老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

京都・大原  その①  ~寂光院~

2020年06月19日 19時05分14秒 | 旅行/色々な風景
 コロナ対策での外出自粛が完全には解除されていませんが、丁度梅雨中の晴れ間予報だった6月16日に京都まで足を延ばしました。

 今回は、学生時代以来となる本当に久しぶりの大原地区を目指しました。
9時頃に家を出て、地下鉄からガラガラの京阪電車を乗り継いで、出町柳に着いたのは10時過ぎ。
叡山電車で終点の八瀬比叡山口まで、そこから市バスに乗り換えて、終点の大原へ。

 ここから、先ずは寂光院を目指しましたが、途中は「大原女の小径」と名付けられている、狭い田舎道を色々な花を見ながらのんびりと寂光院まで・・・

 この寂光院は、天台宗の寺院で尼寺。山号を清香山と称します。
寺伝では推古天皇2年(594年)、聖徳太子が父・用明天皇の菩提のため開創したとされ、(当初の名称は玉泉寺)太子の乳母であった玉照姫(恵善尼)が初代住職であるという。

 しかし、江戸時代の地誌には空海開基説、11世紀末に大原に隠棲し大原声明を完成させた融通念仏の祖・良忍が開いたとの説もあり、開祖ははっきりとしていませんが、現在の寂光院はそうした草創伝説よりも、『平家物語』に登場する建礼門院隠棲のゆかりの地として知られています。

 建礼門院に仕えて後に出家し、当院の住持をしていた阿波内侍(信西の息女、証道比丘尼)を第2代の住職としていますあg、阿波内侍は「大原女」のモデルとしいぇも有名です。

 文治元年(1185年)9月、壇ノ浦で平家一族が滅亡した後も生き残った高倉天皇の中宮で、安徳天皇の生母である建礼門院徳子(平清盛の娘)は阿波内侍を頼って入寺し、出家して真如覚比丘尼と称し後に第3代住持となって当院で余生を送った。

 本堂は淀殿・豊臣秀頼の命で片桐且元が慶長年間(1596年-1615年)に再興したものであったが、2000年(平成12年)5月9日に放火で焼失し、現在の本堂は2005年(平成17年)6月に再建されました。

 また、境内の外、東側には建礼門院徳子を祀る大原西陵がある。陵墓はもともと境内にあったが、明治以降は宮内省(現・宮内庁)の管理下に移り、境内から切り離されています。

 参拝者も少ない、新緑の眩しい寺院名の様子などをお知らせします。(まさ)


叡山電車 八瀬比叡山口駅 この車両に乗ってきました

同上 駅舎

同上近くの高野川

大原バス停近くの高野川

道標

寂光院への道中

同上

小さな滝

参道の石段

同上と山門

くぐり戸と四阿

山門

本堂

書院

渡り廊下

同上

四方正面の池

同上 水辺のユキノシタ

雪見灯篭 秀吉の寄贈とのことです

庭園

本堂横の庭園

御庵室遺跡

モリアオガエルの卵

大原西陵(宮内庁管轄)