亡くなったことを皆さんは知っておくべきでしょう。

 イエス・キリストは十字架の峠を越えるまで何を行いましたか。この地に来て30余年の寿命を何の為に苦労したかというと、一次的には地の為に苦労したのです。

 ところが、地の為に苦労した彼の功績で、地上に収めようとした目的が成し遂げられ、霊肉を合わせて地上で成し遂げなければならない一つの中心を一つの実体で完結しなければならないことでしたが、地上で実体の中心とならなければならなかったイエス・キリストの体は十字架に付けられてしまいました。そうして霊的な世界を代表してイエス様の霊だけが完成することによって、復活以来今日まで2千年の歴史は霊界を中心に復帰摂理をした期間になったことを皆さんは知らなければなりません。

 イエス様は十字架で亡くなられた後に復活され、復活して40日間地上で活動された後、再び霊界に行かれました。この様にイエス様が亡くなられてから復活し、復活して再び昇天されたこの事実は、神様の創造の働きを象徴的に見せてくれたのです。

 創世記では、夕方になり、朝になるので、これは最初の日です。(創 1:5)には御言葉があります。そこには夜の時間があるのです。イエス様の墓の3日の期間は、まさに夜の時間と同じ期間です。30余年の寿命は昼間でしたが、イエス様は弟子達を立てる為に30余年の寿命を働かせました。この苦労の過程を経た後に復活されたのは、夜を過ぎて新しい朝を迎えたのと同じことです。

   31

 復活したイエス様は地上に灯りを立てる為に苦労しましたが、地上に灯りを立てられませんでした。ところが地上に灯りを立てる為に復活されたようですが、実像は霊界の中心として復活されたので、イエス・キリストは地上におられず、再び霊界に行かれたということです。これは何を意味するのかというと、夜の期間を過ぎて昼の期間を迎えたイエス・キリストは、再び夕方を迎えて永遠の世界に行ってしまったことを意味するのです。

 それでは、イエス様が人類の為に神様に祈ると言ったのですが、どんな祈りをしていますか。血の汗をかいた祈りをするということです。人類が地上でイエス様を知っていると言いますが、イエス様が霊界に行っても彼らを知らないと言われるのです。

 この様にイエス様が神様の前で知っていると言える立場を作っておかなければ、人類が行ける霊界が父なる前で認められないので、イエス様は今日まで霊界に行って神様の前に私達を知らずに祈りをしておられるということです。これを皆さんはよく知らなければなりません。

 このことを経た後、イエス様が再び来るとき、どうやって来るのでしょうか。来る時には地の仕事と天の仕事を合わせて持って来られます。地の仕事と 天の仕事に神様に代わって責任をもって来られます。ですから、今日、私達も十字架の死から復活し、昇天して天上におられるイエス・キリストが再び来られるまで、そのイエス様が越えられた峠に沿って越えなければならないというのです。

 また、2千年の夜の期間を経て復活の朝にあたるこの時において、イエス様が天が歓迎する一つの中心を立てて再び来られるとき、皆さんはそのイエス様が地に向かって来られることを心で感じなければなりません。

   32

 これまで、私達の信仰の形は、天を眺めながらイエス様を捧げてきました。これが今日までの私達の信仰の基準でした。

 今私達が私なすべきことが残っていますか? 私達は、地の為に代わりに働いている聖霊を慕わなければなりません。皆さんはこれを知る必要があります。これまで数多くの人々がイエス様を2千年間霊的に捧げてきたが、今は聖霊も拝慕しなければならないということです。そうするべき聖徒達であり、私達人類であることを皆さんは知らなければなりません。この様に聖霊を拝慕しなければならない時代があり、花嫁の実体を完成しなければならない時が来ました。

 聖霊は花嫁の神なので、花嫁の形を取り、花嫁の形を成し、私達は敬拝することを知らなければなりません。そうすれば、イエス・キリストは霊界に行って休むことができるということです。そして天地に一つの中心を立てて、再び私達がこの地を中心に探して行くのです。

 心で礼拝を捧げていた私達は、これからは私達自身に働かれる聖霊を拝慕しなければなりません。ですから、私達は霊的な象徴であるイエス様を慕い、肉的な象徴である聖霊を慕って、私達一人の個体から霊的なイエス様をささげる心と肉的な聖霊をささげる体をひとつにする事です。地の中心が私の心と体から合わせられるということです。そうすることで、イエス様も私の代わりに立つことができ、聖霊も私の代わりに立つことができます。これを皆さんは知る必要があります。

 それでは、今この地上に来なければならない主はどんな意味を持って来るのでしょうか。皆さんはイエス様と聖霊の中心を皆さん自身にしておかなければなりません。肉体を持っている皆さんが霊界を象徴し、肉界を象徴したイエス様と聖霊をして霊肉を合わせた一つの実体の中心体として完成しなければなりません。そうでなければ、神の全体の創造の理念が皆さん一つで完結することはできません。このような一つの中心の使命がイエスと聖霊の使命であるということです。この中心を成し遂げる為に、イエス・キリストは再臨されるのです。

   33

 では,今日,私達が今この一つの意志を受け取るにはどうすればよいでしょうか。イエス・キリストがガリラヤの浜辺に愛する弟子達を訪ねて行ったことを考えてはいけません。イエス・キリストは皆さんをいつも見つけて下さるものではありません。皆さん自身が一人の花嫁になり、イエス・キリストを祀られなければなりません。

 イエス様と聖霊は天の中心なので、皆さんの心がイエス様と聖霊と一つになることができる中心を備えることで、地の中心となり、一体として扱えるこの一つの基準を立てなければならないというのです。この時はいつもイエス様を思慕する時ではないということです。今は聖霊の分別された心情を備えており、私達一人一人がイエス様を地上で代わりに探し求めることができなければならないということです。こういう一つの中心を皆さんが見つけて決意して立たなければならないということです。

 この一つの中心を願うイエス・キリストは皆さんの為に聖霊を立てて今日まで2千年間働いてきました。今、皆さんはこの苦労に答えなければなりません。天が霊と肉を代表する中心として、イエス・キリストをこの地に送られ、霊的にのみ完成したという基準を立てましたが、皆さん自身がイエス・キリストを求めて祀って、この残された地の未完成部分を完結させなければなりません。皆さん一人がそれを完結すれば、今日まで苦しんできたイエス・キリスを皆さんの心に祀ることができるということです。

 今日、人類は今イエス様の前に訪れ、イエス・キリストの心に似て、イエス・キリストの体に似て、聖霊の心に似て、聖霊の体に似てきた天地万物の前に自信を持って現れなければなりません。そうならなければなりません。

 そしてイエス様と聖霊の前に誇れる私にならなければなりません。また、次は使徒達の前に自慢できる私にならなければなりません。そうしてお父様の前に出て、これまで6千年間お疲れ様でした、お父様! 6千年の間に敵であったサタンを私の一身から屈服させますので、お父様、今日この時からは私からサタンに対する心配を除いてください、と自信を持って叫ぶことができなければなりません。

   34

 また、この全ての被造の園を覆っている罪悪の嘆息が私には終わりましたので、お父様! 天地に被した嘆息を取り去ってやって下さい。と言える心を持たなければなりません。

 また、堕落以降は神様が6千年間愛する息子・娘を立てても、 一度も愛されませんでした。今日でも、神様は私達自身を愛したい心があっても、心から私達自身を見つけても愛することができないというのです。イエス様と聖霊は私達を訪ねて愛することができますが、神様は私達がその言葉を信じる前に愛することはできません。

 ですから、今日、私達がイエス・キリストの代わりに一つの中心を備えて、「お父様! 今日、この地の人間のすべての罪の嘆きを私が責任を負うので、6千年間人間を愛してあげたかったお父様! 今初めて創造本然の愛で私を愛してください。」と言える存在にならなければなりません。皆さん、自分がお父様の前に進んで「お父様!私を愛してください。お父様!私を愛してください。」と堂々と言える人にならなければなりません。そうしてこそ、天地を創造された神様の御心がイエス・キリストを経て皆さん自らで成し遂げられると言う事です。

 ですから、今日私達、信仰者の責任というのは…。イエス様はこの地の為に来て、天の為にご苦労されて行かれました。この様に天の為に苦しんだイエス様、天地の中心として現れたイエス・キリストの前にある被造世界に代わって、無限の霊界に代わる中心存在で堂々と立つ事ができる存在でなければ、イエス・ キリストが天地の喜びを持って現れる時は栄光の世界に出席し、神様とイエス様と聖霊と皆さんが合わせて喜びの世界で生きる事ができないと言う事です。これを皆さんは心に留めておくべきです。



