興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

クライシス (危機、Crisis) #3

2012-03-09 | プチ臨床心理学
 前回は、クライシスの構成要素について話しましたが、今回は、そのクライシスが起きる原因の種類について考察してみたいと思います。
 クライシスは、大きく分けると、1)Situational crisis (状況によるクライシス)と、2)Maturational crisis ({人生のいろいろな}発達、成長、成熟過程のクライシス)に分けることができると言われています。
 それでは、1のSituational crisisとは何かと言うと、突然で不慮の、当人のコントロールを超えたできごとによって、その人の心理的、社会的、身体的な平衡状態が脅かされることで起きるクライシスで、それはたとえば、病気、事故などによる怪我、親しい者の突然の死、病気、怪我、予期せぬ突然の失業、傷害事件やレイプの被害、そして、人災、自然災害の被害などがこれに当たります。
 一方、2のMaturational crisisは、人生における成長過程(発達心理学的見地において、人間は生まれてから死ぬまで発達、成長、成熟するもので、この意味における「成長過程」です)における人生のあるステージから次のステージへの過渡期で奮闘しているとき、つまり、何事もないときと比べて心身ともに打たれ弱くなっているときに起きます。Maturational crisisは、人間誰もが経験する人生のサイクルにおける過渡期、たとえば、思春期、高校から大学への過渡期、大学から社会人への過渡期、社会人から定年への過渡期、などがこれにあたります。逆に、誰もが経験するわけではないけれども、世の中の多くの人が経験する種類の過渡期もあり、それはたとえば、海外の生活、離婚、出産における大きな問題、あるいは、結婚相手が見つからない、などです。世の中の大半の人はその人生において結婚しますが、すべての人が結婚するわけではなく、すべての人が離婚するわけではありませんよね。

 さて、ここでひとつ大事なことなのですが、Situational crisisと、Maturational crisisが二律背反するものではなく、その両方の要素を含むクライシスも少なくありません。たとえば、前回の記事で挙げた八重さんの例ですが、子育てにおける苦労というのは多かれ少なかれすべての母親が経験するものですが、子供が学習障害と診断されたり、学校で問題行動を起こすということは、すべての母親が経験するものではなく、これはSituationalであり、Maturationalであるといえます。さらに、離婚という経験も、その発生の仕方により、SituationalだったりMaturationalだったりその両方だったりします。

 いずれにしても、今あなたが精神的な困難や大きなストレスと直面していたら、今あなたが人生において立っている場所、経験していることを見つめてみて、それが大雑把に見て、どういう種類のものなのか、Situationalなのか、Maturationalなのか、どちらの要素が強いか、など見極めて分析するだけでも、その問題をだいぶ客観的に見つめられるようになると思います。距離を置いて自分自身を見つめられるようになったら、スローダウンしたり、新しいことを試したり、方向修正をすることはそれまでよりも易しくなります。自分がいつもよりも難しい、繊細なところを通っているのだ、と分かれば、余計な刺激や問題から離れたり、親しい人に今の状況をうまく伝えてサポートしてもらったりすることもできるので、その危うい状況(Hazardous event)と打たれ弱い境地(Vulnerable state)から、フルなクライシスに陥ることなくその過渡期を経験することも可能になります。これは、あなたの近くにいる大切なひとにおいてもいえることで、その人がいま何かを経験して奮闘していたら、それが「何」なのか、どういう性質を持ったものなのか見極めて理解することで、適切なサポートもしやすくなることだと思います。

クライシス (危機、Crisis)

2012-01-14 | プチ臨床心理学

 心理療法、心理カウンセリングは、対象となる問題の性質や、クライアントの特徴、治療者の流派やスタイルなどにより、治療の期間も介入も様々ですが、短期集中型の心理療法の代表的なものに、危機介入(Crisis intervention, クライシス・インターベンション)というものがあります。これはあらゆる心理療法家、心理カウンセラーの基本技術とされているものですが、同時に非常に大切な技術でもあります。なぜなら、我々人間はその生涯において様々な危機に直面するからです。特にここ近年の先の読めない不景気、大きな自然災害、深刻化する社会問題などで、クライシスというものが私達にとってずっと身近なものになってきているような印象があります。「クライシス」というと、なんだか非常に大きな問題のように響きますが、それもクライシスの性質や状況などによって様々です。深刻なクライシスもあれば、対応が比較的容易なクライシスもあります。

