今朝パソコンを開くと、gooニュースで日本サッカー協会が同協会の国際委員であるアルゼンチン在住の北山朝徳(きたやま とものり)君が6月18日に死去されたことが発表されており、びっくりしました。
(https://news.goo.ne.jp/topstories/sports/256/5acd9383c591c8cbbc903f590becf9ae.html?fr=RSS)
北山君は広島県豊島の出身で、私より少し若いのですが、非常に親しくして頂いた方で、知り合ったのは、商社に勤務時代に私がアルゼンチン駐在としてブエノスアイレスに赴任した直後でした。
彼は拓殖大学卒業後(専門は?と聞くと、笑いながら「応援部卒」といわれたのがつい先日の様に想い出されます)アルゼンチンに渡り、旅行・貿易・本屋・運送業など出来るものは何でもするという姿勢でTOSHINという会社を設立され、私が知り合った頃は魚群探知機の代理店もされており、漁業並びに観光で有名なブエノスアイレスから400kmほど南にあるマルデルプラタと言う港町にも良く行かれていました。
私は食糧担当だったので、彼が魚群探知機の営業で知り合った業者を紹介してもらって、鯛や貝類の業者と取引を始めましたが、魚群探知機の営業やアフターサービスで忙しい彼と一緒に夜行バスでルデルプラタまで行ったことを思い出します。
夜は、私がアルゼンチンでは珍しい新鮮な魚介類を前にして美味しく飲んでいる横で、彼は酒が飲めないので、専ら食べる方に回っていました…。
仕事では直接の繋がりは無かったのですが、気が合うので、時間を作っては彼が設立したばかりの事務所に良く行っては何かと心安くしていましたし、彼が現地で見染められたエルダさんと結婚されたのもその時期だったと思います。
私がアルゼンチンに赴任したのは1978年で、丁度アルゼンチンでワールドカップが開催された年でしたが、彼はこの時期に日本のサッカー関係者と出会って色々とお手伝いをされたのを機に、日本サッカー協会(JFA)のお手伝いをされるようになりました。
そして、日本でのプロサッカー誕生と共に彼とJFAとの関係は深まり、南米の有力選手を日本チームに紹介したり、JFAのサポートをするようになり、その後約40年に亘ってJFAの国際委員として南米各国に遠征する日本チームのサポートや南米のチームを日本に招待する際の交渉役を担い、南米との関係強化に尽力されました。
その結果として、日本とサーカー強豪国のひしめく南米との関係が深まり、現在開催中の大会も含めて日本が何度もコパアメリカに招待されるようになり、日本サッカーの水準向上が実現した陰には彼の存在が非常に大きかったと思います。
このように多忙を極める中でも、日本に来た時には必ず連絡をくれ、忙しい彼の列車乗り替えの僅かな時間を利用して新大阪駅で会ったり、彼の泊まるホテルで忙しいコーヒータイムを取ったりしていましたし、私も商社を退職後も次に就職した会社でアルゼンチンとの仕事を続けていましたので、現地に出張時には絶対に時間を空けて、彼と会うのを楽しみにしたり交遊が続いていました。
その間、TOSHINも日系二世の人などを中心に社員も充実し、社業も確実に拡大しているのは、彼の分け隔ての無く、ユーモア溢れる明るい性格の賜物でしょう。
彼と最後にあったのは、1974年に最愛の奥さんであるエルダさんが亡くなり、奥さんの希望もあり1975年4月にその遺骨を彼の故郷である豊島の北山家のお墓に納骨するために、二人の息子さんと一緒に来られた時に、大阪のホテルで私のツレアイも交えて朝食を摂った時でした。
その後も、色々とメールでの情報交換をしていましたが、2年ほど前に彼から「肺がんになった」、「その後好転した」、「また再度入院や」などと連絡があり、心配していた所です。