<祈祷>
 愛のお父様! 6千年の歴史を見ると、大きく見ると今までは夜の期間でした。 大きく見ると、夜の期間を超えて今朝が堂々と明ける時期にとどまっており、全体的に朝の時期を迎えるべき今日、私達にとっては暗い夜の期間を過ぎて復活の賜物を備えなければならず、天に行かれたイエス様の前に心を置いて再び来られる心に沿って、地を考えるイエス様を、私達が代わりに心情を備えて、訪ねて下さる聖霊と一体を成し遂げ、外的な中心を成し、そうしてその中心にイエス・キリストを祀って霊的な中心を成して、天地を創造されたお父様の本然の心情を備えたひとつの中心存在として立てられる事を、この時間知る事ができる事を語って下さいました。

   35

 今、私達が地の為に生きていますか? これは半分しかできない人生である事がわかります。それとも、永遠の為に私達が生きていますか? 半分しかできない事がわかります。

 これまでは、私達がイエス様に沿って上がる生活をしてきましたが、今は従って下ってきて聖霊を慕い、一体の花嫁に仕える事を望むイエス様の願いを成し遂げてください。この地で聖霊の花嫁の品性を慕い、彼の心情が、彼の徳性を心と体に満たしてくださり、イエス・キリストが地上で外的に完成できなかった事を聖霊の働きに、聖霊の協力で、完成した存在で立って創造の理念全体に代わる一つの中心存在として立ててください。

 そうして天の本然の中心として天地に通じ、創造主の中心を通じた心の中心として来られた事を被造万物の前に自慢できる様にしてくださり、全被造物の中心に立てていただき、父の前に堂々と出て行き、「失っていた6千年の愛の心情を自分一人で回せる自分がいるのですから、お父様!愛してください。」と言える息子の位置まで導いてください。

 今日までこれを成し遂げる為に苦労の歴史を経てこられたので、苦労の歴史を経て出てきたお父様のご苦労の前に呼びかけを信じ、立てた心を信じ、探した心を信じて愛する事ができる存在として立ち、今お父様が眺めておられる場所に立って万物を眺める事ができる子供の立場に立ててください 。

 この時間に集った皆さん、愛する子供達、しばらく聞いた御言葉が心の力になり、命の中心に立つ事ができる様にしてください。どこに行ってもこの中心を失わない様に導いてください。夜になっても心だけは昼間に居られる様にしてくださり、いつの時かある時に主が臨み、聖神が訪れ、お父様が顕れても、足りない姿であっても導いてくださり、どんな時に臨んでも準備を完結した子供として立ててください。

 御言葉を終わりますので、彼らの生涯の路程の道を一緒にしてください。主の名を通してお祈り致します。アーメン。

   36


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御言葉選集1(1、2)

2023年04月15日 15時25分56秒 | 学習
文鮮明先生 御言葉選集 1-1
1956年4月8日(日)前本部教会
聖書拝読 :テモテ 2:1-13

<祈り(Ⅰ)>
 お父様、堕落前に持っていた本性の命が注入されるこの一時となる様にお許しください。お父様の愛があふれる生命の祭壇になることをお許し下さい。

死の塀を前にしている事をこの時間、私達が体の心で感じることができる様にしてください。そうして復活の賜物を受けて栄光の祭壇を築き、乱れたすべての祭壇に新しいろうそくを掲げることができる私達となれる様にお許し下さる様に、お父様、切にお願い申し上げます。

心に傷ついた人がいますか? 気をつけてください。体にサタンに捕まった痕跡が残っているならばそれを除いてください。そうして堕落前の本然の姿を表せる様に許して下さる事を、愛のお父様、切にお願い申し上げます。

お父様、能力を御言葉として現われるようにしてください。私達の全てを投入し、再創造の歴史を起こして下さる事を愛するお父様、切に請い願うもので御座います。

難しい環境で私達を呼び集めて下さいましたので、今私達はこの試練と困難の峠を越えてまいります。もう残された戦いで勝利の凱歌を上げなければならない時になりましたので、お父様が、我々に更にお力を加えてくださり、能力に更に力を加えてくださり、復活の力を現わしてください。

                       1

闇に閉じ込められていた心霊達が解放される様に許してくださり、希望の炎で復活させてください。真理で埋め尽くされた園として下さり、悪が主管していたこの世、6千年のお父様の恨みの跡を明らかにして下さり、お父様の命の炎が残される様にお許し下さる様に、私のお父様、切にお願い申し上げます。

新しい歴史はお父様を中心として始まることを知っております。そして、歴史の基準を天に置かなければ、全体的な歴史の基準になることができなかったのが歴史的な事実であった事もわかりました。

私達のお父様!
私達を呼び集め立てて下さったので、新しい歴史を成就することをお許しくださり、新しい時代に天の精兵を立ててご覧頂き、新しい園を建設して歓喜の栄光をお父様にお返しできる様に賜物を許してください 。愛するお父様、切に請い願い申し上げます。

戦いの障壁を乗り越えて、先知先列が行った同じ道を探して参りました。難しい道という道を探して来たのです。振り返らず戻れない道におります。一つの目標に向かって主体的な勇気を持って戦わなければならない時となったことを知っております。最後の情熱をすべて傾けてサタンに対して先頭に立って、他の人より先に旗を持ってサタンに向かって突進できる天の精兵になる様に許してください。

                         2

お父様、残された戦いの祭壇を勝利の祭壇として収め、父の安息の祭壇、栄光の祭壇として収拾できるまで、お父様、私達が行く道を守ってくださり、私達が留まる所を聖別してください。お父様、嬉しい勝利の白い旗をこの民族と24億人類の前に差し込んでも残れる様に導いて下さる様に、お父様、切に請い願い申し上げます。

お父様、この時間少数の家族も心集めて父の愛に浸るために集まりました。愛なるお父様、この一時だけでも隠された父の愛に浸ることができる様にお許しください。

6千年間閉ざされた天の愛と真理の歴史を示してくださり、復活の歴史を示してくださり、心から、体から自由の解放を受け、お父様の「私の子」になることを許してください。勝利の歓喜でお父様にお会いすることができ、勝利の栄光でお父様を奉じることができる子供達として立ててください。
この日は聖なる日となります。3千万民族に代わって集まる祭壇達に、お父様、成らせてくださいませ。死んでいる祭壇があるなら、命の歴史をお示しください。時、環境、処所を問わず、お父様、復活の歴史をお示しください。

眠っていた命の炎を起こしてくださり、良心的な子供達、父に従う子供達を通して新しい命の旗を持って出て行くことができる様にお許しくださり、隠された祭壇を守ることができる子供達が多くなる様にお許しください。お父様、切に請い願い申し上げます。

この時間集まりましたので、お父様、私達の心霊を聖別して下さり、自我を中心とした観念や罪悪の要素、浄化できなかった暗い恨が残っているなら、お父様の炎のような聖霊の働きとして現れて、導いてください。お父様、懇切にお願いを申し上げます。

                       3

私達に任せてくださった使命を不足することなく遂行し、この一つのみ旨のために心を捧げて千千万聖徒達とその国の家族の前に面目を立てることができる、使命を果たす息子娘になる様にお許しくださる様に切に請い願い申し上げます。

この時間、最初から最後の時間までサタンの讒訴条件にかかる者がいなくなる様に守ってくださり、一命でもさらに復活の賜物に感激し、新しい命の歓喜を味わって、新しい命の賜物を受ける様に許してください。そうして、新しい命が復活の栄光をお父様に返すこの時間になる様にお許し下さる様、愛するお父様、切に請いお願い申し上げます。

もう全てを委ねますので、生命の根源的な歴史が最初から終わりまでに現れる様に許してくださり、喜びの内容だけが現れる事をお許して下さる様にお願い申し上げます。
主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。


<祈り(Ⅱ)>
 お父様、今日も不足なる罪の多い者が参りましたから、父の聖なる前に少数の家族が復活しました。

今まで預言者達を立てて伝えられ、聖霊を通して伝えられ、キリストを通して伝えられたので、まだお父様が親しく伝えられて来なかったことを知っています。親しく分からなかったお父様のこの御言葉がここに現れる様に許してください。そうして聖霊を通して、イエス・キリストを通して成し遂げようとされていたお父様の意志がここに現れる様にお許しください 。

                   4

お父様が喜びの意志を成し遂げようとすることを知っています。お父様の御意の前に、私達は不十分な誠心であったとしても捧げたいと思っております。
私達の手足にはサタンの矢の跡が残っていて、私達の体には戦いの傷が残っています。

愛のお父様!
あなたの手を差し伸べてください。お願い申し上げます。一言の新しい御言葉を望んでいますので、お父様、語ってください。切に請い願い申し上げます。心と罪が属していたすべての心情を除いてくださり、属してひたすらお父様を傷つける堕落の心情をお許しください。