 さて、先ほどからクライシス、クライシスと繰り返しておりますが、クライシスとは何でしょうか。それは、クライシス理論のエキスパート、Roberts(2000)によると、「一定期間の心理的不均衡(Psychological Disequilibrium)」で、この不均衡は、自然災害、人災(性暴力、傷害、強盗、空き巣、詐欺の被害など)、事故、病気、家族や恋人、非常に親しい人間の死、個人の人生における大きな過渡期、分岐点など、様々な危険要素-出来事や状況-(Hazardous event or situation)よってもたらされます。こうして起きた心理的不均衡がクライシスとなる特徴は、それが、私達が今までに身につけていて普段使っている適応法、対処法が機能しなくなっていたり、効果的でなくなっている、というところにあります。たとえば、普段何か困ったことがあったときに、家族や親しい友人と話したり相談したりして解決するという適応法を持っている人が、ある時大きな失恋、離婚を経験し、精神に支障を来たし、親身な家族や友人と話したところでうまくいかない、ということはよくあります。また、こういう状況で、「相談する」というオプションそのものが困難になってしまったりします。

 クライシスの特徴は、その心理的不均衡が比較的短期間に限られたもので、それは通常、6週間から8週間といわれています。しかし、適切な解決策、対応法が見つからなかったりしてそれにきちんと適応できないと、問題は複雑化したり、長期的な精神的、行動的不適応へと繋がったりします。たとえば、思わぬ大きな失恋をした人が、それにきちんと向き合えずに、酒や薬物、食べ物などで気を紛らわして、それが慢性化してしまったり、あるいは別の相手と衝動的に恋愛関係を展開させて、不健全な関係がそのまま続いていく、などということがあります。

 大切なのは、クライシスとは何か、そのきちんとした知識を持って、それを実際に経験したときに、きちんと認識して、対応する、ということです。また、きちんとした知識と自覚があれば、それがクライシスに発展する前段階、「危険な状況・できごと」の時点で危機管理をし、クライシスを未然に防ぐ、ということも、可能な場合が少なからずあります。次回はもう少し具体的に、クライシスについて考察してみようと思います。


コンタクト

2011-09-16 | プチ臨床心理学

 あらゆる人間関係において生じる問題の責任は、一部の例外を除いて、50:50だ。

 50:50というのは、その問題において自分にも責任があれば、相手にもまた責任がある、ということ。あるいは、相手にも責任があるし、自分にも責任がある、ということ。四角四面に、額面どおりに、50%、というわけではない。

 これがどういうことなのか、感覚的、経験的に、深いところで理解するのは、容易なことではない。ひとは誰でも、自分の周りに起きる、とくに人間関係の問題は、個人的に受け止める習性があるから。さらには、個人的に受け止めすぎて、完全に責任を放棄して相手のせいにする、という人もたくさんいる。「まったく個人的にとらない」風を装って、それは思いっきり個人的に取っている証拠でもある。

 でも、自分をよく見つめられて、自分という人間がよく分かると、ブレが少なくなるので、どこからが自分の問題で、どこからが相手の問題かも次第によく見えてくるようになる。相手の個人的な問題で、他者ときちんとしたコンタクトが取れない状態を、自分が何かまずいことを言ったから相手がコンタクトを回避している、と解釈するのは誤りであるけれど、相手を回避的にさせた何らかのきっかけが自分の言動のどこかにあった、という認識を怠るのもまた誤りである。たとえばこの場合、全体の力動が見えていれば、どちらかというとこの場合は相手の問題が大きいけれど、自分の出方によってはもっと違ったやり取りになったかもしれない、と一顧するのは大切だと思う。それでおしまい。それ以上考えたら、それはやはり、相手との距離が取れていないことになるだろう。

