興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

Psychotherapy(サイコセラピー)と心理カウンセリングの違いについて

2014-01-21 | プチ臨床心理学

 Psychotherapy(サイコセラピー、心理療法)と心理カウンセリング(Psychological counseling)の違いについて、などというタイトルで書き始めましたが、これらの言葉は厳密には異なるものの、臨床心理学の本場アメリカでもしばしば互換的に使われています。私自身もしばしば互換的に使います。また、心理職に従事する人の中にも、これらの違いが判らずに、「同じことでしょ」と片付けてしまう人が少なくないですが、こういう人は、心理カウンセリングの基本技術はあってもサイコセラピーの能力はない場合があります。もちろん、これらの違いは説明できなくても、知らずのうちにサイコサラピー的なことをしている実力のある心理カウンセラーもいます。

 さて、Psychotherapyという言葉ですが、これは、Psyche(心、心理、精神)+Therapy(治療,療法)、つまり「こころの治療」です。心理カウンセリング、Psychological counselingは、熟練した聞く技術、という基本姿勢はサイコセラピーと共通しているものの、必ずしもこの「治療」機能を含んでいません。この良い例は、Grief CounselingとGrief Therapyの違いで、両者とも、だれか大切な人をなくして心を痛めている人を対象に行われるものですが、前者は、その喪失体験に精神疾患が伴わない、いわゆるNon-complicated bereavement(複雑化していない死別体験)の人にとっても有効なものですが、深刻な鬱や、不適応などを起こしているComplicated bereavement(複雑化した死別体験)を経験している人に対しては、十分ではありません。この場合は、治療的要素を含んだ、Grief Therapyが適切です(もっとも、Grief Counselorは、Grief therapyとGrief counselingの両方を指している場合が多く、これはあくまで厳密な話です)。

 さて、心理カウンセリングには、その基本的な前提として、「人はだれでも自分の中に答えを持ってるけれど、なんらかの理由でその答えにアクセスすることができない。答えはもともと持っているわけだから、心理カウンセラーの仕事は、彼らがその内なる答えにアクセスできるように、クライアントが自分で答えを見つけられるように助けることだ」、というものがあります。これはサイコセラピー、精神療法の、根本的な基礎でもあります。これは強調してしすぎることがない大切な基本姿勢ですが、しかしここで問題になってくるのは、「すべてのひとが、熟練した聞く技術と受容だけで十分ではない」、ということです。この限界点を知っていることは心理職の人間にとって本当に大切なことですが、残念ながら、「聞くことがすべてだ、何があってもアドバイスしてはいけないし、クライアントの質問に直接答えてはいけない」と信じているカウンセラーはたくさんいます。

 皆さんの中にも、「何かとても困っていることがあって、カウンセリングに行ったら、ただ話を聞いてもらうだけで、何のアドバイスもガイダンスもなく、質問をしても、質問をし返されたり、あなたが言ったことを少し違った言い回しで繰り返されるだけで、なんだか腑に落ちなかった」、とか、「一生懸命、親身に聞いてくれるのは嬉しかったし、受け入れてもらっている、という体験は良かったけれど、自分には良い友達(家族、配偶者、上司、先輩、など)がいて、同じ内容の話を彼らにも話しているし、彼らも親身になって聞いてくれる。何が違うのかわからない」、と感じてカウンセリングをやめてしまった方はいるのではないでしょうか。

 もちろん、こうした体験は、あなたの話をろくに聞かずに、アドバイス、励ましの言葉をゴリ押ししてきたり、やたらとカウンセラー自身の体験を話したり、不適切な自己開示を連発してきたり、カウンセラーの個人的な意見や価値観をおしつけてきた、説教してきた、批判された、怒られた、などという例と比べれば、遥かにましで(実際こういうカウンセラーも少なからずいます)、カウンセラーに被害を受けた、というわけではないですが、かといって、「十分に効果のある」時間ではなかったわけで、何かが足りなかった、ということになります。

 サイコセラピストの行うサイコセラピーは、ただただとことんあなたのお話を聞く、というだけではありませんし、かと言って、セラピストが延々と話したり、アドバイスをしてきたり、励ましたり、意見を言ったり、というようなことでもありません。あなたの大切なお話をじっくりと時間をかけてとことん聞く、というのは心理カウンセリング同様、サイコセラピーでもメインになりますが、セラピストは同時に、良い治療関係ができてきて、あなたについての理解が深まってきたら、あなたがまだ意識できていない気持ちや心の葛藤、無意識の防衛機制、隠された考えなどについての解釈(Interpretation)をあなたにわかる形で伝えたりして、洞察を促進したり、無意識に行われている有害な思考パターン、問題行動などについて、あなたが受け入れられる形で教えたりします。本当にあなたにとって治療的であれば、アドバイスをすることもありますし、自己開示をすることもありますし、Psychoeducation(心理的教育)という短いレクチャーのようなことをしたりもします。たとえば、深刻な鬱を経験している方には、鬱を続ける思考パターンや問題行動がありますが、それについて伝えて、その人の鬱の性質や、その人の人格に対する理解を深めることが非常に効果的であることはよく知られています。また、人間関係がうまくいかずに悩んでいる人は、治療関係が深まってくると、まず決まってその関係性が私との人間関係の中にもでてくるので、それを私がきちんとつかんで、あなたにわかる形で少しずつ伝えていくことも大切です。これについても、後ほど別の記事で書きたいと思います。

 とはいえ、繰り返すようだけれど、サイコセラピーの話の中心はあなたであり、通常、1セッションのなかで7~8割型はあなたが話す時間です。このように長々と文章を書いている私ですが、実際にあなたが私のセッションにやってきたら、あなたに話す時間がたっぷりあることに驚かれるかもしれません。

 とはいっても、50分はあっという間に過ぎるもので、また、あなたが安心して、快適に、こころを開いてお話できるようにするのも私の仕事なので、もしあなたが無口な性質であったり、普段から話をするのが億劫だったりしても、セッション中に気まずい無言の時間が流れる、というようなことはまずありません。それから、口数が治療効果と比例する、というわけでもなく、静かだけれどもとてもパワフルで有意義なセッションもよくあります。

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境界線(Boundaries)

2013-07-19 | プチ臨床心理学

 お久しぶりです。今回は、少し前に匿名さんからいただいた質問について解答してみたいと思います。以下が、その頂いた質問の引用です。匿名さん、お待たせいたしました。

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心を傷つける言葉を言ってくる人、仕事の邪魔をしてくる人、トラブルがあると必ずこちらの責任にしてくる人、間違った情報を与えてくる人、混乱させようとしてくる人、進行方向に立ちはだかってくる人、必要な情報を隠す人、与えられた仕事をせずに、関係のない私にやらせようとしてくる人、時間に遅れてきて謝らない人、嫌がらせをしてくる人、危険行為に誘ってくる人、差別をしてくる人、根拠のない中傷をしてくる人、私を利用しようと近づいてくる人・・・、こういう人たちから、たくさんストレスを受け取ってしまいます。関わらないのが一番ですよね。。。でも、対面でやり取りしなければならない時があります。こういう人たちから、ストレスを受けないように、物理的に彼らと同じ場に居ながらも、心の距離はしっかりと取りたいと常々思っているのですが、うまくできません。心の距離を取るやり方があれば、教えて頂けると、幸いです。

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 さて、匿名さんが対応に困っている人たちは、実にいろいろな種類の困った人たちで、つまり、いろいろな、異なった種類の問題を持った人たちです。具体的にどういう状況で、どういうことをしてくるのかは良く分からないけれど、与えられた情報で考えられる彼らの共通的な特徴は、悪意のある人、無責任な人、自己中心的な人、攻撃的な人、これらをさらに大雑把にまとめると、自己愛の強い人、つまり、自己中心的で、他人の立場に立ってものを考えるのが苦手、或いはできない人たちである、ということが言えそうです。

 こうした人たちとの対応で一番大切なのは、あなたの心の境界線、Boundariesを首尾一貫して、言葉と行動によって示していくことです。心の境界線とは、あなたという人間のプライベートなスペースと、外の環境、他者との境目で、これは、心のプライベートスペース、物理的なプライベートスペース、その両方について言えることです。あなたが人間関係で不快感、苦痛を経験しているときは、ほとんどの場合、あなたの境界線が他者によって侵されているときです。

 たとえば、電車に乗っていて、知らない人がいきなりあなたの腕を掴んできたら、あなたは不快感、苦痛を経験すると思います。これは、その人の意図が何であったにしても、そのとき、あなたの物理的なパーソナルスペースが侵されている状態です。ところで、あなたの腕をいきなり掴んできた人が、あなたと親しい友人で、掴んできたのは、電車が急に揺れて、その人が転びそうになったから、という場合は、あなたは別に不快感を感じないかもしれません。というのも、あなたの心の境界線は、絶対的なものではなくて、相対的なものであり、その他者との人間関係の性質にたぶんに影響されるものだからです。

