老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

スペイン旅行記  その① ~スペインについて~

2023年10月26日 20時23分39秒 | 旅行/色々な風景

 いよいよスペイン旅行の報告をすることになりますが、やはりスペインという国の複雑な歴史などをある程度知っておかねば理解できないこともありますので、先ずはスペインについての説明から入ります。

概要:
正式名 エスパーニャ王国
政体  議会君主制で、それぞれ独自の政府を持つ17の自治州で構成
面積  日本の約1.3倍
人口  約4,800万人
言葉  一般的にスペイン語と言われているのはマドリードやカスティーリャを中心とする「カスティーリャ語(或いは,カステジャーノ)」で、それ以外にもバルセロナを中心とする「カタルーニャ語」や北部で使われる「バスク語」や「ガリシア語」もあり、この4つが公用語となっています

気候:温暖な地中海性気候と思いがちだが、それはバルセロナなどの東部地方のことで、北部は雨が多い海洋性気候で、首都のマドリードを含むカスティーリャ地方は夏と冬/昼と夜の温度差が大きな大陸性気候。 

歴史: 極めて複雑なのですが、ごく大雑把にまとめてみます。
・紀元前から色々な人種が住んでいたが、紀元前1,000年頃からはフェニキア人系のカルタゴや、ギリシャ人なども住んでいた。更に、紀元前202年にローマの攻勢でカルタゴが負け、イベリア半島もローマの支配下に置かれるようになった。

・4世紀後半になると、アジアにいた遊牧民のフン族の西方進出で、東ヨーロッパにいたゲルマン民族が移動を始め、これに伴い西ゴート族がイベリア半島にも進出し、西ローマ帝国の衰退もあり、418年にはイベリア半島の大部分は西ゴート王国が支配した。

・その後、西ゴート王国の王位継承に伴う混乱もあり、711年頃からイスラム系の民族がイベリア半島に入り始め北部を除く大部分がイスラム勢力の支配下に置かれることになる。
756年にはコルドバを首都とするコルドバ・アミール国(後ウマイヤ朝)が成立し、その後コルドバ・カリフ国と名前を変え、拡大を続けましたが後継者を巡る争いで1031年に崩壊。

・西ゴート王国を継承する北部のアストゥリアス王国もその後色々と分裂や統合を繰り返しながら南方に領土を拡大したが、追いつめられたイスラム系の住民が北アフリカのイスラム系に支援を求め、再びイスラム系の民族が流入し、ムラービト朝や後継のムワッヒド朝を成立させ、1172年にはイベリア半島の南部の殆どを支配下に置く。

・その間、北部の西ゴート系のキリスト教諸国は統合離散を繰り返していたが、カスティーリャ王国が勢力を伸ばし北部地区を掌握するとともに、レコンキスタ運動が進展し1221年にはムワッヒド朝との戦いにも勝利し、ムワッヒド朝は1228年には消滅し、その後イスラム勢力はグラナダを中心とするナスル朝グラナダ王国を残すのみとなったが、1492年にはこのグラナダも無血開城し、約800年続いたレコンキスタ運動は完了。

・その後、いわゆる大航海時代になりスペインはコロンブスを支援したことにより、南北アメリカ大陸やフィリッピンに足場を気付き、「太陽の沈まない国」とも称されるようになる。

・その後、海洋国家として台頭してきたイギリスが、1588年には無敵艦隊と言われたスペインの艦隊を破るに至り、更に1618年から始まったヨーロッパの30年戦争に巻き込まれて疲弊し、1640年にポルトガルが独立するなど国力は低下し、1701年にはカスティーリャとカタルーニャなどの間でスペインの継承者を巡る継承戦争も起こったが、1714年にカスティーリャが勝利し、現在のスペイン王国に繋がる国家が成立した。

・19世紀になると、ナポレオンが率いるフランスと対立したり、中南米の植民地が相次いで独立し、国力が低下するとともに、スペインでも王政に反対する勢力が伸び、1871年には共和制に移行するも、内部の勢力争いが絶えず、1874年には王政に復活することとなる。

・その後も、中米のキューバ独立を巡って、1898年に起こった米西戦争に負けると共に、フィリピンを含む全ての植民地を失い、領土は大幅に縮小。
 更に国内的には産業革命の影響で、労働運動が盛んになりストライキが続発する情勢となり、これを抑えようとする軍部との対立が顕著になり、1923年からは国王の指示の下で、軍事独裁政権となり戒厳令が敷かれた。