 こういうことが、認知のレベルで分かるのと、情緒的、感情的なレベルで理解できるまでには、大きなギャップがある。「頭では分かっているけどどうにもやりきれない、うまく受け流せない」、という状態がこれで、だけどこの「どうにも、なんだかうまく流せない」というもやもやをきちんと受けともめて経験しきれないと、人はそれを「行動化」してしまう。つまり、やりたくもない非生産的なことをして気を紛らわせてしまう、ということだ。そしてまた同じ失敗をする。

 でも少しずつ見据えられるようになってくると、余計なこともしなくて済むようになるし、もっと深く、ぶれのないコンタクトを他者と取れるようになる。「Feel more, Do less」とはよく言ったものだと思う。


ストレス

2011-06-25 | プチ臨床心理学
 普段私たちは「ストレス」という言葉を何気なく使っていますが、ストレスとは実際何のことでしょう。「ストレスが溜まる」とか、「ストレス発散」とか、「ストレスフリー」とか、「慢性的ストレス」とか、いろいろな使い方がありますが、これらの語感からはなんとなく、「心の負担」と捉えてみることができそうです。上記の例の「ストレス」を、「心の負担」に置き換えて読んでみても似たようになると思います。しかし、具体的に「ストレス」とは何を意味するのでしょう。現代は「ストレス社会」とまで言われていますし、ここはひとつ、ストレスについて一歩踏み込んで考えてみてもよさそうです。このなんとなく漠然とした存在に洞察ができたら、それはより具体的なものになり、効果的な対方策を立てるのも容易になります。

 実際、さまざまな精神的、一般的疾患とつながりの深いストレスにおける臨床心理学/精神医学的研究は実際に盛んで、その定義もいろいろありますが、ひとつのコンセンサスとして、「人は、『何かを失う可能性、何かに変化が発生する可能性における恐怖や不安を経験』しているときに、大きなこころの負担、つまりストレスを感じる」というものがあります。

 何かとは、現在の人間関係、恋愛関係、自己イメージ、仕事、今の会社での地位、家、アパート、お金、健康など、実に様々な可能性があります。

 たとえば人は、失業の可能性、金銭的損失の可能性、離婚の危機、失恋の可能性、左遷の可能性、大きな病気(健康を失うこと)などで、大きなストレスを経験します。人が人生において経験する最大のストレスになる経験として、配偶者の死、離婚などが挙げられるものこのためです。

 ストレスについて意外と知られていないことで、「人はポジティブな経験、たとえば結婚、仕事の昇進、家を買う、旅行に行く、などの経験をするときにもストレスを経験する」、という事実があります。新しい恋人とのはじめてのディナーの予定は、心弾むものであると同時に、その時間が楽しいものになるか、何か気まずくなったりしないか、その後にどうなるのか、つまり、関係が進展する可能性と同時に、関係が失墜する不安も多かれ少なかれあるわけで、これがストレスとなるわけです。面白いもので、「適度なストレス」、「適度な不安」というものも存在し、それはパフォーマンスを促進したり、こころにとって良い刺激だったりします。100%楽勝なものに人は物足りなさ、退屈などを経験します。

 最後に、私たち人間は、人生において何かを得るときに、常に何かを失っています。たとえば、家を買うと決めた人は、長年住んでいた、愛着のあるアパートを去らなければならない、という喪失体験をしますし、これから結婚する人は、今までの生活環境はもとより、独身時にあった自由時間、ひとりの時間、異性の友人との気兼ねない友好関係を失うかもしれないし、仕事の大幅な調整などをしなければならないこともあり、やはり、喪失体験も伴います。このように考えると、ストレスとは、人生における(大小の)変化における心の負担、と理解してよさそうです。


"What would you like to like?"