お父様、呼び集めてくださって、私達に命じてください。お父様が知ってほしい摂理の中心が何かを知る様にしてくださり、お父様が知りたい天倫の中心が何かを解る様にしてください。お父様、この時間降臨してください。私達は穏やかで、お父様が私達に下された御言葉に答えるためにひたすらに待ち望んでおります。お父様、切に請い願い申し上げます。

この時間すべてを、お父様、主管してください。いま御心の前に訪れてきた私達、命で結実しなければならないことをお父様、終わりが近づいているこの時、お父様、命の手を差し伸べてお許しください。世の中と歴史は変わっても父の命は変わらないことを、お父様、永遠の命、不変の標準に向かって走ることができる様にお許しください。

この時間、その一つの標準の前に合わなかった子ども達がいる様に、この日を分かってくださり、能力の手を差し伸べて許してくださり、お父様の性相に似た歴史となる様にしてください。お父様、切に請い願い申し上げます。聖なるお父様と聖者と聖霊の前に集まりましたので、彼らの主観的な観念を除いてくださり、命の歴史作る事をお許しください。お父様だけが彼らの心の中心になり、集まった全体の中心になって頂き、勝利の盾になってくださって 喜びのこの一時になる様にお許しください。

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この日から見られる命の要素として永遠の命の血を成し、永遠の勝利の盾を造成して、サタンと正面衝突をしても傷つかない子供達として立ててください。すべてを委ねますので主管してください。
主の御名によって祈り申し上げました。アーメン。

 
<御言葉>
 今日ささげる御言葉は、 「勝利する神様の傭兵になりましょう。」と言うこのようなタイトルを持ってしばらく話をします。

精兵という言葉は本来からあった言葉ではありません。人間が堕落したときに初めて生まれた言葉です。つまり、戦いが残っているので、神様の代わりに戦いを余儀なくされる息子娘が必要だったから生まれた言葉です。

こういう息子娘を立ててある時期まで戦いの過程を経なければ神様の御心が完成することができないので、このような息子娘を選ばれたので、変わる歴史を重ねて6千年という長い歳月を神様が親しく地に対してサタンと戦ってくださったのです。

しかし、神のこの戦いの働きを代わりに責任を持って第一線に出て、実際の戦いをしなければならない責任者はどんな存在ですか。神様が直接戦うのではなく、イエス・キリストが直接戦うのではなく、聖霊が直接戦うことでもありません。イエス・キリストと聖霊と神様を背景によく信じる聖徒達が、この戦いの直接的な責任を担っていることを皆さんがよく知っています。

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この戦いは必然的に終わらなければなりません。ところが、イエス・キリストがやってきて2千年が過ぎたのに、まだこの戦いは終結していません。この私がこの戦いの範囲を広げ、勝利の土台を作らなければならないが、この責任を負う存在は誰なのか? まさに何もない私達だということです。これを考えてみると、神様の希望は神様自体にあるのではないことが分かるのです。そして、イエス・キリストの願いもイエス・キリスト自体にはなく、聖霊の望みも聖霊自体にはありません。他ではなく、今日この地上に残っている私達だけにあるということです。

それでは、地上の皆さんを天が呼んでいます。神様は6千年の摂理の全体を通して皆さんを召されておられるのです。ですから、皆さんは6千年、さらには億千万年の間続けてきた人類歴史を勝利で終結させなければならない責任を負っていることをよく知る必要があります。

そしてこの様にお父様が私達を呼んでおられるということをよく知らなければなりません。それだけでなく、時代を担当し、歴史を担当し、永遠の摂理を担当する天の真の精神にならなければなりません。偉大な摂理の運命を直接開拓していくのもイエス・キリストがしなければならないことではなく、聖霊がしなければならないことではなく、神様がすべきことではなく、まさに私達がしなければならないことです。

私達はこの様に大きな使命を背負っている自分を置き、第三者の立場から批判してみることができなければなりません。お父様が親しく現れて質問しても、素晴らしく答えられる私になったのか考えてみなければなりません。摂理の全体を責任を持って戦うことができる、勇気と誇りと信念を備えた天の傭兵になったのか? とお父様が尋ねても、はい!成りましたと。 だからこそ、うっすらと答えることができる私になったのか…。神様は素晴らしく答えられるそういう存在を探しています。

それでは、このような精兵になることができる条件は何ですか? 私達自体では、天の精兵になることができる条件を探すことはできません。それでは、私達はどうすれば天の傭兵になることができますか? 私達が天の精兵になるには、すでに代表的な天の精兵として現れた人、つまり私達が信じているイエス・キリストに似なければなりません。

イエス・キリストの降臨の背景から、彼の生涯と彼の理想すべてはサタンについて誇ることができる内容です。そして私達が天の精兵になるためには必ず通らなければならない内容であり条件です。皆さんはこれを留意する必要があります。彼の言葉も同様ですが、彼が亡くなって見せてくださった十字架の痕跡も同様であり、彼が残した復活の痕跡も同じです。 これらすべては、私達が歴史的なすべての戦いを終結させ、天の精兵になるために必ず備えなければならない絶対的な条件であり、法の道なのです。私達はこれらの条件を備えなければなりません。

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しかし、ここで私達が知っておくべきことは、イエス・キリストも天の傭兵が備えなければならないすべての条件を備えるまで、30年以上の生涯にわたって準備し、努力し、苦しんだということです 。一日で出来たわけでもなく、一瞬で出来たわけでもありません。30余年という長い試練の過程を経なければならなかったということです。それでは、イエス・キリストがこの地に来て歩んだ路程は何ですか?

天の精兵として地上でサタンに対して勝利するには、越えなければならない試練の条件、試練の路程を見せてくださったのです。イエスは十字架上で働いた、と言われましたが、これは十字架でのみなされたので、そう言われたものではありません。天の精兵として備えなければならない条件を十字架に至る前にすべて成し遂げたので、そう言われたのです 。そして天の精兵としてしなければならない使命を果たしたという意味でそう言われたのです。

不足のない天の精神を持たれたイエス様であったので、十字架に戻り、神様はイエス様を復活させることができました。それでイエス様の復活以来、イエス様は天から、聖霊は地上にて働き、2千年間サタンと戦いをしてきたのです。今、天から呼ばれた私達が守っていかなければならない試練の路程が残っています。イエス・キリストの30余年の寿命の路程を計ってみると、30年の個人の人生の愛の路程を歩き、3年の公生涯の愛の路程を経て、3日の墓中期間に試練を終結させたのです。

私達の一人一人が十字架の道をたどり、復活の道をたどるのはもちろんです。
イエス・キリストが十字架にて亡くなってから復活の賜物を受けたのです。一日に受けられたこの賜物ではなく、数時間にて受けられた賜物ではありません。長い4千年の歴史を経られた神様の心情とイエス・キリストの心情が合わさって、30余年の生涯苦難の道を歩んで勝利してなされた道理であることを皆さんが知らなければなりません 。

私達は信仰生活をしており、聖書を読んでいますが、聖書をそれぞれの思いどおりに翻訳してはいけません。よく信じる人々は、十字架の道理が 十字架上でのみなされたことを知っていますが、そうではありません。30年余りの生涯でよく食べることができず、よく着ることができずに、知らない苦難の生活を経た末の十字架であることを皆さんは知らなければなりません。そしてイエス様は、残された天の精兵の条件を完備した神様の一人子であることを皆さんは知らなければなりません。

今、私達はイエス・キリストの一生が与える教訓が何かを分析し、イエスを信じ始めてからキリストの苦難の路程を再び行かなければなりません。皆さんも試練の過程を経なければなりません。イエス・キリストの試練の過程を経ている間には戦いもあります。そして10年でも20年もなく、30年間戦われたキリストを模倣し、死ぬことも恐れないイエス・キリストの不変の心情を模倣しなければなりません。 今、私達が知る必要があるのは、残された苦難の道と死の道を余儀なくされ、十字架を守り、十字架の道理を守っていく人が皆さん自身であるということです。

イエス・キリストがやって来た後、イエスがこの地上に積み重ねた十字架の城を守り、激戦の第一歩を踏み出す責任が使徒達にありました。今、残された十字架の生を守る責任が終わりの聖徒達にあることを皆さんは知るべきです。
最後の決戦で勝敗を決めなければならない時となったのですが、ここに残ることができる精兵になったのか、キリストが亡くなって復活したかの様に私も再び蘇ることができる、第2の復活の歴史を起こすことができるのかということが重大な問題だということです。

イエス様は霊界に行っても戦いを展開しておられます。数多くの善い聖徒達を代表してサタンと戦っておられるということです。霊界で戦うイエス様を模倣して地上で戦いを展開するために来られた方が聖霊です。その聖霊の協力を得て、実際に戦わなければならない責任が私達にあるということです。つまり、実際にその戦いを引き受け、余裕のある空の精兵にならなければならない私達だということです。