 別の例を挙げます。今度はこころの境界線についての例ですが、会社で、ある女性が、嫌いな男性の上司にいきなり生年月日を聞かれたら、おそらく彼女は不快感を経験するでしょう。これはセクハラにも値することです。しかし、生年月日を聞いてきた男性の上司が、この女性と普段から非常に仲が良く、同世代で、何でも話すような仲であったら、この女性は不快感を経験しないかもしれないし、これはセクハラに値しないかもしれません。ここでもお分かりのように、境界線とは、その人間関係によって変化する、相対的で、柔軟性のあるものです。

 境界線、あなたのプライベートスペース(物理的、心理的)と外の環境との垣根、ですが、これは、人それぞれの性格によってもかなり異なるものです。がちがちの垣根を持っていて、人を受け入れない人もいれば、それがゴムのようで、いろいろな人間関係の状況において臨機応変に調整する人もいれば、きちんとした垣根ができておらず、他者からプライベートスペースに常時土足で踏み込まれている人もいます。このように、境界線は、柔軟性がなさ過ぎると親しい人間関係は築けないし、柔軟過ぎると、他者と自分との違い、境目が分からずに、不健全な人間関係に陥りやすいわけで、つまり、程よい柔軟性のある境界線が良い人間関係において大切です。境界線が硬すぎると思う人は、もう少し柔軟なものを心がければ良いし、境界線が緩過ぎる人は、少し固めることを心がけるのが良いでしょう。

 あなたの件においては、どうやら、少し固めの境界線を築く工夫が必要のようです。

 それでは、境界線は、どのようにして築いていくのか、ということですが、それは、あなたがどのような価値観を持っていて、どういう気持ちを経験しているか、言葉にしていくことから始まります。

 あなたは何が好きで、何が嫌いか、他者のどういう行為は大丈夫で、どういう行為は大丈夫でないのか、また、その大丈夫でない行為を受けたときに、あなたはどういう風に感じて、どういう風に思うのか、そういうことを首尾一貫性を持って主張していくことです。

 まずは、あなたがどういう考えを持っていて、どういう気持ちを抱いていて、好きなものは好き、嫌なものは嫌だと、上手に伝えていくことから境界線の構築は始まります。たとえば、トラブルがあって、あなたのせいにしてくる人に対しては、そこであなたはどう思うのか、「あなたの現実」は何であるのか、相手に伝えることです。それを相手が理解しなくても結構です。その人の現実と、あなたの現実、二つの現実があって結構です。大切なのは、あなたの現実を、言葉にして、その人に示すことです。示すことで、その人に、あなたの主体性が見えます。最初はなかなか難しいことですが、これを辛抱強く繰り返していくなかで、その人は少しずつ、あなたがどういう人であるのか、何が大丈夫で何が駄目なのか理解し始め、それらを尊重するようになってきます。

 根拠のない中傷をしてくる人についても、まったく同じことが言えます。あなたの現実を大切にして、表現しましょう。

 時間に遅れてきて謝らない人に、嫌な思いをしていたら、それを相手に上手に伝えることです。その人が時間に遅れてくることで困っているとか、あなたの時間を尊重されていないようで悲しいとか、以前にも述べた、I-Statement(「あなた」ではなくて、「私」を主語にした発言)を使って、気持ちを表現していくことです。それによって、相手は何があなたにとって大丈夫で、何が駄目なのか理解し、少しずつ尊重するようになります。それから、気持ちをきちんと言葉によって表現することで、あなたが今経験しているようなストレスは、ずっと軽減すると思います。さらに、健全な境界線ができると、今よりもずっと快適な生活になると思います。それから、きちんとした境界線があると、あなたは自分の意思が尊重されている、気持ちが理解されている、また、自分の意思や努力で状況を変えていけるのだ、という自信がでてきて、人間関係が楽しくなっていくと思います。


心の病を抱える家族の支持について

2013-04-12 | プチ臨床心理学

 こんにちは。今回は、優さんから、統合失調症を持つ家族とどのように付き合っていったらよいのかという質問を頂きました。統合失調症はご存知のように、非常に深刻な精神疾患であり、そのご家族とうまく付き合っていくにはいろいろな面での配慮が必要です。とはいっても、家族が腫れ物に接するようでいては、彼らはとても敏感なので、そういう空気を察知して、それがまたストレスになり、よくありません。そういうわけで、あなたがあなたで居続けながら接していくことが大切ですが、そのなかで、何が大切で、また、どこに気をつけたらよいのか、書いてみたいと思います。以下が優さんからの質問文の引用です。

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どんな言葉がいいのか (優)

アラサー:主婦です。

いろんな記事を読ませてもらい、子供の頃の環境などがいろんな原因であることが多いと感じました。

私には弟がいるのですが、先日、祖母の家の改装を親戚と一緒に手伝っていたとき、同年代のいとこと比べて、自分は気が利かないと母に話したそうです。
 
いろんなことに自信をもてなくなっている気がして・・・
弟にイキイキと楽しみながら過ごしてもらうにはどんな声をかけたらいでしょうか?

記事の中の「執着とコンプレックス」の文中の後半「・・・・出来ないものを回避し続けたら~・・・」から最後までを伝えてみようかと思ったのですが、子供の頃よく喧嘩していたし、何か嫌な思いをさせた原因がもし私にあったらと思うと何をどうすることが一番良いことなのか分かりません。

・弟は数年前に住み込みで働いていてある日、体調など様子がおかしくなり仕事を辞め、病院に行くと統合失調症と診断されました。

弟が幸せに生きるために私にできることはどんなことがあるでしょうか?
アドバイス頂けたら幸いです。

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  統合失調症は、現在でもまだまだ社会的偏見の強いこころの病で、また、幻聴、幻覚、思考障害などを伴うとても深刻な心の病であるため、その診断を受けた人が、非常に大きなショックを受けるということは少なからずあり、実際、その診断を受けた、ということ自体が当人にとって大きなこころのダメージ、ストレスとなることもしばしばあります。

  幸い、彼にはあなたのように弟想いで優しいお姉さんがいます。これは当然とても大切なことです。実際、逆の話ですが、統合失調症で入院していた人が症状がよくなって退院してきたときに、家族の心無い言葉やネガティブな感情の表出(専門的に、感情表出、Expressed Emotion,EEと呼ばれます)に晒されることで、症状が再発したり、悪化したりする可能性が高くなることは臨床研究においてよく知られています。反対に、EEが低い家族の間では、高EEの家族と比べて、病気の再発率が低いことも知られています。(EEの問題は、統合失調症に限らず、いろいろな精神疾患においていえることで、たとえば摂食障害が良くなって退院してきた女の子が親のEEによって再発を経験したりします)。

 ただ、EEは、とくに冷たくて無神経な家族の間で起きる、というわけではなくて、先ほども述べましたが、その当人とどうやって接していいか分からずにギクシャクしたり、腫れ物に触るように行動したり、また、当人が家族に暴力を振るうようでは、やはり家族のEEはどうしても強くなりがちで、つまり、いろいろな要素があるわけです。

 よって、家族がその当人の病気の性質について、メンタルヘルスの自助本(最寄の大き目の本屋さんに行かれると、統合失調症の患者さんの家族のための本などあると思います。もし見つからないようでしたら、統合失調症について一般に書かれた本でも構いません)などによって理解を深めておくことは大切です。たとえば、病気の理解があれば、全く知らない場合と比べて、家族はより自然体でいられるし、余計な緊張感が避けられるため、当人も過ごしやすくなります。

  ところで、心理学者の間でも良く知られていることですが、統合失調症の患者において、何が一番治療的かといえば、その患者との良い人間関係です。というのは、彼らは我々の想像も付かないような強い孤独感を経験していることが多々あるからです。誰からも理解されないような思考、幻覚、幻聴などを経験し、人から避けられ、社会から孤立したりと、彼らにとって(我々人間すべてにいえることですが)良い人間関係の力は計り知れません。これは、治療現場外にも当然いえることで、理解と思いやりのある家族との良い人間関係は、その人にとって、掛け替えのないもので、安定を与えるものです。

  質問文から察するに、弟さんは、相当に自信を失っています。もしかしたら、発病前から、低い自己評価、自尊心の問題に悩んでいたのかもしれませんが、いずれにしても、今、彼が低い自己評価で悩んでいるのは確かなようです。ここで家族が気をつけなければならないのは、励ますつもりで掛けた言葉、アドバイスが、却ってプレッシャーになったり、傷つけてしまうことを避けることです。たとえば、アドバイスをする代わりに、彼の言うことをじっくりと聞いてあげて、適当に彼の言葉を繰り返したり、要約したりしながら、あなたが彼の悩みを理解していることを伝えていくことなど、有効です(傾聴技法についても、本屋さんにいくと、実にいろいろな人が「聞く技術」として本を書いているので、気になったものを手にとってお読みになるといいと思います。心理学、自己啓発などのコーナーで見つけられると思います)。