2011-03-06 | プチ臨床心理学
 昨日、大学院に行って出会った言葉で、とても印象的で、今でもなんとなく考え続けているのが、この"what would you like to like?"/"What would you like to like to?" これは、幼少期に重度の慢性的なトラウマの生存者の言葉だというけれど、自分がどうしたいのか、何をしたいのか、何が好きなのか、分からない、分からなくなった、という経験は、幼少期のトラウマやアイデンティティの問題の有無に関わらず、多くの人が人生のどこかで出くわす問題ではないだろうか。自分がなんだかよく分からないのだから、何がしたいかなんて分かるわけない、そんな状況から、このひとは自分に対してこのような質問を思いついたのだ。それでは、「何を好きになりたい?」とか、「何をしたいようになりたい?」、っていうスタンス。ここから何かを本当に好きになるには、時間は掛かる。でも、この質問には、その人の自分に対する、人生に対する、それから、世界に対する、希望が現れている。それが本当に大事なことで、素晴らしいことだと思う。

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2010年3月20日

needsとwants

2011-01-30 | プチ臨床心理学
 最近アメリカ人のあるクライアントの話を聞いていて感心したことがある。その人がいうには、「私は自分のNeedsは基本的に満たしているけれど、Wantsについては結構無視しているところがある」ということだったのだけれど、これは実際、我々人間の人生の満足度、幸福度、メンタルヘルスにおいて非常に大切なポイントである。たとえば、人が精神的になんらかも問題を抱いたときに、まず必ずといっていいほど、その人にとってのNeedsとWantsにおいて問題が生じている。この「問題」にも実にいろいろな種類があり、たとえばこのクライアントのように、自分の「Needs」と「Wants」の違いについてきちんと認識できているひともいれば、NeedsとWantsを混同している人もいるし、本当は自分のなかに存在しているNeedsやWantsを否定、否認することで精神に支障を来たしているひともいるし、それから、何が自分のNeedsやWantsであるのか分からない、という人も世の中少なくない。本当は自分にとってNeedsでもWantsでもないのに、偽りの自分がそれらを求めていて、その偽物のNeedsやWantsによって生活や人間関係に問題が生じている人もいる。

 前置きがだいぶ長くなったけれど、それではNeedsとWantsの違いは何だろうか。もちろんこれらは重複することがあり、それからその人の気持ちや状況が変わることで入れ替わったり変化したりもするので、絶対的なものではないことが多い。そこを踏まえたうえで、便宜的に、この2つを切り離して考えてみたいと思う。
 経済学において、Needsといえば、「我々の生活にとって『必要』不可欠なもの」、つまり、食べ物、住居、服、医療などである。それとは逆に、Wantsとは、「必ずしも生きていくうえで不可欠なものではないけれども希求するもの」で、たとえば、我々は食べ物が必要だけれど、それが会席料理である「必要」もないし、服がブランドものでなければならないこともないし、住居が豪邸でなければならないこともないし、医療にしても、レーシックや、美容整形手術がなければ生きていけない、ということもないだろう。

 もちろん例外はある。たとえば、事故や大やけどなどでどうしても生活の質において、精神衛生において、整形手術が欠かせないこともあるし、重度の性同一性障害の人の外科的手術も、Needsであると思う。住居が豪邸である必要はないと書いたけれど、たとえば10代の子供が4人いて、祖父母が同居している8人家族がワンルームのアパートに住むわけにはいかず、彼らにはそれなりに大きな住居がどうしても欠かせないだろう。このように考えてみると分かってくるのは、臨床心理学、つまり、人間のメンタルヘルスにおけるNeedsとWantsというのはかなり相対的なもので、人生における状況や問題によってひとそれぞれかなり異なってくるということだ。

(たぶん続く)

自主性と選択意識

2010-07-12 | プチ臨床心理学
 机の上を整理していたら、ポストイットに書かれた古いメモがでてきた。そこには、

---Autonomy---

There are actually a number of choices/decision-making processes in our daily life, but one tends to overlook, suppress, deny, or just automatically go through things without engaging in couscious decision making.