今、最後の戦いが行われましたが、今日、あなたはあなたが戦う戦いがあなたのための戦いではないことを知る必要があります。その戦いは、天から聖霊を通してあなたに繋がった戦いであることを知る必要があります。そしてその戦いの目的はサタンを追放する事です。ですから、今、私達は戦いの頭を越えて本郷まで行く、残された キリストの十字架を担当する精兵となり、歓喜のお叫びをするべきです。6千年の恨みを解いてしまい、6千年の願いを成就した勝利の精兵、歓喜の精兵にならなければなりません。

キリスト以後残された十字架の生を担当した、代表的な精兵として現れた群れが12使徒でした。12使徒は死を越えて十字架の城壁を守り、体と心を全部捧げ、血を散らしながらも錆びずに十字架の城壁を守りました。神様はこのような傭兵を探しています。預言者達は福音の道を歩き、散りばめられた血の跡が十字架の城壁に残っています。そしてこの地は、先祖達の恨みと血が難しい地であり、血の訴えが残っている地です。

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この恨みを解く人が誰なのかというと、まさに私達だということです。イエス・キリストの死も恥ずかしいことですが、預言者達の死も恥ずかしいことです。皆さんは,イエスの死とあわせて,預言者達の死も恥ずかしいことを知っておかなければなりません。今、私達は恨みを持つ時が来たことを知る必要があります。6千年の間、我慢していた天の恨みを解き放たなければならない時になりました。この時に必要なのが天の精兵です。この時代に求められているのは天の精兵です。

お父様! 6千年の恨みを私を通して爆発してください! と言える神様の我慢の子にならなければなりません。こういう我慢の子が三千万民衆の中に多くなると、三千万民衆の暮らしが開かれるでしょう。また、そのような人々が祭司長になって十字架の城壁を守り、戦う精兵になれば、この民族は滅亡しない でしょう。今日、神様を信じる人々はこの様に天の精兵にならなければなりません。

この地に来て十字架で亡くなられたイエス・キリストは霊界で勝利の神殿を築き、その神殿を広げました。あなたが霊界を通して見るとわかりますが、堕落の暗やみが神の御座の下にまで迫っていたことがわかります。戦いを重ね、時間に時間を加えることでイエス様以来初めて一つの基盤が設けられました。さらに、この戦いを広げるための戦いが今日まで続き、地上でもサタンとの戦いが続けられました。今、この戦いを終えることができる天の精兵が出てくるのを天は望んでおられるということです。

今、私達は怒らなければなりません。イエス・キリストは、30年以上の生涯、この地に来て死の十字架の頭を越えるまで苦労し、戦われただけでなく、2千年間の戦い続けたということです。この戦いを知らない無知なる人間達…。あなたはあなた自身に訴えなければなりません。民に訴える前に、家庭や社会、そして世界と地に訴える前に、皆さん自身に訴えなければなりません。

皆さんは,2千年間の神様のみ旨のために戦ったイエス・キリストを真似て、神様のみ旨のために戦わなければなりません。それで天で勝利し、地で勝利して天と地が答え、神様の心情に代わって、創造本然の美を現わせなけれ ばなりません。これが神様が6千年間摂理された目的であり、イエス・ キリストを送られたのです。

今、私達は天の傭兵になり、十字架の城壁を守らなければなりません。皆さんはこの様に天の精兵にならなければなりませんが、皆さんは自分がどの隊列に属している精兵であるのかを分別することを知らなければなりません。 地の歴史は天の歴史を形状的に展開する歴史であるため、天に12使徒を中心とした12隊列の傭兵達がいるのと同様に、地上にもイスラエル12支派のような12教派と無数の支派的な隊列があるのです。

2千年の歴史を経てこのような隊列が形成されましたが、皆さんはどの隊列に属しているのかを知る必要があります。小隊や中隊と大隊、連帯、 師団などで編成されている世界軍隊と同様に、組織的に編成された空軍隊のどの部隊に属している自分なのかを皆さんは知る必要があるということです。そして今、あなたはどんな使命を中心に命じられているのかを知る必要があります。

さて、戦いの過程を経た後に一つの中心を中心として全被造世界が喜ぶことができる時を迎えなければなりません。その中心は誰かとすれば、私達が信じているイエス・キリストと聖霊なのです。空の精兵の究極の目的は何ですか?サタンとの戦いを完結させ、神様とキリストから賞を受けるのです。戦いで勝利をして、地上で天の賞を受けるのです。

今、戦いは各方面で行われています。世界どこでも起きています 。また天地全体に摂理の意志が展開されています。皆さんは個体的な戦いで勝利し、家庭的な戦いで勝利し、社会、国家、世界的な戦いで勝利し、天地で起こる戦いで勝利する精兵にならなければなりません。

イエス・キリストは天地で起こっている戦いを終結させることはできません。そのため、皆さんは各方面の部署を守護し、各方面の戦いを終結させる精兵にならなければなりません。キリストを頭にした部隊として勝利して持って、体と心が一つになった後に天の前に崇拝させなければ、天地万物が嘆き悲しむというのです。

皆さんは今、かつての使徒達が残した血の跡を経て行かなければなりません。 さらに、イエス・キリストと聖霊が負われている責任を取って代わるべきです。

(天の精兵の究極の目標)

 天は地上に戦いの土地が残ることを望まないし、地で願いが結ばれた繋がれた地で勝利して恨みを解かなければ、イエス・キリストの戦いが終結し、キリストが再び来られる事ができないのです。再び来た後は何をしますか?6千年間行われて来た戦いを終結させ、神様から祝福を受けるのです。神様が親しく双手を挙げて祝福されお祝いされるのです。勝利の精兵達が集まって一緒に祝福される祝宴が子羊の祝宴ですが、この子羊の祝宴をされるというのです。

皆さんは、総司令官である神様がくだされる御言葉を直接受けなければなりません。皆さんはイエス様に代わって、神様の命令を直接受ける場所まで進まなければなりません。

ヨハネの黙示録14章に「また、私が見ると、見よ子羊がシオン山に立って彼と一緒に十四万四千人が立ったが、その額に子羊の名前とその父の名前が書かれている」。(1節)と記されている様に、皆さんはお父様の祝福を受けなければならないということです。

これまで、皆さんは聖霊の導きを受け、イエス・キリストの導きを受けてきましたが、これがすべてではないということです。お父様の祝福を受けてこそ、 地上だけでなく天国に行っても永遠に無窮な精兵になるということです。その場まで進まなければならないことに留意してください。皆さん個人がこのような精兵になった後に全人類がこのような精兵になる様にしなければなりません 。

皆さんはすべての戦いで勝利してキリストの精兵になると同時に、神様が喜ばれる本然の人間、創造理想を完成した息子・娘にならなければなりません 。そんな天の精兵達が返すホサナの勝利の雄叫び全地を振動させる時が来れば、サタンに対する神の恨みが一時に解放されることになります。これを皆さんは確かに知る必要があります。まだ戦いは残っています。ですから、皆さんは最後の攻撃を敢行し、戦いの先頭に立って神様の印を受け、神様の前にサタンを屈服させられる精兵にならなければなりません。そうしてこそサタンとの戦いが終結するということです。

聖霊の前にサタンを屈服させ、イエス・キリストの前にサタンを屈服させても戦いは終わりません。神様の前にサタンを屈服させなければ、戦いが終結しないのです。

このような勝利の精兵を作るために、6千年の摂理歴史を経ながらお父様が苦しんだのです。こういうお父様を知って皆さんが勝利の天の精兵にならなければなりません。




御言葉選集1-2 神様の誇りとなったイエス・キリスト (1956.05.16)
1956年5月16日(水)元本部教会。
聖書拝読 コリント第8:16-24

<祈り(Ⅰ)>
 愛するお父様、今日は万民に贖罪の賜物を許された日です。戦う歴史を経ていく中で、この足跡を残しながら摂理を進めて来られたお父様の路程と先に行った先賢達の殉教の足跡をこの時間忘却しない様にお許しください。

この日、この一時にお父様の前に崇拝する事がアベルが血の訴えをした様に、懇切に供物を差し上げる時間となる様にお許しください。腐敗する体を中心に集める姿にならない様に導いてくださり、聖別の祭壇になってアベルがお父様と全体の万物の前に香る生け贄になった様に、僅かな少数の群れでも三千万の民に代わって アベル的な祭壇を築くことを許可してください。

是非、集った人達がアベルが血を流された事を踏まえて、カインの立場で自分自身を誇る為に立たない様にお許し下さる様、愛する私のお父様、懇切にお願致します。

天心に対する心情と血の訴えの心情を供える事が出来る様にお許しください。この地上にはまだ多くの民が残っていて、愛すべきこの地上であり、億千万年の嘆息の足跡が残されたこの地ですから、このためにお父様の前に喜びの供え物として現れて感謝の礼拝を捧げることができる子供達として三千万の民衆の中にその様な心情を持つ多くの人が現れる様にお許しください。24億人類の中から多くの人が現れる様にお許しください。