  それから、あなたに良く見えている、彼の長所、強みなどを、彼に伝えていって、長所に焦点をおいて、その長所をいかに生かしていくかという方向で彼をサポートしていくのもよいと思います。彼が今何に興味を持っていて、何をしたいのかについて聞き出してみるのもいいと思います。彼がそうした方向にフォーカスして、少しずつ行動していくなかで、自信を取り戻していくのを助けてあげましょう。これといって、何が良い言葉で、何が良くないのか、ということではなくて、大切なのは、あなたの姿勢と良い意図だと思います。

 最後にまとめますが、1)統合失調症について勉強して、理解を深めて余裕を持つことで、緊張感を減らし、無意識的な家族間のEEを減らす、2)どうしたら弟さんと「よい人間関係」を築いて保てるかについて考えて行動する、3)彼の悩みに対して、アドバイスをする変わりに、傾聴し、彼の気持ち、悩みをよく理解している、ということを伝えていく(これが良い人間関係に直結しますね)、4)(3とは逆に、今度は)彼の長所、興味、関心にフォーカスして、それらを言葉にして彼を励まして、彼がそうしたものに向けた建設的な行動を取ることをサポートしてあげる (これも良い人間関係に繋がりますね)、5)こうした環境のなかで、彼が自信をつけて、イキイキと楽しみながら過ごせるようになっていく、ということです。気軽に、いろいろと試してみてください。応援しています。

 


テレビを長時間見ることについて

2013-02-15 | プチ臨床心理学
 お久しぶりです。今回は、しずこさんから頂いた興味深い質問、テレビの視聴について回答いたします。パートナーが長時間テレビに釘付けになってしまって反応に乏しい、情緒応答性(Emotional availability)が良くない、という問題は、日本人に限らず、欧米でも良くみられるものですが、実際そうでない側の人間からすると、それはなかなか理解に難しく、これはまた親密な関係の障害にもなりえるもので、あまり議論されることはないものの、実はなかなか厄介な問題です。以下がその質問の引用です。
 
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テレビ大好きの不思議。ありがとうございます。 (しずこ)
2013-01-31 14:28:39
お忙しいところを恐縮です。わたしは主婦ですので家族の食事がすみ片付けなどしていればそうそうテレビ漬けではおられません。夫です。50代後半、家での飲酒はありません。帰宅して着替えもそこそこにテレビの前に座ります。食事中はダイニングにテレビがないのでさっさと済ませまたリビングへ。
観る番組は、まず録画している韓流ドラマ、お笑い番組も観ます。定時のニュース番組はスルーで討論番組などは欠かさず観ています。映画もドラマも、わたしなどよりはよほど詳しいです。
サッカーは好きで、野球は全然観ません。
晩酌をしないのでだらだらと日付がかわるまでテレビがついています。
喫煙が嫌でわたしはリビングにはいません。たまに映画など一緒に観ることもあります。
趣味は全くなく、かといって偏屈ではなく、新聞も本も全く読みませんが年相応の社会情勢の知識は豊富です。
自営で農業しています。自然相手の毎日ですがさほどストレスがあると思えません。
以前なぜそれほどテレビ漬けなのか訊ねたところ、自分が寝ている間に知らないうちにいろんな事件があるかと思うとたまらない、と訳のわからないことを言っていました。
弊害…子供たちの話しもテレビが上の空で、画面から目が離れなく。
現実逃避なのでしょうか?疲れているなら早く休むことを考えそうなもの、と思ってしまいます。

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 頂いた質問文の文脈から、いくつかの要素が絡み合った複雑な問題であることが分かります。まずは、どうして一般的に、長時間のテレビの視聴が良くないのかについて触れてみたいと思います。

 人間が何かに集中(Attention)するとき、それは大きく分けて2種類の集中があり、ひとつは、積極的な集中(Active attention)で、もうひとつは、消極的な集中(Passive Attention)であるといわれています。

 前者の積極的集中は、行為者が対象に対して文字通りアクティブに、積極的に精神を向けている状態で、誰かと会話をすること、勉強をすること、運転をすること(集中していない方もいますがそれは困ったものです)、スポーツをすることなどで、逆に後者の消極的集中は、まさにこの質問文の中の男性のようなテレビの視聴で、これは、行為者の意思とはあまり関係なく、対象のほうから情報が一方的に提供されるもので、行為者はただただテレビの前に座って動画を見続けることに集中するだけです(脚注1)。

 文中の男性は、なるほどいろいろな番組を見ていますが、「番組を選択する」こと以外はその人の意思とはほとんど無関係に、一方的に刺激が提供されています。テレビは情報の嵐で、それぞれの番組制作側も、現在、インターネットなど、様々な別の娯楽との競争という死活問題で、いかに視聴者を確保するか、リピーターを増やすか必死なので、「見るのが楽で精神的なエネルギーも最小限で済み、且つ面白いもの」を提供します。これは、疲れている人、いろいろな理由で気力やモティベーションの沸かない人、趣味がなくて刺激を必要としている人にとっては非常の都合がよく、心地よいもので、ゆえにこうした要素をもった人は中毒のようにテレビが止められなくなります。さらに、このように楽に刺激を確保できる手段があると、モティベーションの低いひとは、それで満足してしまって、何か別の活動をしようという気にはなかなかなれません。

 進化心理学者のなかには、男性が仕事から帰ってきて呆然とテレビを見続けるのは、我々の祖先がかつて狩猟時代に、夜、帰宅後、洞窟の中で呆然と焚き火の前に座って棒などで食べ物を焼いたりしながら火を見続けて疲れを癒した行為から来ている、リモコンを持ってテレビの前に居座るのは焚き火の前で棒切れを持って居座る原始人とそっくりではないか、などと主張する人もいますが、まあ、なかなか面白い理論で、説得力もあり、本当かもしれませんが(脚注2)これは全然しずえさんの助けにはならない理論です。

 しずえさんは、旦那さんが農業で、自然を相手にする仕事でストレスはないと仰いますが、ストレスで意外と知られていないのは、「人は、刺激が少なすぎる状況、チャレンジがない状況に、かなりのストレスを感じる」ということです。人間は知的刺激を必要とする生き物なのです。彼がテレビを見るのは、そうした刺激に対する渇望を補う行為のようで、今の生活環境のなかで強化され、彼の生活のシステムの一部に組み込まれて永続化しています。

 もうひとつ気がかりなのは、彼にとって、テレビを見ることがどこか強迫的になっていて、「自分が寝ている間に知らないうちにいろんな事件があるかと思うとたまらない」、つまり、見ないわけにはいかない、見ないと大変、という強迫観念があり、それを行動化する、つまりテレビを見る、という強迫行為でその不安が軽減しているようであり、この強迫性もまた、彼がテレビを長時間見ることを永続化させているように思われます。強迫観念があり、また、刺激を必要としているので、疲れていても見続けます。

 人間関係(Interpersonal relationship)的観点から見ても気がかりです。

 あなたと、お子様たちとの人間関係に、明らかな問題が生じていますね。それから、彼の社会的な孤立(Isolation)も気がかりです。もしかしたら、軽度の鬱など患っている可能性もあります(もし心当たりがあるようでしたら、精神科の受診をお勧めします)。ただ、彼は飲酒もなく、偏屈なところもない、ということなので、いろいろ工夫していけば、問題は改善する可能性が高いです。

 ここで質問ですが、あなたは、彼のテレビの長時間の視聴によって困っている、というあなたの気持ちを言葉にして伝えていますか。もしまだでしたら、少しずつでも、辛抱強く、言葉にしていくことを強くお勧めします。もしかしたら、あなたが困っていることを知らないのかもしれません。もし既に伝えているとしたら、それがまだ足りない、または、伝え方を変える必要がある、という可能性があります。

 ここで注意すべきなのは、彼を責めるような口調にならないように、「You statement」(「あなたがテレビばっかり見ていて家族に全然向き合ってくれないのが困る」)ではなく、「I-Statement」(「私は家族でもっと交流する時間が欲しいし、あなたとの時間がなくて寂しい」など)、「私」を主語に気持ちを伝えることを心がけてください。

 それから、前述したように、テレビというのははっきりいって彼においてはかなり強力なものなので、そのテレビという刺激に取って代わるような、別の楽しい刺激を用意することが大切です。テレビほどではなくても、何か彼が興味を持てる、楽しめる可能性があるものを用意すると良いでしょう。家族みんなでゲームをするのもよいし、短時間でもみんなで出かけるのもよいし、また、夫婦の時間を充実させていくのも大切だと思います。