 1931年の選挙で王政支持派が勝利したものの、共和制を求める民衆の運動が盛んで、ついに国王は退位しスペインは再び共和制になるなど、政治的な混乱が続く。

・更に1934年に労働者が武装蜂起し「スペイン10月革命」が起こるも、軍部により鎮圧されるが、左派がまとまって「人民戦線」を結成し、総選挙により人民戦線政府が成立。

 しかし、これに反対する軍はフランコが中心になり1936年に各地で蜂起し、3年簡にわたるスペイン内戦が起こり、人民専制政府は次第に劣勢になるも、1937年にヘミングウェイやマルローなどが参加する国際旅団が成立するなど国際的な関心を集めるようになる。

・最終的にはフランコ軍が勝利し、軍事独裁政権となり第2次世界戦争やその後の難局を何とか乗り切るが、前国王の息子ドン・フアンが王政復古を求めるようになる。

直ぐには実現しなかったが、1975年にフランコが死亡するとともに、ドン・フアンの息子フアン・カルロスが王位につき、今日に至っている。


文化・美術: 
 このような複雑な歴史により、ローマ/イスラム更にユダヤなども合わさった非常に多様で魅力的な文化・美術が形成され、その様子は残存する教会などの建築物や街の雰囲気にも色濃く残っているが、特筆すべきは絵画でエル・グレコ/ベラスケス/ゴヤ、更に20世紀に入るとピカソ/ダリ/ミロなどの著名画家を輩出している。

  更に、今なお建築が進行中のサグラダ・ファミリアやグエル公園やカサ・ミラなどの自然の法則を重視した独創的な建築で有名なガウディもいます。(まさ)

スペインの国旗

「血と金の旗」と呼ばれています。


身近な言葉の語源  文化などに関するもの その④  ~あかん/あたりまえ~

2023年10月25日 19時41分18秒 | 面白い言葉や語源など

(スペイン旅行の整理が遅々として進まず、今日は言葉に関する書き込みとなりますが、明日あたりから何とかスペインに辿り着けたらと思っています)


あかん:

 「もうアカン」とか、「(そんなことしたら)アカンがな」というように、“だめだ。効果がない。むだ。”とか„、‟〈しては〉いけない。という意味の関西の言葉で、関東では「いかん」と言うのが一般的でしょう。

 この語源は、「明かぬ(あかぬ)」で、これは「 埒が明かぬ」を省略したものです。

 埒が明かぬは「物事がうまく運ばない」という意味であり、これが転じて「だめである」という意味が生じたと考えられています。

 その後、「あかぬ」の「ぬ」が「ん」に変化し、「あかん」という語が成立しました 。

 これが変化して、「アキマヘン」とか「アカンタレ」とかの言葉も生まれています。


あたりまえ(当たり前):


 ‟当然なこと。そうあるべきこと“を意味する言葉ですが、語源には、二通りの説があります。

1)「当然」の当て字「当前」が広まり、訓読され「あたりまえ」になったとする説。

2)分配される分を意味する「分け前」、取り分を意味する「取り前」などと同じく、漁や狩りなどの共同作業では一人当たりに分配される取り分を「当たり前」と言い、それを受け取るのは当然の権利であることから、「当然」の意味を持つようになったとする説である。(まさ)

<※ この「身近な言葉の語源」については、「語源を楽しむ」(ベスト新書 増井金典著)や「語源由来辞典」などを参考にさせていただいています>





日本人は排便に関しては特殊な民族?

2023年10月24日 19時04分18秒 | その他

 現在スペイン旅行中の写真を整理中ですが、帰国して新たに思い起こしたことがあります。

 それは、「我が日本人は、温水洗浄便座なしには生活できない民族になっているのでは?」という事でした。

 「温水洗浄便座」などというややこしい名前を言いましたが、要するにウォシュレット或いはシャワートイレと称する、下から水やお湯が出てお尻を洗ってくれる便座です。
(ウォシュレットやシャワートイレと言う名は、ブランド名らしいので、敢えてややこしい名前を遣いました。)


 私事で恐縮ですが、私は毎日朝晩キチンと排便しますが、もう30年以上もこの種の便器を使っていて、排便後の清潔感が保たれているように思いますし、やや出にくい時には先にやや冷たい水をお尻に当てることで排便が催される時もあります。