 と、書かれていた。以前、教育分析を受けた直後に忘れないようにと書き留めておいたものだ。
 
 つまり、我々の日常生活は、選択や、決定事項で溢れているのだけれど、それをひとは往々にして、見過ごしたり、抑制したり、意識的な判断をすることなく自動的にそれらを通り過ぎてしまったりしている、ということだけれど、実際、我々の日常生活は、その起きているあいだ中のすべてが選択決定の繰り返しだと言っても過言ではない。

 たとえば、今この記事を読んでいる方は、「これを読む」ということを選んでいる。それから、今この瞬間に私が書いている文章のタイトルには気付いたけれど読むことがなかった、というひとは、「これを読まない」ことを実は選んでいるのだ。
 それから、これを読んでいるときに、なんとなくトイレにいきたい、とか、なんとなくのどが渇いた、おなかがすいた、などを感じているひとは、今この瞬間、読むことを選んでいると同時に、トイレにいかないこと、水分を補給しないこと、食べないこと、を選んでいることでもある。インターネットを今やめないことを選んでいたり。

 つまり、ひとつのことに従事していることは、何か別の事柄に従事していないことを選んでいるわけで、何かをしなかったのは、「しなかった」ことを選んだわけなのだ。ひとは普段、何かしなかったとき、「選択しなかった」と暗黙に思い勝ちだけれど、なんとなくしなかったことでも、そこをよくよく見つめてみると、しかなったことに必ず理由がある。つまり選んでいるわけだ。

 約束の時間に遅れてくる人、期限を守らない人は、一般に、無責任なひとだと見做されるが、それが何故かといえば、遅れてくる人は、その前にいた場所をもっと早く出てくることを選ばなかった、つまり、前にいた場所にぎりぎりまでいることを選んだことで、期限を守らないひとは、約束のものが期限までに仕上がるようにそれに時間を掛けることを選ばなかった、つまり、それ以外のいろいろなことに時間を掛けることのほうを選んだ、優先した、ということでもあることを、その周りの人間はなんとなく分かっているからだ。

 もちろん、例外的に何かに遅れたり間に合わなかった、ということもあるし、避けがたい、予期しがたい突発事故だって起き得るし、そういう例外はあまり問題ではない。

 問題は、常習的に約束の時間を守らない人だ。なぜこういう人が人から信頼を得られないかといえば、それはつまり、彼らがその人間関係よりも他のことを優先している、選んでいる、という可能性があるからだ。

 「信頼があるから遅れても平気」というひともいる。
 でもこういうひとは、他者の気持ちに鈍感だったり、自己中心的であることが多い。それで本当に、相手も大丈夫なのか、満足しているのか、今ひとつ考えてみるといいかもしれない。それで本当にお互い満足ならば、相手のほうも、時間に遅れてくることを大目に見る、その人が時間を守る、ということを信用しない、ということを選んでいるわけだから、それならばあまり問題はないが、そういう例は意外と少ない。

 「ドタキャン」の多い人にも、同じことがいえる。その土壇場で、「やっぱりできない、やっぱり無理」、と、その約束や予定を遂行しないことを、実は選んでいる。もちろんそこには様々な理由があり、とくにそれがパターンになっているひとには、心理的、性格的な問題がある場合が多い。

 ここで問題なのは、ドタキャンを頻発することで、そのひとは多かれ少なかれ、その相手との人間関係に問題を起こしている、ということで、そうした自分に罪悪感を感じたり、そこでさらに自信をなくしたり、自分を責めたりして、キャンセルせざるを得なかった精神状態をさらに悪化させたりする人も少なくないということだ。それはとても悲しくて残念なことだと思う。そのひとにとっても、その約束は大切だったり、楽しみだったりして、ぎりぎりまで実行したいと思っていたのだ。それがやっぱりだめだった、ということで、そこにいろいろなネガティブな感情が伴うのは不思議ではない。(こういう感情を経験することなくドタキャンを繰り返すひとはそれこそ本当に問題である)

 ただ、そのひとにしてみても、ドタキャンに至るそのときまで、実に様々な取捨択一をしてきているのだ。先に述べたように、それは多くの場合、自動的に、無意識に、或いはなんとなく。つまり、そのキャンセルまでには、実はさまざまなプロセスが存在しているのだ。
 