 テレビ以上に面白くて大切なものがあるのだと、彼自身が、頭ではなく経験を通して理解していくのが大切です。

 もうひとつ大事なのは、今の彼にとって、テレビは友達のようなもので、見ないようにするのは現実的でなく、それでは最初うまくいったとしても長続きしないので、視聴時間を少しずつ少なくして、その削った時間に用意した別のことをしていく、たとえば、5時間視聴を4時間にして、できた1時間を家族で、また、夫婦で、という風にしていくと、実行しやすく、成功しやすいです(脚注3)。それから、彼がそのようなことに参加してくれたら、言葉に出して、あなたの嬉しい気持ちを伝えたり、彼の努力を褒めてあげたりして、その新しい行為を強化することを努めてください。

 そうした人間関係的な刺激の力というのは、計り知れません。

 

 

脚注1:ところで、テレビの視聴にももちろん例外はあり、たとえば、高校3年生の入試を控えた受験生が、小論文の授業で講師が用意したNHKの特番を録画したものを視聴してそれについて文章を書く、という状況において、彼らは当然積極的にテレビを見ます。そこから得られる情報を最大限に生かそうとするし、その情報をいかに自分がもともと持っている意見や知識と繋げて意味のある文章に展開していくか常に考えながら視聴します。また、息子が出場している甲子園の高校野球の試合の中継を固唾を呑んで見ている両親の集中は、消極的とはいえず、つまり、便宜的に2つのカテゴリーに分けられるものの、これらはどちらかというと程度問題です。

脚注2:こういう面白くてどうでもいいトリビアも日本のテレビの前に座っていると得られますね。でもこうした理論に強い興味を持って、インターネットで調べたり、本屋に行って本を探して読んだりする人は少ないですね。

脚注3:これは臨床心理学においてHarm reduction modelと呼ばれるもので、アルコールなど、依存症の治療によく用いられます。たとえば、アルコールの過剰摂取(Harm、害)を一気にやめて禁酒するのではなく(これでは長続きしないし、また、人によっては禁断症状など危険です)軽減していく(Reduction)ことを続けて改善していくという方法で、無理がないため、実行しやすく、長期的な改善が期待できるのです。


大切な人との会話が続かなくて困っている人へ

2013-01-15 | プチ臨床心理学

 「沈黙は金、雄弁は銀」、などと、もの静かであることが美徳とされていた時代がありました。しかし現在は、欧米文化の影響などで社会が変わり、また、個人個人の違いが大きくなり、黙っていても「以心伝心」で互いに分かり合えるようなことはあまり期待できず、「沈黙は禁」、ある意味、黙っていると誤解が生じたり、どんどん状況が悪くなるような時代、言語による直接的な表現、コミュニケーションが不可欠な時代になっているように思われます。2010年のわが国日本の離婚率は36%といわれていますが、これは日本社会の大きな変容、人々の、結婚や親密な人間関係における価値観の大きな変化の表れであるように思います。さらに、時代や価値観が変わりつつあるけれど、その変化に個々の人々がついていけず、適切なコミュニケーションの方法が分からないまま、はじめは小さな行き違いであったのが、その積み重ねで、気付いたら大切な人との間にどうしようもなく大きなこころの溝ができていた、という経験をした、している、という方も多いと思います。

 タイトルはあえて「大切な人」としました。というのも、これは親子間、夫婦間、恋人同士、親しい友人同士など、様々な、大切な人間関係について考えてみたいと思ったからです。こうした人間関係において、「話すことがない」、「共通の話題がない、なくなった」、「相手が何を考えているのか分からない」、「沈黙が苦痛」、「話を続けるのが大変」、「間が持たない」、などという悩みはよく聞くもので、誰もが経験したことのあることではないかと思います。

 さて、こうした厄介な状況を打破するのは、努力こそ必要であるもの、実はあなたが想像している程には難しくはなく、決して不可能ではない、ということがいえます。

 努力、と言いました。会話をするのに努力が必要であるということを知らなかったり、忘れていたり、また、話すのに努力するのは間違ったことだと思っている方がいますが、それは違います。会話には、努力が必要です。具体的に、努力とは何かと言うと、1)相手の話すことに興味を持つ、2)相手の話に注意を向けてよく聞く、3)会話を始めること、その会話を続けることは、「あなたの責任」、「あなた次第」であり、その責任を相手に委ねてはいけない、ということの自覚です。よく、相手が話し出すのを待っている方がいますが、それでは相手が話し出さなかったら一向に会話は起こらず、2人の間に交流が起こりません。また、相手のほうも、あなたが話し出すのを待っているかもしれません。そこであなたから話しはじめることで、相手も助かるし、あなたも不確かなものを待つ、という状況から脱出できます。そして何より大事なのは、会話が始まることで、少なくとも(会話がないことに対して)そこには相互理解や良い交流の可能性が発生する、ということです。「蒔かぬ種は生えぬ」、といいますが、会話をはじめること、つまり、種を蒔く事なくして、良い交流は望めません。

 さて、会話を始めましょう、といいましたが、別にあなたが話し続ける必要はありません。むしろ、あなたが一方的に話していては、そこにはよい交流は生じません。会話にはキャッチボールが必要です。ここで大変便利なのが、「開かれた質問」(Open-ended questions)と呼ばれる形の質問で、これは、Yes, Noでは答えられない、しかし、質問された人がその人の気分次第で自由に回答の長さ、深さなどを決められる種類の質問です。たとえば、「週末はどうだった?」、「学校はどうだった?」、「今日はどんな一日だった?」などのHow, Whatなどの質問です。これに対応する「閉ざされた質問」(Closed ended questions)は、「週末は良かった?」、「学校は楽しかった?」、「今日は良い一日だった?」などで、「よかったよ」、「楽しかったよ」、「うん」、「ううん」、などの一言で終わってしまいます。

 「開かれた質問だって、一言で終わっちゃうじゃん、『週末はどうだった』には『楽しかったよ』、『学校はどうだった』には、『普通』、『いつもどうり』とかで終わっちゃうじゃん」、という指摘がありますが、そうですね、これだけでは足りなかったりしますね(これでうまく話を引き出せる場合もあるのですよ)。どうしましょう。これは、先に述べた1)相手の話すことに興味を持つ、2)相手の話に注意を向けてよく聞く、に当たります。会話が続かないと言うあなたに逆にお聞きしますが、あなたは「本当に相手の会話に興味があります」か?「興味をもって聞いています」か?会話には努力が必要だと言いましたが、これには、「相手の会話に興味を持つ」、ということも含まれます。続けていくうちにそれがあなたの新しい能力となるので、やがてあまり努力しなくても興味がもてるようになりますが、そうなるまで意識的な努力が必要です。興味を持っているつもりで、「会話が途切れたらどうしよう」、「どういう風に返そうかな」、「なんていったら良いんだろう」、「良い返答が思いつかない」、などという自意識が生じて、話している相手よりも、自分のほうに注意が向いてしまっているひとは、少なくありません。そして、そういう空気は相手に伝わり、「あんまりきちんと聞いてないな」と思った話者は会話へのモティベーションを失います。だから、相手の話に本当に興味を持って、耳を傾けることが大事なのです。

 そういうわけで、相手に話に興味を持つわけですが、すると、「週末はどうだった」、に、「楽しかったよ」、という返答が帰ってきたときに、「何したの」、と自然に聞けるし、「映画館に行ったよ」、には、「何見たの」、「グーニーズ」、「へー、『グーニーズ』みたんだ。あれってどういう話なの」(もしあなたがその映画をまだ見ていなくて、見る予定がなかった場合。もし見る予定がある場合は→)「へー、『グーニーズ』みたんだ。まだ見てないんだけど、どこがよかった?(どこが見所だった?)」などと 「開かれた質問」が連鎖していき、話は徐々に深まっていきます。あなたのお子様に、「学校はどうだった」、と聞いて、「いつもと変わんないよ」、と言われたら、「そう、いつもと変わらなかったんだ、いつも通りにどうだった?楽しかった?」、「楽しくない、つまらなかった」、「つまらなかったか。何が一番つまらなかった?」、「体育」、「体育。どういうことしたの?」、「バスケ」、「バスケしたのね。どうしてつまらなかったの」、「補欠で試合に出してもらえなかったんだ。見てるだけだった」、「そう、出してもらえなかったのね。それは残念だったわね。つまらなかったの、よく分かるわ」などと話が続くことでしょう(ここで会話が終わったとしても、これは意味のある良い会話です。あなたのお子様が学校生活をどのように経験していて、どんな気持ちで生きているのか、何をしているのか、理解できました)。ここで、質問をするときに大事なのは、そこにあなたが本当に興味を持っていて、相手のことを知りたい、という気持ちがあることです。なんとなく無目的に質問していると、それは当然相手に伝わります。逆に、あなたが本当に興味を持って聞いていると、それも当然相手に伝わります。それからもうひとつ大事なのは、相手に「詮索されている」、「侵入的」、と思われないようにすることです。質問は矢継ぎ早ではなく、程よい間隔があると良いです。