 先日のスペイン旅行ではスペイン国内だけでなく、途中のカタールでもこの種便座は目にすることがありませんでした。(思い起こせば、今迄の海外旅行でも同じでしたが・・・)

 正直言って、10日以上もこの装置のない便座での排便は大変でした。

 何処でもトイレットペーパーが固くて、拭いてもお尻が綺麗に拭けていない気がし、遂に3日目以降は、朝の排便後にトイレットペーパーで拭いた後に、シャワー室に行ってお尻をシャワーで洗うという事になりました。

 私だけでなく、日本人の多くはもう温水洗浄便座なしでは生活できない状態になっているのではないかと心配する次第です。

 何れにせよ、トイレットペーパーの軟らかい品質と言い、トイレ専用の芳香剤など、日本人は排便という行為をいかに快適に行うかを、本当に大事にしている稀有な民族だという事を改めて気付かされました。(まさ)


近くで見かけた深まる秋

2023年10月23日 19時13分38秒 | 散歩中に見かけた風景

 未だ時差ボケが治っておらず、昨夜もうつらうつらと浅い眠りでしたが、8時に起床。

 先ずベランダの手入れからと思ってベランダに出ると、旅行出発前に出始めていたシクラメンの葉が予想以上に大きくなっていました。

 毎年書き込んでいるように、このシクラメンはもう10年以上も植え替えなしにしていますが、球根は巨大化して元気な様ですし、このままなら来年3月末にはまた新しい花を咲かせてくれるでしょう。

 ベランダの水遣りを済ませてから、予約していたマッサージに向いましたが、少し遠回りして久しぶりに深まる秋を楽しむことにしました。


 団地内では、アメリカヤマボウシ(ミズキ科)の葉がもう紅葉を始めていましたし、近くで見かけたヤマボウシ(或いは、シナヤマボウシ?)は可愛らしい赤い実を付けていました。

 また、キンモクセイやギンモクセイも少し盛りを過ぎましたが、まだまだ主役です。

 
 立ち寄った公園のブッドレア(=クサフジウツギ、フジウツギ科)は英語名でバタフライブッシュと呼ばれるだけあって、沢山のアオスジアゲハやオオスカシバが集まっていて、非常に賑やかでした。(まさ)


ベランダのシクラメン

団地内のアメリカヤマボウシ
ヤマボウシ(シナヤマボウシ?)の赤い実

同上


キンモクセイ

同上

ギンモクセイ

同上


ブッドレアとアオスジアゲハ

同上

同上

同上


ブッドレアとオオスカシバ

同上

同上


無事に帰宅です

2023年10月22日 20時11分36秒 | 旅行/色々な風景

 スペインのバルセロナを20日早朝に立ち、同日夕方にカタールのドーハに到着したものの日本までの便の都合で同日はドーハに一泊。

 翌21日にもまだ夜が明けない内に起きて、羽田への飛行機に乗ったものの11時間のフライトで時差が6時間もあることから、羽田着は21日(昨日)24時少し前。

 止むを得ず、空港近くのホテルに泊まり、今朝の飛行機で帰阪したという次第です。


 西からの長時間の時差を超えた帰国は本当に大変で、昨夜も羽田のホテルでは熟睡が出来ずに、帰宅時にも眠いような状態でしたが、独り身の生活者としては帰宅後は何かと大変。

 空っぽの冷蔵庫を満たしておかねば明日からの生活に支障が出ますので、先ずは買い物に・・・


 少し留守にしていた間に大阪も涼しくなっているので、夏場は直ぐ傷んでしまうので見合わせていた仏前のお花も買って供えると共に、旅行に持参していたツレアイの写真も元に戻して、久しぶりのお経を上げながら旅行の報告を。

 夕食は、何故か日本食が恋しくなり買物をしておいた刺身と、見に鰻丼で・・・
今迄は海外に行っていてもそれ程日本食が恋しくは無かったのですが、やはり年の性でしょうか?

  
 明日から、旅行中の写真整理をと思っていますが、沢山の洗濯物や家の片付生けもありますし、更に時差ボケの回復次第ということで、どうやら少し遅れそうです

(まさ)


久しぶりに仏前にお花を 綺麗なランがありました。 旅行に持参したツレアイの写真も戻しました。
今日の夕食  先ずは、刺身/玉子豆腐/ホウレンソウのお浸し/大豆の煮物

〆は、ミニ鰻丼に味噌汁/白菜の漬物付き。