 ドタキャンをなるべくしないようにする秘訣はここにあるわけで、普段なんとなく見ていない、見えていない、その「実は存在している」たくさんの小さな取捨択一のプロセスを自覚して意識化していくことだ。 
 意識化は、今、この瞬間からできる。実は目の前にある、その選択肢に、それから、明日あるだろう選択肢、3日後、1週間後に予想できる選択肢に意識を向けていくことで、無理なくその予定や約束を果たせるように自分を調整していくこともずっと容易になるし、この意識化を習慣付けることで、ちょっと難しいかも、という直感もはっきりしたものになってくるし、それは予定日よりずっと前に自覚することができるので、余裕を持ってキャンセルすることもできる。
 どうせキャンセルするにしても、直前でするよりも、時間を持ってしたほうが、相手にとってもありがたい。それから、「普段から自分は選んでいる」、という感覚がはっきりしてくると、自分の気持ちやコンディションや置かれている状況にも敏感になってくるので、相手もきちんと理解でき、納得できる形で、どうしてキャンセルしなければならないのか、ということも伝えられるようになる。
 そこに新しい信頼や共感も生まれてくる。

 いささか話が横道に逸れてしまったけれど、これも選んでやったことだ。この文章を書いていて、「ドタキャン」の例が思い浮かんで書いているうちに、だんだん最初に書こうとしていた主旨と違うことを書き始めている自分に気付いたが、その連想に任せて書いていったほうが面白そうなので、思いつくままにここまで書いてみた。

 それで結局今回の記事で何がいいたかったかというと、1)我々の日々の生活は無数の選択決定の塊でできているのだけれど、それに気付かずに生活していることが多い、2)でもそこにどんどん自覚していくことで、つまり、何かを意識的に選んだときはもとより、何かをしなかったときでも、それを「しなかったことを選んだ」、と自覚していくことを繰り返していくことで、3)「自分は自分の人生の主役で、その時々において、選んで生きているんだ」、という、「コントロールできているという感覚」が生まれ、4)主体性がでてきて、自分の人生により積極的に責任が持てるようになる、ということだ。

 選ぶには、自分の本当の気持ちに敏感でないといけないので、今、この瞬間、自分はどのように感じているのかという自分の本当の気持ちや感情にも敏感になれて、この繰り返して、主体性がより確かなものになっていくのだ。

とらわれと転位

2010-06-30 | プチ臨床心理学
 何かに気を取られていて、それをコントロールしたりシャットダウンしようとしている自分に気付けると、それにあまり気を取られなくなるのが不思議だ。

 つまらないものに気を取られたり、取るに足りないものに関わったり余計なエネルギーを費やすのは、そこに他のもっと根本的な問題を投影しているからに過ぎない。己の中にある問題のはけ口となる対象を、無意識に探しているからだ。

 もともとはニュートラルなものが、ふいに目障り、耳障りに思うのは、その良い例だ。それをコントロールするかわりに、もっと深い、本当の問題を見つめてみればいいのだ。
 そこに向き合いたくなかったり、向き合う準備がないから、つまらないものに関わろうとするのだ。そこに気を取られて無駄なエネルギーを使っているうちに、そのもともとの問題が意識からうやむやになる。そうしているうちには、新しい、偽物の問題が生じることはあっても、根本的には何も変わらない。

 どうでもいいものを何か重要な問題と錯覚して気を取られることに気付いていくことで、もっと自分に向き合えて、もっと自分を理解できて、つまりもっと建設的な解決策が見つかる。

言葉

2010-02-28 | プチ臨床心理学
 言葉とは本当に妙なものだと思う。

 自分の発する言葉の他者に対する影響力に意識し過ぎたら、
もっと気軽に、人間関係の潤滑油のように発せられるべき言葉も
出てこなくなるだろうし、逆に言葉の影響力を軽んじていたら、
知らず知らずのうちに誰かを傷つけたり遠ざけたりしていることも
あり得るだろう。