 さて、以上の3点、1)相手の話に興味をもつ、2)相手の話に注意を向けてよく聞く、3)会話をあなたの方から始める、また、その会話に責任をもつ、ということを踏まえて、しかし気軽に、大切な人との会話を試みてください。大切なのは、種を蒔くことです。最初はうまくいかないかも知れませんが、それでも、トライすることで生じる問題はあまりありません。トライしないことで生じる問題は、計り知れません。そして、トライしているあなたの真剣さそのものが、あなたと大切な人との人間関係に良い変化をもたらすことも多いです。あまり気にせずに、楽しむつもりで、とにかくトライしてみましょう。相手もあなたと同じようなことで悩んでいるかもしれません。


レイプ トラウマ 症候群 (rape trauma syndrome)

2013-01-01 | プチ臨床心理学

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ご注意】この記事は、表題の概念を説明するという性質もあり、「レイプ」という語彙が頻繁に出てきます。また、性被害の心理について詳しい説明が含まれます。不必要な描写などは避けておりますが、この記事を読んでいて、当事者の方は、トラウマが活性化される可能性はあります。トラウマの鎮静化や、性暴力が個人にもたらす問題について皆さんの理解を促進することがこの記事の目的ではありますが、心配な方は、信頼できる誰かと一緒に読んだり、カウンセリングや精神科受診の前に読んだりと、ある程度の安全性を確保した状態でお読みになることをお勧めします。(2023年1月加筆、編集)

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 PTSD(心的外傷後ストレス障害、 Post Traumatic Stress Disorder)という言葉を聞いたことのある方は多いと思いますが、 レイプ外傷症候群(Rape Trauma Syndrome、RTS)という言葉に馴染みのある方はまだ少ないのではないかと思います。

 RTSという概念は、PTSDという概念の限界点、疑問点から研究されてきたもので、一般に、フェミニスト達によって支持されているストレス障害です(脚注1) 。

 それでは何故PTSDでは十分でなかったかというと、レイプなどの性犯罪の被害者達の経験する心的なプロセスは、自然災害や交通事故などの生存者の体験するトラウマのプロセスとはいろいろな点において本質的に異なるからです。

 例えば、車の事故の生存者と違い、レイプの被害者は自分自身の身体そのものが惨事の中心になっています。車などの、物質ではなくて、自分自身の身体です。

 性暴力は「魂の殺人」と呼ばれるように、自身の肉体という一番個人的でセンシティブで大切なものに対する著しい暴力と破壊であり、個人の尊厳を踏みにじるものです。

 性的なものというのは、私たち人間にとってある意味一番個人的でセンシティブで大切で弱い部分です。そこにつけ込む人間というのは本当に卑劣であり、残酷なものです。

 人間、自分の身体というものは、「自分とは誰か」 、「自分とは何か」という、セルフ・コンセプト(自己概念)、つまりアイデンティティにおいて非常に大切な役割を占めています。

 以前、癌の生存者についての記事でも触れましたが、そのような、アイデンティティの一部である身体に極めて有害な影響があった時、 人はアイデンティティの危機を体験します(脚注2)。

 昨日の自分と今日の自分、一年前の自分と今の自分、今の自分と明日の自分、今の自分と一年後の自分と、私たちは通常、「自分」という感覚において、ほとんど空気のように自然に、連続性(Continuity)を持っています。しかし、レイプという突然で全く想定外の大きな暴力によって、その大切な体が侵入され、この連続性に深刻な断絶が起きるのです。

 ちなみに、本記事でいうレイプとは、「同意のない性交」に限ったことではありません。これはフェミニスト心理学では一定のコンセンサスがありますが、性交に限らず、望まないキスを含め、ありとあらゆる性暴力がレイプです。これは私個人の意見ですが、そこには痴漢や盗撮も含まれると思います。たとえば学校で同性の同級生の子から「悪ふざけ」でトイレを盗撮された子が、以来一時的に周りの生徒全てが敵に思えてしまったりして学校に行けなくなったという事例は、紛れもない性暴力ですし、こうした子たちが経験するトラウマの性質はRTSそのものであったりするからです。

 RTSにおいて、その犯行の「客観的な深刻度」はあまり関係ありませんし、これは他の事例と比較してはいけない問題です。

 というもの、RTSは、本質的に、主観的で個人的な問題であり、ひとつとして全く同じ事例など存在しないからです

 ですから、「もっとひどいことにもなり得た」とか、「もっとひどい経験をした人だっている」という考えは的外れであるだけでなく、その人の回復において有害である場合が多いです。大切な誰かに対する声掛けにしても、自分自身に対する声掛けにしても、そのお気持ちは良くわかるのですが、こうした声掛けには注意が必要です。精神的苦痛の強度や深刻度は、究極なところ、他者が100%理解するのは不可能であり、究極のところ、本人にしか分からないものです。

 性犯罪の被害者が、鬱や、強い不安、解離性障害、性障害、摂食障害や、自殺念慮(本当に悲しいことに、実際に死んでしまう人も少なからずいます)といった深刻な精神状態に陥りやすいことの一つには、こうした急性のアイデンティティ・クライシス、自己同一性の危機が関係しています。

 RTSは大きく分けて、

1)Acute Crisis Phase
2)Outward Adjustment
3)Integration
4)"Trigger reaction of crisis"

という、最初の3段階+4つ目の段階に分けられます。順を追って説明していきますね。

 ちなみに、これらのステージには個人差があります。また、その性暴力の状況や種類などによっても異なります。

 それから、新しいステージから以前のステージに戻ったり、 一つのステージを飛ばし次のステージへ入ったりと、実際にはこれらは相互に関係し繋がっています。

 つまり、便宜上4段階に分けられておりますが、実際のところ、はっきりと分かれた4つのステージではありませんし、そこには連続性があります。

 いずれにしても、多くの場合、被害者のひとたちは、このステージを順番に経験していきます。

 まず、被害にあった人々の多くがその惨事の直後に体験するステージ(フェイズ、局面)が 1の「急性クライシス」(Acute Crisis)と呼ばれるものです。 この時期の症状は主に、被害者の心身の機能に基づくものです。

 被害者は、事件の直後から、急性で強烈な様々な心的苦痛を体験します。一日中泣き続けたり、パニックや解離を経験したり、気が狂いそうになったり、不眠の日が続いたり、小さな音に過敏になったり、 どうしようもない無力感や虚無感に襲われたり人生に希望が持てなくなったり、仕事や日常に集中できなくなったり、全ての異性に対して懐疑的、防衛的になったり、感情が麻痺したりと、実に様々な精神的困難を経験します。強い希死念慮などによる自殺の危険性もあります。

(もしこの記事をお読みになっているあなたが今まさにこの希死念慮に苛まれていたら、どうか意識してください。本当に耐えがたい精神的苦痛ですが、この強度の苦痛は一過性のものであり、決してずっと続くものではありません。もし一人でいると何かしてしまいそうでしたら、ご家族や信頼できる人に助けを求めたり、ホットライン(いろいろあります。例えば性犯罪・性暴力被害者のためのワンストップ支援センター | 内閣府男女共同参画局)に電話してください。)

 その結果、今までの世の中に対する世界観が大きく揺らいだり、アイデンティティの危機に陥ったり、自分という存在そのものが危険に さらされる人も決して少なくありません。

 考えても見てください。昨日までは安全だった場所がもはや安全ではなくなったり、昨日まで信頼していた人にそのように裏切られてまったく信頼できなくなったり、昨日まで何事もなかった平穏な時間が危険な時間と感じられるようになったりと、本当にいろいろなことがそれまでと全く異なったものになってしまうのです。

 しかし、これが何日かすると(人によってはこの段階を数週間、また数ヶ月経験したりします)、彼らは第2ステージの「表面的な調整」(Outward Adjustment)という局面に入ります。1の「急性クライシス」からは少し落ち着いて、表面上は、日常生活に戻れるようになってきた段階です。

 この時、家族や友人など、周りの人々は、すごく安心したりするのだけれど、 ここで大事なのは、これはあくまで「表面上」調整されているだけであって、その本人の内的世界はその前の局面とあまり変わっていないということです。人によっては自殺の危険も水面化で続いていたりするので注意が必要です。