億千万年の積み重ねられた罪悪の塀を壊して歓喜の園を成し、お父様を喜びと 栄光の中で享受できる子どもの群れが防房曲曲に現れる様にして下さる様に、愛するお父様、切に請い願い申し上げます。

天が私を訪ねる下さる時、私を立てるために6千年の間に苦労した御跡が残っていることを私達は今日まで忘却して生きてきました。私が今日快適に暮らすことができ、快適に信じることができるのは私がうまくいっているからではありません。その様に考える事の無い様にしてください。

穏やかで謙遜な一つの供物として、捧げられる一つの供物として、捧げられる一つの喜びの供物として、お父様に崇拝できる子供達として立ててください 。

お父様、眠っているこの聖なる民衆を目覚めさせてください。暗闇の中で方向を知らずに迷っているこの民族を哀れに見てください。このために立てるべき天の子供達が早く立つ様にしてください。天に向けた中心を立てて全体に代わることができる愛の祭壇として、一早く成し遂げることが出来る様にお許しください。

この民族全部が勝利出来る様にしてくださり、全てに感謝し、聖光のために賛美できる様に導いて下さる様に、愛するお父様、切にお願い申し上げます。

お父様、今日少数の群れがこの場に集まりましたので、御前に委ねますので、主管してください。各個人の心情をお父様が洞察してくださり、自分で立てた心の中心が、自我の心情が自分で始まり、自分で終わる事の無い様にお許しください。自己に対する認識と観念を通じて、自分の理念を形成し、自己満足に陶酔する者にならない様にお許しください 。

自分のすべての観念や注意、主張を正直に出して、親の心情の前に優しく謙虚な供え物になることを許してください。尊厳のある父親の前に自分の不足を痛感し、自分のすべてをお父様に根本的にお捧げするこの時間になることをお許し下さる様に、愛するお父様、お願い申し上げます。

お父様、あなたが彼らを集め、彼らを立てて、すでにこの聖なる中心に新しく警鐘を鳴らされたので、お父様は全体的な責任を負って下さる様お願い致します。全体的な使命を果たさなければならない事を知って、全体的な仕事を引き受けなければならないので、彼らが来てこの時代を踏まえて上がらせてくださり、お父様、先峰に立って進んで戦うことができる天の精兵達になる様にお許しください。

この三千万民衆に代わることができる精兵達として、千千万聖徒達の前に立ち、天の天使達の前に立ち、この地の聖徒達の前に立っても不足のない姿で立ててください。切にお願い申し上げます。

3日間を過ごす中で私は一つの事だけを考えた時間が多かったし、一つ事を愛するために使った時間も多く、一つ事を現わすために多くの時間を費やしました。しかし、私を忘れてお父様を探すために、私を忘れてお父様の願いを叶えるために、お父様の全体的な価値を示すために、私を超えて行く為に動じ、静ずる、お父様が望む場所で生きなければならないことをお許しください。

この時、お父様を訪ねてきた人には、観念的な信仰姿勢で祝福されるという心だけを持って出てきた姿にならない様にお許しくださり、恵みを受けるという心だけを持つ者にならない様にお許しください。「生かしてほしい」という訴えの歴史が6千年を経過したので、私を受け取ってください。祈りの泣き声が地から聞こえて天に達する時となったので、「父よ、私を受け取ってください」、「私のすべてを差し上げますので、お受けください」と祈ることができるこの時間になることをお許しください。

私達自体がお父様にふさわしい贈り物になったのか、自分で反問できる様にしてくださり、賢くなったお父様の聖体の前に立つたびに自分の不足を切実に感じ、自ら罪人であることを感じ、お父様に頭を下げて崇拝できる様にお導きください。この時間、私達を目覚めさせてくださり悔い改めの心が起きる様にしてくださり、善の本性と善の実体を感じて、お父様の栄光に代わって崇拝できるこの時間となる様にお許しください。

 このことが天が願うことであり、この一つの意味のために天が動員されていることを知っているので、三位神が動いてくださって聖霊の働きを現わしてくださり、全体を主管されて全行事を、お父様、主管してくださる様にお願い致します。お父様の意を逸脱した観念や認識を持たず、ひたすら全体を父様に捧げる聖徒の祭壇と成ることができる様に導いて下さる様に、お父様、切にお願い申し上げます。

 この時間孤独な群れが天に向かって悔やみ切なる訴えをあげた全てを祝福してください。平坦な道も、逆境の道も、ゴルゴダの山程も気を付けずに行くと誓い、現わした子供達を保護してください。

 難しい道を行く人の後に従う者達も難しいでしょう。彼らをお父様の代わりに供えてくださって、最後には許される様、お父様の心情と愛の賜物を許してください。

 喜びの中で眠り、お父様の喜びを感じられる直接的な主観の歴史が、それぞれの心の上に一緒にあってくださり、彼らが置かれている所ごとに環境の十字架に囚われない様に、親しく臨んで慰めてくださる様にお願い致します。

お父様。 長き戦いの中でも、残った者達が更に進軍できる様に直接的な勧告の歴史が彼らの上に一緒にある様に、お父様、切にお願い申し上げます。

 この時間、お父様にお会いするために心を結んで訪ねて来てくださり、崇拝の時間を持ちたいと願いましたから、初めてから終わりまで愛の保護と愛の心の賜物として全体の集まりを主管してください。お父様が望む賜物の供え物になれる様に祝福して下さる様に、愛する主の御名によってお祈り申し上げました。
アーメン。


<祈り(Ⅱ)>
 創造の園は善の園であり、愛の園であり、一つの園であり、煌めく華東の園であることを知っています。神様の愛に沿って善がなければならないのが私達の責任であり、一つでなければならないのが私達の責任であり、和動しなければならないのが私達の責任であることを知っております。


 一日の生活も善くなければならず、天の御意に対して、喜び勇んで華動して進むべき子どもの路程が残されています。お父様! この時間を聖別して下さり、許されたこの道をすべて歩くことができる様に、戦いで疲れず行ける様に導いてください。

 お父様の心情の標準に外れない様にして下さい。お父様、堕落の子孫なので、私達には力がなくて嘆息していますので、天に隠しておいた完全さをお示しください。万物が喜び活動、華動できる様に許してくださり、将来には被造物が愛を通して父の前に栄光をお返しできる一つの本来の姿を立ててください。

 天の恨みが人間に結ばれており、万物の恨みも人間に結ばれており、億千万民の嘆息がクリスチャンに結ばれていることがわかります。ですから、今自分の個体の価値を完成し、天輪の嘆息を取り除かなければならない責務が彼らにありますので、お父様、彼らを立てて本来の価値を完成する姿に成れる様にしてください。

 彼らに望む愛の全体の理念をお許しくださり、彼らが失ったお父様の全体の価値を大切に出来る様にしてください。隠されていたお父様の心中を開いて下さり、彼らに現れて相談できる様にして下さる様に、愛するお父様、切に請いお願い申し上げます。

 私達のお父様! 穏やかな群れを集めておられるのに苦労されたその苦労のすべてを知りたいので、お父様! 再び現れて傷ついた心を握ってくださる様にお願い申し上げます。

 億万サタンが戦いを歩んでくる過程で、彼らが天の恨みを代わりに背負う者達になる様に許してくださり、天の道を歩むことにおいて全体の志の前にひたすら一線を中心に一つになることをお許し下さい。お願いし、お父様の立てられた意志を中心に、和動できるこの時間になる様にお許し下さる様、 愛するお父様、切に請い願い申し上げます。

 今私達の心が疲れてきましたでしょうか? 体が疲れておりますでしょうか? 心に神様の愛の炎を許してくださり、体に神様の心情の熱気を加えてくださって、私達の心と体が動いて、天にある天軍天使とすべての霊が動いて、地にある全体の存在が動く事ができる様に許してください。

 そうして万物に対して一つの中心を復帰し、全被造万物の前に神様の息子娘として現れることに不足がない様にお導きください。そして6千年間お疲れになったお父様の前に、億千万のサタン達の前に自慢の存在として出てくることを許してください。

 死に捕らえられ嘆息している群れと悲しみの場を抜け出せない哀れな群れがありますので、お父様が掴んで知ってくださり、天輪を扱うことができる中心的な心をお許しくださり、知恵と信仰の活動をお許しください。懇切にお願い申し上げます。

 三千万民族に代わって天の祭壇を築かなければならない時になり、善いお祝いの供え物を捧げなければならなかったし、合わせて一つの群れにならなければならなかったので、今日この場に集まったあなたの息子娘に、お父様、臨んでくださって、彼らの心情を主管してくださり、彼らの心を主管してくださり、彼らの全体を主管してください。