彼のユーモア溢れる広島弁の語りが聞けなくなったのは寂しい限りですが、日本とアルゼンチンだけでなく南米全体との関係強化に大きな貢献をされた北山朝徳君のご冥福をお祈りいたします。(まさ)
(https://news.goo.ne.jp/topstories/sports/256/5acd9383c591c8cbbc903f590becf9ae.html?fr=RSS)
北山君は広島県豊島の出身で、私より少し若いのですが、非常に親しくして頂いた方で、知り合ったのは、商社に勤務時代に私がアルゼンチン駐在としてブエノスアイレスに赴任した直後でした。
彼は拓殖大学卒業後(専門は?と聞くと、笑いながら「応援部卒」といわれたのがつい先日の様に想い出されます)アルゼンチンに渡り、旅行・貿易・本屋・運送業など出来るものは何でもするという姿勢でTOSHINという会社を設立され、私が知り合った頃は魚群探知機の代理店もされており、漁業並びに観光で有名なブエノスアイレスから400kmほど南にあるマルデルプラタと言う港町にも良く行かれていました。
私は食糧担当だったので、彼が魚群探知機の営業で知り合った業者を紹介してもらって、鯛や貝類の業者と取引を始めましたが、魚群探知機の営業やアフターサービスで忙しい彼と一緒に夜行バスでルデルプラタまで行ったことを思い出します。
夜は、私がアルゼンチンでは珍しい新鮮な魚介類を前にして美味しく飲んでいる横で、彼は酒が飲めないので、専ら食べる方に回っていました…。
仕事では直接の繋がりは無かったのですが、気が合うので、時間を作っては彼が設立したばかりの事務所に良く行っては何かと心安くしていましたし、彼が現地で見染められたエルダさんと結婚されたのもその時期だったと思います。
私がアルゼンチンに赴任したのは1978年で、丁度アルゼンチンでワールドカップが開催された年でしたが、彼はこの時期に日本のサッカー関係者と出会って色々とお手伝いをされたのを機に、日本サッカー協会(JFA)のお手伝いをされるようになりました。
そして、日本でのプロサッカー誕生と共に彼とJFAとの関係は深まり、南米の有力選手を日本チームに紹介したり、JFAのサポートをするようになり、その後約40年に亘ってJFAの国際委員として南米各国に遠征する日本チームのサポートや南米のチームを日本に招待する際の交渉役を担い、南米との関係強化に尽力されました。
その結果として、日本とサーカー強豪国のひしめく南米との関係が深まり、現在開催中の大会も含めて日本が何度もコパアメリカに招待されるようになり、日本サッカーの水準向上が実現した陰には彼の存在が非常に大きかったと思います。
このように多忙を極める中でも、日本に来た時には必ず連絡をくれ、忙しい彼の列車乗り替えの僅かな時間を利用して新大阪駅で会ったり、彼の泊まるホテルで忙しいコーヒータイムを取ったりしていましたし、私も商社を退職後も次に就職した会社でアルゼンチンとの仕事を続けていましたので、現地に出張時には絶対に時間を空けて、彼と会うのを楽しみにしたり交遊が続いていました。
その間、TOSHINも日系二世の人などを中心に社員も充実し、社業も確実に拡大しているのは、彼の分け隔ての無く、ユーモア溢れる明るい性格の賜物でしょう。
彼と最後にあったのは、1974年に最愛の奥さんであるエルダさんが亡くなり、奥さんの希望もあり1975年4月にその遺骨を彼の故郷である豊島の北山家のお墓に納骨するために、二人の息子さんと一緒に来られた時に、大阪のホテルで私のツレアイも交えて朝食を摂った時でした。
その後も、色々とメールでの情報交換をしていましたが、2年ほど前に彼から「肺がんになった」、「その後好転した」、「また再度入院や」などと連絡があり、心配していた所です。
彼のユーモア溢れる広島弁の語りが聞けなくなったのは寂しい限りですが、日本とアルゼンチンだけでなく南米全体との関係強化に大きな貢献をされた北山朝徳君のご冥福をお祈りいたします。(まさ)