 「一見落ち着いて見える」「一見よくなったようだ」 というのが周りの人間の受ける印象です。日常生活になんとか戻れるまでに一応精神は落ち着きを取り戻しているわけで、「急性クライシス」よりは進展しているわけですが、周りのひとは、彼らがそれでも内面は本当に大変なのだと理解することがとても大切です。

 また、人によっては、「急性クライシス」をきちんと体験できなくて、感情が麻痺してしまって、この局面を飛び越えて直接「表面的な適応・調整」の段階に入る人がいます。その性暴力を、「それほどのことではない」と、知性化、合理化、解離、否認などの無意識の防衛機制の働きで、そのときにきちんと痛みを経験できなかったことによるもので、こうした人々は、ある日突然、「急性クライシス」に戻ったりもします。性暴力は、本当に破壊的な暴力です。その暴力に対して、相当な反応がない、というのはまた深刻なことで、注意が必要なのです。

 さて、「表面的な調整」を経て、被害者の人々はやがて、第3ステージの「統合」(Integration )という局面に入ります。

 この局面がRTSの最終ステージで、ここでは様々な生産的なことが行われます。異性に対して懐疑的になっていた人々が再び異性を信じられるようになったり、疑惑に満ちていた世界が、危険は存在するけれど、信じられる人もたくさんいる、というふうに調整して認識されるようになったり、物事に対する新しい対応の仕方を学んだりします。弁護士を雇って民事・刑事訴訟の手続きを始める方もいます。

 この局面で、人々は、アイデンティティの統合を経験します。性暴力という惨事が、自分の人生のなかで起きたできごととして、その人生に統合され、事件以降断絶があった自己概念に、再び連続性ができていきます。

 レイプという、酷いことが人生に起きて、当事者はIdentityの危機に直面します。もちろん、このような暴力は決して起こってはならないことなのだけれど、人間は、あらゆる種類の特別な経験が、自分のIdentityの一部になるもので、「Rapeを経験した」ということもその人にとって、「自分が誰であるか」という、自己概念の一部になるわけです。この事実を否認してしまったり、上記の段階を経験できなかったりすると、きちんと先に進むことができないわけです。つまり、この時期、サバイバーは「Rapeの経験」を受け入れ、自分の中のIdentityの 一部として統合します。Identityが更新されるわけです。

 その結果、は今までになかったような人生の新しい意義や展望を見出したり、自分と同じ体験をして苦しんでいる人たちを助けようと、性犯罪の被害者を支援するボランティアや活動に参加したりします。また、今までは理解できなかったような種類の他者の痛みを深く理解できるようになったりします。

 これまでは、「Rapeの被害者」という、圧倒的な体験によって、Identityが脅かされていたのだけれど、こうした段階を経て、「Rapeという体験」は、自分という存在の、自分の人生の、一部分に過ぎないのだ、自分は生き残ったし、これからも人生は続いていくと、受け入れられるようになったとき、統合は起こります。これは、癒しの局面です。

 少し前に、「最初の3段階+4つ目の段階に分けられる」といいましたが、その4番目、「トラウマを喚起させる物事」(Trigger reaction of crisis)というものは、サバイバーのその後の人生の中のいろいろなところで起きるのだけれど、それによって、しばらくの間、以前の局面(第1、2段階)に戻されたりしながら、やがて、そうした物事にもあまり影響されないくらいに統合(3)は進んでいきます。

 レイプ外傷症候群で中核をなす定義は、

"a Normal response to an abnormal amount of stress,"

つまり、

「異常な量のストレスに対する、正常な反応」

です。

 RTSは、脅威的で「異常な量のストレス」(abnormal amount of stress)をした人なら誰でも体験する、「普通の反応」(Normal response)なわけです。そしてRTSは治るものです。

 性犯罪の被害者に対する理解はまだまだ少ない世の中だけれど、少しでも多くの人が、被害者の人たちの苦しみに共感的に、理解を持って接することができたら彼らの体験する心の2次災害、3次災害も減ることでしょう。

 この記事を読んで、今現在自分にRTSが該当すると感じた方、どうか、ひとりで悩まないでください。RTSは、適切な心理療法などにより、必ず克服できるものです。時間は掛かりますし、トラウマと向き合うことに、苦痛は伴います。マジックはありません。しかしそれは、あなたがトラウマから解放されるための、意味のある苦痛です。そして、あなたはひとりではありません。サイコセラピーを通して、安全な環境と、信頼できる治療関係のなかで、セラピストと一緒に向き合っていくものです。

 トラウマは、考えまいと、回避する限り消えることはありませんが、きちんと向き合って、能動的にプロセスすることで、その悪い効力を失います。私もこれまでに性暴力のトラウマに苦しむ人たちがトラウマを克服して元気になっていくのを何度も見てきました。あなたが信頼できる心理カウンセラー(サイコセラピスト)や精神科医を見つけて、一刻も早く回復へ向かうことを祈っています。

 


(脚注1)これはフェミニストの心理学者たちによって提唱された概念だけれど、男性の性暴力の被害者の方にも当てはまる理論です。しかし、性暴力の被害者の人たちの経験に対する社会の理解は、被害者の性別が男性となると、本当に乏しいです。まず、男性に被害者がいる、ということ自体考えてもみないような人はたくさんいます。また、男性ということで、「男なんだから」と、ぞんざいに扱われたり、取り合ってもらえなかったり、偏見を受けたりして、苦しんでいるのに、そうした差別や偏見や理解のなさから、声に出せないで苦しんでいる人たちは本当にたくさんいます。そして、多くの男性の性暴力の被害者は、自分より力のある男性によるもので、だれにも言えなかったり、知られない体験であるため、そのトラウマが全く未解決でずっと生き続けているひとは多いです。ステージ2のまま、ずっと生きている状態です。ときにそれは何十年と続きます。恋愛ができなかったり、大切なひとと、性的に親密になれなかったり、その人たちの人生を深刻に狂わせてしまう大きな問題です。こうした中で、被害者の人たちが、自分の声を見つけていくことは、本当に大切です。

(脚注2)これはたとえば、種類は違うものの、女性の乳がんの生存者で、乳房を切断しなければならなかった人にも経験される、自己概念の連続性の断絶です。女性にとって、本当に大切な乳房が、手術によって切断されるとき、そこには(手術という必然性はあるものの)他者による、体に対する大きな侵入があるわけです。乳房を持っていたときの自己イメージと、失った後での自己イメージの間に一時的な断絶が起きるのですが、これを、彼女たちは、ある人は美容整形を用いたり、ある人は、そのまま受け入れたりして、少しずつ、その乳がんになって治った、という一連のできごとを、統合させ、自己イメージの断絶を修復し、アイデンティティの復興をします。

(2006年10月29日にオリジナル執筆。2023年1月編集)

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相性について

2012-11-30 | プチ臨床心理学

  今回は、yumeさんからの3つ目の質問、「相性」について考えてみたいと思います。これも、多くのひとにとって、非常に興味深い課題ではないかと思います。以下がその質問の引用です。

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【3.相性とは何か】
私は相性は大切だと思っています。でも、相性の良し悪しの判断って難しいとも思います。相性って何でしょうか?「好き」とはまた違いますよね。
自分の考えとしては、相性がいいとは、対象物(人・物・こと)にとっても自分にとっても居心地が良かったり、やりやすかったり、いい効果があったりすることだと思います。相性の良さが、対象物との関係の持続性や自分の向上・負担にも大きな影響を与えると思います。
相性の良し悪しの判断の仕方や、悪かったときの対処法や心構えについて、心理学的なアドバイスがあればそれも教えてください

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 一言で相性といっても、それにはいろいろな意味がありますが、yumeさんの質問文における相性は、Compatibilityに相当しそうです。Compatibilityとは、アメリカ心理学協会の心理学辞典によると、"the state in which two or more people relate to each other harmoniously because their attitudes and desires do not conflict" (APA, 2007)ということです。つまり、「二人またはそれ以上の人間が、それぞれの姿勢、態度、欲求、願望など衝突しないゆえに、調和良く(仲良く)関係しあう状態」ということです。逆に、Incompatibilityは、"the state of affairs in which two or more people are unable to interact harmoniously with each other" (APA, 2007)、つまり、「二人、またはそれ以上の人間が、仲良く(調和よく)交流できない状態」ということです。

 これらの定義のポイントは、「Harmonious」、調和的、というところだと思います。Harmoniousに、調和的に交流できればCompatible, できなければ、Incompatible,ということです。アメリカで人気の定着している結婚相手を見つけるオンラインマッチングサイト、「eHarmony」など、この好例ですね。これはまさにその名前どおり、全く見知らぬ、まだ会ったこともない男女を、そのプロフィールなどによって相性を分析し、マッチングさせるわけで、いかにHarmoniousなマッチングができるかが要なわけです。