 そうして過去の悪の要素が残らない様に、愛の神様、能力の神様、全能の神様、炎のような目で現れて熱い天の聖霊の力と命の火で彼らの心を見てください。懇切にお願い申し上げます。

 お父様、今日も行くことを知らず、生き方を見つけることができず、脆いガラスの様にさまよう多くのあなたの子供達がいます。彼らのために命の祭壇を築き、涙を流した者がおりましたでしょうか? お父様、速やかに彼らを見つけて立ててください。お願い申し上げます。

 歓喜の知らせを握り、この民族の前に残ることができる実践の祭壇をたくさんお許しくださり、懇切に誠意を築く群れが多くなる事をお許しくださり、この民族が闇の苦難を乗り越えて世界に満てる光になることができ、愛の光を放つことができ、お父様のお許しされた意思を受けて出て行ける様に働いて下さる様に、お 父様、切にお願い申し上げます。

 愛するお父様、今日この時間、私達のお父様の賜物を望んで参りましたので、まずは私達をご覧下さい。これまでの私達の観念を除き、ひたすらお父様の御心の前に捧げられた供え物であり、現わされた一つの要素としてのみ残る様に許してくださり、本性の美の姿で温柔謙遜に私達の体の心に現れることができ、お父様が私達を中心に再創造の歴史を起こすことができる様に、お父様の愛の歴史がこの時間現れて許して下さる様、お父様、切にお願い申し上げます。

 私のお父様! この民族、信仰を持っている子ども達が困難な環境と十字架の道を乗り越えてこの時間訪れましたので、この一時だけでも6千年間隠しておかれたお父様の愛の御意を見せてくださって、お父様に崇拝するこの時間、億千万金を与えても変えられない大きな喜びになる様に許してくださり、この日の愛なる賜物として生涯を開拓し、生活を開拓し、千輪の大道を明かすことで私達にお父様の御意の前に感謝することができる供物になることをお許しください。

 私達がこの場所にいるとしても、お父様が呼ぶなら、いつでもその場所に向かって行く覚悟をしておりますので、お父様の心が動く標準としてあなたの愛の標準を通してくださり、またあなたの心を通して私達が心からの善を成し、その善が種になり、私達の体から栄光の善の園を成し、それが家庭、教団、社会、国家にまでなせる様にお許しください。

 そのような全体的な責任が私達にあることを知っておりますから、お父様の残された使命を担当し、サタンと戦わなければならない責任が私達にあることを知っておりますので、私達が疲れていても、お父様、力を与えてください。

 穏やかな時も、お父様、勧告してくださり、倒れる時に起こしてくださり、分かってくださって最後の障壁を乗り越えて行き、勝利の群れを導き、お父様の前に出て感謝して栄光をもてるその時間まで導いて下さる様に、私のお父様、切にお願い申し上げます。

 お父様、今日も三千万民族に代わって築いている数多くの祭壇の上に、父の愛と恵みの炎を一緒にしてください。彼らが無知で6千年の意志を見分けられないとしても、それで天の祭壇を恨む 場所に立たない様に許してください。

 イエスがエルサレムの神殿を握って泣いていたという意味がなされる時となりました。石の一つも石の上に残さない様に言われた御言葉が今日教会と 教団の中に現れているので、心を一つに縛ることができない現実的な過程に置かれている祭壇を、お父様、握って注視し、再度悔い改め、天の命につなげて下さる様に懇切にお願い申し上げます。6千年の歴史に代わってキリストの十字架の苦難を代わりに背負って栄光を歌うことができる祭壇になるまで、お父様、一緒にしてください。

 お父様、元からのすべてを直接主管し、私達に父の国を起こすことができ、父が祝福することができる勝利の使命者として立ててください。今日、この時間までもサタンが打って出てきてるので、お父様! 疲れ果て倒れた者にならない様に許してください。最後まで背後に立って祭壇を守り、暗いサタンの矢を防ぐ供物になって、例えおられずとも感謝できる群れとなる様にお許しください。お父様!切にお願い申し上げます。

 お父様、この時間すべてを委ねますので、私達が父を傷つけず、父の愛を傷つけず、生涯を捧げ、父の道に従う者となる様にお許しください。父の意義ある基準を失わない様に許してくださり、天の終わりまで成すことができる天倫の意が人間の中に現れる様に許してください。不足無く共に飲食する友達の様に愛として現れ、親しい父として現れ、保護者の姿で現れてください。

 人間が本来の姿を失った姿で、お父様は6千年の間、孤独であり、私一人を立てるために、私自身を探すために苦労されたことを私達は知りませんでした。ですので、お父様、私達の手を握ってくださり、私達が悔い改める賜物の時間を持つ様に許してください。お父様が私達を握んで、首を抱きしめることができる賜物をお許しください。不足な自分達が父の愛に感謝しながら涙して反省し、悔い改める賜物がこの時間、それぞれの心と体と全体の頭の上に満たされる様にしてください。

 この時間に出席した全体の群れは、お父様の前に愛として現れることを望んでおりますので、悪の条件にかかる姿にならない様に許してください。ここにこぼれた群れがあなたの希望を代わりに担当することをお許しされ、サタンの非難と罠に落ちる者にならない様に導いてください。最後までお父様の愛の前に謙虚に崇拝できる子ども達でいる事のできるこの時間としてくださり、お父様、握って下さるよう切にお願い申し上げます。

 許された賜物が全体の心の体の上に現れる様に許して下さるよう願いながら、愛する主のみ名によってお祈り致しました。アーメン。


<祈り(Ⅲ)>
愛するお父様!
 パウロがディドを一つの改革者に立てるために切実なる心で訴え、彼の心を感動させた切実な内容のある事を知りました。このパウロの天に向かった切なる心情を知る時、既にその心が無くなったのではなく、地上に痕跡に残って祭壇を築くことが背後に映された神様の働きであることをこの時間、私達は感じております。

お父様!
 新しい御意のために新しい世界を眺め、歴史的な複雑なすべての障壁を越えて天輪の前に立たなければならなかったのです。私達自身が複雑な過去を清算し、複雑な現実を超えて天が取ることができる愛の心情の中で、安心して父親に対して崇拝できる心で定着するまで、お父様、導いてください。

 死んでも残された6千年の恨みの盾として最後の勝利の栄光を父の前に回復し、それによる歓喜を迎える事ができる様にお許しください。お父様のご指導の中で、私達が力を集めてこのみ旨を成し遂げる様に許して下さる様、お父様、切にお願い申し上げます。

 今日、私達が御意に対して、お父様の前に悔い改めることができ、お父様の前に近づいて依頼することができ、お父様の前にもっと身近に自分自身を現わして誇りを受ける心を持てる様に、お父様、この時間をお許しください。この心情で、キリストの聖像の前ですっきりとした姿を模倣し、再び望む再創造の世界を整えることに不足がない様にしてください。そうしてすべてをお父様の御心の前に任せ、お願いし、父の前に素直な供え物になる様に祝福してください 。

 この時間に集まった子供達を覚えて下さい。この時は多くの御言葉が必要ないことを知っておりますので、一言にも心が動く様にしてくださり、体で風合いを許し、歓喜することができる憐れみの賜物と感動の歴史をお許しください。

 聖霊の炎で私達を主管してください。 お父様の賜物の働きを、私達の一人一人が感じ、一つの御心の前に動くことができ、授受できる貴重な雰囲気を、お父様、お許しくださり、お父様が許される場に立ててください。

 残されたこの時間主管してください。主の御名によってお祈り申し上げました。アーメン。



「御言葉」

聖書拝読「だからあなたがたは多くの教会の前で、あなたがたの愛と、あなたがたに対する私達の誇りの証拠を私達に見せなさい」。(ココ 8:24)
 今日は「神の誇りとなったイエス・キリスト」というタイトルでお話しします。

 天地万物を造られた神様はアダム・エバを天地万物に対する神様の誇りの実体として造られました。またアダム・エバを天使世界に対する神様の誇りの実体として造られました。そしてアダム・エバが万物の前に立つと、万物はアダム・エバに崇拝しなければなりませんでした。

 こうして建てられた被造の園が人間の堕落で変わってしまったのです。つまり人間の堕落で人間の前に誇らなければならなかった万物の価値がきちんと現れず、無形世界の価値の中心として現れた人間がその資格を喪失する様になり、神様の誇りの意味として、神様の代わりに万物の前に現れ、被造万物の中心としての栄光を受けなければならない人間の位置が根本的に変わってしまいました。

 ですから、人間の堕落から6千年が経過した今日まで、神様が訪ねて来た標準は何だったのでしょうか。神様の心に代わって、形状に代わって、 神様の性格に代わって、天倫の行事に代わる全体の代表者、神様が誇れる一人の代表者を訪ねてきました。

