(合歓)ネムさんと私の関係は不条理である。
筋道が通らない。
道理にあわない。
子供を育てる義務を放棄している。
家族という概念が希薄である‥そんな父親。
70才で老人後期高齢者‥になった今も子供の精神のままなのだ。
己を切り刻んで働きずめ‥擦り切れた雑巾のような母親‥それが私。
合歓さんの成育歴(日帝時代のルサンチマン)と遺伝子レベルでの考察とは別に、彼は社会に適応できない。
私にとっては異人種である。
役立たずの芥。ゴミ。
そんな男の子供を産んだ自分自身もゴミ。
そう思い定めなければ‥自分の胎に落としどころを据えなければ‥精神が不安定になる。
私が倒れたら子供が育たない。
(F氏の写真)合歓の土場。
草の中に埋まって錆びついたホッピングの様に。
子供が成人してからも尚‥心を凍てつかせ、錆びつかせるまま。
気の置けない友人の存在だけが助け舟。
愚痴が櫂。
気苦労が船。
痩せた世間は人生の大海原。
体力はもとより、耐久力及び気力にかける、知性よりは情動にひっぱられる私がよくぞ漕いできた。
大海原を‥トホホㇹㇹ。
雑草の中の錆々のホッピングは、写真家の目では被写体‥そして芸術世界。
田んぼに野菜は育たない。稲ですよね。
そんな通り一遍の感想を遥かに凌駕する世界が広がる。
≪不条理はひとを自由にしない。
それはひとを縛るのである≫
アルベール・カミュの言葉の意味がようよう腑におちてきたこの頃。
生きていれば誰でも、可能性は大きく広がっている。
自分があきらめなければ‥途方もない世界が未来でまっているかもしれない。
F氏は写真展を開く夢を持っている。
F氏の写真 合歓の小屋‥窓辺の石
“合歓のウジュ(宇宙)”の主催者F氏の夢は‥叶えられる夢としてすぐそこにある。
各人が不条理の鎖で己じしんを縛っている。
縛りを解き放つのは、自分自身でしかない。
筋道が通らない。
道理にあわない。
子供を育てる義務を放棄している。
家族という概念が希薄である‥そんな父親。
70才で老人後期高齢者‥になった今も子供の精神のままなのだ。
己を切り刻んで働きずめ‥擦り切れた雑巾のような母親‥それが私。
合歓さんの成育歴(日帝時代のルサンチマン)と遺伝子レベルでの考察とは別に、彼は社会に適応できない。
私にとっては異人種である。
役立たずの芥。ゴミ。
そんな男の子供を産んだ自分自身もゴミ。
そう思い定めなければ‥自分の胎に落としどころを据えなければ‥精神が不安定になる。
私が倒れたら子供が育たない。
(F氏の写真)合歓の土場。
草の中に埋まって錆びついたホッピングの様に。
子供が成人してからも尚‥心を凍てつかせ、錆びつかせるまま。
気の置けない友人の存在だけが助け舟。
愚痴が櫂。
気苦労が船。
痩せた世間は人生の大海原。
体力はもとより、耐久力及び気力にかける、知性よりは情動にひっぱられる私がよくぞ漕いできた。
大海原を‥トホホㇹㇹ。
雑草の中の錆々のホッピングは、写真家の目では被写体‥そして芸術世界。
田んぼに野菜は育たない。稲ですよね。
そんな通り一遍の感想を遥かに凌駕する世界が広がる。
≪不条理はひとを自由にしない。
それはひとを縛るのである≫
アルベール・カミュの言葉の意味がようよう腑におちてきたこの頃。
生きていれば誰でも、可能性は大きく広がっている。
自分があきらめなければ‥途方もない世界が未来でまっているかもしれない。
F氏は写真展を開く夢を持っている。
F氏の写真 合歓の小屋‥窓辺の石
“合歓のウジュ(宇宙)”の主催者F氏の夢は‥叶えられる夢としてすぐそこにある。
各人が不条理の鎖で己じしんを縛っている。
縛りを解き放つのは、自分自身でしかない。