 それから、相手の言葉のひとつひとつを「信じすぎても」
それは相手の発言の全体としての真意を曲解することに
なりえるし、かといって、相手の発言を、何かのリップサービスの
ように適当に聞いていたらそのメッセージは理解できないだろう。
 
 結局のところ、よいコミュニケーションとは、
この二つの問題の絶妙な中庸なのだろうけれど、
難しいのは、どちらかの傾向に偏っていると思ったときに、
ただもう一方の極に方向転換したら改善されるというものでもなく、
なぜ言葉にその言葉以上の重きを感じたり、逆にそこに
言葉そのものの持つ等身大の意味を正確に理解できなかったのか、
その辺をよく考えて、深く内省してみることが必要だろう。

comfort zone, personal space, and boundaries

2010-01-15 | プチ臨床心理学
前回の「発言と関係性」の続きを書くつもりで随分と日が開いてしまったけれど、今回の記事は、なんとなく、その続きです。もし「前回の内容と直接関係している記事が読みたい」という方いらっしゃいましたら教えてください。

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 人間、その生まれ育った環境―とくに親子間の対象関係―によって、人それぞれ異なった性質の対人距離をもっていて、「どのような距離の、どのような質の対人関係」がその人間にとって快適であるかも当然異なってくるわけだけれど、「侵入的(Intrusive)」とか、「プライバシーの侵害」とか、「境界線への侵入」とか、そういうものも、人それぞれ「どこからが不適切」なのかが異なるわけで―もちろん誰がどう見ても不適切なものは別として―その微妙なところの対人関係のやり取りというのは、よく注意しているといろいろ見えてきて面白い。

 たとえばあなたが誰かと交流していて、「なんとなく」居心地の悪さを感じたり、防衛的になっている自分に気付いたときに、その理由は「相手が侵入的で『いささか』個人的『過ぎる』質問やコメントをしているから」だと思ったときに、ちょっと立ち止まって、「本当にそうかな」と考えてみると、もしかしたら自分のほうがガードが固すぎるのかもしれないとか、自分が秘密主義なのが問題かもしれない、とか、たまたまそのときの精神状態や、その直前に経験した何かによって、また、最近自分に起きている何らかのできごとによって、敏感になっている話題だから、防衛的になっているのかもしれない、とか、いろいろと、自分のほうの問題の可能性についても見えてきたりする。Intimacy(親密さ)に対するこころのどこかの回避性や葛藤だったりもする。人間、そうやって自分を見つめたくないものだから、ついつい相手のせいにしてしまいがちだけど、そうやって自分を正当化したところで、こころのどこかに疑問は残るし、それを無視し続けていたら、成長も進歩もない。

 このように内省すると、「相手が無神経だから」、「相手がデリカシーがないから」、「相手がSocial skillsがないから」、「相手が鈍感だから」、「相手が野暮だから」、と、相手の人格や属性に責任を転化して合理化して終わりにしてしまうことを防げるし、そうすることで、防衛的にならずにこころを開いて話し続けることができたりして、その結果、相手との相互理解や信頼感が深まったりする。

 もちろん明らかに破壊的で敵意のある人間もいるけれど、多くの人間関係においてのやりとりは、それがどのような方向に展開しても、その責任は、50-50であるということを覚えておくといいかもしれない。相手の人は、ただ単にこちらのことをより知りたかったり、興味や好奇心があったりして何の他意もなく発言したり質問したりしているだけかもしれないのだ。
 それから、相手と自分とで、快適な対人距離の「長さ」や「質」が異なること、そういうもともと持っているものに対して時にはチャレンジしてみることで、人は変わるし、成長するし、新しい体験や発見がでてきて、対人関係の質も変わってくる。

 ところで、あなたが誰かと交流していて逆にそのひとが「防衛的だなあ」とか「秘密主義だなあ」とか思ったときに、これまでの内容について考えてみると、やはりいろいろな発見があるだろうし、自分と違ったパーソナルスペースをもったその人の立場を尊重することもできるだろうし、そこでまた新しい人間関係ができていくかもしれない。