 また、これまでこの一つのみ旨のためにイエス・キリストも働いてきました。それではアダムとエバの堕落以来、4千年ぶりにこの地に来られたイエス・キリストはどのようなお方でしたか。彼は神の内的心情に代わり、外的形状に代わった方でした。それで神様はこの創造の理念で立てた誇りの基準をイエス・キリストを通して示そうとしたのです。これがイエス・キリストが遂行しなければならなかった本来の使命でした。

 ですからイエス・キリストは、彼の生活を通してどんな事においても神の心情と形状に代わる神の子として現れなければならない重大な責任者の場に立っていたことを知るべきです。

 この様に、イエス様は神様が自慢できる実体として現れなければなりませんでした。最初に万物の前に誇ることができなければならなかったし、その後はサタンの前に誇ることができなければならず、千千万聖徒達の前に誇ることができなければなりませんでした。そして神様がアダム・エバを中心として喜んで栄光を味わおうとしていたことを復帰する一日を迎えなければなりませんでした。これが中心存在であるイエスを立てて、働きながら摂理された神様の御心でした。

 神様はイスラエル民族にイスラエルの国を建設させ、その中に中心となるべきイエス・キリストを送られたのです。ですから、イスラエル民族が一つになってイエス・キリストを讃え、神様が誇りたいと思われたその基準で感謝の心情でイエス・キリストと共にあった人々の様であるならば、歴史的な悲しみが6千年まで延長されなかったでしょう。

 神様の誇りとして現れたイエス・キリストが目に見たものと、イスラエル民族が願っていたものとは異なっていたということです。つまり、神様の復帰摂理の御心を出てきた兄としてのイスラエル民族は自ら神様の善民であることを誇っていた立場の姿と、神様の復帰摂理の御心を受けながら戦っていたイエス・キリストが、神様の御心のためにと願った兄の姿とは異なりました。それでイスラエル民族は、神様に代わって御言葉を語られるイエス様の前に出て、イエス様を自分達がそれまで立ててきた民族的な誇りを捨てて信じなければならなかったのです。

 自分達の習慣を捨て、神様の御心に代わって新たな御言葉を持って現れたイエス・キリストの前に、穏やかに謙遜になっていたならば、十字架の厳しい関門がイエス・キリストの前に現れる事はなかったでしょう。 キリスト教の歴史に十字架の道ということはなかったでしょう。イエス様の言葉を聞くことによって、救われたという言葉はあっても、十字架の信仰によって救われたというこういう言葉はなかったでしょう。

 今日、私達はイエス・キリストの死を祝福し、十字架に贖罪の権利があると信じていますが、それがすべてではありません。今日、キリスト教徒はイエス・キリストが生きて語っておられたみ言葉に贖罪の権限があったことを忘れています。私達が知る必要があるのはもちろんキリストの十字架を信じることで霊的な贖罪が可能ですが、イエス様が生きて語られた御言葉を信じてみ言葉どおりに実践したならば、繁栄と共生が成されたでしょう。

 それでは、イエス・キリストはこの地に来て、まず何を語らなければなりませんでしたか。アダムとエバは堕落することで神様の御言葉を立てることができませんでした。御言葉を信じませんでした。それで、人間が神様の御言葉を信じることができずに堕落し、4千年間にわたって摂理歴史が延長されたので、イエス・キリストがこの延長された4千年の歴史を取り戻すためにサタンの前に立てた一つの中心が何と言えば信仰でした。つまりイエス様は信仰の王としてこの地に現れたのです。

 イエス様はどんな方ですか? またイエス様は、神様の誇りで立つことができる一つの価値の基準をどこで立てたのでしょうか。4千年の歴史が流れてくる過程で、誰も信じられず、神様の御心を知らなかった全人類の前に、イエス様は信仰の王として現れたのです。それで神様がイエス・キリストの信仰を信じることができたのです。

 多くの人々が神を信じると言われていますが、そのような信仰としては、神の天輪の心情を通じた上下の内的な関係を結びつけられないということです。また、数多くの預言者が来て行きましたが、彼らが信じて従ったことを通して、神様の中に有る愛の原則を知ることはできません。さらに、イエス・キリストは、多くの聖徒達が歩んできたその歴史的な信仰の過程全体を引き受け、単身ですべてのサタンの歴史を断ち切ろうとしました。4千年の信仰を総結実する立場のイエス・キリストは、宇宙の中でただ一人、信仰の主人公として来ていきました。

 この一つの基準のために、神はイエス・キリストを信仰の王として立てられました。イエス・キリストは神のご意志に代わって神の言葉を宣べ伝えました。旧約聖書を持って信じたものではありません。預言者達が言って預言したその一つの権利内で信じたものではありません。言い換えれば、イエス様はイスラエル民族が信じて出てきた旧約聖書の言葉圏内でのメシアの思想を持っていませんでした。

 イエス・キリストはどのような信仰を持っていたかというと、旧約聖書にない、それまでの歴史上になかった信仰、それまで現れなかった新しい信仰、世界のどんな環境、どこにも現れなかった信仰を持った信仰の代表でした。ですから、旧約の歴史がイエス・キリストの前で終わらなければならないということです。

 それでは、神の誇りとして建てられた信仰の王イエス・キリストを信じている私達は何を知る必要がありますか? 私達は、私達がある限界内で イエス・キリストを見れば、イエス・キリストが降臨する前の4千年の歴史と、イエスの30年以上の生涯と永遠の未来に及ぶ彼の価値を知ることができなかったことを知る必要があります。

 また、私達は神様のご意志を知らず、反対する側に立っていても、私はその意志一つだけを知る必要があります。誰も信じないことですが私は信じます、といえる信仰の基準が立てられてこそ、イエス様が万民の救い主、信仰の王として立てられたという事実を知らなければなりません。

 それでは、今日私達が信じているイエス・キリストは生きている間にみ言葉を語ってくださったのでしょうか。もしみ言葉を全部話てしてくださっていなかったら、私達にはまた来る主が下さるみ言葉が必要なのです。イエス様はアダムとエバの堕落以来、4千年ぶりにサタンの前でも、すべての被造世界の前で誇ることができた信仰の王であり、神様が求めようとした信仰の王でしたが、ユダヤ民族の不信により彼を敵に渡すしかなかったのです。

 それで、イエス・キリストがこの地に再び来て被造物の前に誇れる基準を持って来て、皆さんに新しい御言葉を与えて下さる様になっているのです。イエスは信仰の代表者であり、信仰の王として旧約聖書になかった新しい言葉を発表しました。その言葉は新約聖書の言葉として今日私達に伝えています 。

 今私達が踏まえるべきは、今日この時代は新しい時代であり、今後栄光の時代が来るのですが、その栄光の時代に残ることができる信仰を持てなければなりません。イエス・キリストの希望と信仰は、人間が4000年にわたって信じてきたレベルの信仰ではありませんでした。彼の一代を経て遠い後代、すなわち永遠まで及ぶ信仰や神様が考えられず、その当時に現れなかった愛と善を表した信仰でした。

 それでイエス・キリストは、歴史上になかった信仰の王であり、神様が誇ることができる方でした。イエス様と同様に、皆さんもこの信仰を持たなければなりません。


 それから2番目に、イエス・キリストを神が誇ることができたのは、多くの人が何千年もの間サタンと戦ってきましたが、イエス・キリストが愛で天の勝利の王として立つことができたからでした。それで、イエス・キリストを神様が誇ったのです。

 4千年間、多くの祖先がこの地に来てサタンと戦いました。メシアを送ろうとする神様の御心のために、数多くの預言者達が来てサタンと戦いました。しかし、彼らはサタンを屈伏させることができませんでした。4千年間サタンと戦ったがサタンを排除できず、サタンを屈服させることはできなかったが、イエス・キリストはこの地に来て、すぐにサタンを主管して屈服させた。

 イエスは何を持ってサタンを屈服しましたか。天の愛の原則を持って屈服させました。皆さんはそれを知らなければなりません。今日、私達キリスト教の人々が知っておくべきことは、サタンを屈服させることは愛の原則でなければならないという事実です。

 愛の原則はどんな原則でしょうか? イエス・キリストは万民の前で亡くなりました。また、この地上に数多くの人々が来て行きましたが、イエス・キリストは神様が極めて愛された一人の子であるということです。ですから、イエス・ キリストの約30年の生涯の生活を見ると、いずれかの部分、孝行者の生活ではない部分はありません。

 神様の前における一日の生活は、夜でも昼でも何の時間も切り離せない、神様の心にふさわしい生活でした。神様がご覧になるとき、「この地上にあなたは一人しかいないのです」といわれるほど、孝子の生活をしたということです。