 ところで、Compatible (Compatibility),Incompatible (Incompatibility)といえば、コンピュータ用語として、「互換性」、「両立性」などの意味でご存知のかたも多いと思います。あるソフトウェアと、そのコンピュータ、或いは、二つ、それ以上のソフトウェアが、うまく共存できるか、あるいはそれぞれの性質がお互いの存在を邪魔し合い、やっていくのが難しいか、ということですが、これは全く同じことが、人間関係にもいえると思います。たとえば、小さな会社の小さなオフィスに、もともと3人の従業員がいるところに、もうひとり加えることになったとき、その新しいひとりの性格などは(仕事内容にもよりますが)結構重要だと思います。その人が、他の3人とうまくやっていけるか、それともその人の参加でその小さなオフィスが混沌としたものになるか。

 なんだか例によって話の収集がつかなくなってきたので本題に無理矢理戻りますが、相性は、「好き」とは確かに異なるものの、これらは深く関係しています。相性とは、冒頭のAPAの定義にもあるように、その人たちの態度、姿勢、欲求、願望、好みなどが似ていたり、共通であったり、また、相反しないものであるため、調和をもって関係しあえるわけで、また、人間は、自分と似たような好み、興味、価値観などを持った人に自然に惹かれることも知られています。そうしたものが全く異なり、共有するものがなかったら、ひとは互いに興味を持ちません。それから、興味や関心と関係していることですが、ひとは、自分と同じレベルの知性、知的能力、教育レベルのひとと惹かれあう傾向にあります。というもの、これらが互いにかけ離れていたら、ものの見方、考え方、世界観などが異なり、話が合わない、ということが多いからです。

 ただ、好きであることと、相性とが、異なる事象であるのは、たとえば、性格、態度、興味、関心、知的能力、学歴などまったく異なっても、とても相性のいい組み合わせは少なくないことからも分かります。逆に、相性が最悪であるのに磁石のように惹かれあい苦労している男女もよく見かけますね。後者の場合、彼らは共有するものが多いものの、どうしても受け入れ難いものがあってうまくいかない、という場合が多いです。

 ところで、何がどうしても受け入れ難いのかというと、これは以前お話した、Projectionで、互いに自分自身の持っている受け入れ難い性質を自分から切り離して相手に投げかけているからです。実はとても似ているゆえ、自分自身の受け入れ難い部分も共有していて、ゆえに互いが絶好の投影対象であるわけです。対処法としては、Projectionの記事でも述べたように、相手に投げかけているもの、相手の受け入れ難い性質をよく観察して、そういう性質を実は自分が持っていないか、考えてみることです。そして、もしその性質が、自分にも当てはまるものであると分かったら、それを自分の性質として受け入れることを心がけることです。受け入れられれば、それを自分から切り離して相手に投げかける必要がなくなるからです。

 もうひとつ、相性について苦しむひとの特徴として、「人に好かれたい」、という気持ちがとても強いということがあります。その気持ちが強すぎると、明らかに自分と合わない人と、なんとかうまくやろうとして、相手とのこころの距離をうまく取れずにまずい人間関係のパターンに陥ってしまったりします。逆説的な話ですが、そのひとが過度に持っている、「人に好かれたい」という気持ちと向き合ってうまく調整できると、相性のあわない人とうまくいかないことにそれほど葛藤が起こらなくなり、うまい距離が取れるようになり、不思議とその人とうまくやっていけるようになったりします。要約すると、相性のよくないひととうまくやるには、まず、自分自身の「ひとに好かれたい」という願望とうまく折り合いをつけること、その折り合いによって、相手と適切な距離をもって付き合う、ということです。その新しい距離感で、互いに新しい良い発見があり、そこに新しい関係性がでてきます。また、なんだかこのひととうまく行かないなあ、苦手だなあ、と思ったら、あまり親しくなることにこだわらずに、まずは距離をもって、なぜそこに苦手意識、問題があるのかを見つめて、それぞれの投影の可能性について考えてみるのがよいでしょう。

 


自信とは

2012-11-19 | プチ臨床心理学

 今回は、yumeさんから頂いた3つの質問のうちのひとつ、自信について書いてみようと思います。普段私たちが何気なく口にしている自信という言葉ですが、これは臨床心理学的にはなかなか複雑で、とても重要な概念です。これも、多くの方にとってとても大切なテーマだと思います。yumeさん、良いご質問、ありがとうございます。以下が、yumeさんからの質問の引用になります。

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【2.自信はあった方がいいか、それはなぜか】


世間的によく、自信があった方がいいといわれているように思います。確かに「自信がある」と「自信がない」を比べたら、自信があった方が良さそうな気がします。
でも、私は正直、自信がある人があまり得意ではありません。(自信のない人が得意というわけでもないですが。)テレビでも、自信ありそうに話している人を見ると、偉そうに感じたり、ちょっと引いて見てしまったりします。
一方で、最近職場で自己分析をする機会があったのですが、私の場合、自信という項目がほかに比べて際立って低く、それはそれでショックでした。たぶん、自信がまったくないわけではないと思うのですが、なぜか自信を持つことができません。
こういうこともあって、自信の必要性や大切さについてご意見を聞いてみたいなと思いました。

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 まず、自信という言葉ですが、自信(Self-confidence)の心理学的な定義として、「自己に対する肯定的な評価」ということがいえます。ただ、この「自信」という言葉は、特定の分野や事象に限られた使い方をされることが多いですね。たとえば、「仕事の能力に自信がある」とか、「容姿に自信がある」とか、「スポーツにおいては自信がある」とか、「コンピュータの知識については自信がある」とか、「良い親である自信がある」、といった使い方です。

 これに対して、より専門的、広範的な概念に、Self-esteem、というものがあります。Self-esteemにはいろいろな邦訳があり、一般的なものとして、「自尊感情」、「自己評価」、「自己価値」、「自己尊重」などがあります。yumeさんの質問内容から察するに、これは職場の自己分析ではあったものの、前者の「自信」よりも、この、もっと広範的なSelf-esteem, 自尊感情とより関係の深いもののように思います。というのも、yumeさんは、たとえば、今の仕事を続けていって能力を高めていくなかで、「仕事に対する自信」は時間の問題で早かれ遅かれついていくものだと思いますが、文面からするに、yumeさんが悩んでいるのは、特定の分野ではなくて、yumeの生活、人生の全体的な意味においての自己に対する見解のように思います。

 Self-esteemとは、Self(自己)における評価(Esteem)感情で、自分という人間が基本的に価値のあるものなのだという感覚です。自分という存在を、基本的に価値があって大切なものなのだと評価することで、ひとはその人生に対して積極的になり、いろいろな経験を重ね、達成感、満足感を抱き、自分のことも、他者のことも、受け入れられるようになります。

 これは健全なSelf-esteemのあり方であり、Yumeさんが苦手である「自信のある人」が、この健全なSelf-esteemの持ち主であるかといえば、そうとは限りません。とくに、偉そうにしゃべる人、自分がすごいのだと相手に分からせるように話す人、自分は自信があるのだとひけらかす人は、Self-esteemがインフレ状態にあるわけで、健全なあり方ではなく、そうしたインフレ気味のSelf-esteemの人の潜在的な問題は、実は根本的な自信のなさだったりもします。なぜなら、偉そうにしゃべる人、自分はすごいのだと相手にわからせようとする人は、他者に対して受容的でないばかりでなく、本当の意味で、自分を受け入れられていないからです。「自分は(周りより、相手より)すごい」、という考えで、他者と自分を比較して、心の安定を図っている人の自己評価は、あくまで相対的なものであり、こういうひとは、自分よりも明らかに能力のある人に出くわしたときに心の安定に支障を来たします。

 別の言い方をすると、健全なSelf-esteemとは、他者との優劣とはあまり関係のない、深いところでの自分という存在の受容(Acceptance)だからです。自分を受け入れられないひとが、どうして他人を受け入れられましょう。専門的には、こうした人たちの人格をNarcissistic Personality(自己愛性人格)といいますが、Narcissistic personalityの人たちのNarcissism(ナルシズム)は、本来低いSelf-esteemに対する無意識のDefenseであることが知られています。自信のない自分と向き合うのは苦痛であるので、優越感、特別意識といったSelf-enhancement(自己高揚)によって無意識に精神の安定を図っている人たちです。