 イエス様は自分の一生のすべてが消えても、ひたすら神様のための心だけでした。自分の肉身は無視されても、万民の救い主としての使命を果たすという心しかなかったということです。お父様! 私は私が消えて、あなたが4千年間にわたって訪れた愛の代わりに存在し、あなたの愛を受ける息子としてその愛の代価を返すことができる孝行者になります。というこの一つの心以外何もありませんでした。

 それで、億千万民がイエス・キリストを神様の子ではないとしても、神様はそうしてこそそうできなかったということです。天地の中心に結ばれた、神様の愛に引き寄せられた天輪の力は、誰も防ぐことができません。イエス様はいかなる困難の中でも環境に屈しませんでした。ゴルゴダ山上の孤独な場所でも十字架を持っていました。イエス様はその場に神様のご意志があることを知り、4千年の間楽しみにされた神様の愛の心情をよく知っておられたのです。

 ですから、神様の意志が変わらない限り、父の愛を受けることができる息子としての誇りは永遠です。神様はイエス・キリストを独身者として、神様の変わらない愛の化身体として来られた被造万物の前に誇りました。サタン世界の前に自慢しました。

 今日までの6千年の歴史上には、自分を産んだ両親に孝行を尽くした人が多いです。サタン世界の中での孝子孝女は多いということです。しかし、神様がイエス・キリストを誇り、イエス様の前に神様の愛を受けることができるためには、歴史上のすべてのサタン圏内の孝子孝女を合わせた以上の価値と実績がなければならないというのです。そうしてこそ、神様はこれは私の愛する息子と言え、天上天下で唯一天倫に代わる孝行者になることができるということです 。

 こういう基準を持ってイエス様が数多くの群衆を眺める様になった時、子どもがいなかったということです。そのようなイエスの心情だったので、自分の価値とその価値の間に天地の違いがあることを感じました。ですから、イエス様は、自ら凛々しく天の前に彼らのために祈ることができたというのです。

 また、神様と愛で結ばれた関係から出てくる力によって、サタンまで滅ぼすことができたということです。なぜなら、サタン圏内の多くの人々がサタンに同調することと、イエス・キリストが神に仕えて愛する基準とは比較にならないからです。イエス・キリストが神様の愛を持って現れるそこには、敵の前に撤退のような盾になったのです。それで、イエス様を中心に集まる各所ごとにサタンを屈服させることができるのです。

 イエス様は、4千年の間に先祖達が勝利したことと敗れたもののすべてを合わせて、自分の足場とすることができる一つの基準を勝ち取ったので、神様が誇ることができました。今日私達が考えるべきことは何ですか? これまで人類が6千年間サタンと闘ってきたのですが、どうしてイエス・キリストが4千年の間に多くの預言者達が勝利したことをすべて合わせた価値以上の勝利の実績を収めることができたのかを皆さんは考えてみなければなりません。

 また、わたし達の先祖達がどの様にサタンに対して勝利できたのかを考えてみることを知らなければなりません 。天が今、この地上の聖徒達に願うことは何でしょうか。イエス・キリストだけがサタンを屈服するのではなく、今日終わりの日には全ての聖徒達がすべてサタンを屈服させ、イエス・キリストの愛を通して神様の愛を感じることです。

 イエス・キリストは30年以上の生涯勝利の生活をしました。イエス様は勝利できない言葉は避けたということです。勝利できない言葉は避けました。イエス様が負けてサタンが近づいてくる言葉は避けたということです。男としては一人の人でしたが、一旦全体を責任を持てば、彼の言葉や行動や希望は全体を勝利の期待の上に載せることができる言葉と行動と希望でした。

 今日、皆さんはイエス様がこんなに苦労し、固めた勝利の足場の上に立っています。皆さんはイエス様からこのような賜物を受けているということです。今、皆さんがイエス・キリストがこの地上で勝利して成し遂げられた勝利の足場の上に立って、どうすればさらに高く上がるかというのが問題です。皆さんは天が皆さんのためにこの地に降りてきたことを知って、天に上がるまで勝利の汗を流さなければなりません。

 私達は私達の心に神の愛を満たさなければなりません。イエス様と聖霊の愛を感じ、天の愛を体験しなければなりません。イエス様は個人的に勝利しましたが、十字架にては霊的にのみ勝利の期待を拭きました。それで、2千年の歴史を終結しなければならない私達は、イエスの霊的な期待の上に立って、イエス様の体に代わって勝利の場を成しておかなければならないのです。また、私達には霊的な救いを完成させてくれる新約聖書の次元を超えて、実体的な救いを完成させてくれる新たな御言葉を天がこの地に宣言することになると、サタンがこれを反論するのですが、これまで責任を負います。戦って勝つ責任があるということです。

 また、次にイエス・キリストはどんな条件によって神様の愛を受けることができましたか。イエス様は責任を持つ王子になったので、神様の愛を受けることができました。イエス・キリストは、生まれた縁からヨセフの家で大工の働きをしましたが、責任を果たすために努力しました。ヨセフの家庭で大工の仕事を手伝いながら親が引き受けている家族の生計を助けてくれるこのような生活をしましたが、イエス様の心にはそれだけが生活の全部ではなかったということです。また大きな意志を心に抱くと同時に、小さなことにも責任を果たされたイエス様でした。このようなイエス様であったことを皆さんは忘却してはいけません。

 イエス様の生活はすべて自分の責任と使命を果たす生活でした。彼は永遠に残ることができる責任を地上に果たしたということです。イエス様の30年以上の生涯の生活は永遠不変の実績、責任を果たした実績をこの地上に成し遂げた生涯でした。ですから、イエス・キリストの御言葉が、キリストの信仰の福音が残っている以上、彼の生涯も残るのです。

 イエス様は自分一代においては言うまでもなく、歴史的な面でも責任を負ったというのです。そして、神様が4千年間働いてくださった御心に対しても一人で責任を負ったというのです。イエス・キリスト以外に、神様の責任に代わって出る者は、この地上には一人もいなかったということです。イエス様は単身で責任を果たしたことを皆さんは知らなければなりません。

 イエス様は、自分が一人で神様の御意に責任を負うことについて孤独でしたが、より大きな責任を感じました。それでイエス様の一日一日の生活は、全体的な責任を果たすための足場を置く生活でした。そして30年の準備時代と3年の実践時代、3日間の完成時代まで、イエス様の視線の前にはサタンを屈服させることと、その土台の上に神様の御心を成就させることしか考えませんでした。この責任を減らして生きようとか、イエス様は、ある瞬間にもこの責任を忘れたことがなかったのです。

 また十字架をもってゴルゴダの判定に出る時も、全万民が誹謗してサタンが嘲笑するそのような最後の瞬間にも、イエス様は引き受けた天輪の責任を一人で持って行くいう心は変わりませんでした。イエス様が責任完成の一念を持って十字架の峠を超えたため、復活の歴史を起こすことができたというのです。そして地上に残っている弟子達を再収拾しなければならない責任があったので、イエス様は天国に行ってから再び降りてきて、神様の力に頼って復活の働きを起こすことができたというのです。

 イエス様は死んでも散らばった弟子達を心配し、墓中の3日間にもこの弟子達を永遠に守ろうという気持ちを持っていたので、復活された後にガリラヤ等様々な場所にいる弟子達を訪ねられました。

 今日私達が人間的に考えてみると、責任感がなかった彼らについてイエス様が何故そうできたのかと考えやすくなります。難しい場所で排斥した弟子達ですが、イエス様は復活後にまずガリラヤを訪れて、自分の責任を果たし始めました。この様に死の峠を越えた時に変わらない弟子達として立ててくれたイエス・キリストの人格こそ、今日私達が学ばなければならない人格です。

 それだけではありません。当時の弟子達とそれ以降の数多くの聖徒達や2千年が経過した今日にいる私達にまで責任を持っていたことを知る必要があります。救いの歴史は全体の歴史でした。天の意志は全体を救うことなので、イエス様は全人類まで責任を持っているということです。

 それではイエス様はどのような責任を負っていますか。イエス様は世の中のことに対する責任を負っておられるのではなく、よく生きることの責任を負っておられるのでもありません 。私達の命を担当しておられるということです。皆さん、この世には難しいことが多いのですが、これ以上難しいことがないということです。生死の問題を担当したので…。

 今日、信仰者達は厳しいとすれば、難しいとすれば生死が行き来するという路に立っています。刃のようなギリギリな線上に立っている人々をすべて救い出す責任をイエス様は負っているということです。この様にイエス・キリストは昔30余年生涯を過ごした時もそうであり、死の道に入った時もそうであり、いつの時代にも同じ心でした。人間はこういう責任感と使命感を感じることができなくても、イエス・キリストはこの責任と使命、この一意を成し遂げるために今も活動しておられるということです。


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