 そういうわけで、Self-esteemが低いことを自覚して悩んでいるひとも、Self-esteemがインフレして自信過剰である人も、それは同じコインの裏返しであり、根本的な問題は、そのSelf-esteemの低さです。私たちがそれぞれ持っているSelf-esteemは、幼少期の親との人間関係、親の養育の姿勢、親の人格などと深き結びつきがあることが知られていて、たとえば、子供を首尾一貫して無条件に(つまりその子の出来、不出来、成功、失敗、行為などとは無関係に)受動的で、あたたかい親の元で育った人は、健全なSelf-esteemを持ちますし、逆に、親が厳しかったり、批判的だったり、子供に注意を向けてくれなかったり、条件的に子供を受け入れたり拒絶したりすると、その人は大きくなってから、Self-esteemの問題に悩むことになります。これは、親がそういう性格の人だったから、ということには限らず、たとえば、あたたかで、無条件に子供を受け入れる育児姿勢はあったけれど、癌など、重い病気などで、入退院を繰り返したり、長期の入院があったりと、どうしても子供に注意が向けられなかった結果であったりもします。

 しかし、Self-esteemの問題は、親との幼少期の人間関係には限らず、たとえば、結婚して、結婚相手がすごく批判的な人だったり、冷たい人だったり、自分のことでいっぱいいっぱいだったり、一緒にいる時間が極端に少なかったり、支配的だったり、暴力、言葉の暴力があったりすると、そうした結婚生活を続ける中で、もともと健全なSelf-esteemを持っていた人が、Self-esteemの低下で苦しむようになることも知られています。また、人生における大きな失敗、不幸なできごとなどがきっかけで、そうなる場合もあります。

 それでは、ひとはどのようにして健全なSelf-esteemを育むことができるのでしょうか。それにはいろいろは方法があります。ひと言で言うならば、あなた自身が、あなたの良い親になることです。これは言うは安く行う難しで、相当に根気の要るものですが、今日から出来るまず大切な質問は、「あなたは自分自身をどれだけ受け入れていますか」というものです。

 知らず知らずのうちに、自己批判的になっていませんか(こうしなければ、ああしなければ、なぜこうしなかった、こうすればよかった、もっとできるはず、もっとしなければ、自分は十分じゃない、あんなことするんじゃなかって、言うんじゃなかった、ああすればよかった、などなど)。自分を他人と比べて劣等感に陥ったりしていませんか。良い親とは、先に述べた、あなたを全面的に無条件に受け入れるあたたかな親です。たとえば、仕事でも、私生活でも、何かちょっといいことをしたとき、小さな達成があったとき、きちんと、ちょっと立ち止まって、それを認めて、自分を褒めてあげていますか。ときどき自分にご褒美をあげていますか。他人は関係ありません。自分自身に目を向けて、褒めて、認めてあげるのです。失敗したら、失敗した自分を責めるのではなく、慰めて、励ましてあげるのです、よい親のするように。

 このようなことに日々注意を向けて自分自身に対する姿勢を変えていくその積み重ねで、Self-esteemは徐々に健全なものになっていきますが、ひとは生まれながらに社交的な存在で、Self-esteemそのものが親との人間関係によって内在化されたものであるならば、当然、あなたが今置かれている環境での主要な人間関係はあなたのSelf-esteemに影響します。あなたの恋人、配偶者、親しい友人、仕事の人間関係など、見回してみてどうでしょうか。辛い人間関係はありませんか。もし、先述したように、恋人、配偶者との人間関係に問題があるのでしたら、その人間関係の改善が大切です。ふたりだけで難しいようであれば、カップルカウンセリングに行かれることをお勧めします。友人関係などで悩んでいるようであれば、その関係性について、今一度考えてみることが大切です。仕事の人間関係についても、同じことがいえます。ただ、私たちはその生活でいろいろな人間関係を持っているので、ある分野での人間関係の修正がどうしても難しくても(とくに仕事関係)、別の分野での人間関係をよくすることで、Self-esteemは改善します。

 最後にまとめますが、Self-esteemは、あなたの、あなた自身との人間関係(Intra-personal, Intra-psychic)の改善、それから、他者との人間関係の改善(Interpersonal)によって改善します。健全な自信、自尊感情を身につけることは、とても大切なことです。なぜならば、お分かりのように、あなたの自信、健全な自尊感情が、あなたの人生に対する満足感、充足感、幸福感と深く結びついているからです。そして、あなたの健全な自信が、あなたの大切な人たちにもよい影響を与えるからです。

 自信とは、読んで字の如く、自分を信じることですが、どれだけ本当の意味で自分という人間を信頼しているか、これは誰にとっても大切な問題ではないでしょうか。


カウンセリングの実際問題 その1:近くに(良い)カウンセラーがいなくてカウンセリングが受けられない

2012-07-17 | プチ臨床心理学

 まだまだ心理カウンセリングが普及しているとは言い難いわが国日本では、せっかくカウンセリングに興味を持って、いざカウンセリングを受けようと思ったときに、近くにまったくカウンセラーがいない、また、良いカウンセラーが見つからない、という悩みをしばしば聞きます。こうした状況で、実際どうしたらよいのでしょう。

 心理カウンセリングは、本物(Authentic)の、良い治療関係がすべてと言っても過言ではないくらいに重要であるため、そのためにも、治療者と直接セラピールームで会うことを、週一回、首尾一貫して続けていくのが理想です(症状によっては週に2回以上会ったりします)。

 しかし、物理的な理由でやむを得ない場合は、スカイプを利用するという方法が考えられます。

 スカイプの利点は、電話やEmailやチャットなどで失われてしまう、非言語的情報(カウンセラーとクライアントの表情、しぐさ、無意識の身振り手振り)、声のトーンなどが生きていますし、また、声のトーン、沈黙などの意味や性質が、電話と比べて、より正確に互いにコミュニケートされるので、誤解も少なく、それだけ治療関係も安定します。

 心理カウンセリングのパラドックスは、それが「Talk therapy」と呼ばれるほど、対話が中心である反面、クライアンとカウンセラーは、その少なくとも60%(80%という人もいます)を非言語的メッセージでコミュニケートしています(脚注1)。

 そういうわけで、実際に会うのが一番良く、それが駄目なればスカイプ、ということになるのです。ただ、スカイプがいつでも利用可能というわけではないので、それが難しいようであれば、電話のカウンセリングを提供している心理カウンセラーを見つけて、カウンセリングを行う、という方法も考えられます。

 電話は、相手の表情や身振りやしぐさが見えない、というデメリットがありますが、声の感じなど分かるので、Emailや手紙と比べると効果的です。また、極端に不安が強かったり、鬱がひどかったりしてセラピールームに行ったり他者と会うのがどうしても困難な方にとって、電話は、直接会ったりスカイプしたりすることと比べて緊張感が少なく敷居が低かったりもするので、一概に電話よりスカイプや普通の面接が良いとはいえません。ただ、一般的に治療の効果としては、1)直接会う、2)スカイプ、3)電話、4)Email、の順であると言えるでしょう。

 また、長期の通院が無理の場合も、最初の数回、心理士と直接会ってカウンセリングをし、ある程度きちんとした治療関係が築けた後でスカイプ、若しくは電話に持っていく、という可能性もあり、これは、はじめからスカイプ、電話で始めるよりも効果的なことが多いです(もっとも、私の経験からすると、一度もあったことなく初回からスカイプのビデオ通話で特に問題もなく良い治療関係が築ける場合がほとんどなので、セラピスト側のスカイプというツールに対する慣れや親しみ度、経験値なども大きいように思います。私もかつては対面のほうがずっとやりやすかったです。同業の方で、腕は確かだけれど、スカイプに馴染みがないため、フルセッションはきついとか、実際に会ったことのない人とは行わない、という方は多いです)。

 余談になりますが、文章を書くのが得意な人、好きな人、多忙でどうしても治療室に行く時間がない人にとって、メールセラピー、手紙療法(Letter therapy)はオプションとして使われたりします。それから、顔が見えない電話でも、リアルタイムで治療者と対話することに抵抗のある方にも、メールセラピーは向いています。手紙療法の歴史は意外と深く、たとえばわが国では森田療法の森田正馬が20世紀前半に行っていた往復書簡が好例です。現在では、Emailによるクライアントとセラピストのやりとりが封書によるやりとりに取って代わる手紙療法になりつつあります。

 まとめますと、たとえ近くにセラピストがいない状況でも、いろいろなオプションがあり、カウンセリングをしたい、プロフェッショナルのヘルプが必要だ、と感じたとき、いろいろな不自由がありながらもここで挙げたようなことをはじめてみるのが良いです。はじめてみると、自ずと道が開けることが少なからずあります。

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(脚注1)これは一般のあらゆる人間関係に言えることで、われわれは言葉を使ってコミュニケーションを取っているつもりで、その大半は、無意識の、あらゆる非言語的、また、話の内容ではなく声のトーン、テンポ、その声と表情がいかに一致しているか、不一致か、など、あらゆる「非文脈的」な情報で伝え合っているのです。